慎改康之のレビュー一覧
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フーコーの最後の主著の最終巻が死後30年以上たって、ついに出版され、日本語で読める。これだけで、⭐️は5つは決まったようなもの。
「性の歴史」の1巻の「知への意志」で提示されたいわゆる「生政治」「マイクロポリティクス」などなどの概念と「性の解放」に関する言説の分析の鮮やかさは、圧倒的であった。
この話しが、どう展開するのか、期待していたところにでてきた2〜3巻は、なぜかギリシア、ローマ時代の話になって、一般的な性の歴史の記述としては興味深くあるものの、フーコーに期待していたものとは、ちょっと違う感じ。語り口も、なんだか平易で、淡々としていて、死を目の前にしたフーコーの最後の枯淡の境地かな? -
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総合書?全て?そういう印象。理解が追いつかない。追いつかないなりに読み進めていた。
科学とか歴史とか医学とか文学とかイデオロギーとか、絶対化とか相対化とかそういう既存の区別や方法を一旦無化するというか、俯瞰するようなスタンス……なのかな。構造主義的な。
意味が無い、などと言って私たちは悩んだり笑ったりします。しかしながらそれらのすべての事象には意味が無いわけではありません。意味があるけれども、意味があることには意味が無いのです。(←ちょっとよくわかりません)
松岡正剛氏が言っていたことそのものだな。テクストが作られるということは、ある個人としての著者が書くというよりもずっと総合的な営為なんだ -
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ミシェル・フーコーの「性の歴史」第4巻が出たという事実をネットショップで発見したときは本当に驚愕した。「性の歴史」1巻から3巻については、今から30年も前に、20歳辺りの私が大事に読み返し、ことに第1巻は何度も何度も再読した当時の愛読書だったのである。フーコー自身の死によって未完の書物として打ち切られたものと思っていたのに、その続刊がまさか今になって発行されようなどとは、夢にも思わなかった。
本書の訳者解説を読んだところ、フーコーは死ぬまえに、未公刊の遺稿は勝手に出版しないように、などと指示していたということだろうか。それがよくわからぬ経緯によって2018年にフランスで結局刊行され、邦訳が -
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本書はミシェル・フーコーによるコレージュ・ド・フランス開講講演(1970年12月2日)を収録したものである。
フーコーにとっては彼の関心が1960年代の「知の考古学」から1970年代の「権力分析」へ転換の画期となった講演であるという。
この講演記録はそれほど長くないので割とすぐに読めるのだが、フーコーの説明がちょっと難しいのと切れ目なく次の議論に入って行ったりしているので多少分かりづらい部分もあるのだが、懇切丁寧な解説があるので読者にとって理解しやすいものとなっている。
人が話す言葉(フーコーは「言説」という)についてフーコーはある仮説を立てる。
「あらゆる社会において、言説の産出は、いくつ -
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非常に短い本だが、コレージュ・ド・フランス講義シリーズのしょっぱなに行われた講演の記録らしい。時期は『知の考古学』から権力をめぐる考察へと重心が移っていく時期で、「管理される言説」という、興味深いテーマで話が進められてゆく。
フーコーによると、少なくとも西欧社会においては、人間たちの<言説>は常に社会によって制限され、抑制されている。こうした権力下の<言説>の背後にあるものは何か。言説結社とか教説のグループという面白い概念を、フーコーは持ってくる。
その後の「権力」の分析は、あとの著作や講義録で展開されることになる。
個人的には、社会的に(共同的に)「管理された言説」というこのテーマを、社会的 -
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ここまで、ナメクジが這うように膨大な時間をかけて、断続的に『性の歴史』全四巻を読んできたが、残念ながら僕にはフーコーが何を言いたいのかピンと来なかった。というか、はっきり言ってつまらなかった。
ということで、以下の感想はほとんどの人にとって何の参考にもならないだろう。/
フーコーが何を言いたいのか分かっていないのだから、批判などできようはずもないが、それでも若干の不満が心に残った。
フーコーは、本書で「欲望の解釈学」を展開するにあたって、2〜5世紀のキリスト教教父たちの文献を分析しているが、それは何故なのだろう?
世界にはたくさんの宗教が存在し、その構成は次のとおりだ。
1. キリスト教 -
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この本に限っては、上記星三つの評価は本の評価では全くなく、当方の能力を超えていて理解が進まなかったため、5分の3理解できていればいいなあ、という個人の希望的評価。分かる人が読めばおそらく6つ、7つ星なのだろうと思う。コレージュ・ド・フランスの講義だから当然だが、読み手である私の能力不足がこれでもかと明らかになる読書だった。加えてやはり、ダイレクトに日本語にならない語彙が多いように見え、たとえば主題になっているdiscoursと「言説」という日本語から受ける印象と範囲が、個人的には異なっていたりして、文章を多少離れた位置から眺めつつ読み進めたという印象。
本筋ではないが面白いと思ったのは、「算術 -
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初期から晩年にいたるまでのフーコーの主要著作をたどり、その思索の跡を一貫したプロセスとしてえがき出している本です。
著者はまず、1950年代のフーコーが発表した、ビンスワンガー『夢と実存』への序論と、『精神疾患と心理学』という著作の検討をおこない、このときのフーコーが人間学的な地平のもとに捕らわれていたと指摘します。その後、『狂気の歴史』や『臨床医学の誕生』、『言葉と物』、『知の考古学』といった著作を通じて、フーコーが「人間」という主題の歴史的形成を解明するとともに、そこからの離脱を図っていったことが論じられます。
さらに『言説の領界』や『監獄の誕生』、晩年のセクシュアリティにかんする研究