フーコーの最後の主著の最終巻が死後30年以上たって、ついに出版され、日本語で読める。これだけで、⭐️は5つは決まったようなもの。
「性の歴史」の1巻の「知への意志」で提示されたいわゆる「生政治」「マイクロポリティクス」などなどの概念と「性の解放」に関する言説の分析の鮮やかさは、圧倒的であった。
...続きを読むこの話しが、どう展開するのか、期待していたところにでてきた2〜3巻は、なぜかギリシア、ローマ時代の話になって、一般的な性の歴史の記述としては興味深くあるものの、フーコーに期待していたものとは、ちょっと違う感じ。語り口も、なんだか平易で、淡々としていて、死を目の前にしたフーコーの最後の枯淡の境地かな?みたいな感じで、ちょっとはぐらされた感じがあった。
その後、コレージュ・ド・フランスなどでの講義録がでてくることで、76年の「知への意志」以降のフーコーの思考プロセスの一旦を知ることができ、ギリシャ、ローマ時代を検討していくなかで、フーコーが「主体」というテーマに関心を移して、スリリングな思考を繰り広げていたことがわかってきた。
それでも、結局、「性の歴史」はどうなっちゃたのかというのは、ずっと気になっていた。
それが、日本語で読めるのだから、これはやっぱりすごいこととしか言えない。
さて、内容であるが、正直言って、最初の100ページくらいまでは、ちょっと退屈な感じ。2〜3巻でのギリシア、ローマ時代における性の記述もそこまでエキサイティングなものではなかったけど、それでも、ヘ〜この時代はそんな感じだったんだね〜という興味はわく内容であった。が、キリスト教的な禁欲性が強まってくると、ギリシア、ローマの延長的なところもあるのだけど、読んでて、なんだか辛くなってくる。
それでも頑張って読んでいくと、「処女」「童貞」の話しになって、いわゆる夫婦間の性行為の関係の議論に展開し、徐々に話は面白くなってくる。
そして、最後は、アウグスティヌスの議論に流れ込んでいって、ここは、なんとも感動的というか、さすが、な展開。
細かい議論は、省略するが、ここではアウグスティヌスによる人間の「意志」ということ、そして「リビドー」といった概念についての議論が展開されていく。
なんとアウグスティヌスのリビドー論が、第1巻で議論されていた精神分析の話しに10数世紀を跨いで、繋がっていくんだ。
第1巻での議論が、こんな形で回収されていた、まさにここで「性の歴史」が完結したのだと感銘をうけた。
そして、アウグスティヌスの議論は、多分、ハンナ・アーレントのこれまた未完で終わった「精神の生活」の議論にも繋がっていくし、中動態、つまり文法的な主語=主体の問題にもつながるはずで最近の関心事にもずばり当たってしまった感じ。
まだまだ、理解できていないことも多い。第1〜3巻も含めて、読み直ししつつ、もう少しこの世界に浸っていることにする。仲正さんの「講義」も時を同じくして、出ていることだし。