三浦雅士のレビュー一覧
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貨幣論などで著名な経済学者岩井氏による本です。本とは言っても全編通して対談形式になっています。雑ぱくな感想について。まず対談形式であればさぞ読みやすいだろうと思って読み始めましたが、内容がかなり高度、というか空中戦すぎて理解しながら読み進めるのにそこそこ時間がかかりました。また主役が岩井氏で「聞き手=三浦雅士」となっていますが、三浦氏は「聞き手」の領域を大幅に超えて「話し手」にもなっていました。これは良かったと思う箇所もありましたが、「しゃべりすぎでは?」と感じる箇所も多々ありました。個人的に岩井氏の主張にもっと誌面を割いてもらいたかったので、聞き手は聞き手らしくもっとシンプルに切り返してもらった方がありがたかったです。
序盤は読むのに苦戦しましたが、面白いもので、中盤くらいからはだいぶペースアップしました。まず岩井氏の主張が一貫していることで、「門前の小僧習わぬ経を読む」ではありませんが、だいぶ私(門前の小僧)の頭の中にも入っていきました。
岩井氏の主張は何かといえば、言語・法・貨幣は自己循環的に成立していること。つまりこれらによって社会が存在しているのですが、その存在基盤とも言えるこの3つは実は根拠が無く不安定なものだということです。たとえば貨幣であれば、貨幣需要がものすごく高まるとデフレ(恐慌)になり、貨幣需要がものすごく低くなるとハイパーインフレーションになったりする。そしてこの不安定な資本主義を補完しているのが、市民社会であって、それはカントの定言命題としての普遍的な倫理をベースにしたものである、という感じです。著者の主張が正しいかどうかは私のレベルではまったくわかりませんが、とても面白く感じました。そういう風に物事を見ることも出来るのか、という発見があったという感じです。繰り返しますが、「空中戦」の議論が多くて最初は良くわからないかもしれませんが、だんだん著者の言いたいことがわかってきますので、我慢して最後まで読めば多くの気づきがあるかと思いました。 -
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ここ一年ほど、昔よく読んでいた石坂洋次郎のことが気になり出して、全集はないかと探したりしていたのだけれど、全集は出ておらず、昔よく読んでいた新潮文庫のシリーズも入手が楽ではない状態になっていて、「あ、石坂洋次郎って忘れられた作家になってたんだ」と気づかされた。
そんな折、三浦雅士氏が編集した短編集と、評論がここへきて続いて出版されていることを知った。
本短編集の表題作の乳母車」は、かつてーー30数年前ーー読んだ時も「続きが読みたい」と思わされた記憶が薄らとある作品だったけれど、そのほかの作品には馴染みがなかった。当時の僕は、長編好みで、短編には興味があまりなかったのだ。
今回、久しぶりに石坂作品を読んで、自分の記憶の中の石坂作品とのーー良い意味でのーー印象の違いに驚いた。「乳母車」に関しては、当時の自分の読後感が蘇ったが、他作品から受けたのは、どこか「都会的」「先進的」「民主的」な陽性のイメージだった石坂作品の土台にある、地域性、土着性、あるいは母系の情念の様なものの強さだった。
このところ改めて石坂洋次郎の作品に関心を持ったのは、戦後の作家と思っていた彼が戦前から、戦後に繋がる作品を描いていたことを偶然知ったことによるのだけれど、大ヒット作「青い山脈」に描かれた戦後の民主主義と女性の権利の主張のようなものの背後にある、大地に根付いたものに対する羨望や、それゆえの「ブレない」テーマに、気づかされた。もちろんそれは三浦氏の絶妙なセレクションのゆえとは思うが。
まだ、同時期に出版された彼の評論は読んでいないが、読むのが楽しみである。
これを機に石坂作品の再評価が行われ、全集が編まれたりすれば、僕としては嬉しい限りなのだが。 -
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本書では資本主義の本質を探るだけではなく、ポスト資本主義の社会についても考察していく。著者はこれまで「貨幣」とは何か、を再三追求しており、その命題に対して著者は「貨幣は貨幣だから貨幣である」という結論を出す。これはマルクスの「価値形態論」を批判し追求した結果、貨幣の本質が自己循環論法であることを証明した。また貨幣のみならず、「言語」と「法」の実態についても本書で繰り返し考察される。著者によると、これら三つは、それ自体には物理的な力を持たないが、社会的実在、すなわち社会的動物としての人間が、これらを媒介することで、人間が人間として存在するのだという。言語は意味を、法は権利と義務を、そして貨幣は価値という、目では見えないが一定の力が働く。
後半では、資本主義を超えた先にある市民社会のあり方についても考えていく。市民社会とは、国家(法の力)の側面と資本主義(貨幣の力)の側面の二つを持っていると著者は考える。そして、最終的には法が支配する国家か、貨幣が支配する資本主義を補完するようなシステムになるだろうと著者は考える。そこで鍵となるのが人間の倫理性であり、倫理性が現状の資本主義に対抗する力を有しているという。 -
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時間を置きながら読んだので、理解出来ているか不明なまま、ひとまず所感を残したい。
そもそも孤独とはいかなる状態か。
全く一人であることが孤独ではないように思う。
一つには、他者との距離を感じることだと言える。
この、距離を測るために人間は眼を駆使してきた。
目で見える範囲だけではなく、俯瞰するという能力にまで発展させた。
この俯瞰によって、自分を客観視することも、他者に憑依することも出来るようになった。
ただ、孤独にはもう一つ要素がある。
それが、自身との対話である。
つまり、言語があることで人間は孤独を発見することが出来た(と言いたいのではないか、笑)
この、視覚と言語と俯瞰という繋がりの中で、社会や森羅万象に論を展開させていく。
見る、見られることの話の中で、先日読んだ『Ank』というミステリー小説を思い出した。
チンパンジーのアンクが人間を操り、暴動を起こしていくその源には、見る、見られることを媒介とする「共感」があった。
宗教的感動にも文学的感動にも、感動には「共感」が含まれているように思う。
そして、その「共感」において、自身と他者が一体化する、またはもっと大きく世界と一体化するような、ある種の幻覚を抱くのだと思う。
私たちは見えるものも見えないものも、例え騙されていても、言葉によってそれが在るように認識し、また自身のように、肉体という分かりやすい現実を持つ存在であっても「ここにいない」ような認識もする。
非常に歯応えがあったけれど、記憶に留めておきたい内容ばかりだった。
拙くてすいません。 -
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こういうバリバリ経済学者の経済の本はほとんど読んだことがなかったし、難しいところも多くてよくわかってない部分も沢山ある。それでも、何か知的興奮があったし、「もっと知りたい」という思いにさせられた。
経済って、もっと血が通ってなくてお金のことばっか考えてるんじゃないの?という私の経済学に対する幼稚なイメージをいい意味でぶっ飛ばしてくれた。
経済を考えてると、そんな哲学的問題に行き着くの?!法人の存在の仕方は人間存在の仕方とニアリーイコール?!「信託」の始まりはなんと修道院にあった?!経済の話とカントヘーゲルロールズアリストテレスってそんなに関係あるの!?…等々、新鮮な驚きのオンパレード。
岩井克人の主張は、反マルクス、反マイケル・サンデル、、、ふつうにこれだけ聞くと「なんてリベラルじゃない奴だ!」と思いきや、彼からはそういう匂いはあんまりしない。むしろ反株主主権論、挙げ句の果てには「資本主義は核に倫理性を必要とする」とか言ってる。はてさて、彼は一体何を言いたいのだろう。興味深い。私に新しい考え方を教えてくれそうなきがする。彼の他の著作も読んでいきたい。
・自己循環論法(存在の無根拠性)
・言語・法・貨幣(社会的実体のみ持つ)
・資本主義の本質(差異が利潤を生み出す。それ以上でも以下でもない) -
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ネタバレ・モードリス・エクスタインズという人が『春の祭典』という本を書いています。バレエの本というよりは、第一次大戦前後のヨーロッパ社会の姿を浮き彫りにした本ですが、そこに『春の祭典』初日の状況が描かれています。というより、どうしても描けないということが描かれているのです。その場に居合わせた人々の証言がてんでんばらばらで、検証しはじめると、どの証言が正しいのかわからなくなってしまうというのです。ただ、ものすごい事件であったことだけは分かる。これはどういうことかといえば、歴史的な事件というのはほんとうは人間の心のなかでしか起こらないということなのです。そして、人間の心のなかで起こる以上は、その意味は決して一様ではないということなのです。
世界の歴史も日本の歴史も何度も書き直されてきました。今後も書き直されつづけるでしょう。歴史は客観的なものではありません。それは過去と現在の関係、現在を生きる人々との関係なのです。現在が変われば歴史も変わるのです。
・意味が変わりつづけるなら、バレエはとて不確かな芸術であるということになりそうです。歴史も不確かな学問ということになる。でも、そうではありません。逆です。不確かなものを確かなものにしようとして、人はバレエをさらに熱心に見ようとします。感動を確かめようとして再び劇場に足を運ぶ。そのとき人は、よりいっそう深く感じる心を養っているのです。
・生きることの歓びと哀しみをどれだけ深く感じることができるか、それは感動する心の豊かさにかかっています。ほんとうは歴史もそういうものなのです。歴史の本質は文学であり芸術です。人類という持続する生命に感動する心なのです。ほんとうの歴史家ならばそう考えていると思います。歴史はそこで神話や伝説に接しています。 -
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哲学的人間学やフーコーの権力論・制度論の発想にもとづいて、身体についての考察を展開している本です。
人間は環境世界から離れてしまったことである種の「過剰」をかかえ込むことになり、それが人間の文化を可能にしたと考えることができます。著者は、ルイス・マンフォードなどの議論を参照して、このような発想を受け入れるとともに、人間の身体にくわえられる加工や装飾もまた、このような発想のもとで理解することができると考えます。また本書の後半では、近代に入って教育、労働、軍隊などの領域で、身体や動作に対する制御がいきわたっていったことが、さまざまな具体例とともに明らかにされています。
こうした議論は、80年代以降の日本で流行したいわゆる「現代思想」にかんする本でたびたびとりあげられるテーマであり、たとえば今村仁司などの論者たちの著作を読んだことのあるひとには、ひろく知られているように思います。『ユリイカ』や『現代思想』の編集者を務めた著者は、ジャーナリズムにおいてそれらの論者たちの活躍の場を提供してきたのであり、いわばおなじ空気を呼吸していたといってよいでしょう。
その後、著者は『ダンスマガジン』という月刊誌の編集者を務めることになり、「あとがき」では「なぜ舞踊の専門誌の編集に全力をあげて取り組まなければならなかったのか、自分自身に向かっても、その根拠を明確にしなければならなかった」と語っています。本書の議論はまさにそうした動機にもとづいており、日本の伝統的な「まひ」と「をどり」のちがいにかんする折口信夫の考察や、クラシック・バレエ、モダン・ダンスの成立史などに触れながら、近代的な身体観の変遷をたどっているところに、その特色があります。 -
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三浦雅士という希代の知の達人をインタビュアーに迎え、岩井克人が経済学を超えた思想界の巨人であることを示した対談集。
現代思想の編集長時代に、岩井を発掘したのも三浦だった。
言語•法•貨幣の存立する根拠が、自己言及的循環論にあることを示すだけでも驚くが、資本主義(貨幣)、国家(法)を超える道を市民主義に見出す。
彼の論理構成が、柄谷行人のそれとあまりに似ていることに驚く。
自己循環論を根拠とすることから資本主義は、ハイパーインフレーションの危機を抱えており、国家は集団ヒステリーという自己崩壊(パニック)の危険を有している。
現代思想のもっとも重要な問題がどこにあるのかを明確に指し示す。 -
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ー 身体が過剰な意味の場所でなくなったのはつい最近のことなのだ。人はタブラ・ラサの状態で生まれてくるが、生まれてきたその場所は濃密な意味の磁場なのである。人はほとんど生まれてきたその瞬間に強力な意味の磁力を浴びせられる。その社会の言葉によって、表情によって、仕草によって染めあげられるのである。
身体がたんなる身体、だからこそ貴重な身体と見なされるようになったのは、いったいいつの頃からなのか。そしてそれはどのような背景を、どのような意味をもつのか。この半世紀、日本人の身体は大きく変わったといわれるが、それは身体をめぐるタブーからの解放となんらかの関係があるのだろうか。あるとすれば、それはどのような関係なのだろうか。 ー
亀裂、加工、表情、動作、軍隊、体育、舞踏という章題の構成で面白い考察。
『かたちだけの愛』を読んで、鷲田清一を読みたくなり、その流れで読みたくなった一冊。
これも学生時代に買ったから積読20年物。
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1. 「身体の零度」を読む
著者は、衣服は寒さを防ぐために発明されたものではない、刺青と同じく機能を持った装飾が起源だと言う。
だから、衣服は衣装なのだ。
装飾であった衣装が寒さを防ぐ機能的な衣服となったのは近代になってからなのだ。
まさに、衣服の見方が転換される視点だ。
軍隊は、武器が必要だ。
軍隊が、産業を推進することは今も昔も変わりはない。
近代の機械的工業生産を生み出したモメントのひとつが軍隊だった。
そして、近代機械工場の労働者の理想的身体のモデルも規律化された軍隊だった。
身体を規律して変容させる仕組みを暴いたのはミシェル•フーコーだが、三浦はフーコーの方法論を踏まえて、軍隊の規律が工場労働者の身体的ばかりか、学校に「体育」として埋め込まれて、年少の頃から身体は近代的身体として矯正されていくことを暴いていく。
身体は軍隊のように均一化され、平均化されていく。
我々が当たり前だと思っている身体の仕草、行動、表情までが深く規律によって近代化されていることに慄然とする。
小学校の授業、朝礼、体育、これらは軍隊規律を幼少時代から身体化させる近代のシステムそのものだったのだ。
われわれはいつのまにか、近代資本主義に相応しい身体に矯正されている。
タイトルの「身体の零度」とは、真っ新な身体、生まれたままの裸の身体、刺青も施さない身体、当然衣装を纏わない身体、可塑的で何にでも変容できるニュートラルな身体のことだ。
ただ、そんな理想的な身体(=身体の零度)は存在しない。
現実に自然に産み落とされた身体は、自然に対応するだけで既に不自然な身体に変形されてしまうからだ。それが、「存在被拘束性」だ。
その拘束から逃れることは現実には不可能だ。
だが、現実には存在し得ない「身体の零度」をフィクショナルな、理念形として設定するのが三浦の戦略なのだ。
理念形としての「身体の零度」を座標軸として設定することで、近代が生み出した身体の変容が見事に捉えることが出来るのだ。
この「身体の零度」が無ければ、近代的身体は生まれない。
そして、その「身体の零度」と言う思想を準備したのが、ルソーだと言うから驚きだ。
ルソーが理想としたのは、本来の人間である自然な身体だ。
自由と自然を理想として打ち出したルソーの啓蒙思想こそが、近代的な規律的身体を生み出す土壌を用意したと言う洞察が鋭い。
後半は、バレエの歴史に紙幅が裂かれる。
後に三浦はバレエへの思いを爆発させる。
その爆発のスプリングポードが本書であったことが分かる。
2. 「身体の零度」を実践する
ここからは、本書を読んでからの実践編だ。
本書を読み終わったら、「身体の零度」を取り戻す実践に進むべきだ。
「身体の零度」は理念形だから、実践は、「身体の零度」を目指す、決して到達しない、ネバー•エンディング•プロセスとなる。
ここで言う「身体の零度」とは、人体の持つ骨格、筋肉を「正しく」使うことだ。
「正しく」とは、骨格と筋肉を無理なく、身体合理的に使うことだ。
言い換えると、人類がその歴史の大半を過ごし、身体を作り上げてきた、狩猟採集時代の身体を取り戻すことだ。
長時間のデスク•ワークで肩と腰がガチガチになる。
時には、ぎっくり腰で動けなくなることもある。
これは、身体が近代的規律に悪矯正されて、「身体の零度」から遠ざかっているからに他ならない。
小学生時代から、授業中は、木の椅子と机に縛り付けられて、身動きは許されない。
教師は、教室全体を見渡して、規律の徹底を強要する。
「身体の零度」をまだ多少は残している小学校低学年にとっては辛い。
じっとせずに歩き回りたい。
すぐに伸びをしてあくびをしたい。
これらは「身体の零度」を取り戻す「正当な」行為だ。
人は、15分以上同じ姿勢を取ると身体に不調を来す。
学校でも職場でも、15分毎に身体を動かすことが必要なのだ。
お尻を動かす程度でも良い。
でも、伸びをしたり、立って歩いたり出来ればもっと良い。
小学校の授業で15分毎に立って伸びをするだけで、身体は零度の状態を回復するのだ。
小学校の授業には15分毎のリラックスタイムを導入しよう。
人は、座り方を教わったことがない。
しかし、骨盤を後ろに倒した座り方は、腰痛を作っているだけだと言うことを、知るべきだ。
特に、柔らかいソファは危険だ。
「身体の零度」を破壊して、ギックリ腰を常態化してしまうからだ。
小学生時代から、「身体の零度」を取り戻す座り方を教えることで、将来のギックリ腰、腰痛から解放される。
小学校で教えるべきは、まずは「身体の零度」を取り戻す座り方なのだ。
そして、ソファ無き生活のすすめだ。
一日8000歩歩くと健康に良いと言われる。
しかし、歩行後、足や腰の痛みを感ずる人は多い。
それは、「身体の零度」からかけ離れた歩き方をしているからだ。
足を逆ハの字にして、エラそうに歩く人を良く見かけるだろう。
自分が歩く姿を誰かに動画で撮影をしてもらうと良い。
自分もエラそうに歩いていることに気が付き、愕然とする筈だ。
こんな歩き方をしていたら、歩けば歩くほど身体は「身体の零度」から遠ざかっていくばかりだ。
そして、腰や膝に負担が掛かり、身体は変形していく。
では、「身体の零度」に基づく歩き方とはどんな歩きかたなのか?
まず、歩き出す前に、両足を平行に並べる。
自分では両足を平行にしているつもりでも、逆ハの字になっていることが多いので、それを正す。
平行にしたまま歩くと、太腿の外側の筋肉が使用されるのが分かる。
狩猟採集民と同じ筋肉の使い方だ。
頭は真っ直ぐに前を見て、背骨を真っ直ぐにする。
背骨を真っ直ぐにする、と言うと大体、胸を反ってしまう。これはバツ。
壁に、踵、ふくらはぎ、お尻、肩甲骨、後頭部を順次付けてみると分かる。
脊骨を真っ直ぐに保つとはこう言うことなのかと、背骨が伸ばされる窮屈さの感覚に、大体驚く。
視線がこんなにも高いのかと感動する。
その姿勢を保てれば、骨盤が後ろに倒れることはない。
ただ、気を抜くと骨盤はすぐに後ろに反ってしまうので、下腹部の腹筋を使って支えてやる必要がある。
あくまで使うのは、下腹部の腹筋だ。
こうして歩くと骨板が固定され、いくら歩いても疲れることが無い。
この歩き方は、人類が狩猟採集時代から行ってきた歩き方だ。
狩猟採集時代といえども文明化が進み、既に「身体の零度」は失われているとは言え、限りなく「身体の零度」に近いものだ。
「身体の零度」を取り戻すとは、近代に入ってのこの数百年で忘れ去ってしまった、長い間、人類が使用してきた仕方で骨格と筋肉を使うことを思い出すことに他ならない。
少しでも「身体の零度」を取り戻すことで、突然ギックリ腰に襲われることは無くなり、慢性的な腰痛、肩凝りから解放される。
それは、頭痛やその他の身体不調も解消してくれる。
本書からの得た最大の収穫は、慢性的な腰痛から解放されたことだ、と言える。
3. 「身体の零度」の実践者
「身体の零度」は生まれたままの姿だ。
これで思い出すのは、途方もない巨人、南方熊楠だ。
昭和天皇にも侍講し、貴重な粘菌のサンプルをキャラメルの箱に入れて天皇に贈呈したという愉快な人物だ。
熊楠が死去したと聞かされた昭和天皇は、熊楠を偲んで歌を詠んだ。
「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と。
昭和天皇にとってどれだけ忘れ難い人物であったかが窺える。
昭和天皇は、熊楠に「身体の零度」を感じていたに違いない。
その紀伊の巨人熊楠は、山中で粘菌採集に余念がなかったが、家では全裸で過ごしていた、と言う。
正しく、「身体の零度」を日常生活で実践していたのだ。
イギリス大英博物館で研究を進めて、「ネイチャー誌」に多くの英語論文を発表した熊楠は、帰国後は、どの大学にも属さず、在野の学者として、未だ全貌が捉えられない途轍もない業績を残した。
その洋行帰りのエリートが、スッポンポンで生活していた、と聞いて奇異の念に打たれていたが、本書を読んで腑に落ちた。
熊楠は単なる「変なオジサン」ではなかったのだ。
熊楠は、全裸で生活することで、「身体の零度」を取り戻そうとしていたのだ。
彼こそ、正しく、「身体の零度」の実践者だ。
良く、カラオケ•ボックスで興が乗ると、服を脱ぐオッサンがいる。
「見苦しい」と目を背けてきたが、それは「身体の零度」を取り戻すための、熊楠の行為に匹敵する、果敢な試みだったのかもしれないと、本書を読んで考えを改めた。
カラオケでドンドン衣服を脱いでいく「オッサン」と一緒になったら、今度はもっと、温かな眼差しを向け。。ることは出来そうもない。
イギリスで「とにかく明るい安村」が受けたのは、イギリス人が、自分たちが忘れていた「身体の零度」を目の当たりにしたからに違いない。
ただ、安村が「身体の零度」に徹底しきれないのは、残念ながら、安村が近代の生み出した全裸を恥と見做す眼差しを払拭しきれていないからだ。
安村が「安心して下さい」から「安心しないで下さい」に進化した時、彼は真に南方熊楠の境地に達することになる。
安村が真の「身体の零度」の実践者となった時、彼の芸能人生は終焉を迎えることになるが、「身体の零度」の体現者としての栄誉(?)は手にできるだろう。
4.「身体の零度」の射程
「身体の零度」は人類の持つ原初の、フィクショナルで理念形としての身体のあり方だ。
それは、人類の歴史を直線として眺めるとよく分かる。
ホモ・サピエンス登場から250万年。
その大半は、狩猟採集時代だ。
しかし、他のホモ族を含む人類の登場は、600万年前だ。
人類(ホモ族)はその大半を狩猟採集によって生存してきた。
農耕の開始は、たかだか1万年前。
これは人類600万年史の0.00004%に過ぎない。
こうしてみると、狩猟採集と農耕を併置することがいかにミス•リーディングなことであるかが分かる。
そして、人類の身体を零度から大きく引き離した近代は、ほんの200年に過ぎない。
これは人類600万年の0.00000033%に過ぎないのだ。
身体の零度を取り戻すことが、近代以前の農耕時代の身体を蘇らせることではなく、それに遡る長大な狩猟採集時代の身体を取り戻すことであることが分かるだろう。
それが一番人体に負担の無い身体の使い方でもあるのだ。
この600万年にもわたる長大な射程を「身体」にではなく、「知性」に焦点を当てたのが中沢新一の「カイエ•ソバージュ」(野生のノート)だ。
中沢はその「知性の零度」を「流動的知性」と呼び、その復権を企てる。
そんな太古の知性など近代的知性に比べたら大したことないだろう、などと言う勿れ。
太古の知性の、その凄まじい衝撃力のヴェールを初めて剥いだのがレヴィ•ストロースだった。
彼はオーストラリアの未開民族のインセスト•タブー(近親相姦の禁止)を探ることで、複雑な親族構造をさぐり当てる。
それを現代数学の天才アンドレ•ヴェイユ(哲学社シモーヌ•ヴェイユのお兄さんだ)は、20世紀になって作り上げられた現代数学の最先端である「群論」の一部であることを見出したのだ。
つい最近発見された現代数学の最先端理論を、人類は何万年(若しくは何百万年)も前に知っていたのだ。
知っていただけではなく、有効活用していたのだ。
これこそ「知性の零度」「流動的知性」に他ならない。
現代数学は、「知性の零度」「流動的知性」と言う豊穣の成果の中から、成果の一部を拾い出してくる作業なのかもしれない。
全ては太古の思考に存在している。
レヴィ•ストロースは600万年にもわたる「知性の零度」「流動的知性」を、「野生の思考」=パンセ•ソバージュと呼んだ。
そして、次々と発見される「野生の思考」を、「構造」と呼んだのだ。
だから、構造主義は、イデオロギーではなく、方法論だ。
その構造主義的方法論の一つの成果が、この「身体の零度」だと言える。