泉谷閑示のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
精神科医である著者が、現代の人間が抱える「生きる意味とは何か」という問いに対して、真正面から考える一冊。
個人的に好きな内容のため、星5つ。
本要約動画で紹介されていたので気になり購読。
だが、「結論→理由」でわかりやすくまとめられた動画を見た時と、現代人が如何にして生きる意味を失ったかを論じる内容を実際に読んだ時とでは、印象が全く異なっていた。
あるプロゲーマーが子供の頃になりたかった職業について話していた時、
「今思えば、子供の頃に言っていたなりたい職業って、全部『お金になる仕事の中では』っていう前提があった」と言った。
だから昔の子供の夢に「ゲーマー」なんて選択肢はないのだ、と。
そう聞くと、小さい頃から「お金にならない仕事は無意味」という考えが染み付いていたのだと思う。
自分がどうありたいかを、「仕事」なんて小さな枠組みの中に求めようとするな。
それが本書のタイトルの意味である。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ現代に倒錯している価値観に囚われず、意義に囚われず意味を見出すこと、そのために遊びが大事である。
「愛とは、相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。欲望とは、相手がこちらの思い通りになることを強要する気持ちである。」
「道徳とは、われわれが個人的に嫌いな者に対してとる態度にすぎない」
「他人にそれがどう思われるかに関係なく、本人さえそこに【意味】を感じられたのなら【意味がある】ということになる。」
「もし大部分の人を惹きつける子どもの魅力がなんであるか問うならば、私はまさにこの自発性にちがいないと思う。この自発性は、それを感知する力を失うほどには死んでいない人々に深く訴えていく」
「受け取る聴衆の側にも、ある種の成熟が求められるのが芸術というものの宿命です。」
「そもそも人類が長い歴史の中で自然界から食物として得てきたあらゆるものは、何らかの意味において身体にいいものであると言えるはずです」
「やはり人間というものには、生きる意味を追い求めずにはいられない哲学的性質があり、他の動物とは異なる実存的な奥行きを備えた存在なのです。」
「人生に今を問う、というベクトルを向けること。これにより、自分が己の人生の主人であろうとすること。」
「人が生きる【意味】を感じられるのは、決して価値あることをなすことによってではなく、【心=身体】が様々なことを味わい、喜ぶことによって実現されるのです。」
「このように頭と心が対立せずに、互いが相乗的に喜び合っている状態。これを、私たちは「遊び」と呼ぶのです。」
「ところが、そもそも【遊び】というものは【無駄】の上にこそ成り立つのであって、その結果はあくまで二次的に過ぎないもので、プロセスのところにこそ面白みがあるものです。」
「あえて無計画、無目的に、自分の行動を即興に委ねてみることによって、私たちの決まりきった日常が、ささやかながらもエキサイティングな発見と創意工夫に満ちたものに変貌するわけです。」
「この【即興性】に加えてもう一つ大切なこととして、【面倒臭い】と感じることを、むしろ積極的に歓迎してみるという考え方があります。」 -
Posted by ブクログ
ネタバレ普通の人(健常者)と狂人(基地外)というのは世間的には真っ二つに分かれがちだが、実際は誰にでも明日には狂人になる可能性を秘めているわけで。そして治療に関しても、狂人性が表に出なくなればまぁ良しとなるが、それは真の完治ではないし、そもそも真の完治などは本人の自分自身に対する根本的な見直しが成功しなければ滅多にならず。そしてほぼ完治したとはいえ、当然なら今回の体験は一経験として残っているわけで、良くも悪くも今後も引きずっていく。
夢野久作「ドグラ・マグラ」で謳っている、この世は基地外地獄であるという考え方が好きなのだが、この本でもパスカルが似たようなことを言っていると引用しており、好きになった。
人間の心や精神病とされるものの話など、なかなか難しい問題ながら図も使って分かりやすく言語化されていて面白かった。
読み応えがある。
どこか窮屈さを感じながらも、「普通」におびえ、「普通」に憧れ、「普通」を演じるようになった。p41 -
購入済み
働くことについて、生きることについて、じっくり考えさせられる1冊。
様々な偉人、作家、芸術家、作品の言葉などを引用していて、読んでいくうちに教養が身に着く感じもある。
でもそれよりも、読み終えると「明日はもう少し1日を大事に、日常を自分の手で楽しくしてみようかな」と思える。
自分自身仕事でちょっと疲れたときに買った本で、読み終えた今結構頭がすっきりしているので、働く人たち(もちろん学生も)にとってもおすすめです。 -
購入済み
じっくりゆっくり、自分の心に沁み込ませるように、また何度でも読みたくなる本。 分かりやすい例や、少し難解な外国文献または書籍の引用に対しても分かりやすく説明がされていてとても分かりやすかった。 最初は精神科医として働いていた作者だったが後にパリへ音楽留学し、「一度立ち止まって人生を考える」という大胆かつ魅力的、人間的な生き方に感銘を受けた。
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Posted by ブクログ
現代の「常識」と定義されている、人生観や死生観に悩まされている人にはぜひ勧めたい。
今の社会では秩序を維持するため、商品を売る為、人の不安に漬け込んでこういう生き方が常識とされていますよ、多くの人が人生においてこのモデルコースを歩いていますよってメッセージが嫌でも耳に入ってくるし、そこを逸脱する事に対してとてつもないペナルティが待っていると思わされている。
そのモデルコースを考えなしに歩む事に違和感を覚えた人達が生きづらさを抱え、社会と自身の考えのギャップに苦しみ、精神科へ足を運ぶようになる。
みんなが歩く大通りは舗装されていて、歩きやすくて、正しくて、明るくて、清潔で、美しくて、、、
とされているけどそこに違和感を持ち自分の考えで、強い意思で横道を歩き出した偉人達の引用が的確で勇気をくれる。
社会は教えてくれない、なぜ私たちは生きているのか、何のために生きているのか、何をしたらいいのか、誰も答えてくれなかった問いに真摯に向き合ってくれて感動した。 -
Posted by ブクログ
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泉谷 閑示
精神科医。東北大学医学部卒。東京医科歯科大学医学部附属病院、(財)神経研究所附属晴和病院、新宿サザンスクエアクリニック院長等を経て、1999年に渡仏し、パリ・エコールノルマル音楽院に留学。パリ日本人学校教育相談員もつとめた。現在、精神療法を専門とする泉谷クリニック(東京・広尾)院長。大学や短大、専門学校等での講義も行ってきたほか、現在は一般向けの啓蒙活動として、さまざまなセミナーや講座を開催している。また、作曲家や演出家としての活動も行っている。著書に『「普通がいい」という病』『反教育論』(ともに講談社現代新書)、『「私」を生きるための言葉』(研究社)など。最新刊に『仕事なんか生きがいにするな』(幻冬舎新書)。
つまり、誰かと話し合ったとしても、それがかならずしも「対話」と呼べるものになっているとはかぎらないのである。
人は「家」に属し「ムラ」に属し、「職能別団体」に属し、「社会的階層」に属していることに疑問を持たず、そういうものだと思って一生を送り、その分をわきまえて役割をはたすことが良いことだとされていました。この「タテ社会」の秩序に従ってさえいれば、安全が守られ、居場所も保障されました。そんな社会では、皆と「同じ」であることがとりわけ重要なことであり、皆と「違う」ことは 忌み嫌われましたし、排除されるおそれのあることだったのだ。
たとえば、親が自分の子どもに対して「これは絶対この子のためになるはずだ」と、親の価値観にもとづいて選んだものを与えたりしますが、それがその子の感覚や感性に 合致 していないことも案外少なくないのです。もっと成長すればその良さが理解できるものだったとしても、与えるタイミングが早すぎればその子には良さがわからないでしょうし、「押しつけられた」と感じてしまって、かえって嫌なイメージを植えつける結果に終わるかもしれません。さらに言えば、「あなたのためよ」と言って押しつけられたものほど、人を 歪めるものはないのです。人は、悪意のこもったものを拒絶することは容易ですが、善意にもとづいて提供されたものが自分に合わないものであった場合、これを断るのはなかなか難しいのである。
相手を「他者」と思うことは、親しいか親しくないかには、そもそも関係ありませんし、「心が通じ合う」ことに反するものではありません。相手を「他者」と思うということは、相手の独自性や独立性を認めることであって、ほかの誰とも同じではない唯一の存在として、その人の個別性を尊重し、 畏敬 の念( 畏れ敬う気持ち)を抱くということでもあります。その「他者」が、自分と同じことを感じたり気持ちを理解してくれたりしたときに「心が通じた」のであって、だからと言って、何から何まで「同じ」わけではないのだ。
相手と「同じ」であったり一体であったりすることは、ありもしない幻想です。これまでそのような認識があまり持たれなかったのは、皆が「違う」をひた隠しにして、「同じ」だけを表明していたからにすぎません。しかし、曇りのない目で見れば一目瞭然、互いが、まぎれもなく「他者」同士なのだ。
「異人」扱いされないために、「同じ」と思われる話題を仕入れることに必死になる大変さは、きっと経験された方も多いのではないかと思います。話題についていくために、本当の自分の興味よりも 流行りのドラマや映画を 観 たり、ヒットしている音楽を追いかけてみたり、いつも流行を気にかけなければならず、なかなか大変なことです。しかも、そこで話題として取り上げられないようなものについては、うっかり話題にだしてケチでもつけられようものなら大変だというわけで、隠すクセがついていたりした。
なかでも、その場にいない人をやり玉に挙げた悪口や 噂話は、皮肉にももっとも連帯感を強めるので、井戸端会議の主要テーマになっています。いじめを行う側の人間が多数派を形成する基本原理は、ここにあると言えるでしょう。つまり、構成員の一人ひとりはターゲットにされた人に対してさほど反感を持っていなかったとしても、声の大きい 首謀 者 の意見に合わせないと、自分までもが「異人」として血祭りに上げられてしまう危険があるので、あたかも自分も反感を持っているかのように同調してしまうのだ。
このように集団に同調していく生き方をしていると、いつの間にか、自分の本当の興味や関心がわからなくなってしまうものです。これはなかなか深刻な問題で、のちのち「自分がわからない」「自分を見失った」といった精神的な行き詰まりを引き起こす原因にもなるのです。実際、最近ではこういった「自分がわからない」という悩みから、不登校や出社不能になってしまう人も少なくありません。
「他者」を知ろうとすることは、自分とは異質な感覚や感性に触れ、異なる価値観や考え方を理解しようとすることです。そして、その異質なものとの遭遇によって、自分が変化することを歓迎することでもあります。私はこの姿勢のことを、「経験に身を開く」ことと名づけておきたいと思います。
ここでは「経験」という言葉を、「体験」とは明確に区別して用いたいと思います。「~したことがある」「~に行ったことがある」というようなものは、「体験」ではあっても「経験」と呼べるとはかぎらない。それが「経験」と呼べるものかどうかは、それによってその人が内的に変化したかどうかによって決まると考えるのです。変化といっても、「行ったことのないところに行った」「したことのないことをした」といったレベルの変化ではなく、多少なりとも感性や価値観が変わり、その人の 在り方がそれまでとは違ったものになるような変化のことです。
「対話」とは、その「経験」の場を提供してくれる貴重な機会です。「他者」の話を「 聴く」ことによって、私たちは知らなかったことを疑似的に「経験」したり、考えも及ばなかったことについて考えさせられたりするようになるのです。
ですから、自分自身がそれなりの 咀嚼 力を持っていない場合には、「他者」との「対話」によって混乱することもあるかもしれません。自分の持っている価値観や考え方が、自分の土壌に根差して積み上げられ、 吟味 されてきたオリジナルなものでなく、よそからの借り物の考えや知識を 鵜 吞 みにし、それらを組み合わせたにすぎないような場合には、深いところで自信が持てていないために、どうしても「他者」に自分を開くことに勇気を必要とするでしょう(第 20 講参照)。つまり、異質なものと遭遇し、自分がとりあえず信じてきたものが 崩壊 してしまう怖さがあるので、「他者」を避けようとしてしまうのです。 しかし、借り物はしょせん借り物ですから、それはいずれ崩れてしまう運命にあります。 借り物の不確かな足場の上に立ち、おびえながらもそれを死守して生きるのではなく、「経験に身を開いて」確かな基礎を築いていくことが、真の自信を得るための唯一の道なのです。
「対話」とは、自分を変えていきたいという動機づけさえあれば、誰でもいつでも始めることができるものです。「他者」と遭遇することによって、人は自分を知り、自分を再検証せざるをえなくなります。それによって、自分の中の借り物の部分は次第に崩れていきますが、しかしそれと同時に、真に自分のものと言えるような「経験」が、着実に育っていきます。
ことにディベートは競技にもなっているくらいで、やり取りによって決して自分の考えや感じ方を変化させてはならないし、変化したら負けになってしまいます。つまり、それはモノローグ(独り言)とモノローグの戦いなのです。
人間同士がそもそも「同じ」ということはありえないのですが、そこで無理に「同じ」仲間であることを確認するためには、「違う」と見なされるターゲットを持ちだしてきて、それについての反応が「同じ」であることを見るという消去法的なやり方しかないのでしょう。
モノローグとは、このようにやり取りを行っても変化が起こらないものを言いますが、一方「対話(ダイアローグ)」というものは、やり取りすることで双方に変化が起こるものであり、そこが決定的に違います。
つまり「対話」とは、「討論」のようにどちらかの一人勝ちという結末があるのではなく、また井戸端会議のように両者とも変化しないわけでもないもので、双方が新たなステージにたどり着くことができるものです。
もちろん、「量」的にたくさん経験を積んでいる人間の方が、物事を熟知している側面があることは否定できません。しかしながら、案外、その事柄について無知の素人であるがゆえに感じ取れる大切なことがあるのもまた事実です。
漱石もこのように、その道の専門家や経験者というものが、ともすれば細部にばかりとらわれてしまいやすく、むしろ先入観のない素人の方が、第一印象で直観的に本質的なものを感じ取ることができるのではないかと指摘したのです。 このように、どんな相手であっても、そこに 傾聴 すべき新鮮な感想や指摘があるかもしれないと考えることが、「対話」を行う大切な基本姿勢なのです。
人間は「未知なるもの」を恐れる性質があり、ついついそれを「既知なるもの」に落とし込みたくなるものです。分類したり、名前をつけたり、似ているものになぞらえたりという行為がそれです。ですから、人の話を聴く際にも、「それって○○でしょ」と名づけてみたり、「それは○○と同じだ」と近似させてみたりしたくなるものです(この点については、第9講でも「たかをくくること」として取り上げます)。しかし、「わからない」をそんなふうに「わかる」にすり替えてしまうと、深い理解にたどり着くことができなくなってしまいます。相手は「他者」なのですから、むしろ、そう簡単に「わかる」はずはないと思っているくらいで、ちょうど良いのです。 「わからない」を「わからない」のままに、ていねいに「わかる」まで聴いていこうとする姿勢が、「対話」には欠かせない誠実さなのです。
人は、「向き合う準備のできていないテーマ」に遭遇したときに、それを聴くことを無意識的に避けようとするものです。 「向き合う準備のできていないテーマ」とは、本人が真の意味で 自分で 考えてみたことのないテーマのことです。つまり、外部からていねいな吟味を行わないで採り入れた借り物の価値観や、できあいの常識、道徳、宗教観などで片づけてしまって、その人が自身では考えたことがなかったようなテーマのことです。 そのようなテーマに直面すると、自分の中に「答えられない」「どう返してよいのかわからない」といった不安が頭をもたげてくるので、人はそれに耐えかねて、瞬間的にその話題を遮断したくなってしまうのです。
それを考えるために、卵とひよこの 喩えを見てみましょう。 卵は硬い 殻 で 覆われていますが、これは、中が形を保てないドロドロした黄身と白身であるため、それを外部からしっかり保護するために必要なものです。 一方、卵が無事にふ化してひよこになったときには、外側はフワフワの毛で覆われ、内部にしっかりとした硬い骨格が形成された状態になります。 このように、 外側が硬ければ内側はやわらかく、 外側がやわらかければ内側に硬いものがある という逆転があるわけですが、これが人の「考え」というものについても、あてはまるのです。
生い茂る雑草の緑をぼんやり眺めているとたかをくくりそうになる どこまでも我を張るあの婆さんもいつかは死ぬだろう ぼくのしてやれることはたかが知れてる 業が深いのは生まれつきで誰にもどうにもなりゃしません。
「たかをくくる」とは、対象を固定的に捉えることです。この捉え方は、対象が変化しない性質のものである場合には問題ありませんが、刻々と変化する生き物としての人間を対象にする場合には、微細な変化を見落としてしまうことになり、不適切です。
また同じ話か」とうんざりするようなときにこそ、「なぜ、またこの話が語られるのだろうか」と考えてみる態度が必要です。その時点では無意味な反復にしか見えなくても、遮断せずに聴き続けてみることで、あるときふと、その本当の意味がしみじみとわかってくることもあるのです。
私は仕事柄、クライアントから「死にたい」という話を聴くことがよくあります。このような内容は、もっとも「聴く」ことの難しいテーマの一つだろうと思います。 私自身、以前を振り返ってみると、「死にたい」という話をされても、じっくりとその気持ちを「聴く」ことができずに、つい話をそらしてしまったり、「それは~のせいだから気にしない方がいい」とか、「それではクスリを調整しておきましょう」「でも、きっと良くなりますよ」といった発言で、つい話を遮断してしまったりしたこともありました。
このように「同意」を切り離して「理解」を目指して聴くことに徹していると、自然にその気持ちにまつわるさまざまな話が 吐露 されてくるものです。くわしく言えば、「死にたい」と思うに至った背景や気持ちや考えの推移、そして、「死にたい」という言葉の陰に省略されている部分が徐々に語られ始めるのです。「死にたいくらいにつらい気持ち」「死にたいという気持ちが消えないことがつらい」「死にたいと考えてしまう自分が恐ろしい」「死にたいなんて言ってしまって申し訳ない」「死にたい気持ちをどうにか消し去りたいけれど、どうしてよいかわからない」「死にたい気持ちもあるけれど、同じくらい死にたくない気持ちもある」等々、そこに省略されている思いにはさまざまなヴァリエーションがあるもので、ひたすらに耳を傾けて聴かないかぎり、それはわからないものです。
対象をコントロールしないということが、「待つ」ことの本質です。「待つ」とは、対象が主体的に在ることを尊重し、こちらが決してそれを操作しようとしないことです。ですから、話し手が何をいつ語るのかということについて、聴き手が選択したり意図的な方向づけを行ったりせずに、ひたすらに受け取ることが「待つ」聴き方です。
残念ながら哲学という言葉は、いつの間にか 厳 めしいイメージをまとってしまって、私たちの日常生活とは無縁なものと捉えられてしまっています。しかし、そもそも人間が生きる上で直面するさまざまな問いや悩みに対して、「借り物の考え」で処理するのではなく、ていねいに「自分の考え」を見つけていく作業こそが哲学なのです。 ただし「自分の考え」というと、何か自分一人だけでウンウン 唸って考えることのように想像されるかもしれませんが、かならずしもそういうことではありません。一人だけの考えというものには自ずと限界があるもので、むしろソクラテスが行ったように、「対話」によってともに考える方が、はるかに先の地点まで進むことを可能にしてくれるものであり、個人の限界を超えた豊かな収穫を与えてくれる可能性を秘めているのです。 -
Posted by ブクログ
一生手元に置いて読み直したいと思えるような、素晴らしい書籍だと感じました。仕事がどうして辛いと感じてしまうのか、世の中の状況や、過去の哲学者や文学者の言葉を用いて具体的に説明してくれています。
会社で働くのが何となく辛い、虚しいというのが何故なのかがはっきり理解出来ました。タイトルから、仕事の自己啓発本かと思いますが、仕事だけでなく生きることについて考えさせて教えてくれる本です。
何でも金に換算する消費社会の中で、効率と効果が崇拝されて、質は価値を失ってしまい、仕事のほとんどが単純労働化されてしまいました。こんな単純労働とすぐに消費されて消えていくものを作るために長い時間をかけて働いているのか‥、という違和感が虚しさとなってきます。
効率や効果は仕事だけでなく、日常生活も支配していき、日々を味わい楽しむという感覚が消えてしまっているんですよね。
書籍では、日常に遊びを取り戻すことを推奨しています。思考で考えて行動するよりも、身体の感じるままに行動してみる、それにより子供の頃に遊んだり探検したときに感じたようなワクワクが蘇ってきます。
本当に素晴らしい本なので、働くことに違和感を感じている方、生きるのに虚しさを感じている方はぜひ読んでみてください。
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Posted by ブクログ
COURRIER JAPON
著名人の本棚
山口周さんの推薦図書より
頭と心と身体の関係について。
ああ、良い本に出会えた。
読むとするすると思考がほぐれて、心がふわふわと軽くなっていきます。。
精神科医であり思想家でもある筆者は造詣が深く、詩、哲学、宗教などの様々な分野からの引用も多く、多面的な論ですっと腑に落ちる。
頭で認識するというより、身体に落とし込まれ染み渡るような感覚の読書体験。
引用されている古今東西のあらゆる言葉たちをこんな風に咀嚼して編み上げ、自らの論旨の説得材料にするのは素晴らしいと感じた。
本を読む、とはこうやって自在に言葉を操る域まで至ること。私はまだまだまだまだ。
読んでいて学びと思考がより深まった。
先人の考えに触れ、いつの時代も人間は普遍的な問いに悩み、考え、感じ、悟り、世界を生きているのだと感慨深い。
名付けられた病は、精神病とカテゴライズされた重苦しい苦難というよりも、あるひと時の心と身体の状況なのだなと考えると、浮き沈みに思える。
頭で考えず、心の声に耳を傾けると、きっと浮いてこれる。
十牛図は見たことがあるが、このような意味を持つのかもしれないと思うと、先人達の生きる知恵を感じる。
愛に溢れた本。
疲れた心に優しく響いていく。
思考の力はすごい。ものは考えよう。
見方を変えたら生きやすく、楽しく、軽やかに。
全日本人に読んで欲しい。