あらすじ
外国にあった著者が、故国恋しさの思いを茶事の物語によせ、それを英文に写してニューヨークの一書店から出版したものである。茶の会に関する種々の閑談や感想を通して人道を語り老荘と禅那とを説き芸術の鑑賞にまで及んでおり、日本の精神的所産の最も美しい面を見事に捉え得た名著として広く読まれて来た。(解説 福原麟太郎)
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岡倉覚三(岡倉天心)は、まだ日本が明治になったばかりの20世紀初めに、海外に向けて茶道文化を紹介した「茶の本」を執筆しました。
岡倉は、本書で、海外に向けて『茶の湯』を紹介しながら、むしろ、日本人の美意識や考え方を説いています。
例えば、その中の一つに、「非対象の美」を紹介しています。
西洋建築では、イギリスのお城でも、ギリシアのパルテノン神殿でも、中国の天安門でも、基本は左右対称です。西洋では左右対称なものが美しいと考えられているようです。
それに対し、日本では、国宝の茶碗や、刀剣、自然の風景や木々など、ゆがんだものやまがったものに美しさを見出すことがあります。日本人には、見えてない部分を付け足して美しさを感じる心があるというのです。これを岡倉は日本文化の特長と述べています。
日本に多くの人が外国から来る今の時代だからこそ、この本を読んで、自分の国の特長やよさを再認識してがいかがでしょうか?
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Posted by ブクログ
熱い本だなあ〜っていうのが最初の感想でした。(茶だけに笑)
著者の岡倉天心のことをざっくりとYouTubeとかで調べて見て、背景をある程度理解した後で読んだからわかったところもあるけど、昔の言葉な上に、英語を日本語訳してるからやっぱり読みづらいところはあったので、全ては理解しきれなかった。ただ日本の美意識に対する著者の熱い思いはびしびし感じるし、西洋美術に対する独特(?と今は思う)な感性は時々笑えるくらいだった。
虚を重んじること=空白を作る=余裕を持つこと。茶室に関連した記述だけど、生活においても、人生についても、ためになる美意識がたくさん詰まってる。
昔の本ってあんまり読んだことないけど、こんな気持ちになるんだー。
読んでよかったし、また読み返したい。
Posted by ブクログ
宗教的な部分があって、一度ではスッと意味が理解できない。何度も読み直して、意味を汲み取ろうとして読んでいると、私は、知識が無いので自分の解釈で共感する。そうしていると、心が豊かになるような感じがした。
Posted by ブクログ
圧倒的にセンスがある人だと思った。(訳だけど)この人の言葉の使い方を少しでも取り込みたい。
西洋の茶人たちは、茶のかおりとかれらの思想の芳香を混ずるに鈍ではなかった。茶にはワインのような傲慢なところがない。コーヒーのような自意識もなければ、またココアのような見せかけの無邪気さもない。
一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
Posted by ブクログ
茶道の歴史的変遷と、茶道に代表される日本人の精神性を、外国人に紹介した本。110年以上前の岡倉天心は、世界的に知られていなかった日本文化を外国に積極的に紹介したのに対し、自分を含めた現代の日本人の知的レベルの低さ、志の低さに嫌気がさす。天心のように、深い教養に基づき、日本文化を今の世界に発信しなければならないという気概を起こしてくれる本。
Posted by ブクログ
これは名作。知り合いにお茶の先生がいて、お茶をふるまってもらった時に茶道とは何だろうかと、すごい不思議な気持ちになった。柔道、剣道、弓道などの武道は心技体を磨き、そして結果が勝敗として現れる。書道や華道は芸術としてその作品が残る。しかし茶道は所作や作法ではないだろうか。ただ、飲み物としてのお茶をふるまうだけならば、それが何の道なのだろうか。いまいち何を求めているのか釈然としなかった。もう80を超えるその先生に聞いても、質問の真意をとらえてくれず、しつこく聞きなおすことをあきらめてしまった。
しかしこの本にはそれがつぶさにあらわされている。それは日本人の宗教性と芸術の表出である。そしてそれはお茶をふるまうという行為を中心として、茶器、茶室、ふるまい、ひいてはその人の人生を凝縮した価値のようなものをふるまい味わう営みなのだ。古めかしく思っていたが、新鮮であり豊かであった。
Posted by ブクログ
茶道は日常生活の俗事の中に存ずる美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式である。
人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとする優しい企てである。
おのれに存ずる偉大な小を感じることのできない人は、他人に存ずる小なるものの偉大を見逃しがちである。
Posted by ブクログ
一章の最後、世界の修復者たる何か(女媧)を待つ間、自然の美しさに触れつつ、茶でも飲みながら語らい、考えあおうではないかとの記載、ここが「人間とは何か?」の問いに対して「考え続けること」と解答した『君が見たのは誰の夢?』のマガタ・シキへのもうひとつのアンサーではないかと思われた。
Posted by ブクログ
まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟(しょうらい)はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめもないことをあれやこれやと考えようではないか。▼おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。▼美とともに生きた者だけが、美しく死ぬことができる。岡倉覚三かくぞう(岡倉天心)『茶の本』1906
※躙(にじ)り口。茶室の出入り口。どんな権力者も頭を下げて入る。
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いたずらに器を美のために作るなら、用にも堪えず、美にも堪えない。柳宗悦やなぎ・むねよし『民藝四十年』1984
実に多くの職人たちは、その名を留めずにこの世を去っていく。しかし彼らが親切に拵(こしら)えた品物の中に、彼らがこの世にいきていた意味が宿る。柳宗悦『手仕事の日本』 ※日本民藝館。東大駒場駅。
Posted by ブクログ
日本的美意識が茶の湯という深淵な世界にいかに湛えられているかということを、著者が様々な文献に基づき具体性を持たせつつ明示している。
私見だが、「日本の文化が西欧文明に比べてこういう風に優れている」という語り口は現代においてはあまり意味を持たないと思うが、本書には文明開化とともに日本が西欧文明一辺倒に傾倒していた時代背景があり、さらに西欧の批評家たちが日本の文化を上から目線で評しがちであったことに対するカウンターとして著された側面があるから、かなり対比的で西欧文明に対して批判的な内容になっているのも無理はない。
そんなことよりも本書の最大の魅力は美というものに対する、深い考察である。今も昔も、人間がより良く生きるためには、美意識に対して敏感な感性を持ち、それに対して深い考察を巡らせることが不可欠だと私は思う。本書はこの重要な視点を明晰な論評をもって促す名著である。中でも第4節「茶室」の切れ味は特に鋭い。
Posted by ブクログ
「茶の本」というタイトルではあるが、全ての芸術に対する見方に通ずる内容が書いてあるように思った。
日本文化に関する内容を昔の日本人が英文で書き、さらにそれを日本語訳したものなので、読むのが少し難しい部分があった。少し時間を置いて再度読んでみようと思う。
Posted by ブクログ
一杯の茶とともに読むと
いろいろな過去が広がります。
でも一杯では読み切れないでしょう。
それに茶でなくてコーヒーを飲みながらでも
いいかも知れません。
この本は100%読み込めていません。
背景となる知識が豊富にあれば、
もっと深く分かったかもしれない。
Posted by ブクログ
1906年に岡倉覚三(天心)氏が書いた『The Book of Tea』を、
1929年に村岡博氏が和訳したもの。
難しい言葉が多すぎて、調べ調べ読み進めていったが、
内容が理解できるようになったのは、「第四章 茶室」から。
(新訳読めばよかったと少し後悔)
茶道は日本文化の一つ、くらいにしか思っていなかったのですが、
本著に書かれているのは、茶道を通して現れる芸術観だと感じました。
<一部抜粋>
・茶道のいっさいの理想は、人生の些事の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たもの
・この動作は、身の貴きも卑しきも同様にすべての客に負わされる義務であって、人に謙譲を教え込むためのものであった。
・傑作を理解しようとするには、その前に身を低うして息を殺し、一言一句も聞きもらさじと待っていなければならない。
・芸術は宗教に近づいて人間をけだかくするものである。
・人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちはただの芸術家以上のものすなわち芸術そのものとなろうと努めた。
・美を友として世を送った人のみが麗しい往生をすることができる。
・天心は、一椀の茶を前にしてこれこそ人生に美と調和と和楽とを授ける秘法であるという。
Posted by ブクログ
茶道を知りたいと思った。そんな動機から購入したが暫し積読。読み始めた途端に茶の講義。しかし、それは茶道の歴史的背景から入った。宗教に例える内容に思わず頷く。禅宗に端を発していることを知り、それもまた肯ける。「もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。」明治のコスモポリタンが放つ言葉は平成になっても通用する! ああ願わくば原文で読みたいものだ。
Posted by ブクログ
部屋の模様替えの参考として読みました。
興味深かったのは、(茶道のベースとなった)禅の思想で完全よりも不完全な美を好む理由についての説明。
「不完全なものを想像によって心の中で完成する、その過程にこそ重きを置くから」とのこと(特に触れられていませんでしたが、禅の体験による知を重んじる性質に由来しているのでしょうか)。
これは感動的な発見でした。
なぜならこの考えをもとにすれば、日本のアシンメトリーの美学に「不完全は不完全でも、完全を示唆するような不完全じゃなきゃだめですよ」というルールが加わるわけです。
日本の美は引き算の美とはよく言われますが、完成系あっての引き算だと。
知っている人には当たり前のことなのかもしれません。
でもわたしは、日本美の背景に流れている思想を知らなかったので、日本的な美しさに憧れつつも、それを鑑賞・創造するための基準を持たなかったので。
それから、茶室においては美術品を据え置きではなく、臨時的な装飾として楽しむという指摘にも驚きましたね。
そしてその臨時的な装飾を全力で楽しむために、その他のあらゆる調子は控えめに、書や花を主役に生かすための色合いに合わせる。
言われてみればそのとおりで、掛け軸にしても花入にしても、取り外しがしやすいことを前提にしていて。
昔の日本人が、そのときどきの移ろいを楽しむ、という優雅な視点を持っていたことを誇らしく思うとともに、今のわたしたちの社会はやはり西洋化していて、空間を彩るものは据え置きのものが大半です。
ある程度仕方ない部分があるとはいえ、もっとこういう美学を反映するためのアイデアがないものかなあと妄想します。
たとえば茶室の囲炉裏は畳の下に仕舞ってあったり、そういう「隠す」工夫は現代のインテリアでも取り入れられないものでしょうか。
Posted by ブクログ
読み終えて、奥付を見ると、「昭和4年3月10日 第一刷発行、昭和46年7月30日 第50刷発行」とある。大学時代に購入したようだ。読み始めたものの、途中て抛り出した記憶はある。
NHKeテレの「100分de名著」でこの本が取り上げられることを知り、テキストを読む前に読んでみた。
日本の文化を欧米の人々に紹介するために『The Book of Tea by Kakuzo Okakura 』として英語で出版された。お茶が中国から伝来した歴史もふまえながら、日本の文化が茶道の世界に凝縮して体現されていることを示す。中国の南宋の時代に、お茶の作法は道教の教義を交えた禅の世界で広がり、それを平安時代の末期に栄西禅師が日本に伝えた。南宋の滅亡によって途絶えたお茶の文化は、日本に渡って独自の文化として花開くことになる。
考察は、空間としての茶室、精神としての芸術、自然としての花へと及び、「茶室は簡素にして俗を離れているから真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である」、「(美術の鑑賞に際して)われわれは万有の中に自分の姿を見るに過ぎないのである」、「(一輪の百合を見る時)露のしたたる姿は、人生の愚かさを笑っているように思われる」と語る。
今から百年以上も前の明治時代に、一杯のお茶を飲むその中に大きな真理があることを見出した覚三、西欧近代文明を相対化する視座を獲得し、しかもそのことを欧米の人々に知らしめようとした先見性には驚くばかりである。
グローバル化が叫ばれ、浅薄なナショナリズムがはびこっている現代にこそ、「これからは日本も段々発展するでしょう」という三四郎に対して、男(広田先生)に「(日本は)亡びるね」と言わせた夏目漱石や、この岡倉覚三(天心)の著作を読み直す必要があるのではないか。
禅語には「看脚下」(足下を看よ)の言葉もある。
Posted by ブクログ
宗教にまで高められた、美意識と調和の感覚。この本で学ばねばならないほど、少なくとも僕は西洋化された環境に生きている。よほど意識的にならないと著者の説く世界観を東京でみつけるのは難しい。しかしだからこそ、茶道は生きるのかもしれない。時代に翻弄された茶人たちとおなじように。
Posted by ブクログ
いつか読んでみたいと思っていた本。
「茶の本」という題名ながら、茶の湯を通した日本人の哲学と美的感性についての内容。
原書は英語で「Book of tea」。
本書が発表された当時、西洋においては、日本や東洋についての知識が一般的ではなかった時代だと思う。この本の内容はどのように受け止められ、今も残る書籍となっていったのか。
また、紅茶を主とする西洋において、同じteaを冠する茶の湯がどう映ったのか。
大変興味深い。
Posted by ブクログ
日本の代表的名著ということで読んだが、自身の知識不足もあり、理解して読み切ることができなかった。また改めて読んでみたい。
茶の文化、日本でいう茶道にこそ日本人の美しさやものの考えたが根付いている。茶は美の宗教とも言える。
中国から来た茶そのものは、歴史の流れの中でなくなってしまったり、とを経て、日本にのみこのような文化が根付いている。それが西洋と日本との美意識や考え方の違いのもとになっているということが書かれている。
また茶は道教と禅の考え方が来ている。道教の教義を受けた禅宗が茶の儀式を組み立てられてきた。それが茶の湯、茶室にも現れている。道教や禅のことも知る必要があると感じる。
物を虚の中の実体と考える考え方、それを踏まえてその物をどう見るかというのが、表面的に物を見るのと比して大事で、それがそのものの本質を見ること、考えることで精神が変わり、美を追求する意識につながるのか。
メモ
・茶道の要義は不完全なものを崇拝するにある。
・作動は世界的に重んじられる唯一のアジアの儀式である。
・道教や禅から考える真の美は、不完全を心の中に完成する人によってのみ見出される、完全そのものよりも完全を求める手続きが大事である。
・芸術を真に鑑賞することは、芸術から生きた力を生み出す人々のみに可能である。
・人は自分を美しくして初めて日に近づく権利が生まれる、そのためには、自分の日常生活を律する必要がある。
Posted by ブクログ
日本人が日々日々口にする茶について書かれているがために趣味嗜好の偏りが大きいが、それを割り切り、茶とその歴史とそれにまつわる人物に気持ちを寄せて読めれば良書であるといえそうである。
Posted by ブクログ
日本文化の伝道師として有名な岡倉天心による、茶を通した文化論。時代がかった文章を大げさに感じるところもあるが、本書で意外に知らない茶文化の歴史を学ぶのもよいだろう。
Posted by ブクログ
・西洋と東洋の比較が分かりやすく書かれている
・言葉遣いが古く読みにくい箇所があった
・第三章道教と禅道は難しかった
・茶道をされている人はよむべき
Posted by ブクログ
ページ数としては薄い、文庫で75ページほど。元々は日本の茶道を欧米に紹介する目的で、ニューヨークで刊行されたもので英語で書かれたもの(The Book of Tea)。
茶道の定義を示したうえで、日本の生活、文化の様々、すみずみまで茶道の影響が及んでいるとし、さらに日本と西洋の関係にまで言及している。
「この人生という、愚かな苦労の波の騒がしい海の上の生活を、適当に律してゆく道を知らない人々は、外観は幸福に、安んじているようにと努めながらも、そのかいもなく絶えず悲惨な状態にいる」「美を友として世を送った人のみが麗しい往生をすることができる」というメッセージは、100年も前に書かれながら現代に書かれたと聞いても全然おかしくないように思えた。
Posted by ブクログ
私の読解力では足りなかったけど一応読み切った。茶の心も宗教で「芸術は宗教に近づいて人間を気高くするものである。これによって傑作は神聖なものになる」てのが印象的。終わり方がカッコいい…千利休の切腹シーンで幕切れ
Posted by ブクログ
茶道、乃至禅の精神に日本文化・美意識は貫かれている、という内容だが、話題があちこちに飛ぶ。随所にある綺羅星のような文章を味わう本。例えば「真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる」。横尾さんも同様のことを言っていた気がする。
Posted by ブクログ
岡倉天心は「茶の本」で言う
『茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある』
完全なものでない・・・というのは
極限まで 突き詰めても たどりつかないものである。
続けて言う
『いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、
何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。』
ふむ。
お茶から 一気に 人生に向かってしまう。
茶というものは
なぜそこまで神秘的な存在となったのだろう。
一種の儀礼としての茶
不可解な宗教的な神秘性・・・
そして 社会的な倫理性。
特別につくられた 窓のない 暗くて 狭い空間
古い釜や 古い ひび割れした陶器・・・
選りすぐれて選ばれた 水・・・
すべてが 茶の世界を表現する。