岡倉覚三のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
本書を読み始めたきっかけは、尾崎秀実について取り上げた竹内好編著『現代思想体系 9 アジア主義』(筑摩書房、1963)の中で、最初に取り上げられていた論文だったから(訳者は富原芳彰。現在、講談社学術文庫で読むことができる)。
新訳が出たばかりならそちらをと手に取ったのだが、正解だった。原著は註も少なく、絵画や彫刻などの美術作品を論じてはいても、図版は皆無。
抽象度の高い美術論や哲学的考察が頻出するので、理解するのが容易ではない。
詳細な解説と訳註に加え、適宜図版を挿入してくれているので、大変読みやすく仕上がっている。
ただ、終章「『東洋の理想』はどう読まれてきたか」での竹内好についての記述は納得できない。
竹内好が「天心はあつかいにくい思想家であり、また、ある意味で危険な思想家でもある」と始める論文「岡倉天心―アジア観に立つ文明批判」(竹内1962)を端緒として、むしろ『東洋の理想』そのものを読み直すことを忌避し、岡倉の思想を総じて危険なものと留保しておくことで先送りしようとする傾向が高まった感がある。
(p.445)
これは竹内だけを論じているわけではないにしても、竹内評としては間違っていると思う。
先の『アジア主義』では天心をこう評している。
この「アジアは一つ」という命題は、のちに日本ファシズムによって『大東合邦論』におとらず悪用された。天心が「アジアは一つ」と言ったのは、汚辱にみちたアジアが本性に立ちもどる姿をロマンチックに「理想」として述べたわけだから、これを帝国主義の賛美と解するのは、全く原意を逆立ちさせている。帝国主義は、天心によれば、西欧的なものであって、美の破壊者として、排斥すべきものなのだ。
(p.43)
本書を読み終えた後でも、竹内の天心についての論考は時代的にも先駆的なものだったと断言できる。おそらく天心も含め、竹内好自体も読まれなくなっているというのが実相だろう。 -
Posted by ブクログ
まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟(しょうらい)はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめもないことをあれやこれやと考えようではないか。▼おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。▼美とともに生きた者だけが、美しく死ぬことができる。岡倉覚三かくぞう(岡倉天心)『茶の本』1906
※躙(にじ)り口。茶室の出入り口。どんな権力者も頭を下げて入る。
***********************
いたずらに器を美のために作るなら、用にも堪えず、美にも堪えない。柳宗悦やなぎ・むねよし『民藝四十年』1984
実に多くの職人たちは、その名を留めずにこの世を去っていく。しかし彼らが親切に拵(こしら)えた品物の中に、彼らがこの世にいきていた意味が宿る。柳宗悦『手仕事の日本』 ※日本民藝館。東大駒場駅。 -
Posted by ブクログ
日本的美意識が茶の湯という深淵な世界にいかに湛えられているかということを、著者が様々な文献に基づき具体性を持たせつつ明示している。
私見だが、「日本の文化が西欧文明に比べてこういう風に優れている」という語り口は現代においてはあまり意味を持たないと思うが、本書には文明開化とともに日本が西欧文明一辺倒に傾倒していた時代背景があり、さらに西欧の批評家たちが日本の文化を上から目線で評しがちであったことに対するカウンターとして著された側面があるから、かなり対比的で西欧文明に対して批判的な内容になっているのも無理はない。
そんなことよりも本書の最大の魅力は美というものに対する、深い考察である。今も昔も、人間がより良く生きるためには、美意識に対して敏感な感性を持ち、それに対して深い考察を巡らせることが不可欠だと私は思う。本書はこの重要な視点を明晰な論評をもって促す名著である。中でも第4節「茶室」の切れ味は特に鋭い。 -
Posted by ブクログ
1906年に岡倉覚三(天心)氏が書いた『The Book of Tea』を、
1929年に村岡博氏が和訳したもの。
難しい言葉が多すぎて、調べ調べ読み進めていったが、
内容が理解できるようになったのは、「第四章 茶室」から。
(新訳読めばよかったと少し後悔)
茶道は日本文化の一つ、くらいにしか思っていなかったのですが、
本著に書かれているのは、茶道を通して現れる芸術観だと感じました。
<一部抜粋>
・茶道のいっさいの理想は、人生の些事の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たもの
・この動作は、身の貴きも卑しきも同様にすべての客に負わされる義務であって、人に謙譲を教え込むためのものであった。
・傑作を理解しようとするには、その前に身を低うして息を殺し、一言一句も聞きもらさじと待っていなければならない。
・芸術は宗教に近づいて人間をけだかくするものである。
・人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちはただの芸術家以上のものすなわち芸術そのものとなろうと努めた。
・美を友として世を送った人のみが麗しい往生をすることができる。
・天心は、一椀の茶を前にしてこれこそ人生に美と調和と和楽とを授ける秘法であるという。 -
Posted by ブクログ
部屋の模様替えの参考として読みました。
興味深かったのは、(茶道のベースとなった)禅の思想で完全よりも不完全な美を好む理由についての説明。
「不完全なものを想像によって心の中で完成する、その過程にこそ重きを置くから」とのこと(特に触れられていませんでしたが、禅の体験による知を重んじる性質に由来しているのでしょうか)。
これは感動的な発見でした。
なぜならこの考えをもとにすれば、日本のアシンメトリーの美学に「不完全は不完全でも、完全を示唆するような不完全じゃなきゃだめですよ」というルールが加わるわけです。
日本の美は引き算の美とはよく言われますが、完成系あっての引き算だと。
知っている人には当たり前のことなのかもしれません。
でもわたしは、日本美の背景に流れている思想を知らなかったので、日本的な美しさに憧れつつも、それを鑑賞・創造するための基準を持たなかったので。
それから、茶室においては美術品を据え置きではなく、臨時的な装飾として楽しむという指摘にも驚きましたね。
そしてその臨時的な装飾を全力で楽しむために、その他のあらゆる調子は控えめに、書や花を主役に生かすための色合いに合わせる。
言われてみればそのとおりで、掛け軸にしても花入にしても、取り外しがしやすいことを前提にしていて。
昔の日本人が、そのときどきの移ろいを楽しむ、という優雅な視点を持っていたことを誇らしく思うとともに、今のわたしたちの社会はやはり西洋化していて、空間を彩るものは据え置きのものが大半です。
ある程度仕方ない部分があるとはいえ、もっとこういう美学を反映するためのアイデアがないものかなあと妄想します。
たとえば茶室の囲炉裏は畳の下に仕舞ってあったり、そういう「隠す」工夫は現代のインテリアでも取り入れられないものでしょうか。 -
Posted by ブクログ
読み終えて、奥付を見ると、「昭和4年3月10日 第一刷発行、昭和46年7月30日 第50刷発行」とある。大学時代に購入したようだ。読み始めたものの、途中て抛り出した記憶はある。
NHKeテレの「100分de名著」でこの本が取り上げられることを知り、テキストを読む前に読んでみた。
日本の文化を欧米の人々に紹介するために『The Book of Tea by Kakuzo Okakura 』として英語で出版された。お茶が中国から伝来した歴史もふまえながら、日本の文化が茶道の世界に凝縮して体現されていることを示す。中国の南宋の時代に、お茶の作法は道教の教義を交えた禅の世界で広がり、それを平安時代の末期に栄西禅師が日本に伝えた。南宋の滅亡によって途絶えたお茶の文化は、日本に渡って独自の文化として花開くことになる。
考察は、空間としての茶室、精神としての芸術、自然としての花へと及び、「茶室は簡素にして俗を離れているから真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である」、「(美術の鑑賞に際して)われわれは万有の中に自分の姿を見るに過ぎないのである」、「(一輪の百合を見る時)露のしたたる姿は、人生の愚かさを笑っているように思われる」と語る。
今から百年以上も前の明治時代に、一杯のお茶を飲むその中に大きな真理があることを見出した覚三、西欧近代文明を相対化する視座を獲得し、しかもそのことを欧米の人々に知らしめようとした先見性には驚くばかりである。
グローバル化が叫ばれ、浅薄なナショナリズムがはびこっている現代にこそ、「これからは日本も段々発展するでしょう」という三四郎に対して、男(広田先生)に「(日本は)亡びるね」と言わせた夏目漱石や、この岡倉覚三(天心)の著作を読み直す必要があるのではないか。
禅語には「看脚下」(足下を看よ)の言葉もある。 -
Posted by ブクログ
今日買い物に行く際、たまたま何の日か調べた
緑茶の日、らしい。それが頭に残っていた。そして本屋へ行った。するとこれを買って帰宅していた
何も知らないで買ったのだけれど100年以上前に欧米へ茶の魅力を伝える為に岡倉氏が書いたのが始まりだそうで、これはそれのビジュアルブック版らしい
僕は普段職場に水筒にほうじ茶を入れて持っていっている程度にはお茶を飲むのだが、美しい写真で彩られたティーに人生で初めてお茶でよだれが出てきた
元々の「茶の本」は大変版を重ねた超ロングセラーの名著とのことで、はあ知らないことがまだまだあるもんです。小学校の頃、校長先生の奥方が茶道の先生で1度だけ体験したことがあるのだが所作にすら意味があり子供ながらに深い世界だと思った
そしてまた未だに飽きずに飲み続けられるのも意識して来なかったが何気にすごいのでは と思い直した。 にしても、きっれいな写真だ -
Posted by ブクログ
日本の代表的名著ということで読んだが、自身の知識不足もあり、理解して読み切ることができなかった。また改めて読んでみたい。
茶の文化、日本でいう茶道にこそ日本人の美しさやものの考えたが根付いている。茶は美の宗教とも言える。
中国から来た茶そのものは、歴史の流れの中でなくなってしまったり、とを経て、日本にのみこのような文化が根付いている。それが西洋と日本との美意識や考え方の違いのもとになっているということが書かれている。
また茶は道教と禅の考え方が来ている。道教の教義を受けた禅宗が茶の儀式を組み立てられてきた。それが茶の湯、茶室にも現れている。道教や禅のことも知る必要があると感じる。
物を虚の中の実体と考える考え方、それを踏まえてその物をどう見るかというのが、表面的に物を見るのと比して大事で、それがそのものの本質を見ること、考えることで精神が変わり、美を追求する意識につながるのか。
メモ
・茶道の要義は不完全なものを崇拝するにある。
・作動は世界的に重んじられる唯一のアジアの儀式である。
・道教や禅から考える真の美は、不完全を心の中に完成する人によってのみ見出される、完全そのものよりも完全を求める手続きが大事である。
・芸術を真に鑑賞することは、芸術から生きた力を生み出す人々のみに可能である。
・人は自分を美しくして初めて日に近づく権利が生まれる、そのためには、自分の日常生活を律する必要がある。