慎改康之のレビュー一覧

  • ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学

    Posted by ブクログ

     ミシェル・フーコーは絶えず変化し続けた。そのことを本書は鮮やかに描き出す。
     現代思想について、特にフーコーについての今までの紹介では、ある思想家の思想を非文脈的に紹介するものが多かった。いわば他の思想と隔絶した純粋な思想家として、反体制的な側面が強調されてきたように思う。そのことは現代思想家と呼ばれる人には共通してみられる紹介の傾向かもしれない。しかし本書はそのような紹介とは一線を画している。むしろフーコーという思想家が、彼がおかれた時代の中で自らの関心に深く分け入り、その限界を乗り越えていく仕方で絶えず変化してきたことを知らせてくれるのである。彼のその生の軌跡を刻み込むようになされた思考が一つ一つの橋頭保を築き、今こそ読むべき問いかけを含むことを明らかにしているのである。
     いきなり結論めいた評を書いてしまったが、本書はミシェル・フーコーの主著と目される著作群がどのような状況下にどのような関心をもって著されたのかを具体的な文脈とともに明らかにしてくれる本である。コンパクトなスペースにまとめられた叙述はさながらオックスフォード大学出版のVery Short Introductionsを思わせる。中でも印象的なのは『臨床医学の誕生』をめぐる記述でフーコーがハイデガーやビンスワンガーとの対話の内に実存分析に深く分け入り、そこである種の限界に突き当たり、彼の思想を展開していったことである。初めから時流と異なる主張をしたのではなく、むしろ深く分け入った末に見出したのものの一つひとつがその後の著作で彼の思想を形作っていることを知らせてくれるのである。その一つ一つが先に述べたように橋頭保を築き、私たちが現実をより深くとらえていくための手掛かりを与えてくれるものであることを本書は明らかにしている。
     日々変わり続ける現実の中で私たちが今いかなる世界に生きているのかをフーコーの思想は伝えてくれる。私たちが自明と見なしている事柄を問い直し、むしろ私たちが如何なる制約の中で生きているのかを問いかけ、生き続けたのがフーコーの生涯だったのではなかろうか。その数々の問いかけを再び受け留め、私たちの生を捉え直すことを本書は促している。救いようのない息苦しさの中に放り込まれながら、それでも息をするために魂の姿を見定めようとした一人の思想家の姿をここに見出すことができるのではないだろうか。
     現代思想家についての紹介は小難しくなりがちであるが、本書はフーコーが置かれた状況や当時の彼の関心を丁寧に掬い上げるように記されており、その叙述に複雑さはない。むしろ平易な叙述の内にフーコーがいかに複雑な問題に取り組もうとしたのかを明確に提示し、読者自身が彼の著作を読むことへと導いてくれる本である。フーコーに関心のある読者へ迷わずお勧めしたい一冊である。

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    2026年02月02日
  • ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学

    Posted by ブクログ

    岩波新書のミシェル・フーコー本当に面白い。特に第六章セクシュアリティの歴史が面白かった。全レズが読んだ方がいい。フランス哲学者界隈では一番好き。

    ミシェル・フーコー入門

    慎改康之
    【しんかいやすゆき】
    フランス思想学者、明治学院大学教授。1966年4月長崎生まれ。長崎県立長崎北陽台高等学校卒、東京大学理科二類に入学、1989年教養学部フランス科卒、同大学院博士課程退学。フランス社会科学高等研究院(EHESS)博士課程修了。明治学院大学文学部仏文科助教授、2007年准教授、教授。

    ミシェル・フーコー
    Foucault,Michel
    著者プロフィール
    (1926-1984)20世紀のフランスを代表する哲学者。1960年代からその突然の死にいたるまで、実存主義後の現代思想を領導しつづけた。主な著書に『狂気の歴史』『言葉と物』『監獄の誕生』『性の歴史』(以上、新潮社刊)『ミシェル・フーコー思考集成』全10巻(筑摩書房刊)など。

    ゴダールとかフランシス・ベーコンがミシェル・フーコーに影響受けてるらしい。

    「ミシェル・フーコーとは何者なのか──これからフーコーを読み始めようかどうかと自問している人々の頭に最初に浮かぶのは、おそらくこの問いであろう。  これは、一見したところたやすく答えられる問いであるようにも思われる。というのも、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダらとともに二十世紀後半のフランス思想を牽引したこの哲学者は、他にも増して、その強烈な個性によってしるしづけられている人物であるからだ。  剃り上げた頭、メタルフレームの眼鏡とともにすぐにそれとわかるその容貌、そしてその甲高い声。パリ高等師範学校で学びコレージュ・ド・フランス教授へと至るその輝かしい経歴。デモに参加したり、街頭で演説したり、場合によっては逮捕されたりという、社会的闘争における精力的な活動。その性的指向に伴う苦悩や歓び、麻薬の使用、さらにはエイズとの闘いなどといった、私生活における数々の逸話。そして最後にもちろん、「知」、「権力」、「自己との関係」という明快な三つの軸に沿って、狂気、病、言語、生命、労働、刑罰、セクシュアリティなどの問題を、もっぱら歴史的観点から次から次へと扱った一連の著作。このようにフーコーには、彼を識別し同定するために役立ちそうな特徴が豊富に見いだされるのであり、したがって、彼ほどその肖像を描き出すことの容易な哲学者は少ないようにすら思われる。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著


    「すでに見てきたとおり、フーコーによれば、十八世紀末に狂気は、人間の内面の次元に組み入れられると同時に、一つの客体として人間の視線に晒されるものとなる。このことを踏まえつつ彼が指摘するのは、そのようなものとしての狂気が、人間主体の認識にとって特権的な役割を果たすようになるということである。人間の主体性が自らを客観的認識にさらけ出す最初の契機として、狂気は、人間の内なる真実を外へと導くために役立つものとされるのである。「人間から真の人間へと至る道は、狂気の人間を経由する」というわけだ。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「問題をより明確に把握するために、再び『狂気の歴史』初版の序文に目を移そう。  「沈黙の考古学」という企図を提示した後、フーコーは、理性的なものと理性的ならざるものとのあいだの歴史を貫く対立に言及しながら、そうした対立の起源に㴑ろうとする自らの試みを、ニーチェ的な問いかけに接近させることになる。すなわち、文化が自らにとっての外部となるものを創出しつつ排除する動きを歴史の誕生の地点そのものに見いだしつつ、それを、ニーチェが『悲劇の誕生』のなかで描き出していた「悲劇的構造」、つまりアポロン的な夢ないし仮象とディオニュソス的な陶酔ないし苦悩との対立およびその和解から成る構造に送り返そうとするのである。狂気をめぐる歴史的探究が、「ニーチェの偉大な探究の太陽のもとに、歴史の諸々の弁証法を悲劇的なものの不動の諸構造と突き合わせる」ことを目指すものとして価値づけられることになるのだ。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「フーコーのニーチェへの傾倒は、彼自身および彼の友人たちによる数々の証言によって伝えられているのみならず、彼の研究そのもののなかにはっきりとしるしづけられている。系譜学や歴史をめぐる問い。認識および真理の問題化。神の死、そしてそこに含意される人間の死というテーマ。権力および意志に関する探究。ギリシア的生とキリスト教的生との対照。そしてそのように目に見えて明らかな負債に加えて、フーコーは、弁証法からの脱出というその身振りにおいてもやはり、ニーチェが進んだのと同様の道を歩む。ニーチェにおいて、アポロンとの弁証法的対立において示されていたディオニュソスは、後に、弁証法的否定に対立するものとしてのツァラトゥストラに合流することになる。そしてフーコーにおいては、ネガティヴなものの力がポジティヴなものの背後に追い求められる代わりに、新たなポジティヴィスムが、そうした任務そのものを問題化すべく掲げられることになるのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「 『臨床医学の誕生』によれば、当時の臨床医学にとって、病とは症状の集合にすぎなかった。すなわち、身体の表面において観察される症状の展開それ自体が、病そのものとみなされていたということだ。したがって、医学の任務とは、目に見える表層において生起する現象を観察し、それをそのまま記述することであった。そしてその限りにおいて、死体を開いてその内部に視線を注ぐという解剖学的作業は、臨床医学にとって必要とされてはいなかった。もっぱら生ける身体において時間的に展開される現象に注がれていた臨床医学的視線は、非時間的な死体空間の調査とは無縁のものだったのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「他方では、生そのものにおける死の不断の進行が、病的プロセスとは区別されるものとして発見される。死が、唯一の絶対的瞬間であることをやめて、時間のなかに分散されるということ。死は、もはや生を外から不意に襲うものではなく、生のなかに配分されているもの、生とのあいだに内的関係を持つものとしてとらえられるようになるということだ。そしてここから、そもそも生の根底には死があるという考え、生とは死への抵抗の総体であるという考えが生まれるとともに、死は、生の真理を語るための視点として役立つものとなる。死体を手がかりに病をポジティヴなやり方で解読しようという試みに対し、もう一つの正当化が与えられることになるのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「したがって、医学的視線に対し、表層から深層へという垂直の道が課されるようになったのは、それまで見えないものなどなかったところに、見えないものが、見えるものの内的骨組のようなものとして、歴史的に構成されたからである。見えるものと見えないものとのあいだに新たな関係が結ばれたということ、新たな可視性の構造が成立したということだ。フーコーが「不可視なる可視性( l’ invisible visibilité)の構造」と呼ぶその構造においては、真理が、宿命的に視線を逃れると同時にその視線を絶えず呼び求めるようなものとして想定される。逃れつつ呼び求めること、自らを隠しつつ示すことこそが、真理の本性のようなものであるとみなされるのだ。可視性の形態と真理の在り方との関係をめぐるそうした歴史的変化があったからこそ、表層から深層へ、見えるものから見えないものへ向かうという任務が、医学的真理の探究のために可能かつ必要となったのだということを、フーコーは示そうとするのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「メルロ =ポンティは、高等師範学校の心理学復習教師として、後にはソルボンヌの心理学教授として、学生時代のフーコーを大きく魅了していたという。そのメルロ =ポンティが可視と不可視の関係について深く考察しているのは、とりわけ、死後刊行の著作『見えるものと見えないもの』に収められた草稿においてである。そこでは、ポジティヴなものとネガティヴなものとが表と裏のように分かちがたく重なり合うという構造が、視覚の構造として、そしてさらには彼が「垂直性」と呼ぶ根本的な存在論的構造として提示されている。見えるものは、見えないものによって根源的に住み着かれている、というわけだ。そしてそれと同時にそこで想定されているのは、見えないもの、ネガティヴなものが、見えるもの、ポジティヴなものに対して持つ優位である。すなわち、「汲み尽くしえぬ深みの表面」であることこそが「見えるものに固有のもの」であり、これに対して見えないものの方は、見えるものが顕わにすると同時に隠蔽する「内的骨組」であり、見えるものの「潜勢力」なのだ、と。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「見えないもの、ネガティヴなものが、見えるもの、ポジティヴなものに対してある種の構成的な力を保持しているという想定のもとに、後者から前者へと赴こうと企てること。これが、五〇年代から『狂気の歴史』に至るまでフーコーが専心していた任務であった。これに対し、『臨床医学の誕生』および『レーモン・ルーセル』は、そうした任務を、後から構成された一つの可視性の形態によって要請されるものとして描き出す。見えるものと見えないもの、ポジティヴなものとネガティヴなものの関係が、根源的なものとして引き受けられる代わりに、問いに付すべき一つの問題としてとらえ直されるようになるのだ。視線から逃れ去るもの、ポジティヴな把握から失われたものを回収しようとする弁証法的任務が、こうして、その起点を失うことになるのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「フーコーによれば、十七世紀から十八世紀にかけての西洋では、光においてこそ事物がその本質に適合するとされ、見るという行為は、その光のなかで自らを消し去ることをその到達点とするものとみなされていたという。しかし十八世紀末になると、事物と視線と光とのこのような関係が根本的に変容する。以後、事物は自分自身の暗がりのうちに閉じこもり、光は完全に視線の側に移ってしまう。自分自身の明るさを頼りに事物を経めぐり少しずつ事物のなかへと侵入していくものとしての視線こそが、「事物の夜」を照らし出す役割を担うことになるのである。真理が、深みにあって目に見えないものの側へ、「事物の暗い核」へと後退すると同時に、経験的視線が至上の力を得るということ。そしてその視線を逃れ去りつつそれを呼び求める「客体の執拗かつ越えがたい厚み」を前にして、視線は、それを踏破し統御するという「終わりのない任務」に身を委ねるようになるということ。要するに、『臨床医学の誕生』本論のなかで医学に関して語られることになる問題が、序文において、西洋の知一般にかかわる問題としていわば先取りされているのだ。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著


    「したがって、見えるものと見えないものとの関係について一九六三年のフーコーによってなされた分析は、確かに、かつての彼自身が帰属していた思考の地平を標的とするものであると言えるだろう。視線を逃れ去るものにこそ、視線に対して与えられるものの秘密が潜んでいるとする想定が、歴史的に限定可能な思考の構造にもとづくものとして明かされる。そしてそれとともに、そのように逃れ去るものを回収しようとする「終わりのない任務」が、今や全面的に退けられることになるのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「そして、かつて自分が帰属していた人間学的思考の地平をこのように問いに付した後、フーコーは、そうした思考の地平がいったいどのようにして構成されたのかということを明示的なやり方で問うことになる。ポジティヴなものとネガティヴなものとの垂直的な関係は、歴史のなかでどのようにして成立したのか。そしてそこから、至上の主体であると同時に特権的な客体でもあるようなものとしての人間が、西洋の知のなかにどのようにして登場することになったのか。こうした問いに答えようと試みるのが、「人間諸科学の考古学」という副題を持つ一九六六年の著作『言葉と物』なのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「一九六六年に刊行された『言葉と物』は、難解な専門書であるにもかかわらず大反響を得て、商業的にも華々しい成功を収めることになった。  フーコーの名をついに広く世に知らしめることになった彼のこの三冊目の主著において、とりわけ注目されたのが、「人間の終焉」ないし「人間の死」という挑発的なテーゼである。「人間」はごく最近の発明品にすぎず、いずれ波打ち際に描かれた砂の顔のように消え去るであろうという、いたるところで繰り返し引用されたこの宣告とともに、フーコーは、いわば時代の寵児としての地位を確立することになる。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「フーコーはまず、ルネサンス期のエピステーメーを、「類似」がそこで果たしていた支配的な役割によって特徴づける。すなわち、そこでは、世界のあらゆる事物が類似関係によって互いに指示し合っているとみなされていたのであり、そうした類似関係の解読を次から次へと進めていくことこそが知に課された任務だったのだ、と。  これに対し、十七世紀になると、類似はそのような特権的な地位を失い、むしろ、人を欺き、錯誤や錯覚に導くおそれのあるものとみなされるようになる。つまり、古典主義時代の知にとって、類似とは、それ自体として探し求められるものではなく、同一性と差異を明確に識別するために検討に付されるべきものとなるのだ。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「まず言語に関しては、「一般文法」と呼ばれる探究が現れる。言語の本質は名指すことであるという公準のもとに、ここで問われるのは、語はどのようにして表象に名を与えるのか、そして、同時的に与えられる表象を継起的な言説によって示すために語はどのような順序で並べられるのかということである。次に自然に関しては、「博物学」。これは、あくまでも可視的な特徴にもとづいて、まず自然の諸存在に名を与え、次いでそれらを同一性と差異の体系のなかに位置づけつつ分類しようとするものである。最後に、「富の分析」。ここでの問題は、富を交換可能なものとすべく貨幣を富の記号として定めるとともに、そうした表象関係を、貨幣の総量を富の総量に対応させるというやり方によって秩序づけることである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「フーコーにとっての文学の重要性については、すでに指摘しておいたとおりである。これに加えて、絵画もやはり、彼の研究活動においてしばしば注目すべき分析の対象とされているということについて、ここで一言触れておきたい。  『狂気の歴史』においてすでにフーコーは、ヒエロニムス・ボスやブリューゲル、ゴヤなどの作品のなかに、それぞれの時代の狂気経験を描き出すための手がかりを見いだしていた。また、シュルレアリスムの画家ルネ・マグリットに対しては一九七三年に一冊の小著を捧げているし(『これはパイプではない』)、マネに関する意義深い講演の記録も残されている(『マネの絵画』)。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「見えるものと言い表しうるものとの関係をめぐる問題がフーコーにとって本質的なものであるということ。これは、ドゥルーズが、一九八六年の著書『フーコー』において指摘していることである。この問題に焦点を定めてフーコーを読み解こうとするとき、彼の絵画論は、見ることと語ることとの交叉がそこでしばしば主題として扱われているという点において、そしてそもそも絵画を論じることそれ自体が見えているものを語ろうとする企てに他ならないという点において、多くの示唆を与えてくれるだろう。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「そしてフーコーによれば、見えないものの力、ネガティヴなものの力がそのようにして承認されるとともに、そうした力によって魅惑される者、そうした力によって絶えず呼び求められる者の存在が浮上してくることになる。真理を常に取り逃すという点において自らの有限性を示すと同時に、まさしくその有限性ゆえにその真理に向かって不断に歩み続ける者としての人間、根源的に有限な存在としての人間が、ここに登場するのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「一方において、事物が常に表象の外にとどまる以上、事物を直接的に認識することはできないという意味で、人間は限界づけられた存在である。しかし他方、そのような人間の認識は、神の無限の能力とも動物の無能力とも区別される能力、人間に固有の有限な能力を含意している。つまり、人間の認識の限界を経験においてネガティヴなやり方で示す有限性の背後に、そうした経験をそもそも可能にするものとしての有限性、人間的経験の基礎にあるものとしての有限性が見いだされるということだ。  そしてまさにそのようなポジティヴな意味を獲得することによって、人間の有限性は、それ自体、人間理性にとっての大きな関心事となる。というのも、事物の後退とともに、真理はもはや自らを隠しつつ見せるというかたちでしか姿を現さなくなるわけだが、そうした真理の在り方を可能にするものこそまさしく、人間固有の有限性に他ならないとされるからだ。人間が真理を失うと同時に真理によって絶えず呼び求められるという動きに対して一歩退いたところに、そうした動きの起源にあるものとして、人間における有限性が見いだされるということ。根源的に有限なる存在としての人間に関する問いが、こうして、「あらゆる真理の真理」に関する問いとして価値づけられるのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「一方、一躍時の人となったフーコー自身はと言えば、次の著作『知の考古学』を一九六九年に発表し、彼が「考古学」と名づける自らの歴史研究のやり方についての理論的練り上げを提示することになる。いわば一九六六年の書物とともに引き起こされたさまざまな議論に応えるかたちで世に出されたこの著作において、問題となっているのは、ここでもやはり、人間学的思考からの脱出である。すなわち、フーコーは、六〇年代の一連の探究によって「人間」の登場を歴史的に跡づけた後で、今度はそのような成果をもたらした歴史研究の方法そのものを、主体の至上権から解放されたものとして打ち立てようとするのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「 『言葉と物』が刊行された一九六六年は、何より、構造主義の最盛期であった。  すでに一九五〇年代後半より、人類学者クロード・レヴィ =ストロースや精神分析学者ジャック・ラカンらの仕事とともに、主体の外から主体に課されるものとしての「構造」の概念は、それまでフランスを支配してきた主体性の哲学にとっての大きな脅威となりつつあった。語る主体の自発性に訴えることなく言語を扱う「構造言語学」から着想を得た探究、人間の主体性を拠り所としないような探究が、民族学、精神分析学、文学などさまざまな研究分野において提示され始めていたのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「しかし、そのように大々的な歓迎を受ける一方で、一九六六年のフーコーの著作は、新たな思潮を受け入れがたいものとしてとらえていた人々からは激しく糾弾されることになった。  ただちに現れたのが、マルクス主義者からの反応である。すなわち、マルクスを他の経済学者とともに十九世紀のエピステーメーのなかに位置づけつつ、マルクス主義はいかなる現実的切断も生じさせることはなかったとするフーコーの分析が、「反歴史的偏見」にもとづくものとして断罪されたのだった。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「そしてそうした探究のなかで諸々の科学が検討に付されるとき、幾何学ないし数学の歴史は、一つの極めて特殊な例でしかないことが明らかになるだろう。実際には、あらゆる科学が数学と同様の連続性を示すわけではない。数学の歴史は、決して一般化されうるものではないのだ。他の科学の歴史を考えるためのモデルとされるとき、数学はむしろ、歴史のあらゆる形態を安易に等質化してしまう危険を孕むものとして現れることになるだろう。幾何学ないし数学は、フーコー的な探究においては、諸科学の歴史を分析するための範例的な価値を持つどころか、一つの「悪しき例」に他ならないのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「一九七五年の『監獄の誕生』は、歴史学者たちの一定の沈黙や左翼からの慎重な反応はあったにせよ、大きな成功を収めた。とりわけ、身体刑の情景描写やパノプティコンのメカニズムに関する記述は、さまざまな著者によってたびたび引用されることになったのだった。  そしてその翌年、フーコーはただちに新たな著作を世に出す。それが、『性の歴史』第一巻『知への意志』である。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「性に関して抑圧を取り除くことの重要性、性の解放をもたらす必要性を強調する際、人々が拠り所としていたのは以下のような仮説であるとフーコーは言う。ヨーロッパでは、十七世紀初頭まで、性の自由が享受されていた。しかしその後、資本主義の発展などに伴い、性は、夫婦を単位とする家庭に閉じ込められ、もっぱら生殖のために役立つものとしてのみ許されるようになった。そしてそれと同時に、結婚の外での性の実践は、非難され、禁止されることになったのだ、と。  こうした「抑圧の仮説」を、フーコーは次のようなやり方で問い直そうとする。性に関する禁止や排除が事実であるとしても、それにしても我々はなぜ、かくも声高に性の抑圧を告発し、解放が急務であるとかくも執拗に訴えるのか。むしろ、もっぱら言説の産出という点に注目するならば、性の抑圧ではなく、何世紀にもわたる性の傓動を見いだすべきではないのか、と。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「セクシュアリティとはいったい何か。それは、性の言説を傓動する「装置」によってどのようにして産出されたのか。そしてそれは、性をめぐる権力の戦略のなかにどのように位置づけられうるのか。こうした問いに対してフーコーは、一方では『監獄の誕生』ですでになされていた「規律権力」の分析をとり上げ直すことによって、そして他方では、一九七六年の著作において新たに見いだされるもう一つ別の形態の権力について考察することによって答えようとする。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「まず、『知への意志』が、『監獄の誕生』においてなされた「規律権力」をめぐる分析をどのように引き継いでいるのかについて見ていこう。  性の告白およびセクシュアリティの産出に関してまず問題とされているのは、個人化のメカニズムである。告白は、権力が一人ひとりの個人を客体として構成する手続きの核心にあるものとして扱われる。そしてセクシュアリティは、権力によって一人ひとりに組み込まれる個人性のようなものとされる。つまり、一九七五年の著作が「規律権力」の効果として描き出したメカニズムが、新たな領域に関する探究のなかで正確にとり上げ直されているのだ。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「フーコーによれば、セクシュアリティの装置による「従属化」の作用は、種々の性的な自己同一性に繫ぎ止められた主体の構成を可能にしただけでなく、そこから出発して、主体の真理そのものをめぐる探究のための起点を提供することにもなったという。性は我々にとってかくも重要かつ秘められたものである以上、性こそが、我々自身の最も奥底にある秘密を明かしてくれるのではあるまいか。つまり、性について語ることによって、今度はその性が、我々の真理を語ってくれるのではないか、というわけだ。  こうして、人間主体に関する知が、それもとりわけ、主体における因果性や主体の無意識など、主体において主体自身が知らないことについての知が、性をめぐる言説のなかで形作られていく。「主体の学」が、性の問題を中心として繰り広げられるようになるということだ。性こそが「我々の真理を闇のなかで握っている」とみなされることで、性の真理が、いわば我々自身の真理の真理のようなものとして価値づけられるようになるのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「そしてそうしたやり方を用いることで実際に成果を挙げたものとして挙げられるのが、「同性愛」をめぐる性解放の運動である。  フーコーが、一九六〇年代末以来、社会的闘争に自ら積極的に参加するようになったということについては、すでに述べておいたとおりである。 GIPの主宰をはじめとして、彼は実際、人種差別反対の集会やデモに加わったり、さらにはスペインや東欧の反体制派を支援したりといった、さまざまな活動に身を投じていた。しかしその一方で、彼は、性解放運動に対しては常に消極的な態度を保っていた。自分自身の性的指向を隠そうとするわけでもなく、かといってそれを声高に訴えるわけでもなく、そうした運動から一定の距離を置こうとするフーコーの身振りは、『知への意志』をバイブルのようなものとして、またその著者を「聖人」のようなものとして崇める活動家たちの熱狂と、際立った対照をなすものであった。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「解放運動による戦術上の逆転は、状況を打開するための突破口とはなりうるとしても、権力関係に根本的な転換をもたらすには至らないということ。したがって、セクシュアリティの産出によって機能する権力に対して抵抗するためには、セクシュアリティそのものに対して闘いを挑むことが必要となるだろう。特定の性的欲望を抑圧から解放しようとするのではなく、自分自身のなかに組み込まれたセクシュアリティから自らを解放しようとすること。一つのセクシュアリティに縛りつけられること、一つの自己同一性のなかに閉じ込められることを、徹底して拒絶すること。要するに問題は、個人を一つの真理ないし一つの魂に繫ぎ止めつつ支配を強化するものとしての「従属化」の権力に抗うことなのだ。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「ところで、そのようにセクシュアリティという概念そのものを根本的に問題化しつつ、それを批判的に検討することこそまさしく、『知への意志』におけるフーコーの企てそのものに他ならない。そうである以上、『性の歴史』を書くことそのものがすでに、一つの闘いであるということになろう。性をめぐるフーコーの言説は、それ自身、個人をそのセクシュアリティに繫ぎ止める権力に対する一つの闘いであり、「従属化」の戦略に対する一つの挑戦なのだ。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「これに対してフーコーは以下のとおり異論を唱える。まず、性に対する厳格さという主題は、実は、古典期ギリシアにおいてすでに見いだされるものであるということ。次に、それでもやはり、紀元一世紀および二世紀には、性に関する考え方に大きな変容が生じるということ。そして最後に、キリスト教道徳と異教の哲学とのあいだには、形態上の類似にもかかわらず、決定的な差異があるということ。  したがって、古代世界において性を問題として扱うやり方が変化していくプロセスを、従来とは異なるかたちでとらえ直すことが必要となる。そうしたとらえ直しの作業を、フーコーは、三つの巻において順に進めていくのであり、それによって、欲望の主体と呼びうるような何かがどのようにして登場することになるのかという問いに答えようと試みるのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「そして少年愛については、成人男性における少年との肉体関係の断念という主題が知られている。このように、ギリシア人にとって、性はすでに、それをどのように使用すればよいかと問うべき道徳上の一つの問題として価値づけられていたのである。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「実際、過度の性行為を避けるのは自分の身体への配慮のためであり、妻以外の女性と交わらないようにするのは自分自身および妻に対する支配を確固たるものとするためであり、少年愛における肉体関係の断念は少年の将来の地位に対して敬意を払いつつそこに至上の精神的価値を付与するためであった。要するに、ギリシア人にとって、性に関する節制とは、自分自身の統御というかたちで自らの自由を行使することとしての、一つの「生存の美学」を実践に移すことだったのだ。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「かつて自分の魂が知っていた真理を思い出すべく自己に配慮すること。真理を外から学びそれを自分のものとすることによって自己をよりよく支配すること。自己を捨て去るために自己の秘められた真理を絶え間なく解読すること。自己と真理との関係と、自己を気遣うやり方とが、古代世界においてこのように相関的なやり方で変化していくのだということを、フーコーはその八〇年代の探究のなかで示そうとするのである。  そしてそうした探究を進めていくなかで、フーコーは一つの概念に出会うことになる。一九八一―八二年度のコレージュ講義『主体の解釈学』に初めて登場し、翌年度の『自己と他者の統治』および翌々年度の『真理の勇気』では中心的主題として扱われることになる概念、それが、「パレーシア」である。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「そして、フーコーの研究活動を特徴づける以上の二つの側面に焦点を定めた考察を進めるなかで、浮かび上がってきたものがある。やはり彼の研究全体を貫くものとして見いだすことのできるそのもう一つの特徴、もう一つの側面とはすなわち、主体と真理との関係の問題化である。  とくに晩年の対談のなかで、フーコーは、主体こそが常に自分の大きな関心事であった、とたびたび口にしている。実際、主体と真理との関係の問題化は、彼において常に、自己からの絶えざる離脱を導くものとして、そしてそれと同時に、そうした離脱によって絶えず刷新されるものとして現れる。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

    「書くことと同様、読むことは、自分自身からの脱出のための主要な契機である。読書という体験がかけがえのないものとなるのは、自分がすでに持っている知識に新たな知識を上積みしたり、ましてや自分がすでに考えていたことを再び見いだして安心したりするときではなく、自分の見知らぬ世界が開かれて目がくらむときであり、自分に馴染みのない思考に巻き込まれて途方に暮れるときであるということを、フーコーの書物はあらためて我々に思い出させてくれるのだ。」

    —『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学 (岩波新書)』慎改 康之著

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    2026年01月10日
  • ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学

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    序盤が少し難しいものの、最新研究に基づいたバランスの良い入門書。
    フーコーについて書かれた新書の入門書は数あれど(いま買えるものだけでも5冊?)、とりあえず一冊だけ選ぶとすれば「これだろう」という感じ(2025年時点)。
    フーコーの代表作を順に追っていく構成なので、一冊一冊の掘り下げはないものの、代わりに思想の変遷が明確で小気味よいです。
    フーコーは、強面な風体、グロテスクな描写(監獄の誕生)、人間の終焉(言葉と物)といった強烈な印象の思想家ですが、実際は超然とした哲学者のイメージからはかけ離れていて、最後には切実で繊細なテーマに向かっていった…という印象を受けました(読みながら泣きそうになってしまった…)。
    「自分が誰であるか、何者なのかを尋ねないでほしい」と言ったといいますが、(発言の意図とは別に)どこか寂しさを感じさせる言葉ではないでしょうか。
    ニーチェの系譜学に強い影響を受けながらも超人思想とは全く別の方向へ歩んでいったところなど、フーコーの「人間」性をよく現している気がします。

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    2025年09月26日
  • 性の歴史IV 肉の告白

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    フーコーの最後の主著の最終巻が死後30年以上たって、ついに出版され、日本語で読める。これだけで、⭐️は5つは決まったようなもの。

    「性の歴史」の1巻の「知への意志」で提示されたいわゆる「生政治」「マイクロポリティクス」などなどの概念と「性の解放」に関する言説の分析の鮮やかさは、圧倒的であった。

    この話しが、どう展開するのか、期待していたところにでてきた2〜3巻は、なぜかギリシア、ローマ時代の話になって、一般的な性の歴史の記述としては興味深くあるものの、フーコーに期待していたものとは、ちょっと違う感じ。語り口も、なんだか平易で、淡々としていて、死を目の前にしたフーコーの最後の枯淡の境地かな?みたいな感じで、ちょっとはぐらされた感じがあった。

    その後、コレージュ・ド・フランスなどでの講義録がでてくることで、76年の「知への意志」以降のフーコーの思考プロセスの一旦を知ることができ、ギリシャ、ローマ時代を検討していくなかで、フーコーが「主体」というテーマに関心を移して、スリリングな思考を繰り広げていたことがわかってきた。

    それでも、結局、「性の歴史」はどうなっちゃたのかというのは、ずっと気になっていた。

    それが、日本語で読めるのだから、これはやっぱりすごいこととしか言えない。

    さて、内容であるが、正直言って、最初の100ページくらいまでは、ちょっと退屈な感じ。2〜3巻でのギリシア、ローマ時代における性の記述もそこまでエキサイティングなものではなかったけど、それでも、ヘ〜この時代はそんな感じだったんだね〜という興味はわく内容であった。が、キリスト教的な禁欲性が強まってくると、ギリシア、ローマの延長的なところもあるのだけど、読んでて、なんだか辛くなってくる。

    それでも頑張って読んでいくと、「処女」「童貞」の話しになって、いわゆる夫婦間の性行為の関係の議論に展開し、徐々に話は面白くなってくる。

    そして、最後は、アウグスティヌスの議論に流れ込んでいって、ここは、なんとも感動的というか、さすが、な展開。

    細かい議論は、省略するが、ここではアウグスティヌスによる人間の「意志」ということ、そして「リビドー」といった概念についての議論が展開されていく。

    なんとアウグスティヌスのリビドー論が、第1巻で議論されていた精神分析の話しに10数世紀を跨いで、繋がっていくんだ。

    第1巻での議論が、こんな形で回収されていた、まさにここで「性の歴史」が完結したのだと感銘をうけた。

    そして、アウグスティヌスの議論は、多分、ハンナ・アーレントのこれまた未完で終わった「精神の生活」の議論にも繋がっていくし、中動態、つまり文法的な主語=主体の問題にもつながるはずで最近の関心事にもずばり当たってしまった感じ。

    まだまだ、理解できていないことも多い。第1〜3巻も含めて、読み直ししつつ、もう少しこの世界に浸っていることにする。仲正さんの「講義」も時を同じくして、出ていることだし。

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    2023年09月17日
  • 言説の領界

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    学生のときに中村雄二郎訳で読んだが、あいまいな表現に煙に巻かれた読後感が印象に残っている。正直、内容を理解できたとは言えなかった。
    この新訳はずいぶん印象が異なる。明晰でやさしい。以前よくわからなかったことについて腑に落ちたところがいくらかあった。半分近くを占める解説も助けになる。

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    2015年02月19日
  • 知の考古学

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    総合書?全て?そういう印象。理解が追いつかない。追いつかないなりに読み進めていた。
    科学とか歴史とか医学とか文学とかイデオロギーとか、絶対化とか相対化とかそういう既存の区別や方法を一旦無化するというか、俯瞰するようなスタンス……なのかな。構造主義的な。
    意味が無い、などと言って私たちは悩んだり笑ったりします。しかしながらそれらのすべての事象には意味が無いわけではありません。意味があるけれども、意味があることには意味が無いのです。(←ちょっとよくわかりません)

    松岡正剛氏が言っていたことそのものだな。テクストが作られるということは、ある個人としての著者が書くというよりもずっと総合的な営為なんだな。相互編集的。

    削ぎ落すと、読んだり書いたりすることって何なんだろうね、っていう本かなとも。読み書きについて(ついて、っていう場合はそれを上から見下ろすことになるね)、フーコーさんかなりタイヘンなお仕事されてますね。妥協を知らないのかな。“真面目さ”の究極体か?

    おもしろかった。時を経てまた読もう。

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    2013年05月28日
  • 知の考古学

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    ネタバレ

    普段、私たちは現在の知識を基準にして過去を見ることが多い。例えば、昔の医学で水銀が薬として使われていたことについても、「昔の人は水銀の危険性を知らなかったため間違った治療をしていた」と考えてしまう。しかしフーコーが見ようとするのは、現代の基準から過去の知識を否定することではなかった。その時代の知識の体系の中で、なぜ水銀が治療に用いられるものとして考えられたのかを考えるのである。それは当時の医学や物質への理解の中では一定の合理性を持った知識として成立していた。そして、解釈と言説形成の分析の違いについて。解釈とは人や文章の内側を見ることであり、「この人は何を意味していたのか」「なぜそのように考えたのか」を理解しようとするものである。一方、言説形成の分析では、人や文章を可能にした外側の条件を見る。「なぜ、この発言がその時代に知識として成立できたのか」という問いである。例えば、水銀を薬として使用していた医学者について考えると、解釈ではその医学者がなぜ水銀に治療効果があると考えたのかを理解しようとする。しかし分析ではそのような考え方が医学的知識として認められるための条件を見る。どのような病気の理解があり、どのような分類や考え方の中で、その知識が成立していたのかを分析するのである。知の考古学は、知識を人間が少しずつ真理へ近づいてきた結果として見るのではなく、それぞれの時代に存在する知の枠組みや条件によって成立するものとして捉える試みについて書かれている。読んでいて難しい部分も多かったが、過去の知識が現在の知識に向かう途中の未完成な段階だったという見方ではなく、それぞれの時代の知識がどのような条件の中で成立していたのかを見るという視点を得た。今の私たちの基準や解釈だけで過去を判断せず、過去から現在までを一つの連続した進歩として捉えるのでもなく、それぞれの時代の知識を、その時代の体系や成立条件の中で見るということなのだと思う。本を読む上で解釈より進んだ理解を得るために必要な知識だと思った。

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    2026年08月09日
  • ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学

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    「哲学100の基本」を読んだ後なので、少しは哲学に対する理解が進むかと思い読んでみたが、やはり難しかった。そもそもフーコーの当初よって立っていた「人間学」というものが何なのかが全く理解できなかったので、その後のフーコーの過去の自分の思想からの脱却という流れが理解できないまま読み終わってしまった。ただし、フーコーの考え方が歴史を残されてい文献からありのままに受け止め、そこから人間の言葉と考え方の変遷を客観的に捉えるという「考古学」という考え方と、それにより「狂気」「死」「性」などが人間にとってどのように変わっていきそれが現代にどのような影響を与えているのかということを「権力」の観点から考えるというのは非常に興味深い考察だった。

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    2023年07月02日
  • ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学

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    知的8
    かかった時間3時間半くらい

    フーコーの入門書。彼の思考の変遷を、代表的著作をとおして追っている。
    筆者がかなり頭のいい人で(そりゃそうだ)、フーコーを貫く、既存の思考を疑うやり方と、自身を新しいものごとに向けるやり方を軸にしつつ、年代ごとの問題意識について概観してくれているので、わからないながらもわかりやすい。
    個人的には「前フーコー的な50年代」への言及があり、そこを覆す形で「人間性の絶対視」への疑念が生まれて、それが社会制度などによって人為的に生まれたものだという変化が鮮やかで(フーコーでよく紹介される考えかたでもあるし)楽しかったが、性とか自己に関心が向いていくあたりもおもしろかった。なんとなく当たり前の感覚だと思っている「自分を知る欲望」にもバリエーションがあるんだなあ。

    というか今さらだけどフーコーって早くに亡くなってるのね(しかもいまWikipediaみたらエイズだったのか)。あと20年生きてたら、とか思うよね。理解できるかはともかくとして。

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    2021年04月21日
  • 性の歴史IV 肉の告白

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     ミシェル・フーコーの「性の歴史」第4巻が出たという事実をネットショップで発見したときは本当に驚愕した。「性の歴史」1巻から3巻については、今から30年も前に、20歳辺りの私が大事に読み返し、ことに第1巻は何度も何度も再読した当時の愛読書だったのである。フーコー自身の死によって未完の書物として打ち切られたものと思っていたのに、その続刊がまさか今になって発行されようなどとは、夢にも思わなかった。
     本書の訳者解説を読んだところ、フーコーは死ぬまえに、未公刊の遺稿は勝手に出版しないように、などと指示していたということだろうか。それがよくわからぬ経緯によって2018年にフランスで結局刊行され、邦訳が昨2020年12月に出たのである。
     本書「性の歴史」第4巻は、フーコーの死(1984年)の時点で既に書き上げられており、もうじき出版の筈であったそうだ。従って、本書はメルロ=ポンティの遺稿メモをまとめたようなものとは異なり、完全に記述された完成した書物である。
     読んでみると、この第4巻こそが「性の歴史」のシリーズ名にふさわしい、と思わせるものであった。
     3世紀から5世紀辺りの、初期のキリスト教のテクストを探索して、処女・童貞性とか結婚とかの概念の形成をとらえてゆこうとする。「文献学者」であったニーチェにヒントを得たと思われるフーコーの得意の「考古学」の手法である。
     西洋文化の初期において自己および他者をいかに管理しようとしたかが探られているようだ。
     この原初の状態の把握によって、実は現在の社会の諸事象に対峙するための知を得ようとしているのだと理解したい。
     とはいえ、これは3ー5世紀の西ヨーロッパのキリスト教関係の言説プロセスを追うという極めて限定的な仕事であって、そうした「知の原初的形態」としては、フーコーが手がけなかった中国史、インド史、あるいはまた別の文化の歴史・・・といった膨大な各領域において探究が残されている筈だ。
     こういうのを読むと、セネカなどもフーコー風の読解法で読み込んでみたくなってくる。と同時に、「性の歴史」の1巻から3巻もまた読み返したくなったのだった。

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    2021年03月07日
  • 言説の領界

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    本書はミシェル・フーコーによるコレージュ・ド・フランス開講講演(1970年12月2日)を収録したものである。
    フーコーにとっては彼の関心が1960年代の「知の考古学」から1970年代の「権力分析」へ転換の画期となった講演であるという。
    この講演記録はそれほど長くないので割とすぐに読めるのだが、フーコーの説明がちょっと難しいのと切れ目なく次の議論に入って行ったりしているので多少分かりづらい部分もあるのだが、懇切丁寧な解説があるので読者にとって理解しやすいものとなっている。

    人が話す言葉(フーコーは「言説」という)についてフーコーはある仮説を立てる。
    「あらゆる社会において、言説の産出は、いくつかの手続きによって、すなわち、言説の力と危険を払いのけ、言説の偶然的な出来事を統御し、言説の重々しく恐るべき物質性を巧みにかわすことをその役割とするいくつかの手続きによって、管理され、選別され、組織化され、再配分されるのだ」
    つまりわれわれが発する言葉は全く自由に話されているわけではなく、「いくつかの手続きによって、管理され、選別され、組織化され、再配分され」ているということである。
    そして、西洋社会では「排除」「制限」「占有」の三つの手続きが言説の産出を管理しているという。

    「排除」では、言説を禁止する「禁忌」があり、また理性と狂気を区別した上で「狂気」を排除する「分割と廃棄」があり、さらに知への意志に基づき真と偽を分割する「真理への意思」があるという。この中でフーコーは歴史的に形作られ、制度的に支えられ継続し言説に対し圧力を加えている「真理への意志」を最も注目し今後の研究対象になっていく。
    「排除」が外的手続きであるのに対し、内的手続きとしての「制限」では、「注釈」「作者」「研究分野」の原理が言説の産出を抑え矮小化し拘束する機能を果たしているという。
    「注釈」の原理は言説にレヴェルの差を設定し一方を他方の反復とみなし語られる内容の新しさを制御するといい、「作者」の原理は「作者」とそれ以外を設定することで意味や統一性や整合性の起源を問うものとして区別しているという。「研究分野」の原理は先の二者とは対立するもので、他者には開かれているものだがその研究分野の要請には従わない言説は許容されず打ち捨てられるため、やはり言説の産出の限界を定めるものだという。
    「占有」では、語る主体が所持すべき資格、その言説に伴うべき身振りを定める「儀式」のシステム、それから言説の産出を自分たちの秘密として保持したまま行う「言説結社」のシステム、また、語る主体をある種のタイプの言説に従属させ他のタイプの言説を禁じるとともに特定のグループに従属させることで属する人々と他を区別するという「二重の従属化」を行う「教説」のシステム、さらに教育が「占有」を維持し変更を加えるシステムとなっていて、これらが互いに結びつき絡まっているという。

    そしてフーコーは、これら「排除」「制限」「占有」は西洋哲学思考である「創設的主体」や「根源的経験」や「普遍的媒介」を通じ強化してきたのではないかという疑念を表明する。
    現実性における暴力的で非連続的で好戦的で無秩序な言説を恐れを抱き、取り除くために哲学が一定の役割を果たしてきたのではとしている。
    このような言説に対する恐れを、「その条件、その作用、その諸効果に関して」分析することが今後の彼の研究テーマだと彼は宣言するのである。

    この分析における彼の取組みとして次の4つの原則が示されている。
    まず第一は「逆転」の原則で一見ポジティヴに見える役割であっても排除や制限などネガティヴな作用を認めること、第二は「非連続性」の原則で連続的なものの中で沈黙した潜在的言説を非連続的な系列のもとに探すことを禁じること、第三は「種別性」の原則で言説を世界のあらかじめの意味の中に解消せずに自らに固有の規則性を持つ種別的な出来事として扱うこと、第四は「外在性」の原則で言説から内部の隠された核に向かうのではなく言説の外的な可能性の条件に向かうこととする、という4つの原則である。
    そしてこの4つの原則に従うということは、伝統的な思想史とは対立するもので、現代の歴史学と共鳴するものであるとしている。
    「思想史のなかに生じさせようとしているほんのわずかなずれのうちに、すなわち、言説の背後にあるかもしれなぬ表象を扱うのではなく、言説の出来事の規則的で非連続的な系列として扱うことのうちに、小さな(そしておそらく耐え難い)一つの仕掛けのようなものが認められはしまいかと私は考えています。すなわち、偶然性、非連続なもの、物質性を、思考の根底そのものに導入することを可能にする一つの仕掛けのようなものが、そこに認められはしまいか、と。」

    最後にフーコーは今後の分析について二つの総体に従って配置されるという。
    「批判的」総体では逆転の原則に従い、排除、制限、占有といった言説の産出を管理するシステムを分析することとし、とりわけ真理への意思を当面のテーマにするとしている。
    「系譜学的」総体では言説を管理する手続きがどのように形成されたのかを明らかにすることとし、とりわけセクシュアリティや遺伝などにかかわる言説を扱うとしている。
    そしてこの二者は互いに支えあい補うものであるとし、言説の産出というポジティヴな効果と言説に対して及ぼされるネガティヴな作用とを、互いに不可分のものとして明るみにだすことが今後の仕事であるとしている。

    その後の彼の研究成果を辿ればおおむねこの宣言通りになっていると思われ、この講演からは彼の新たな船出に際しての高揚感も感じられる。
    20世紀の世界を代表する偉大なる知の巨人の決意表明を聴けたようでなかなか良かったと思う。
    またフーコーの仕事を読んでみたい。

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    2020年10月11日
  • 知の考古学

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    知の考古学
    (和書)2011年02月02日 20:45
    1995 河出書房新社 ミシェル・フーコー, 中村 雄二郎, Michel Foucault


    通読だけしてみました。

    読んでいる間は頭がスッキリして何かが明確化されそうな印象を受ける本でした。ただ何処かここが凄いとか感じる訳でもなく、良い緊張感を読書中にかんじる、そういう類の本でした。

    『臨床医学の誕生』だけ主要書では読んでいないようなので何処かで手に入れて読みたい。

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    2020年09月27日
  • ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学

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    フーコーの著作と主張の移り変わりを西洋知の文脈を踏まえて、端的にまとめている。

    最後にある通り、彼の問題意識は「主体と真理」の関係の問題化にあった。

    『言葉と物』で人間の有限性への覚醒を促す。人間を基礎づける無意識なようなものはないのだ。

    『知の考古学』で歴史の連続性の否定と歴史解釈の拒絶を通して、人間主体の至上権を打ち倒す。宗教やイデオロギーへの対抗か。

    『言説の領海』では、言説に拘束力を及ぼし、言説を希少化するようなシステムがいたるところに存在している、と説く。同書では、生を抑圧する権力のあり方が検討されたが、逆転して、生を規制しつつ促す、権力のポジティブな面が『監獄の誕生』で扱われる。

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    2020年08月18日
  • ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学

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    副題「自己から抜け出すための哲学」というワードに惹かれて購入したが、フーコー自身が人間学的思考から離れるプロセスが見事に描かれた良書。

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    2020年08月10日
  • ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学

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    コンパクトに、思想の変遷を時系列に、代表作の内容とその相互のつながりの解説をとおして紹介してくれている。フーコーがはじめての人にも、読んだことある人が改めて読み直すための入り口としても、とてもいい入門書なのでは。

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    2020年05月26日
  • 言説の領界

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    非常に短い本だが、コレージュ・ド・フランス講義シリーズのしょっぱなに行われた講演の記録らしい。時期は『知の考古学』から権力をめぐる考察へと重心が移っていく時期で、「管理される言説」という、興味深いテーマで話が進められてゆく。
    フーコーによると、少なくとも西欧社会においては、人間たちの<言説>は常に社会によって制限され、抑制されている。こうした権力下の<言説>の背後にあるものは何か。言説結社とか教説のグループという面白い概念を、フーコーは持ってくる。
    その後の「権力」の分析は、あとの著作や講義録で展開されることになる。
    個人的には、社会的に(共同的に)「管理された言説」というこのテーマを、社会的に「管理された音楽」という方向に敷衍して想像してみると、面白そうな気がした。もちろん芸術「作品」とディスクールは違うのだが、少なくとも表徴的には、「芸術作品」もまた、その場その場の「体制」(国家のではなく、諸階級、グループ、派閥等のそれ)によってコントロールされ、選別され、統制されている面もあるように思えるのだ。

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    2014年12月31日
  • 知の考古学

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    ネタバレ

    新刊のミシェル・フーコー(慎改康之訳)『知の考古学』河出文庫、ざっくり読んだ。連続的歴史と解釈的分析を拒絶するひとつのマニフェストと言ってよい現代の古典ですが、翻訳も素晴らしく(中村雄二郎訳も悪くはないと思うけど)、文庫収録を言祝ぎたい。手軽にアクセスできるのがよい。

    ちなみに、『知の考古学』の訳者・慎改康之先生によるフーコー『ピエール・リヴィエール』も文庫化、知らない間に、ドゥルーズの『差異と反復』、『フーコー』も河出文庫化されていた。前著は単行本で大枚をはたいたわけだけど、まあ、よろこぶべしですね。

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    2013年08月06日
  • 性の歴史IV 肉の告白

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    ここまで、ナメクジが這うように膨大な時間をかけて、断続的に『性の歴史』全四巻を読んできたが、残念ながら僕にはフーコーが何を言いたいのかピンと来なかった。というか、はっきり言ってつまらなかった。
    ということで、以下の感想はほとんどの人にとって何の参考にもならないだろう。/


    フーコーが何を言いたいのか分かっていないのだから、批判などできようはずもないが、それでも若干の不満が心に残った。
    フーコーは、本書で「欲望の解釈学」を展開するにあたって、2〜5世紀のキリスト教教父たちの文献を分析しているが、それは何故なのだろう?
    世界にはたくさんの宗教が存在し、その構成は次のとおりだ。

    1. キリスト教:約24億人 (世界人口の約32%)
    2. イスラム教:約18億人 (世界人口の約25%)
    3. ヒンドゥー教:約11億人 (世界人口の約15%)
    4. 仏教:約5億人 (世界人口の約7%)
    5. 無宗教:約12億人 (世界人口の約16%)

    もちろん、フランスではキリスト教が一番多いだろうが、世界的に見れば、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教などの歴史の分析も必要だったのではないか?
    あるいは、旧ソ連や現代中国の社会主義や共産主義国家における状況だっておさえておくべきだったのではないか?
    フーコーは、次のように書いている。

    【真理の義務は、信仰として、そして告白として、キリスト教の中心にあるということだ。「コンフェッション」という語の伝統的な二つの意味〔罪の告白と信仰の宣言〕は、そうした二つの側面をカバーしている。(略)
    もちろん私は、キリスト教において信仰として理解された真理の義務の問題は脇に置いたままにして、告白として理解され、過ちと救済のエコノミーにおいてその効果を得る真理の義務のみを考察するつもりである。しかし、それら二つの側面のあいだの関係は、絶えず思い起こされねばならないだろう。そしてそれはまさしく、過ちについて「真を語る」ことが、キリスト教において、罪の告白を求める宗教(略)の大多数に比べておそらくはるかに重要な位置を占め、いずれにせよはるかに複雑な役割を果たしているということを、常に強調する必要が生じるであろうからだ。少なくとも、ギリシアおよびローマの宗教と比べて、キリスト教は、その信者たちに対し、自分自身について「真を語る」という義務を、その形式においてはるかに高圧的なものとして、その内容においてはるかに多くを要求するものとして課したのである。
    そうした「真理陳述」の新たな諸規則を通じてこそ、キリスト教において肉に関して語られたことを理解しようと試みなければならないのだ。】/


    フーコーはギリシア、ローマとは比較したと言うが、それならイスラム教やヒンドゥー教はどうなのか?
    キリスト教だって数多の宗派があるだろうし、それらの教義は千差万別なのではないか?
    世界の戦争や地域紛争の多くが宗教に起因している中で、たかがヨーロッパだけの宗教の歴史を分析して、これが(世界の)『性の歴史』ですなどと、フーコーにだけは言ってほしくなかった。
    同じくフーコーの『狂気の歴史』は「古典主義時代における」との限定がつけてある。
    今回も同様に、「初期キリスト教における」という限定をつけるべきではなかっただろうか?


    ほらほら、おじいちゃん、解説読むのまた忘れてるよ。
    「キタ――(゚∀゚)――!!」
    だから、そこじゃないって!

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    2025年06月16日
  • 言説の領界

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    この本に限っては、上記星三つの評価は本の評価では全くなく、当方の能力を超えていて理解が進まなかったため、5分の3理解できていればいいなあ、という個人の希望的評価。分かる人が読めばおそらく6つ、7つ星なのだろうと思う。コレージュ・ド・フランスの講義だから当然だが、読み手である私の能力不足がこれでもかと明らかになる読書だった。加えてやはり、ダイレクトに日本語にならない語彙が多いように見え、たとえば主題になっているdiscoursと「言説」という日本語から受ける印象と範囲が、個人的には異なっていたりして、文章を多少離れた位置から眺めつつ読み進めたという印象。
    本筋ではないが面白いと思ったのは、「算術は等しさの関係を教えるから、民主的な都市のために役立ちうる。一方で寡頭制においては、不平等の中での釣り合いを明示する幾何学だけが教えられるべきだ」というギリシアの古い原則。なるほど。
    もう一つは、前人未到の外部の空間において真なることを語ること、について。科学の世界で真なることを語っても(ここではメンデルの例が挙がっている)、当時の生物学的言説が従っていたのは、メンデルが従っていた規則ではなかった。メンデルの命題が正しいものとして現れるためには、、生物学において尺度が完全に変化し、対象のまったく新しい見取り図が展開されるようになる必要があった、という点。同時代にまったく新しい概念が理解されるためには、その時代の人びとが持ち、従う旧来の尺度の変化が必要だということだ。
    次元はまったく違うけれど、フーコーの他のディスクールをしっかり理解し、その中に身を置かねば、この本に収められたディスクールもきちんと理解するのは難しい。勉強しよう。

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    2024年02月11日
  • ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学

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    ミシェルフーコーという哲学者が何をどう考えてきたかということについて、時間軸順に学べる本だった。論旨はなんとなく理解できたが、細部については話についていけず自分自身の勉強不足を痛感した。
    星については、読んで良かったがどう評価すれば良かったのかわからないので真ん中の3とした。

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    2023年05月23日