千葉雅也のレビュー一覧
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センスとは、「直観的にわかる」ことで、いろんなことにまたがる総合的な判断力である。直観的で総合的な判断力。そして、感覚と思考をつないだようなものである。
モデルの再現から降りることが、センスの目覚めである。
センスの良し悪しはしばしば文化資本に左右されると思われている、と「はじめに」で述べました。文化資本が多いとは、いろんなものを鑑賞したり読んだりしてビッグデータを蓄積していることですが、それは、モデルが非常に多いために、特定のモデルに執着しなくなる、ということでもあります。非常に多くのデータがあり、なおかつ十分にこなれていると、再現志向から降りやすくなる。
「モデルに合わせようとして合わせきれない」というのが悪い意味でのズレで、それがセンスが悪いと見なされる。だったら、そもそもモデルを目指すことから降りてしまい、自分の積極性を肯定する「ヘタウマ」でいいじゃないか。
餃子のリズムは複雑で、多層的に絡み合って展開していきます。音楽ですね。餃子は音楽なんですよ。
・音楽であれ美術であれ、インテリアの配置であれ、料理であれ、その「リズムの多次元的な=マルチトラックでの配置」が意識できることがセンスである。そしてその配置の面白さが、センスがいいということになる。
・より正確に意味を実現しようとして競うことから降りて、ものごとをリズムとして捉える。このことが、最小限のセンスの良さである。
センスとは、ものごとのリズムを、生成変化のうねりとして、なおかつ存在/不在のビートとして、という二つの感覚で捉えることである。
・ハラハラドキドキ→ビート:はっきりした対立関係、存在/不在
・微妙な面白さ→ うねり:生成変化の多様性
反復されるものとしてのリズムは、人間が安定的に生きていくために必要なのです。リズムを形成することで人は「主体」となる。リズムとは、反復と差異です。まず反復がある。それは生きるために必要な反復としてある。
丁寧にコーヒーを淹れることは、コーヒーを淹れる時間をサスペンスにしている。
人間関係の小意味を、一方では0→1でも捉えられるが、それより、うねりとして捉えてみようという方向に向かっています。
旅の初日にはこんな冗談を言ったとか、二日目のお昼を食べたときにはこんなことを感じたとか、旅の断片を思い出しながら、そのひとつひとつに輝きを見る。それは複雑にカットされたダイヤモンドをいろんな角度から見て、輝きを楽しむのと同じことです。
人生の出来事というのは、そのように多面的に楽しむことができる。
・センスとは、喜怒哀楽を中心とする大まかな感動を半分に抑え、いろいろな部分の面白さに注目する構造的感動ができることである。
・センスとは、ものごとを意味や目的でまとめようとせず、ただそれを、いろんな要素のデコボコ=リズムとして楽しむことである。
・そしてセンスとは、リズムを捉えるときに、如を埋めてはまた矢如し、というビート、(もっと複雑にいろんな側面が絡み合ったうねり、という両面に乗ることである。
・さらにセンスとは、意味を捉えるときに、それを「距離のデコボコ=リズム」として捉え、そこにやはり、うねりとビートを感じ取ることである。
・偶然性にどう向き合うかが人によって異なることがリズムの多様性となり、それが個性的なセンスとして表現される。
おそらく重要なのは、反復の「必然性」ではないかと思います。生きることと結びついた必然性です。生物として、刺澈の嵐のなかで、おのれの主体性を仮固定するためにその反復が必要だった、そうするしかなかった、という必然性です。
どうしてもそうならざるをえない問題的なものが芸術と生活にまたがって反復され、変形されていく。人が持つ問題とは、そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という側然性の表現でもある。問題が繰り返され、何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして得然性がまばゆく作裂する。 -
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大体は意味を読み取ろうとする事から離れてもっと一つ一つの要素ごと、そしてその並び(リズム、ビート、うねり)の面白さに着目しよう。そこからセンスを身につけることが始まる。みたいな話だった。途中ほんとに色んな角度から同じ話がされるので混乱したけど要はそういうことだと思う。絵なら色や形、小説なら展開の波、映画ならショット、音楽なら音やフレーズの並び方や変化に着目して見たり聞いたりしようと。難しいね。
気づいたのは自分がサスペンス(宙ずり)状態への耐性がない事。現代人はみんなそうかな。結論や結果を急ぐあまりにじっくり感じたり考えたりがおざなりになってしまう。サスペンスを楽しめる人間でありたいね。
いないないばぁの遊びはサスペンス状態に耐える訓練になってるらしいというとこが面白かった。
本書の最後に芸術と生活を繋ぐワークというものがあったのでぜひやってみたい。 -
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勉強あ=自己破壊を通じて自由になること
情報過剰の世の中=勉強のユートピア
立ち止まって考える ことが難しい世の中
深く勉強しない=周りに合わせて生きる=ノリがいい
勉強=ノリが悪くなる、新しいノリに返信する
道具的言語使用
玩具的言語使用
現実は言語というVRデバイスを通して解釈される。
言語自体は非現実的な表現を可能にする=現実のノリから距離を取れる
第二章
ノリの潰し方→ずれる、ずらす→
ボケとツッコミ
言い換えれば、具体と抽象によるジャンプ
アイロニー→抽象、意味を問いすぎて足場を失う(ナンセンス)
ユーモア→具体、風呂敷を広げすぎて意味の飽和
勉強にはやめ時がない→有限化が必要
決断か中断か。
抽象型探究は終わりがない→決断は無根拠に決めつかることにならざるを得ない
有限化手段としての中断
比較はしつつも、それをやめる -
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フォロワーさんとの読書会で課題本になっていた
勉強をするとノリが悪くなる、今まで見えていたものや考えもしなかったことを考えるようになり、それがノリの悪さにつながっていくというものだった。
これについてはたしかに実感があった。偏見や差別的なことはそれが発生する下地や背景、構造を知ってしまうとそれにはノれなくなる。ネットミームなんかはかなりそういう割合が高く、もともとが差別的な意味合いから出発していることが多いために、もはや最初から使わないほうがいいのではないかとすら思う。
ただこうしたノリの悪さを手に入れるということはあらたな自分になることでもあると著者は述べている。
たしかにノリが悪くなり、大きな波やその場の盛り上がりには合わせられないかもしれないけれど、私はノリが悪くなった自分が嫌いではない -
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物事をリズムとして捉えること、そして、習慣に似た反復とそれに対して生じる差異、予測誤差という緊張状態が、「不快」であるにも関わらず「快」であり、そうしたリズムが面白いという表現に、なるほどな、と思った。
また、予測誤差がほどほどの範囲に収まっていると「美的」になり、予測誤差が大きくどうなるかわからないという偶発性が強まっていくと「崇高的」になるということ、美と崇高のグラデーションを偶発性の概念を使って整理することや、偶発性にどう向き合うかが人によって異なることがリズムの多様性となり、それが個性的な「センス」として表現されるとまとめるていることにも共感した。
物質とは、作用・反作用が物理法則に従って即時に起こるが、生物になると作用に対して反作用が多様であり、言い換えるとすぐに決まった行動を取らずに迷う余地があり、考えて行動することに時間を使えることは、余裕を楽しむとともに不安や恐怖を感じることにもなる、そうしたジレンマが社会の色々な問題を生み出していたり、芸術の本質でもあるという論旨もなるほどなと思った。
芸術作品を見ることは何かの目的達成ではなく、意味がわかるという納得まで行かなくてもよく、何らかのリズムがあると捉えればよい。
現実の目的達成では、しばしば、他にやりようがなくてそうするしかないという結論にもなるのだが、芸術はそうではなく、多様性や相対性を教えてくれるもの、大きく見て人生のリズムについても色々でいいのではないかと、肯定することでもある。
人間の生活は、目的志向と、宙吊りを味わう不安混じりの享楽という、二つをミックスすることでできている。
なんとなく感じている感覚を言語化して文章表現にしていることが興味をそそられ、読み進めた。
「おわりに」に著者が書いていた「食べることを基本として、人々が、何かを目指すわけでもなく集う空間を大切にしたい。全員一致を求めるのではなく、ちょっとした集まりがあちこちにできるーそれに似たものとして、ちょっとした集まりのように要素を並べたものとして、作品を作る。」というように自由に芸術と関わっていこうと思った。 -
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サラッと読めるアメリカ滞在の紀行文。解説にも書かれているが、小田実や沢木耕太郎などの紀行文で感じられた文化的差異への驚きや体験の濃ゆさは正直に言って感じられない。話してる相手が外国人であるだけで生活自体は東京とほぼ変わらないのではないか。
グローバル化で欧米や日本は文化が平準化されたということなのだろう。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど紀行文から受けた血踊るような高揚感は感じられなくなったことは率直に淋しい。
グローバル化だけでなく、デジタル化も進み、SNSも身近になり、より外の文化が身近になり体験もしやすくなったのかもしれないけど、身振り手振りでコミュニケーションをして、よくわからないメニューを勘で頼んで一喜一憂した身体感覚のある旅行体験が懐かしくなった。 -
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タイトルに惹かれて。「センス」に哲学を見出すそのセンスに脱帽。
言葉は比較的平易で読みやすいが、論文を書いている人特有の引用が多め。それも含めて勉強になるのですが、やはり昔の哲学者から引っ張ってきている言葉なんかもあってその概念を明確に捉えきらずに読み進めた部分もあった。
ちょうど美術館に展覧会を見に行く道中、電車の中で読み進めたので、展覧会の楽しみ方をアドバイスしてもらった気になった。「意味から脱し、リズムを味わう」全ての芸術、さらには日常生活にも応用可能な感覚だろう。人間を科学的に、かつ感覚的に分析し、「知ってる人だけが楽しめる」ことを「知らないからこそ楽しめる」ことへと変換する力を持っている著書だった。 -
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存在と不在やうねりを“リズム”として捉える発想が新鮮で面白かった。
特に、「意味ですらリズムである」という考え方には驚いたが、読み進めていくと共感できた。
仕事ではどうしても最終的な成果が求められるため、結果論を重視しがちだ。
ただ、この本を読んで、何を切り取るかによって物事の見え方は変わるのだと思った。
結果や対立そのものは、現実として確かに存在しているが、一方で、その過程や流れに目を向けることで、“リズム”として捉えることもできる。
例えば、
・誰とどう進めたか
・空気がどう変化したか
・小さな試行錯誤
といったものにも、その時々のリズムがあるのだと思う。
そう考えると、結果だけを唯一のリアリティにするのではなく、むしろ人生を豊かにするのは、結果そのものよりも、そこに至るまでの過程や流れなのかもしれないと思った。 -
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脱構築とは、物事を「二項対立(二つの概念の対立)」によって捉えて、善し悪しを言おうとするのをいったん保留する、ということ。
代表者3人、デリダ「概念の脱構築」、ドゥルーズ「存在の脱構築」、フーコー「社会の脱構築」。
第一章 デリダ-概念の脱構築
二項対立の脱構築、マイナスとされる側の捉え方を疑うことを階位序列を転倒させるという。
直接的な現前性、本質的なもの:パロール
間接的な再現前、非本質的なもの:エクリチュール
あらゆるものに当てはめられる抽象的な二項対立
何かを得るためには何かを失わなければならない、だがそこへの未練、忸怩たる思いを持った上で行動することが大切
透明ではなく泡立つ炭酸水のようなざわめく世界として世界を捉えるのがデリダ的ビジョン
第二章 ドゥルーズ-存在の脱構築
世界は差異でできている。通常はA,B,Cという独立したものが現働的に存在している(アクチュアル)と認識してるが実はあらゆる方向に、すべてのものが複雑に絡まりあっているヴァーチャルな次元があって、それこそが世界の本当のあり方、という世界観。これこそ「存在の脱構築」の核心。
あらゆる事物は異なる状態に「なる」途中である。全ては途中だし、本当の始まりも終わりもない。
精神分析の主流である家族を中心とした物語、トラウマ等のことから心理を考えることに対し、変化し続ける人間は、家族という狭いコミュニティの中だけで分析できるものではないという批判。
リゾーム、多方向に広がっていく中心のない関係性。全ての物事は繋がり合うと同時に、全てが無関係でもありうる。
第三章 フーコー-社会の脱構築
支配を受けている側は支配を望んでいるという要素もある。権力は上から押さえつけるだけでなく下から支える構造もあり、明確な悪を見つけることは間違い。
第四章 現代思想の源流-ニーチェ、フロイト、マルクス
ニーチェは、哲学とは長らく世界に秩序を見出そうとすることだった中で秩序と混乱の二元論の拮抗状態が世の中の真の姿だと示した。混乱、ディオニュソス的エネルギーが大事であって、それだけでは成り立たないためアポロン的形式の拮抗において何かが成立する。
フロイトは、自分がはっきり意識できない、よく分からない理由で何かをやってしまう無意識という存在を見出した。また、その無意識には何か性的なエネルギーのわだかまりがあり、それが性的には見えない行動を動機づけたと考える。
マルクスは、資本家と労働者の役割から多くの労働者は自分の力を十分に発揮できない(搾取が発生するため)と考え、全員が自分自身に力を取り戻す「共産主義」を提唱したが未だ成功例は無い。
第五章 精神分析と現代思想-ラカン、ルジャンドル
死の偶然性と隣合わせであるような快をラカンは「享楽」と呼んだ。(赤ん坊の元に母がずっと居ない感じ、ランダムにいたり離れたりするような)そこへ現れる第三者(父)により、二人の世界に外部があることを知る、母が奪われこれを取り戻そうとする「父殺し」の物語、これをエディプスコンプレックスという。客観世界は思いどおりにはならず、母子一体には戻れないと引き受けさせることが去勢。
根本的な欠如を埋めようとすることがラカンにおける「欲望」、手に入れなければと思うような特別な対象や社会的地位を「対象a」という。しかし、これはある種の見せかけであって手に入れて幻滅してを繰り返して生きていくことになる。(この構造をメタ的に見て制御することが仏教的な悟り)
ラカンは第一の「想像界」(イメージの領域)、第二の「象徴界」(言語、あるいは記号の領域)、第三の「現実界」(イメージや言語で捉えられない認識から逃れる領域)の三つの領域で精神を捉えている。
現実界こそ成長する前の原初の享楽であり、これを求めて対象aという仮のものを求めて転々としていく、原初的な満足を喪失したことが常に世界の影として残り続ける。
ドゥルーズは一つの現実界をめぐる人生ではなく、人生の在り方をもっと複数的にして、それぞれに自律的な喜びを認めようという、気楽な人生を推奨していると筆者は考えている。無限の謎に向かっていくのではなく、有限な行為を一つ一つこなしていくという方向性。
第六章 現代思想のつくり方
フランス現代思想を作る上での原則。
①他者性の原則
先行する理論、システムにおいて他者性が排除されているということを発見する
②超越論性の原則
1で示した他者性を排除しないような超越的な原則を提示する必要がある
③極端化の原則
排除されていたものを極端化して設定する
④反常識の原則
前提が覆されたため、反常識的であるものが超越論的な前提としてあるという転倒
第七章 ポスト・ポスト構造主義
今ここで、身体=脳が、どう動くか。
身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。
世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。
付録 現代思想の読み方
どんな本だと言われて思い出して言えるのは大きな骨組みであり、あるいは印象に残った細部というのプロでも同じ。不完全な読書であっても読書である、というか、読書はすべて不完全。
それを踏まえた現代思想の読むポイント
①概念の二項対立を意識する。
②固有名詞や豆知識的なものは無視して読み、必要なら後で調べる。
③「格調高い」レトリックに振り回されない。
④原点はフランス語、西洋の言語だということで、英語と似たものだとして文法構造を多少意識する。
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センスを才能ではなく「リズム」の知覚として捉え、「予測誤差」という概念で解体する。そうしてみれば、わかりにくい現代絵画も、あるいは食卓の餃子の食感でさえ、抽象化すれば「凸凹や反復、その組み合わせ」から見出されるリズムとして読み解ける。感覚的な領域に留まりがちな「センス」という言葉をここまで言語化していくプロセスは、読んでいて素直に面白い。読後は、何を見ても「なるほど、これはリズムですね」と言いたくなるような、哲学的な小難しさを漂わせつつも、どこか「説明してやったぞ」という万能感に似た納得感がある。そんな後味の本だった。
ただ、その一方でずっと引っかかっていたのが、センスは本当にリズム——つまり時間軸だけで捉えきれるのだろうか、という点だった。
本書で著者は芸術作品を「時間の結晶」と呼ぶ。その比喩は鮮やかで、センスをリズムとして捉えるアプローチもたしかにわかりやすい。けれど、あえて音楽の比喩を重ねるなら、もっと「和音」に近い方向まで展開してみてもおもしろかったのではないか。そんな違和感がどうしても残った。
私たちが「センスが良い」と感じるのは、展開を追い終えたあとだけではない。むしろ、一瞬のうちに複数の要素が同時に立ち上がり、その関係性がパッと腑に落ちる「瞬間の調和」がある。メロディが時間的な流れだとすれば、ハーモニーは複数の音が同時に鳴り、その関係性が瞬時に成立するものだ。センスには、こうした「重層的な要素を、瞬間的に把握し統合する感覚」も含まれているはずだ。餃子の食感も、咀嚼のリズムである以上に、舌の上で重なる味や温度の「同時多発的な和音」ではないだろうか。
本書でも「多重録音」への言及はあったが、それはトラックをどう重ねるかという時間的な処理の話に終始しており、「和音として一瞬で鳴り響き、一瞬で処理される」感覚とは少し位相が違うようにも読めた。リズムに統一することで、時間軸という誰もが共有しやすい足場に乗せて記述できるようになっているのだろう。ただ、その言語化の便利さゆえに切り落とされてしまった「同時多発的な感覚」——個人的には、センスとはむしろそうした和音的な把握にも深く関わっているように思う。
もうひとつ気になったのが、「逸脱」や「ズレ」の扱いだ。本書ではそれがやや偶然的なものとして語られていた印象がある。けれど、センスとは無意識下であれ、「方向性を帯びた逸脱」なのではないだろうか。
たとえばヘタウマ。本書でも引き合いに出されていたが、俗に言うヘタウマは、単に下手に描いているわけではない。むしろ線の幅や滑らかさをコントロールしきれない画材や身体的制約をあえて引き受け、その「不自由さ」の中で何をどう表現するかという能動的な営みだ。クレヨンのように線の制御が難しい画材を選べば、線はガタつくし、色数にも制約が生まれる。だが、その制約を意図的に選択することで、表現には独特の「指向性」と「再現性」が宿る。ホラー作品で子どもの落書き風のタッチが機能するのも、単なる偶然のズレではなく、「制限を選ぶことで生まれる指向的な逸脱」があるからだろう。
センスの再現可能性を考えるとき、この「制約の中の自由度」こそが、リズムでは説明しきれなかった部分を埋めてくれる気がする。「センスの良い感想」を書きたくて、駄文をこねくり回してみたが、受け手には「偶然だったのかもしれない」と思わせつつ、そのじつ緻密に方向づけられている。その見破られなさの匙加減こそが、センスの核心なのかもしれない。だとすると著者の「偶然性」への拘りも、あながち的外れではなかったのかもしれない——ただし偶然性そのものではなく、指向性を偶然性に見せる技術として読み替えれば、だが。
総じて、センスとはおそらくもっと多次元的な感覚の把握なのだろう。それを時間軸に沿った言語へと乗せようとすると、どうしてもこぼれ落ちるものがある。だから、この本を読んで「センスはリズムなんだよ」としたり顔で言い切ってしまうのは、たぶん少しもったいない。レビュー欄を眺めれば、「センスはリズム」という言葉が、まるで行儀よく拍を刻むように並んでいる。なるほど、これ自体もまたひとつのリズムなのだろう。もっとも、そこにわざわざ別の拍を混ぜたがる私も、結局はまた別のリズムを律儀に刻んでいるだけなのかもしれない。 -
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現代人が悩み、囚われる自己の一貫性(アイデンティティ)からの逸脱を肯定してくれて、人生を楽しませてくれるような思想だった。自分らしさとかそう言うのって、どうしても若い頃は悩んじゃうし、自分はこういう人間だからこういうことはできないとか、自分はこういう人間だからダメなんだとか、そういう自分らしさ(自己の一貫性=自己の秩序)を追い求めるからこそ生まれる悩みに対して、そこから逸脱することを肯定してくれる。そういった秩序からの逸脱(本書では脱構築)をしてからこそ見えてくるアイデンティティ像もあるし、そう言った意味で自分らしさ(とは何か)を考えるのにも示唆深かった。オヌヌメです。
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Posted by ブクログ
ノリが悪くなる、キモくなる、ズレる、ツッコミとボケ、などなど、日常の平易な言葉を駆使しようとする感じが鼻につく。しかし、勉強することでノリが悪くなりキモくなるというのは個人的に自覚があり悔しくも共感してしまった。
文章の構成が良いからか(スネーク法で書かれている)、スッと頭に入ってくる。
連想、名付け、言語=環境、享楽、といったキーワードたちはまさにラカンの理論そのものであり、その分野についてある程度知っていると理解しやすい。
言語によって裏打ちされている環境のコード(=その環境において正解と思われている法・言語)に対して、アイロニー(=ツッコミ、コードの根拠を繰り返し問うこと)したり、ユーモア(=ボケ、コードから連想をすること)したりして、環境からズレて環境を相対化していくことが勉強である。アイロニーもユーモアもやりすぎるとナンセンスに陥るから、享楽に基づいて過剰にならないよう途中で中断する仮固定をすることが勉強のコツである。また自己目的的な享楽に辿り着くことに自由の余地がある。これを来たるべきバカと言っている。というより目指すべきバカである。