ミシェル・フーコーのレビュー一覧

  • ミシェル・フーコー著作集 新訳版 監獄の誕生―監視と処罰―

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    最初、僕は自分が本書を、10月10日に日仏会館で開催されるイベント「ミシェル・フーコーと哲学・政治・社会──生誕100年記念シンポジウム」に参加するために読んでいるのだと思っていた。
    また、先日、慎改氏の『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学』 (岩波新書)の感想で書いたように、慎改氏の『監獄の誕生』の読解と僕のそれとは解釈が異なるので、慎改氏が新訳とその解説によって、どのような読解を展開しているのか確認する意味もあった。
    だが、本当は、それだけではなく、怠惰という僕が犯した罪とそれに対する刑罰を理解しようとして読んでいるのかもしれない。/


    【一つの「魂」が人間に住み着き、人間を存在へともたらすわけだが、その魂はそれ自身、権力が身体に行使する統御における一つの部品なのだ。魂、それは、一つの政治解剖学の帰結であると同時にその道具である…魂、それは、身体の監獄なのだ(略)。】(本書。【】内以下同様。)/


    【最後に、あらゆる差異に対する差異を定める境界線を、つまり標準から外れたもの(略)を外部に追いやる境界線を引くという操作。規律的制度のあらゆる地点に浸透してそのあらゆる審級を管理統制する絶え間のない刑罰は、このように、比較し、差異化し、ヒエラルキー化し、等質化し、排除する。ひと言で言うなら、この刑罰は、標準化するのである。】/

    ここには、僕に課された刑罰が記述されている。それは【標準から外れたもの(略)を外部に追いやる境界線を引くという操作】=【排除】である。
    つまり、僕は規律訓練のシステムから「不良品」として排除されたわけだ。

    〈脱線するが、たしか、デボラ・フォーゲルの『アカシアは花咲く』に、「不良品」がたくさん街にあふれるというような描写があって、日本翻訳大賞のイベントで柴田元幸さんがそれについて言及していたような気がするのだが…。
    あった!あった!「不良品」ではなく、「粗悪品」だったが。

    《世界に粗悪品が溢れ返った─おまけとして生まれた怪物、ミニチュア化された冷たい何かの副産物、そして、元型から外れてしまい、何にも義務を負わない軽々とした独自の人生を進もうと決意したひしゃげた仮面。
    こんな具合に、生活そのものが粗悪品で溢れ返った。》(『デボラ・フォーゲル「アカシアは花咲く」(1932)─アカシアは花咲くモンタージュ(1936)より』/翻訳・改題:加藤有子/「れにくさ」 : 東京大学現代文芸論研究室論集巻 1より。)〉/

    だとすると、この規律訓練のシステムは絶えず「不良品」を作り出し続けるとも言えないだろうか?
    僕をはじめとして、世間でときどき様々な事件を起こす「鬼」たちのような。/


    【規律においては、臣民たちの方こそが見られなければならないのだ。彼らを照らし出すことによって、彼らに行使される権力の支配力が保証される。絶えず見られているという事実、常に見られる可能性があるという事実こそが、規律的個人を、従属化された状態にとどめるのである。】/

    ここにおいて、見られることを拒否する「箱男」の有効性が見出される。
    『監獄の誕生 監視と処罰』は1975年にフランスで出版されているが(邦訳は1977年)、安部公房の『箱男』はなんと1973年に出版されているのだ。
    いつもながら安部公房の先見性には驚きを禁じ得ない。/


    【権力の効果を、常にネガティヴな観点から記述するのをやめなければならない。権力は「排除する」、権力は「禁圧する」、権力は「抑圧する」、権力は「検閲する」、(略)権力は「隠蔽する」、などとばかり語るのをやめなければならない。実際には、権力は生産する。(略)権力は、客体の領域と真理=真実の儀礼を生産するのだ。個人は、そして個人に関して得ることのできる認識は、そうした生産に属しているのである。】/

    この文章の【常にネガティヴな観点から】の次に「のみ」と書き加えたいところだ。
    なぜなら、「常にポジティブな観点からのみ」記述するのもまた同様に誤りだと思うからだ。
    権力には「排除し」、「禁圧し」、「抑圧し」、「検閲し」、「隠蔽する」などの側面も、たしかに存在するはずだから。/


    【非行性はむしろ、刑罰制度(それも拘禁刑という制度)の産物である。違法行為の数々を差異化し、案配し、管理統制することを可能にする刑罰制度によって、その帰結としてもたらされたのが、非行性なのだ。(略)監獄の成功、それは法と違法行為とをめぐる闘争のなかで、一つの「非行性」を種別化する点に存するのだ。】/


    本書で僕が一番好きなシーン、浮浪罪で訴えられた一三歳の少年と裁判長とのやりとりのシーンは、既に旧訳の感想で引用しているので、今回は引用を断念した。/


    【規律の装置の遍在によってもたらされた裁く活動は、監獄的機構のすべてを拠り所としつつ、我々の社会の主要な機能のうちの一つとなったのである。標準性の裁判官が、我々の社会の至る所に現前している。我々は、裁判官としての教師、裁判官としての医師、(略)裁判官としての「ソーシャルワーカー」の社会に身を置いている。これらの裁判官は皆、標準にかかわるものの普遍性を行き渡らせる。(略)監獄網は、その(略)まき散らされた形態のもとで、組み込みや振り分け、監視や観察のシステムとともに、近代社会における標準化本位の権力にとっての大きな支えとなってきたのである。】/


    【そのように中央にあるもの、中央に置かれたものとしての人間性、複雑な権力関係の効果であると同時に道具である人間性、多数多様な「収監」装置によって従属化された身体であり力である人間性、そうした戦略の構成要素をなす言説にとっての客体である人間性のなかに、戦闘の轟きを聞き取らねばならない。】/

    その戦闘の相手は、もちろん、権力の「排除し」、「禁圧し」、「抑圧し」、「検閲し」、「隠蔽する」などの側面であろう。/


    ◯驚いたことに、慎改氏が『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学』 で展開していた以下のような読解が訳者解説をみても跡形もなく姿を消しているのだ。本書を読んだら、また、反論を試みなければならないと身構えていた僕には、少々拍子抜けではあるが。
    それどころか、旧訳の訳者田村氏に敬意を表する言葉さえみられる。
    さすがに、『ミシェル・フーコー…』で自らが展開していた読解への訂正の言葉こそないが、フーコーが書いたところのものをありのままに訳出してくれた点に、慎改氏の訳者・学者としての誠実さを感じた。/


    《『監獄の誕生』は、刑罰という、通常そのネガティヴな側面が強調される制度的メカニズムを、それが引き起こすことのできる「ポジティヴな諸効果の系列全体」のなかに置き直して研究しようと目指すことになる。》(慎改康之『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学』 (岩波新書)


    (コレージュ•ド•フランスでの講義で当初企てられていたのは、刑罰の理論および制度を、抑圧のシステムのなかに置き直して分析することであったが、)

    《しかし、研究を進めていくなかで、フーコーは次第に、抑圧や排除といった作用から、権力によってもたらされるポジティヴな効果へと、その視線を転じることになる。つまり、処罰形式をめぐる歴史的探求の進展が、彼を、権力をめぐる伝統的な考え方から引き離し、権力の生産的な側面の分析へと導くのである。そして、そのようにして権力のポジティヴなメカニズムに焦点を定め直した研究が進められた後、その成果として一九七五年に著された書物、それが、『監獄の誕生』なのだ。》(同上)/

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    2026年10月08日
  • 性の歴史IV 肉の告白

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    フーコーの最後の主著の最終巻が死後30年以上たって、ついに出版され、日本語で読める。これだけで、⭐️は5つは決まったようなもの。

    「性の歴史」の1巻の「知への意志」で提示されたいわゆる「生政治」「マイクロポリティクス」などなどの概念と「性の解放」に関する言説の分析の鮮やかさは、圧倒的であった。

    この話しが、どう展開するのか、期待していたところにでてきた2〜3巻は、なぜかギリシア、ローマ時代の話になって、一般的な性の歴史の記述としては興味深くあるものの、フーコーに期待していたものとは、ちょっと違う感じ。語り口も、なんだか平易で、淡々としていて、死を目の前にしたフーコーの最後の枯淡の境地かな?みたいな感じで、ちょっとはぐらされた感じがあった。

    その後、コレージュ・ド・フランスなどでの講義録がでてくることで、76年の「知への意志」以降のフーコーの思考プロセスの一旦を知ることができ、ギリシャ、ローマ時代を検討していくなかで、フーコーが「主体」というテーマに関心を移して、スリリングな思考を繰り広げていたことがわかってきた。

    それでも、結局、「性の歴史」はどうなっちゃたのかというのは、ずっと気になっていた。

    それが、日本語で読めるのだから、これはやっぱりすごいこととしか言えない。

    さて、内容であるが、正直言って、最初の100ページくらいまでは、ちょっと退屈な感じ。2〜3巻でのギリシア、ローマ時代における性の記述もそこまでエキサイティングなものではなかったけど、それでも、ヘ〜この時代はそんな感じだったんだね〜という興味はわく内容であった。が、キリスト教的な禁欲性が強まってくると、ギリシア、ローマの延長的なところもあるのだけど、読んでて、なんだか辛くなってくる。

    それでも頑張って読んでいくと、「処女」「童貞」の話しになって、いわゆる夫婦間の性行為の関係の議論に展開し、徐々に話は面白くなってくる。

    そして、最後は、アウグスティヌスの議論に流れ込んでいって、ここは、なんとも感動的というか、さすが、な展開。

    細かい議論は、省略するが、ここではアウグスティヌスによる人間の「意志」ということ、そして「リビドー」といった概念についての議論が展開されていく。

    なんとアウグスティヌスのリビドー論が、第1巻で議論されていた精神分析の話しに10数世紀を跨いで、繋がっていくんだ。

    第1巻での議論が、こんな形で回収されていた、まさにここで「性の歴史」が完結したのだと感銘をうけた。

    そして、アウグスティヌスの議論は、多分、ハンナ・アーレントのこれまた未完で終わった「精神の生活」の議論にも繋がっていくし、中動態、つまり文法的な主語=主体の問題にもつながるはずで最近の関心事にもずばり当たってしまった感じ。

    まだまだ、理解できていないことも多い。第1〜3巻も含めて、読み直ししつつ、もう少しこの世界に浸っていることにする。仲正さんの「講義」も時を同じくして、出ていることだし。

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    2023年09月17日
  • 性の歴史I 知への意志

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    フーコーは、死の直前に「性の歴史」の第2巻と3巻を発表し、最終巻の「肉の告白」の完成を目前にしてそれを果たせずになくなってしまった。その原稿は、「開けてはならない」箱に保存されたのだが、フーコーの死後十分な時間がたったということか、今年、ついに発表された。

    ということは、近いうちにその翻訳版がでるに違いないので、そこに向けて、1巻を再読し、長年読もうと思いつつ、読んでなかった「性の歴史」の2〜3巻を読むことにした。

    さて、その第1巻「知への意思」は、1976年に発表されていたのだが、翻訳版は1986年とかなり遅れている。

    当時、待望の翻訳みたいな感じで、わたしも読んだ。

    そのときの印象は、「フーコーとしては、結構、わかりやすいね」というものと、「面白いけど、ここまで言っちゃうと、お先真っ暗で、なんか希望ないな〜」というものだった。

    あらためて、読んでみて、30年くらいに前に、なぜ私が「わかりやすい」と思ったのか、全く不明で、かなり難しい。

    とくに、「◯◯ということではない」みたいな文章が多くて、◯◯というところは、わたしがきっとそういうことだよね、と思ってしまうことが入っていて、ことごとく私の先読みを否定されていく感じ。

    となかなかに手強い本で、理解からはとても遠いのだが、ここにまさに私が最近問題としていたことが、ぎゅっと圧縮されて、書いてあるという感じがした。

    つまり、私はなにものであるか、という素朴な実在論的な問いがあって、それは社会の抑圧によって隠されている。が、真実を知れば、人は解放されて、自由になることができるという物語。

    だが、そこに気づいて、そこから解放されるというのも、同じディスコースの内側のヴァリエーションに過ぎないわけで、そこに出口なしの悩みがある。

    というわけで、第2巻と3巻にこのままのいきおいで、読み進めることにする。

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    2018年12月21日
  • 性の歴史I 知への意志

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    生権力の概念をコンパクトに展開した章が白眉。史料考証は抑えてあるものの、フーコーの統治性論のエッセンスが示されてある。同氏の70年代後半のコレージュドフランスと合わせて読むことで、綿密な考証と概念枠組みの素描が一体となり、非常に重要な著作群であることが認知されてくる。

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    2015年12月26日
  • 言説の領界

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    学生のときに中村雄二郎訳で読んだが、あいまいな表現に煙に巻かれた読後感が印象に残っている。正直、内容を理解できたとは言えなかった。
    この新訳はずいぶん印象が異なる。明晰でやさしい。以前よくわからなかったことについて腑に落ちたところがいくらかあった。半分近くを占める解説も助けになる。

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    2015年02月19日
  • 知の考古学

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    総合書?全て?そういう印象。理解が追いつかない。追いつかないなりに読み進めていた。
    科学とか歴史とか医学とか文学とかイデオロギーとか、絶対化とか相対化とかそういう既存の区別や方法を一旦無化するというか、俯瞰するようなスタンス……なのかな。構造主義的な。
    意味が無い、などと言って私たちは悩んだり笑ったりします。しかしながらそれらのすべての事象には意味が無いわけではありません。意味があるけれども、意味があることには意味が無いのです。(←ちょっとよくわかりません)

    松岡正剛氏が言っていたことそのものだな。テクストが作られるということは、ある個人としての著者が書くというよりもずっと総合的な営為なんだな。相互編集的。

    削ぎ落すと、読んだり書いたりすることって何なんだろうね、っていう本かなとも。読み書きについて(ついて、っていう場合はそれを上から見下ろすことになるね)、フーコーさんかなりタイヘンなお仕事されてますね。妥協を知らないのかな。“真面目さ”の究極体か?

    おもしろかった。時を経てまた読もう。

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    2013年05月28日
  • 性の歴史I 知への意志

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    一つの社会における、権力と快楽と知は、いかにして関係するか――。


    性とはそもそも、秘すべきものとしてはじめからあったのではなく、たとえばカトリック教会における告白の要請など、「制度」が性について語ることを煽動したことによって、語る=暴くために隠すようになった。
    いわば、制度の必要に伴う変化だったのである。

    「18世紀以来、性は絶えず全般的な言説的異常興奮とでも呼ぶべきものを惹き起こしてきた。しかも性についてのこれらの言説が増大したのは、権力の外で、あるいは権力に逆らってではなかった。それはまさに権力が行使されている場所で、その行使の手段として、なのであった。」(P.43)


    我々の、性にまつわる言説への意識を反転させ、権力の表象へと眼をひらかせる、明晰にして官能的なミシェル・フーコー。
    その、なまめまかしく悩ましい文体の快楽!

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    2012年03月18日
  • 性の歴史I 知への意志

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    めも)

    p96 一般的に認められている抑圧という事態や、また、我々が知っていると想定するものを基準に計られた無知から出発するのではなく、知を産出し、言説を増加させ、快楽を誘導し、権力を発生させるこれらの積極的なメカニズムから出発し、これらのメカニズムがどのような条件において出現し、機能するのかを追い、これらのメカニズムとの関係で、それと不可分の禁止や隠蔽の事実が如何に分配させるのかを探求しなければならぬ。一言で言えば、このような知への意志に本来的に内在する権力の戦略というものを定義すること。…

    p119  権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ。絶えざる闘争と衝突によって、それらを変形し、強化し、逆転させる勝負=ゲームである。これらの力関係が互いの中に見出す支えであって、連鎖ないしはシステムを形成するもの、あるいは逆に、そのような力関係を相互に切り離す働きをするずれや矛盾である。更に言うなら、それらの力関係が効力を発揮する戦略であり、その全般的構図ないし制度的結晶が、国家の機関、法の明文化、社会的支配権において実体化されるような戦略である。…権力の遍在だが、しかしそれは権力が己の無敵の統一性の下にすべてを再統合するという特権を有するからではなく、権力があらゆる瞬間に、あらゆる地点で、というかむしろ、一つの点から他の点への関係のあるところならどこにでも発生するからである。権力は至る所にある。すべてを統轄するからではない、至る所から生じるからである。

    91 我々は性に真理を語ることを求める(が、しかし、性がまさに秘密であり、それ自身からも逃れ去るものである以上、ついに照らし出された真理を、その真理のついに解読された真理を、我々自身で語る権利は取っておく)。そしてまた、我々は性に、我々が直接的意識において所有していると思っている我々自身についてのあの真実=真理の底に深く埋もれた真理というものをこそ語れと要求するのである。我々は性に向かって、性の真理を、性がそれについて我々に語ったところを解読することによって語ってやる。性の方は性の方で我々に対して、我々についての真理を、それについて我々の手に捉えられないものを明らかにすることによって語ってくれるのだ。まさにこのゲームによって、数世紀この方、徐々に、主体についての知が形成されてきた。主体の形態についての知というよりはむしろ、主体を分割するものについての知だ。主体を決定するものに関する知でもあろうが、とりわけ、主体を主体そのものに対して捉えがたくしているものに関する知である。このことは予想外のことに見えるかもしれないが、…告白という、西洋世界においてあれほど決定的に重要であったあの<権力である知>の形態が、どのように作用の場をずらされ、またそれ自体変形されてきたかを考えるならば、ほとんど驚くには足らないはずのことだ。ますますその輪を狭めていく円環に沿って、主体の学の企てが、性の問題の周囲を回転し始めたのだ。…しかしながらそれは、性そのものの帰属する何らかの自然的特性というものによるのではなく、この言説に本来的に内在する権力の策略によってなのだ。

    95 …しかし、出発点の前提として私ができる限り長く保有しておきたいと思うものは、権力と知との、真理と快楽とのこれらの装置、抑圧とはかくも異なるあれらの装置は、必ずしも二次的で、派生的なものではないということであり、また、抑圧はいずれにせよ根底をなすものでも、勝負に勝つものでもない、ということだ。従って問題は、これらの装置をまともに受け取り、分析の方向を逆転させることなのだ。一般的に認められている抑圧という事態や、また、我々が知っていると想定するものを基準に計られた無知から出発するのではなく、知を産出し、言説を増加させ、快楽を誘導し、権力を発生させるこれらの積極的なメカニズムから出発し、これらのメカニズムがどのような条件において出現し、機能するのかを追い、これらのメカニズムとの関係で、それと不可分の禁止や隠蔽の事実が以下に分配されるのかを探求しなければならぬ。一言で言えば、このような知への意志に内在する権力の戦略というものを定義すること。性的欲望という具体的なケースについて、知への意志の「経済学〔生産・分配・管理の学〕」を成立させることなのである。

    (115 結局のところ、時代と目標が異なっても、権力の表象は相変わらず王政のイメージに取り憑かれたままでいる。政治の思考と分析においては、人は相変わらず王の首を切り落としてはいないのだ。)
    (118 …、法なしで性を、王なしで権力を考えることだ。)
    →119

    122 権力の関係は、意図的であると同時に、非-主観的であること。事実としてそれが理解可能なのは、それを「説明して」くれるような別の決定機関の、因果関係における作用であるからでなく、それが隅から隅まで計算に貫かれているからである。一連の目標と目的なしに行使される権力はない。しかしそれは、権力が個人である主体=主観の選択あるいは決定に由来することを意味しない。権力の合理性を司る司令部のようなものを求めるのはやめよう。…権力の合理性とは、権力の局地的破廉恥といってもよいような、それが書き込まれる特定のレベルで屡々極めてあからさまなものとなる戦術の合理性であり、その戦術とは、互いに連鎖をなし、呼び合い、増大しあい、己の支えと条件とを他所に見出しつつ、最終的には全体的装置を描き出すところのものだ。そこでは、論理はなお完全に明晰であり、目標もはっきり読み取れるが、しかしそれにもかかわらず、それを構想した人物はいず、それを言葉に表した者もほとんどいない、ということが生じるのだ。

    123 権力のある所には抵抗があること、そして、それにもかかわらず、というかむしろまさにその故に、抵抗は権力に対して外側に位するものでは決してないということ。人は必然的に権力の「中」にいて、権力から「逃れる」ことはなく、権力に対する絶対的外部というものはない、何故なら人は否応なしに法に従属させられているから、と言うべきであろうか。それとも、歴史は理性の詐術であり、権力のほうは歴史の詐術だが、これはいつも勝負に勝つものだと。それは権力の関係の持つ厳密に関係的な性格を無視するものだ。権力の関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない。後者は、権力の関係において、勝負の相手の、標的の、支えの、捕獲のための突出部の役割を演じる。これらの抵抗点は、権力の網の目の中には至る所に現前している。権力に対して、偉大な《拒絶》の場が一つ…あるわけではない。そうではなくて、複数の抵抗があって、それらがすべて特殊事件なのである。…本質的に、抵抗は権力の関係の戦略的場においてしか存在し得ない。しかしそれは、抵抗が単なる反動力、窪んだ印にすぎず、本質的な支配に対して、常に受動的で、際限のない挫折へと定められた裏側を構成するのだ、ということを意味しはしない。抵抗は、幾つかの異質な原理に属するのではない。しかしそれにもかかわらず、必然的に失敗する囮あるいは約束というのとは違う。それは権力の関係におけるもう一方の項であり、そこに排除不可能な相手として書き込まれている。それ故、抵抗のほうもまた、不規則な仕方で配分されている。抵抗の点、その節目、その中心は、時間と空間の中に、程度の差はあれ、強度をもって散らばらされており、時として、集団あるいは個人を決定的な形で調教し、身体のある部分、生のある瞬間、行動のある形に火をつけるのだ。重大な根底的拒絶であり、大々的な二項対立的分割であろうか。屡々そうである。しかし、最も頻繁に出会うのは、可動的かつ過渡的な抵抗点であり、それは社会の内部に、移動する断層を作り出し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める。権力の関係の網の目が、機関と制度を貫く厚い織物を最終的に形成しつつ、しかも厳密にそれらの中に局限されることはないのと同じようにして、群をなす抵抗点の出現も社会的成層と個人的な単位とを貫通するのである。…



    126 セクシュアリテというある種の領域があって、それは理屈の上では科学的で公平かつ自由な知識に属するが、しかしそれに対して権力の要請 ――経済的乃至はイデオロギー的な要請――が、禁止のメカニズムを作動させるのだ、などとは考えないこと。性的欲望(セクシュアリテ)が認識の領域として成立したのは、それを可能な対象として制定した権力の関係を出発点としてである。また、逆に、権力がそれを標的として見做すことができたのは、まさに、知の技術や言説の手続きが性的欲望にそのような価値を与えることができたからに他ならない。知の技術と権力の戦略の間には、いかなる外在性の関係もない、…

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    2010年07月14日
  • 性の歴史I 知への意志

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     フーコー。最高。性の歴史第一巻。感動した。こんな天才になりたい。また、邦訳が最高。できればフーコー全部この人に翻訳してもらいたいと思った。でも二巻から違うんだよね。。こんなに美しい本を初めて読んだような気がする。2008.4.30-3(4d).

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    2009年10月07日
  • 知の考古学

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    ネタバレ

    普段、私たちは現在の知識を基準にして過去を見ることが多い。例えば、昔の医学で水銀が薬として使われていたことについても、「昔の人は水銀の危険性を知らなかったため間違った治療をしていた」と考えてしまう。しかしフーコーが見ようとするのは、現代の基準から過去の知識を否定することではなかった。その時代の知識の体系の中で、なぜ水銀が治療に用いられるものとして考えられたのかを考えるのである。それは当時の医学や物質への理解の中では一定の合理性を持った知識として成立していた。そして、解釈と言説形成の分析の違いについて。解釈とは人や文章の内側を見ることであり、「この人は何を意味していたのか」「なぜそのように考えたのか」を理解しようとするものである。一方、言説形成の分析では、人や文章を可能にした外側の条件を見る。「なぜ、この発言がその時代に知識として成立できたのか」という問いである。例えば、水銀を薬として使用していた医学者について考えると、解釈ではその医学者がなぜ水銀に治療効果があると考えたのかを理解しようとする。しかし分析ではそのような考え方が医学的知識として認められるための条件を見る。どのような病気の理解があり、どのような分類や考え方の中で、その知識が成立していたのかを分析するのである。知の考古学は、知識を人間が少しずつ真理へ近づいてきた結果として見るのではなく、それぞれの時代に存在する知の枠組みや条件によって成立するものとして捉える試みについて書かれている。読んでいて難しい部分も多かったが、過去の知識が現在の知識に向かう途中の未完成な段階だったという見方ではなく、それぞれの時代の知識がどのような条件の中で成立していたのかを見るという視点を得た。今の私たちの基準や解釈だけで過去を判断せず、過去から現在までを一つの連続した進歩として捉えるのでもなく、それぞれの時代の知識を、その時代の体系や成立条件の中で見るということなのだと思う。本を読む上で解釈より進んだ理解を得るために必要な知識だと思った。

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    2026年08月09日
  • 性の歴史I 知への意志

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    凄かったなぁ。
    私達は性にまつわる言説が抑圧されているとばかり思ってきたけど、実際はむしろその逆で、人間を生きながらえさせ自らを増殖させる「生権力」により言説が煽動されているらしい。抑圧言説は性的欲望装置の域を出ないという指摘にギクリ。
    知と権力と欲望は、リゾーム状に複雑に絡み合い、現実世界で機能しているのであり、支配-被支配という単純な二項対立で世界が成立しているわけではないのである。その他人口の概念なども興味深い。5章の血と性的欲望の話は、サドやバタイユへのクリティカルな批判となっており、すごい。

    ここまで読んでフーコーがどういう生き方を目指しているのか気になった。

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    2024年06月17日
  • 性の歴史I 知への意志

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    性の歴史Ⅳの『肉の告白』が出版されたこともあり、性の歴史を改めて読むことにした。先日亡くなった渡辺守章先生の訳書でもあり、その点でも感慨深い。
    渡辺守章先生も訳者あとがきで言及されているように、フーコーが明らかにしようとしている性をめぐる言説が、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』を意識していることが伺えるし、リゾームのような形態をとっているのだということも理解できる。
    このフーコーの言説をどのように現代社会に活かすのか、アクチュアリティを持たせるのかは現代を生きる我々の課題なのだと思う。

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    2022年01月02日
  • 性の歴史IV 肉の告白

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     ミシェル・フーコーの「性の歴史」第4巻が出たという事実をネットショップで発見したときは本当に驚愕した。「性の歴史」1巻から3巻については、今から30年も前に、20歳辺りの私が大事に読み返し、ことに第1巻は何度も何度も再読した当時の愛読書だったのである。フーコー自身の死によって未完の書物として打ち切られたものと思っていたのに、その続刊がまさか今になって発行されようなどとは、夢にも思わなかった。
     本書の訳者解説を読んだところ、フーコーは死ぬまえに、未公刊の遺稿は勝手に出版しないように、などと指示していたということだろうか。それがよくわからぬ経緯によって2018年にフランスで結局刊行され、邦訳が昨2020年12月に出たのである。
     本書「性の歴史」第4巻は、フーコーの死(1984年)の時点で既に書き上げられており、もうじき出版の筈であったそうだ。従って、本書はメルロ=ポンティの遺稿メモをまとめたようなものとは異なり、完全に記述された完成した書物である。
     読んでみると、この第4巻こそが「性の歴史」のシリーズ名にふさわしい、と思わせるものであった。
     3世紀から5世紀辺りの、初期のキリスト教のテクストを探索して、処女・童貞性とか結婚とかの概念の形成をとらえてゆこうとする。「文献学者」であったニーチェにヒントを得たと思われるフーコーの得意の「考古学」の手法である。
     西洋文化の初期において自己および他者をいかに管理しようとしたかが探られているようだ。
     この原初の状態の把握によって、実は現在の社会の諸事象に対峙するための知を得ようとしているのだと理解したい。
     とはいえ、これは3ー5世紀の西ヨーロッパのキリスト教関係の言説プロセスを追うという極めて限定的な仕事であって、そうした「知の原初的形態」としては、フーコーが手がけなかった中国史、インド史、あるいはまた別の文化の歴史・・・といった膨大な各領域において探究が残されている筈だ。
     こういうのを読むと、セネカなどもフーコー風の読解法で読み込んでみたくなってくる。と同時に、「性の歴史」の1巻から3巻もまた読み返したくなったのだった。

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    2021年03月07日
  • 言説の領界

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    本書はミシェル・フーコーによるコレージュ・ド・フランス開講講演(1970年12月2日)を収録したものである。
    フーコーにとっては彼の関心が1960年代の「知の考古学」から1970年代の「権力分析」へ転換の画期となった講演であるという。
    この講演記録はそれほど長くないので割とすぐに読めるのだが、フーコーの説明がちょっと難しいのと切れ目なく次の議論に入って行ったりしているので多少分かりづらい部分もあるのだが、懇切丁寧な解説があるので読者にとって理解しやすいものとなっている。

    人が話す言葉(フーコーは「言説」という)についてフーコーはある仮説を立てる。
    「あらゆる社会において、言説の産出は、いくつかの手続きによって、すなわち、言説の力と危険を払いのけ、言説の偶然的な出来事を統御し、言説の重々しく恐るべき物質性を巧みにかわすことをその役割とするいくつかの手続きによって、管理され、選別され、組織化され、再配分されるのだ」
    つまりわれわれが発する言葉は全く自由に話されているわけではなく、「いくつかの手続きによって、管理され、選別され、組織化され、再配分され」ているということである。
    そして、西洋社会では「排除」「制限」「占有」の三つの手続きが言説の産出を管理しているという。

    「排除」では、言説を禁止する「禁忌」があり、また理性と狂気を区別した上で「狂気」を排除する「分割と廃棄」があり、さらに知への意志に基づき真と偽を分割する「真理への意思」があるという。この中でフーコーは歴史的に形作られ、制度的に支えられ継続し言説に対し圧力を加えている「真理への意志」を最も注目し今後の研究対象になっていく。
    「排除」が外的手続きであるのに対し、内的手続きとしての「制限」では、「注釈」「作者」「研究分野」の原理が言説の産出を抑え矮小化し拘束する機能を果たしているという。
    「注釈」の原理は言説にレヴェルの差を設定し一方を他方の反復とみなし語られる内容の新しさを制御するといい、「作者」の原理は「作者」とそれ以外を設定することで意味や統一性や整合性の起源を問うものとして区別しているという。「研究分野」の原理は先の二者とは対立するもので、他者には開かれているものだがその研究分野の要請には従わない言説は許容されず打ち捨てられるため、やはり言説の産出の限界を定めるものだという。
    「占有」では、語る主体が所持すべき資格、その言説に伴うべき身振りを定める「儀式」のシステム、それから言説の産出を自分たちの秘密として保持したまま行う「言説結社」のシステム、また、語る主体をある種のタイプの言説に従属させ他のタイプの言説を禁じるとともに特定のグループに従属させることで属する人々と他を区別するという「二重の従属化」を行う「教説」のシステム、さらに教育が「占有」を維持し変更を加えるシステムとなっていて、これらが互いに結びつき絡まっているという。

    そしてフーコーは、これら「排除」「制限」「占有」は西洋哲学思考である「創設的主体」や「根源的経験」や「普遍的媒介」を通じ強化してきたのではないかという疑念を表明する。
    現実性における暴力的で非連続的で好戦的で無秩序な言説を恐れを抱き、取り除くために哲学が一定の役割を果たしてきたのではとしている。
    このような言説に対する恐れを、「その条件、その作用、その諸効果に関して」分析することが今後の彼の研究テーマだと彼は宣言するのである。

    この分析における彼の取組みとして次の4つの原則が示されている。
    まず第一は「逆転」の原則で一見ポジティヴに見える役割であっても排除や制限などネガティヴな作用を認めること、第二は「非連続性」の原則で連続的なものの中で沈黙した潜在的言説を非連続的な系列のもとに探すことを禁じること、第三は「種別性」の原則で言説を世界のあらかじめの意味の中に解消せずに自らに固有の規則性を持つ種別的な出来事として扱うこと、第四は「外在性」の原則で言説から内部の隠された核に向かうのではなく言説の外的な可能性の条件に向かうこととする、という4つの原則である。
    そしてこの4つの原則に従うということは、伝統的な思想史とは対立するもので、現代の歴史学と共鳴するものであるとしている。
    「思想史のなかに生じさせようとしているほんのわずかなずれのうちに、すなわち、言説の背後にあるかもしれなぬ表象を扱うのではなく、言説の出来事の規則的で非連続的な系列として扱うことのうちに、小さな(そしておそらく耐え難い)一つの仕掛けのようなものが認められはしまいかと私は考えています。すなわち、偶然性、非連続なもの、物質性を、思考の根底そのものに導入することを可能にする一つの仕掛けのようなものが、そこに認められはしまいか、と。」

    最後にフーコーは今後の分析について二つの総体に従って配置されるという。
    「批判的」総体では逆転の原則に従い、排除、制限、占有といった言説の産出を管理するシステムを分析することとし、とりわけ真理への意思を当面のテーマにするとしている。
    「系譜学的」総体では言説を管理する手続きがどのように形成されたのかを明らかにすることとし、とりわけセクシュアリティや遺伝などにかかわる言説を扱うとしている。
    そしてこの二者は互いに支えあい補うものであるとし、言説の産出というポジティヴな効果と言説に対して及ぼされるネガティヴな作用とを、互いに不可分のものとして明るみにだすことが今後の仕事であるとしている。

    その後の彼の研究成果を辿ればおおむねこの宣言通りになっていると思われ、この講演からは彼の新たな船出に際しての高揚感も感じられる。
    20世紀の世界を代表する偉大なる知の巨人の決意表明を聴けたようでなかなか良かったと思う。
    またフーコーの仕事を読んでみたい。

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    2020年10月11日
  • 知の考古学

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    知の考古学
    (和書)2011年02月02日 20:45
    1995 河出書房新社 ミシェル・フーコー, 中村 雄二郎, Michel Foucault


    通読だけしてみました。

    読んでいる間は頭がスッキリして何かが明確化されそうな印象を受ける本でした。ただ何処かここが凄いとか感じる訳でもなく、良い緊張感を読書中にかんじる、そういう類の本でした。

    『臨床医学の誕生』だけ主要書では読んでいないようなので何処かで手に入れて読みたい。

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    2020年09月27日
  • 性の歴史III 自己への配慮

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    第2巻の古代ギリシアから、第3巻は1〜2世紀のローマに時代は進む。

    いつものフーコーに比べると、淡々とした記述が印象的だった第2巻より、第3巻はさらにあっさりとして、さらに読みやすい。

    テキストとして取り上げられるのは、当時の夢解釈の本だとか、医学的な養生術の本だとか、よくこんなの探して来たなというもので、そういうところは、いつものフーコーかな?

    議論の構成は、第2巻とパラレルになっていて、養生術、夫婦関係、そして恋愛のあり方、それとの関係で同性愛の位置付けという順番で、ギリシャ時代とローマ時代との連続性と違うところが明確に論じられていく。

    ここで論じられている倫理感というのは、結構、現代、あるいはちょっと前の日本の結婚観、道徳観と通じるものがあって、わりと普通に理解できる。また、そういうの大事だよねと共感できるところも多い。

    第2巻の最後のほうで、プラトンの「饗宴」のするどい分析を通じて論じられた同性愛肯定論は、第3巻の最後のほうのプルタルコスなどの議論を通じて、夫婦間のお互いを尊重しあったパートナーシップみたいな議論によって、乗り越えられる。

    といって、ローマでは同性愛が否定されていたわけではなく、それは好みの問題として、受容されていた感じなのかな?

    この辺のおおらかさも、また日本的な感覚に近い気がした。

    ある意味、ここからキリスト教的な性に対する否定的な規律に変化した世界(第4巻に予定されていた「肉の告白」はそこを論じる予定だったと思われる)は、ちょっと遠くてわからないだろうな〜、と思った。

    このことは、もしかすると、フーコーを読むときに、注意しなければならないところかもしれない。

    フーコーは、西欧では、ギリシア、ローマの時代の倫理観が、キリスト教の時代には、「快楽」や「欲望」が否定される倫理観に変化したと捉える。そして、現在は、キリスト教的な倫理観を否定し、その抑圧からの解放が課題になっているようで、実は、「欲望」の否定が「欲望」の充足に変化しただけで、大きなフレームとしては同じところにいるのではないかと示唆しているわけである。

    が、日本では、実質的にキリスト教的な「快楽」や「欲望」の否定という倫理を経験したことはないんじゃないかと思う。

    この辺の違いを頭においておくことは、フーコーが西欧という文脈の中でいっていることを、日本で考えるときには、とても大切なことかと思った。

    さて、この第3巻の読みどころは、結論部分よりも、むしろ第2〜3章で、タイトルとなった「自己への配慮」という概念を論じたところかもしれない。

    フーコーによれば、この概念が、この時期のローマのさまざまな哲学・思想などの共通部分としてあるとのこと。

    とくにストア派の哲学者の分析、とくにマルクス・アウレリウスへの共感が伝わってくる。

    いわゆる、ストイックという言葉の語源となったストア派であるが、禁欲的ではない。しっかり、自分の魂を大切にしようとしているだけ(?)かな。

    ちなみに、いわゆるプラトニックというのも原典に戻れば、同性愛肯定論ですからね〜。ただ、プラトンの肯定のしかたが、精神性を重視したものですけどね。(精神性を過度に重視した詭弁じゃないか?というのが、ローマ時代の哲学者の反応であったというのが、この本の主張なのだが)

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    2020年03月26日
  • 性の歴史II 快楽の活用

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    「生の美学」というのが、フーコーの最後のメッセージなのかな?

    「性の歴史」第1巻は「知への意志」(1976年)で、いわゆる「生政治」という刺激的な概念を打ち出したきわめて刺激的な本だったのだが、8年間をおいて、フーコーの死の直前にだされた「快楽の活用」(1984)は、淡々とした静謐な感じの本でその差にあらためて驚く。

    出版当時は、フーコーも最後はボケてたんじゃない?病との戦いでつかれてギリシアの世界に逃避してるんじゃない?みたいな受け止めもあった気がする。

    今となっては、第1巻と第2巻の間の8年間は沈黙の時期ではなく、本としては出版されなくても、「生政治」の詳細な分析、そしてさらにそこから倫理性の問題への転換、そして真理の勇気と先鋭的な思索が続いていた極めて活動的な時期であったことがわかっている。

    第1巻では、現代の「性(への抑圧?)」を議論するのを「ビクトリア朝」的ブルジョア道徳(とそこからの「解放」)から始めるのではなく、キリスト教的な性・身体・告白を起点に分析していくという方向性が示されていた。

    が、8年後にでた第2巻の分析対象は古代ギリシア時代と大きな計画の変更が生じている。

    とはいえ最初のプランが全くなくなったわけではなく、おそらく西欧社会の最初まで戻って、そこを起点にキリスト教的な身体・告白というもともと第1巻時点で想定していた分析を踏まえて、現代社会に戻ってくる構成であったのだが、第4巻の「肉の告白」にたどり着く前にフーコーはエイズでなくなったということのようだ。

    「知への意志」で示された権力理論はきわめて刺激的なのだが、精緻な議論であるがゆえに、ちょっと出口がない袋小路で、「生政治」の分析をいくらやってもなんかの希望がでてくる感じではなかった。

    袋小路感を一番感じていたのはフーコー自身で、その乗り越えを目指して、西欧社会の起源ともいうべき古典ギリシアまで戻ってみたのだろう。ギリシアといえば、同性愛に寛容な社会なので、そこになんかヒントはあるのでは、みたいな?

    が、それにしても、この本の淡々としたトーンは驚く。内容的にも、単純に「同性愛が普通だった」みたいなことにはならず、「養生術」「家庭管理術」「恋愛術」など、ギリシアの古典等の分析を踏まえて、中庸を大切にして、自分自身をしっかり修養しましょうね、みたいな話になっている。

    「性の歴史」の当初プランが変更になったことを説明してある序文がなければ、ギリシア時代の「性」についていろいろな文献を整理した「普通」の歴史書にしか読めないかもしれない。

    80年代のフーコーの講義もギリシア〜ローマ時代を中心になされているのだが、そこでは、テーマや分析対象の時代の変化はあれ、いつものフーコー的なスリリングな議論展開がある。フーコーがなくなった84年の講義「真理の勇気」もきわめてスリリングなものであったことを思い起こせば、この「快楽の活用」の穏やかさの尋常ではない感じはさらに強まる。

    当時のいろいろな事情をわかった上で読んでもこう思ってしまうので、出版当時にこれを読んだ人たちはさぞや驚いただろうな〜、とあらためて思った。

    そして、きっとこの意図された穏やかさのなかに、フーコーのある種の希望のメッセージがあるのだろう。わたしはまだそこを発見するには至ってないのだが。。。。

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    2018年12月29日
  • 言説の領界

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    非常に短い本だが、コレージュ・ド・フランス講義シリーズのしょっぱなに行われた講演の記録らしい。時期は『知の考古学』から権力をめぐる考察へと重心が移っていく時期で、「管理される言説」という、興味深いテーマで話が進められてゆく。
    フーコーによると、少なくとも西欧社会においては、人間たちの<言説>は常に社会によって制限され、抑制されている。こうした権力下の<言説>の背後にあるものは何か。言説結社とか教説のグループという面白い概念を、フーコーは持ってくる。
    その後の「権力」の分析は、あとの著作や講義録で展開されることになる。
    個人的には、社会的に(共同的に)「管理された言説」というこのテーマを、社会的に「管理された音楽」という方向に敷衍して想像してみると、面白そうな気がした。もちろん芸術「作品」とディスクールは違うのだが、少なくとも表徴的には、「芸術作品」もまた、その場その場の「体制」(国家のではなく、諸階級、グループ、派閥等のそれ)によってコントロールされ、選別され、統制されている面もあるように思えるのだ。

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    2014年12月31日
  • 知の考古学

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    ネタバレ

    新刊のミシェル・フーコー(慎改康之訳)『知の考古学』河出文庫、ざっくり読んだ。連続的歴史と解釈的分析を拒絶するひとつのマニフェストと言ってよい現代の古典ですが、翻訳も素晴らしく(中村雄二郎訳も悪くはないと思うけど)、文庫収録を言祝ぎたい。手軽にアクセスできるのがよい。

    ちなみに、『知の考古学』の訳者・慎改康之先生によるフーコー『ピエール・リヴィエール』も文庫化、知らない間に、ドゥルーズの『差異と反復』、『フーコー』も河出文庫化されていた。前著は単行本で大枚をはたいたわけだけど、まあ、よろこぶべしですね。

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    2013年08月06日
  • 性の歴史II 快楽の活用

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     『性の歴史』第二巻。一巻とはうってかわって古代ギリシャ・ローマを中心に論述が始まる。
     ここでは、古代ギリシャ・ローマ時代の性に対する言説を俯瞰していくことで、「主体」への配慮がどのように形成されてきたのか、また両性というカテゴリへの考え方はいかなるものであったのか、ということが問われている。
     今日の我々が考えるようなジェンダー的概念、そして一巻で中心的に論じられていた快楽の知への意志が、近代特有のものであり、古代にはそれとまったく異なる視座があったのだということが示される。性を新しい視点から捉えなおすための具体的な史的検証であり、フーコーがそれを示そうと苦心している様がうかがえる。

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    2013年02月14日