仙台駅にて。東京駅ゆきの東北新幹線の発車時刻を待つあいだ、僕は駅ビルの本屋にいた。とくに目的などはなく、ただ時間潰しを目的に。
本屋に入れば真っ先に、文庫本の棚を見てまわるのが、いつもの癖で。吸い寄せられるように、文庫本の棚の前に立ち尽くす。目的があれば目の色も変わるけれど、今日はとくに何もない。あるとすれば、新幹線での移動時間いわゆる“繭の時間”を充実させるための何かを。さて、発車時刻まで、あと何分?そうのんびりとも、していられない。
“繭の時間”というのは、上白石萌歌さんのエッセイに出てきた言葉。海外へ向かう飛行機など、ある程度まとまった移動時間を過ごす際、乗客の思い思いの時間の過ごしかたを“繭の時間”と表現した。繭の中にはサナギがあって、目的地に到着したら、それらサナギは羽化して旅立つのだと。なんという表現をするのだろうか。僕はいつも、表現者としての彼女について、胸を躍らせながら見守っている。僕は、上白石萌歌さんに夢中なのだ。
仙台駅から東京駅まで、東北新幹線での所要時間はおよそ90分。萌歌さんは、自身のパリまでの空路を“繭の時間”としての例として綴っていた。所要時間は、およそ13時間。一方、僕の旅は90分程度。彼女の“繭の時間”に比べれば、繭に包まれた僕は、あっというまに羽化してしまうだろう。
僕の、僕なりの“繭の時間”を有意義に過ごすためには、やはり何か文庫本を手に入れよう。あまり重くなく、それは内容的にも物理的にも。ただしあまりに軽すぎるのも味気ない。我ながら欲張りだな…ゆっくり選ぶほどの時間もないのに。せいぜい15分ほど。いや、間に合うのかな、と汗ばんできた。
やや目を血走らせつつ文庫本の棚の中段の、新刊や、その時期ごとにおすすめの既刊の文庫本が、表向きに並べてあるコーナーにて、新潮文庫のその中に井伏鱒二の『黒い雨』を見つけた。僕の中でこの本は、いずれ読まなくてはならない一冊としての位置にある。
「白黒の写真に色がつくような
忘れ難い読書体験をしている」
上白石萌音さんが『黒い雨』について、記した言葉である。萌歌さんと同じく萌音さんのことも、僕は敬愛してやまない。
『黒い雨』については、さすがに内容くらいは知っている。ゆえに手に取ることを躊躇してきた。けれども萌音さんが読んだとなれば、ぼくも読まなければ。
憧れの人が読んだ本を、ぼくも読むことは、生涯交わることがないお互いの人生における、ささやかな交差点となり得るのではないか、と確信している。どうだろう。おかしいかな、こんな考え方は。
ただし『黒い雨』今日手にする本ではないだろう。さて…となると…『黒い雨』の隣には『トリツカレ男』の文庫本が。
トリツカレ男⁉︎
まさか、との思いが炸裂した。新潮文庫⁉︎
原作が存在していたのか。
まったくの予想外だった。
今秋公開予定であるアニメーション映画
『トリツカレ男』の原作本。この映画で登場人物であるヒロイン“ペチカ”役の声優をつとめたのが上白石萌歌さんだった。『トリツカレ男』については、その線を通して知っていた。あくまでも映画のほうの『トリツカレ男』なのだけれど。まさか原作本があったとは。
アニメーション映画『トリツカレ男』は、その絵柄が、ぼくには、いまひとつ刺さっておらず、いくら萌歌さんが声優でも、情熱を傾けるほどには至っていなかった。
文庫本の『トリツカレ男』を手に取った。映画公開に合わせた特別なカバー。厚みはさほどでもない。この本なら東京駅までの道中“繭の時間”にぴったりなのでは?
なにより萌歌さん出演作の原作である。
そうだな、今日のお供はこの本にしよう。
と、その前に。
状況を冷静に書き起こしているけれど、この時点での、ぼくの実際の心境は、とても冷静だったとは言い難い。
まずはじめに出た言葉は「うそだろ」だった。
思い出してください。
『トリツカレ男』の隣にあったのは『黒い雨』
ということは、上白石姉妹にまつわる本同士が隣り合っていた、ということです。
それを目の当たりにして「うそだろ」との声が出た、ということです。
すごくないですか?
これはさすがに店員さん、ご存知でしたね?
上白石姉妹との関わりを。
ははあ…だからこの本同士が隣に…むしろ、そのほうが納得できます。いくらおすすめの本だとしても、隣同士に並べるにはコントラストがあるすぎるから。
ですよね?
店員さん?
周囲に居られる店員さんに聞いてみようかな、と思い周囲を見渡しているときに限って、店員さんはどこにもいない。
いい加減本屋を出ないと、新幹線が発車してしまう。会計を済ませカバーをかけてもらった。『黒い雨』『トリツカレ男』並んでいた真相に後ろ髪を引かれつつ、ぼくは『トリツカレ男』の文庫本を手に、本屋を飛び出した。
『トリツカレ男』
アニメーション映画の先入観があったものの、活字のみの文庫本、読み始めてすぐ映画の先入観は吹き飛んだ。さて、トリツカレ男とは。夢中になるというだけなら、僕にだって大いに心当たりがある。いま、このときだってそう。
「夢中になれるものがある人は、いいですね」
職場の同僚に言われた言葉だ。
いつもぼくは何かしら夢中になっている。
夢中になることが、できている。
けっして移り気というわけではなくて、ただの欲張りなのだ。好きなものはたくさんある。
好きなひとも、たくさんいる。
たくさんあって、たくさんいて、それぞれに夢中になれる。夢中になれる自分だからこそ、僕は、僕でいることができている。
ジュゼッペの言動には共感の一途。
彼は、しあわせだと思った。僕だって、心に抱く好きなこと。夢中になれる好きなひと。これは、きっとしあわせなのだ。
約一年振りの上京、昨年は演劇を観に行った。今日はライブを観にゆくための旅。
「東京駅から横浜駅に向かう。もう一度乗り換えた先の、最終目的地は、みなとみらい線の馬車道駅。
馬車道駅で下車し、ホテルのチェックインを済ませて、ふたたび馬車道駅へ。
新高島駅まで戻って下車。
目的地はKT Zepp Yokohama 」
という旅の計画。
今日は9月23日。
このライブハウスでadieu のライブが開かれるのだ。
“adieu”とは上白石萌歌さんの
“クリエイティブコンソーシアム”
クリエイターとの共同作業で作品…楽曲を創り出すプロジェクトネームが“adieu”である。
“adieu”…アデュー。
フランス語で“さようなら”
映画『ナラタージュ』テーマ曲を担当したのがadieu だった。映画と同じタイトルの『ナラタージュ』という曲。しかし当時のadieuは素性を明かしておらず、萌歌さんが本格的に音楽活動を始める際に
「adieuイコール上白石萌歌」
を明らかにし、adieu名義での音楽活動が始まった。
adieuは歌い手である。
僕を夢中にさせてくれる彼女の歌声を僕は
「固く織り込まれた感情の綾目を
そっと解きほぐしてくれる」
という言葉に表してみた。
まろやかさと、はてしない響きを持った彼女の歌声に、僕はいま、夢中なのだ。
いわば、ぼくはadieuの“トリツカレ男”だった。
好きを貫くことは、悦びと困難が隣り合わせで、むしろ当事者には何かと困難ばかりがぶつかってくるけれど、それでも好きであることをやめないのは、その先にある悦びに、ほんの僅かでも希望を抱いているからだろう。それを求めることが果たして当事者の幸いになるのかどうか。ジュゼッペには“好き”という言葉しか見当たらなくて、困難を、困難とすら思っていない様子で、それでも何がジュゼッペ自身の、さらにはペチカの幸いに繋がるのか。大いなる覚悟を示して、好きを貫いてみせてくれた。
悦びも困難も事柄として在るだけで当事者の受け取りかた次第。のちの幸いを語るならなおさら。各々立場が違う。持っているものも見えかたも違う。何が幸いなのかも断言できない。それならなぜ好きを貫こうとするのか。ジュゼッペは貫くことができたのか。
adieuのことが、萌歌さんのことが好きでたまらない僕だって、どうにも覆らない困難を抱えている。はたして僕の“好き”は、この先どこまで行くことができるのだろうか。
そしてその先に、僕の幸いはあるのかな。
きっと、その先にこそ幸いはあるのだろう。
ジュゼッペは、すでに見出していたのだ。
adieuの楽曲“背中”のイントロが流れる。
ステージ前面に下ろされていた幕が開く。
何本もの光の糸が、あふれ出る…
ライブのオープニング、あまりの美しさに、乗っけからため息が漏れた。
adieuは、駆け抜けるかのように、ひたすら歌い続けた。緊張感の表れなのかな、それとも意図したものなのか。それでも一曲ごとに両手を広げて「ありがとう」と告げる彼女の健気さが、いじらしくも感じられ…うん、とても可愛いかった。
“ナラタージュ”は、僕の涙腺を刺激してやまない大好きな曲。聴いても、鼻歌でも、いつも、こみ上げる感情を抑えることができなくなる。案の定、彼女の歌い始めから僕は顔を伏せてしまった。油断すると号泣してしまいそうなのを懸命に我慢しつつ、情感の込められた歌声に胸を震わせ続けた。
“心を探している”では彼女が愛用するテイラーのギターを構えるadieuの姿が。ずっと観たかったadieuのギター。そうか。今夜は弾いてくれるんだ。
彼女のスケジュールの充実ぶりは、よく理解している。今回のライブだって西日本を行ったり来たり、その合間に開催された。思うように準備する時間などあったのかな、と考えていた。それでも、こんなサプライズを用意してくれていた…頭の下がる思いだった。
アンコールは“元気?”
adieuの新曲で、この日リリースされたばかり。抑揚が抑えられた曲調で、難しい曲だな、という印象だったけれど、そこはさすがのadieuでした。歌うことへの自信が感じられた。最近の彼女の歌声の安定感、頼もしくなってきた。
終演直後は余韻などまったく感じられず、ただただ終わってしまった、という虚脱感のみ。ホテルへの道のり、見慣れない夜道をどう歩いたものだったのか。ふわふわしたままホテルへ到着した。
ホテルの部屋に入ると壁掛けテレビの画面が勝手についた。VODサービス?映画があるのか…もの珍しさでメニューを開くと『366日』というタイトルに目が留まる。
映画『366日』は上白石萌歌さんが主演した映画ではないか。僕は、まだ観たことがなかった。おもむろに再生ボタンを押してみた。主演作だけあって、萌歌さんは、ずっと画面のどこかに映っていた。“美海”という役柄なれど、僕には萌歌さんにしか見えなかった。
「さっきまで僕は彼女のこと、見てたよね?」
ぼんやりと画面を眺めつつ、去来するライブの記憶を思い返した。
今朝、本屋で見つけた『トリツカレ男』
今夜の、adieu のライブ。
さらに、映画『366日』
今日は一日、上白石萌歌さんと一緒だった。
なんということだろう。
2025年9月23日は“上白石萌歌の日”だった。
2025年9月24日。帰路。
東京駅発、東北新幹線の車中にて。
僕は昨日の車中“繭の時間”に読んだ『トリツカレ男』文庫本の残りのページをめくっていた。
「ペチカ、お前もどうだい、歌?
この世に朝がくるよ!
歌は生きかたをかえるよ!」
ペチカママの、この言葉で涙がこぼれそうになった。ダメだよ。新幹線の車内なのに。こんなところで涙なんて。
たしかにadieuの歌は、僕の人生をかえた。
実感が、ありあまる。
僕自身が歌わなくてもいい。
歌は…音楽は聴くだけで気分が変わる。
苦しい日にも、たのしい日にも、僕の傍らにある音楽が、僕を励まし、勇気づけてくれる。この上なく幸せな気持ちにしてくれる。
同じことを彼女も…僕の好きなadieu…上白石萌歌さんも言っている。音楽に何度も助けてもらったと。僕と彼女、互いの生きる世界に、たとえ果てしない相違があろうとも、たったひとつ、音楽があることで、いつか交わる世界線があるかもしれない。
この確信は、僕の人生における大きな励みなのだ。