竹山道雄のレビュー一覧
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ネタバレ何だこの……、ああー……、言葉が上手く出ないけどすげーよかった。
いつまでも心に残る作品。
『編者より読者へ』という部分はあとがきかと思いきや、ド本編でしたね。読み飛ばしてはなるまいね。
その『編者より〜』のところの怒涛の……よさ!
ウェルテルは憂鬱から解放されて、不思議なほどに希望で艶めいていた。この作品はメリーバッドエンドの金字塔だ。
ロッテ側からの心理描写が入るのが最高だ。ズルい女よ! でも好きだ! ロッテが埃を拭いた銃でなら自害するのも悪くないかも……いやいや。そんなことはない。
『編者より〜』の前まではウェルテルからの手紙という形だったのが、このパートから第三者目線になるのがまたいいね! ああ〜ウェルテルは狂っちゃったんだ、読者がついていけないところまでいってしまったんだ! じわじわ、丁寧に、シんでいくのがたまらない。
鬱(うつ)くしい本だ。これを私は今まで読んでいなかったのか、と思った。
ウェルテルのさいごは私の中に深い印象を残した。彼はだいぶアカン感じになって、手の施しようがないと言われているのに、肺はまだ少し動いて鳴っていたり、呼吸はまだ続いてたりするところがいい……。「ウェルテルは本当は生きようとしているんだ」って気がしたんだ……私は……。少なくとも彼の体は生きようとしていた。
ウェルテルの問題は、やっぱり依存先が少ないことだったんだろうかな。ロッテ、ロッテとしか言えなくなっちゃって、絵のことも全然言わなくなっちゃうし。ロッテと結ばれることがすべてになっちゃった。
ロッテもウェルテルに固執しちゃってたし。ロッテも依存先が少なかったのかなぁ。
余談。
「むかしは吸取紙の代わりに砂を使った」と訳注にはあったが。吸い取り紙とは、便箋についた余分なインクを吸い取る用の紙らしいですね。この訳が出た当初は、吸い取り紙はごく一般的なものだったんでしょうか。興味深い。
七月二十六日の、「これからは私にくださる手紙には、吸取り用の砂を撒かないでください。今日はいそいで唇にあてたところが、歯がじゃりじゃりといたしました」が好きでした。「じゃりじゃりといたす」って文がラフなんだか丁寧なんだか分からなくて、そこもよかった。 -
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本屋さんに行ったときもう少し和訳が柔らかいのがあったのでそちらがおすすめかもです…。
私が読んだのは少し言葉遣いが旧いこちらですが、今使われてる言葉で読んだ方が心にすっと入ってくると思います。
ウェルテル現象という言葉があるぐらい当時の若者は感化された作品なだけあって、感ずるものがあります。まださらりとしか読めていないので時間をかけて味わいたい作品だなと思いました。
最後の方なのですがロッテが可哀想ですね!(幼稚園児並の感想)ウェルテルはロッテや周りの人達に一生消えない傷を残して去っていきました。きっとウェルテルはロッテの心の中の住人になれたことでしょう。罪深いですね! -
Posted by ブクログ
なぜもっと早く読まなかったのだろう。
現代の日本人作家の小説を、わたしの人生が最も大変だった若き日々にいくつか読んだだけで、どうせ文学なんてほとんどが恵まれた環境に生まれたのに感性が繊細だったために苦しいやつらがその恵まれた環境を土台に、自らの苦しみをつらつらと表現しているものか、または売れるために少数の誰かの確かな苦しみをも自らの小説の仕掛けや設定として不誠実に利用するような、大衆迎合の権化かのどちらかなのだろうだなんて、文学に諦念と怒りを抱いている場合などではなかった。
ゲーテってすごいね。さまざまを内包していた。
ゲーテだって小説を書く環境があったというだけである程度以上恵まれていたことは事実だと思うけれど(たとえば、戦時下で爆弾が頭上から注がれているそのときに小説なんてものは書けないだろう)、そんな小説の致し方ないその成立要件の一つである恵まれ、作者の特権性を忘れさせるくらい、そんなのは関係ないってくらい、その才能と思考と小説がかたちづくる世界に圧倒された。
優れた文学は、その自らの成立要件の一つである特権性を読者に感じさせず、それどころか、読者に世界や人々との一体感を与えるものなのだとこの歳になってやっと実感できた。
人生の早くに拗ねたせいで、出会うのが遅くなってしまった。
文学への諦念も憤りも取り払い、この世界には信頼に足るひとかけらのなにかがあるのかもしれないと思えた、そんな一冊だった。
もっと、本を読もうと思った。 -
Posted by ブクログ
児童文学。くもんの推薦図書ではハリーポッターと同レベルのFに並べられています。
文体は優しく、音楽を主軸として、異国での苦境の前線を描いており、短い話で、中学生なら読み通せる子がいてもおかしくないかなぁと思わせます。
作中には青いインコが登場しますが、その描写がいかにもリアルで感心しました。
うちにもインコがおり、今もマラソンを観戦している家族に混じって、テレビと家族に向かってピィピィと楽しげに鳴いています。
南国にいるインコがありありと想像され、また健気さに泣きながら読み終えました。
今起こっている戦争とは、状況や価値観が違うものと思いますが、だからこそ1番根っこの大事なものについて思いを確かにすることができる書籍です。 -
Posted by ブクログ
圧倒的。
青春期特有の人が持つまっすぐな心と純粋な感性にここまで肉薄し丁寧に描写した作品は数少ない。
現代の人はすぐに詩的な物言いに触れるとポエマーだの病んでるだの言う。
TwitterやSNSで安易に自らの心のうちを吐露してる人ももちろん大概だが、人の心のめんどくささだったりどうしようもなさを、一方的に俯瞰から見ては冷笑的なコメントをする人が多い現状はそれはそれで色々辛い。
ウェルテルは書簡体、つまりとても個人的なもので、本来は触れてはいけない人の「真実」が描かれる。彼の希望と絶望がそこに克明に記され、それを読んだ僕たちが魂の奥底で何かを動かされる。
ウェルテルは死んだがゲーテは生き返った。 -
Posted by ブクログ
これは、児童向けの童話として書かれたものですが、現代においては、むしろ大人が読むべき一冊となっているように思われます。
それは、相当な年配者が、懐かしく読むのではなく、壮年期の闊達に日々を生きているはずの年代が読むべきだろうと思います。
はたして、「自分たちはどこに生きているのか」「誰と生きているのか」、そもそも「何をしているのか」気付くために。
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現代日本人は、何かにとり憑かれたように、考えることも、確認することもなく、まっしぐらに走っている。
それは、走ることを半ば強要されているからでも有り、そのことに或いは気付きながらも、批判することなく従っている結果のように思えます。
何に向かって走っているのか、その先に何が有るのか、そしてどうなるのか。
立ち止まって、自らの足下を見て、確かめる時ではないでしょうか。
何が正しいとか、如何すべきとか、それは自分が見て・聞いて・考えて決めることであって、周りを見渡して答えらしきものを求めることではないでしょう。
今、起こっていることの果たしてどれくらいが見えているのだろう。
これから起こるであろう事がどれくらい予測できているのだろう。
そして、自分はいったい何を選ぶのだろう。
戦争の時代を生きた人々の姿をここに見た時に、はたして私ならどのように生きたであろうかと問うてみる。
そこに、自分の姿が見えるでしょうか?
この物語の主人公は、自らと仲間達、そして国家が行った過ちを目の当たりにし、多くに気付いたのでしょう。
気付いたから彼はそのための行動を行った。
果たして、私たちは、今現在について、起こっていることを目の当たりに見ているだろうか、気付いているだろうか。
そして、何かに気付いた時、私たちはどうするのだろう?
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本書の著者”竹山道雄”氏の名前を、意外なところで見た。
NHKの製作したドラマ「東京裁判」だった。
戦後の日本が戦勝国によって裁かれた裁判だが、このドラマでは、その裁判の内容と共に、そこに集まった各国を代表する判事たちの姿が描かれていた。
そして、その判事の一人、オランダのレーリック判事と竹山の交流が描かれていた。(ちなみに竹山道雄役は映画監督の塚本晋也さんだった。)
この時は、あまり大きな意味を感じなかった、というより「何故?」っと言う感想だった。(本書を読んでいなかったし、映画も見てなかったから)
この二人の交流の逸話は事実らしい。
そして、竹山はまさしくここに登場するにふさわしい日本人の一人だったといえる。
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竹山が本書『ビルマの竪琴』を書いた理由については、本書の巻末に「ビルマの竪琴ができるまで」「あとがき」に記されている。
自らは、戦地へ行ったことはないものの、多くの教え子を戦地へ送る側としてこの戦争にかかわってきていた。そして送り出した教え子達が戦地に散っていったと言う経験をしている。
戦地の経験もなく、戦後、その戦場の情報も少ない中で、それでも書こうとしたのがこの物語だった。
それにしても、その発表の場所が児童向けの雑誌というのがピンと来ない。
それについて、戦後の雰囲気がそうさせた状況が書かれていた。戦争に負けた日本人は、もう戦争について聴きたくなかったのだろう。そういうことには反発が有った。たとえ、それが戦没者への鎮魂の物語だったとしても、受け入れられなかった。そういう風潮に対して、忘れてはいけない出来事を記すようにこの小説が書かれ、それは曇りのない心で手に取って読まれる児童書と言うことになったのだろう。
今、この小説について、「大人向けの小説として書かれていれば」と残念に思うものも多く有るだろうけど、そこは著者も含め、その時代の成せるわざという事になる。これは、児童書で完結して良かったのだと思う。
一方で、後に市川崑監督によって映画化されたそれは、大人をも感動させる大作となっているのだから、物語の面白さは奥が深い。
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東京裁判の判事と竹山の交流の意味は、竹山の社会に対する姿勢に有ったのだと思う。
本書の巻末の解説に、戦前の竹山の発言について有る。
昭和十五年四月の雑誌『思想』に「独逸、新しき中世?」と題した文章を書いていて、これはナチズムと全体主義をはっきりと批難したものであったという。
戦前の日本において、公然とナチスを批難するというのも、欧州への留学経験や、そこで得た見聞・知見、それらを元にした世の中の見方が成せることだろう。
一方で、戦後、負けてしまった日本について、既にそれらを認めることはもちろん、その戦没者達を思う気持ちすら失ってしまった頃、本作を発表することで死んでいった者たちを弔うという、極々まっとうな姿勢を示したのも著者の冷静で揺るぎの無い視点なればこそと思う。
そんな著者であればこそ、東京裁判において、「人は戦争を裁けるのか」という大命題と向き合っていた判事と交流できたのだろう。
広い視点に立ち、今、自分が目の前にしているものとどう向き合うのかを考え続けた竹山道雄という人の大きさを感じる逸話だったと思う。
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印象的な一節
ビルマ人と日本人の違いを話しあっている場面でした。
ビルマでは、一生に一度僧侶になって修業をします。
一方の日本人(ここに居るのは出征してきた軍人達)は、軍服を着て教練を受けています。
その違いを見て、どうなのだろうという議論です。
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「一生に1度かならず軍服をつけるのと、袈裟をきるのと、どちらの方がいいのか?どちらがすすんでいるのか?国民として、人間として、どちらが上なのか?
・・・
まず、この両者のちがいは次のようなことだと思われました。
若いころに軍服をきてくらすような国では、その国民はよく働いて能率が上る人間になるでしょう。はたらくためにはこちらでなくてはだめです。
袈裟はしずかにお祈りをしてくらしているためのもので、これでは戦争はもとより、すべて勢いよく仕事をすることはできません。若いころに袈裟をきてくらせば、その人は自然はとも人間ともとけあって生きるようなおだやかな心となり、いかなる生涯をも自分の力できりひらいて戦っていこうという気はなくなるのでしょう。
・・・
人間の生きていき方がちがうのだ、ということになりました。
一方は、人間がどこまでも自力をたのんで、すべてを支配していこうとするのです。一方は、人間が我をすてて、人間以上のひろいふかい天地の中にとけこうもうとするのです。」
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児童書の中の一場面で、こんな会話がサラッと登場してくる。
これを読みきることが出来る子供たちって…
とにかく、こんなにも深い物語を子供だけに読ませておくのはもったいない(笑)。
読みごたえの有る良い本でした。 -
Posted by ブクログ
古語が多く、また、特に序盤は内容がとっつきにくい為、読み終えるのに少し体力が入りましたが、当時の時代背景における本書の位置付けや、主人公の独特の価値観を踏まえた上で読むと、物語の進行とともに本書の素晴らしさを痛感しました、、、。
18世紀に書かれたとは思えない、今なお先端を走る圧倒的な普遍性は、非常に読み応えがあり、出会ってよかったと思える本の一つでした。
啓蒙思想から脱却と、人間性の開放、、、。
『もし恋なかりせば、この世はわれらの心にとってなんであろうか?』
『人間は人間です。誰かがすこしばかり分別をもっていたところで、いったん情熱が荒れくるって人間の限界におしつめられたら、そんなものは、ほとんど、いやまったく、役には立ちませんよ。』
『しかし、この心情こそは私が誇る唯一のものであり、力も、浄福も、悲惨も、すべてはこの泉から湧く。ああ、私が知っていることは何人も知ることができる。ただ、私の心は私だけのものだ。』
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Posted by ブクログ
南方から帰ってきた傷痍軍人で溢れ、焼け野原が残るーそんな時代にこの本は書かれた。
当時の日本は、復興という明るい使命感に燃えるものの、戦中から一転、戦争を絶対悪と見なし、戦争に対して、また戦争に関わったものたちに対して、冷静な分析をするものがいなかった。亡き者たちを英霊などと言って語っては、戦争賛美になってしまう。多くの人が死にすぎたからこそ、戦争の惨状を過去の遺物として、なきものとして、葬ることを選んだーーー
しかしそんな中、竹山氏は「鎮魂」というテーマで、あえて児童書という形を取って書き上げた。おそらく、この本に救われた元軍人や残された家族は多かったのではないだろうか。遺骨も見ることなく、遠い異国で家族や友人は死んだと言われた人々の悲痛な叫びは、水島一等兵が語ってくれている。
この本の舞台、ビルマ(現ミャンマー)側からの戦争の追憶も読まねばならないとも思う。戦争に巻き込まれ、多くの犠牲を出した国は日本だけではない。インパール作戦で巻き込まれた人々の数は知れない...
戦争の追憶を忘れずに、霊に敬意を払う。それは新たな戦争のためではなく、今後こんな悲惨なことがないように祈るため。文学人であり、批評家でもあり、また戦後各方面の人間(東京裁判のレーリング判事なども!)との交流のあった竹山氏の書を読んで、改めてそう思わされた。
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Posted by ブクログ
現地に行った。赤土を踏んだ。慰霊法要をした。視界がぼやけた。
昨年11月のインド・ミャンマー行きから帰ったら必ず『ビルマの竪琴』を読むと決めていて今回映画('56年版)も鑑賞した。
文章やワンシーンの端々に見られるビルマの景色や人々。ついこないだ行ってたもんやからイメージしやすい。'56年版は半分くらいしか現地での撮影が出来なかったらしいけど私達が行った時とさほど変わっていなかったのが驚きだった。
作中の竪琴と現地で聴いた箏の音色が何度も重なる。両楽器で演奏された「埴生の宿」が頭から離れない。その時の静寂もまるで同じ。
慰霊法要の時みたく、また何かが押し寄せて視界がぼやけた。