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  • ミシェル・フーコー著作集 新訳版 監獄の誕生―監視と処罰―

    Posted by ブクログ

    最初、僕は自分が本書を、10月10日に日仏会館で開催されるイベント「ミシェル・フーコーと哲学・政治・社会──生誕100年記念シンポジウム」に参加するために読んでいるのだと思っていた。
    また、先日、慎改氏の『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学』 (岩波新書)の感想で書いたように、慎改氏の『監獄の誕生』の読解と僕のそれとは解釈が異なるので、慎改氏が新訳とその解説によって、どのような読解を展開しているのか確認する意味もあった。
    だが、本当は、それだけではなく、怠惰という僕が犯した罪とそれに対する刑罰を理解しようとして読んでいるのかもしれない。/


    【一つの「魂」が人間に住み着き、人間を存在へともたらすわけだが、その魂はそれ自身、権力が身体に行使する統御における一つの部品なのだ。魂、それは、一つの政治解剖学の帰結であると同時にその道具である…魂、それは、身体の監獄なのだ(略)。】(本書。【】内以下同様。)/


    【最後に、あらゆる差異に対する差異を定める境界線を、つまり標準から外れたもの(略)を外部に追いやる境界線を引くという操作。規律的制度のあらゆる地点に浸透してそのあらゆる審級を管理統制する絶え間のない刑罰は、このように、比較し、差異化し、ヒエラルキー化し、等質化し、排除する。ひと言で言うなら、この刑罰は、標準化するのである。】/

    ここには、僕に課された刑罰が記述されている。それは【標準から外れたもの(略)を外部に追いやる境界線を引くという操作】=【排除】である。
    つまり、僕は規律訓練のシステムから「不良品」として排除されたわけだ。

    〈脱線するが、たしか、デボラ・フォーゲルの『アカシアは花咲く』に、「不良品」がたくさん街にあふれるというような描写があって、日本翻訳大賞のイベントで柴田元幸さんがそれについて言及していたような気がするのだが…。
    あった!あった!「不良品」ではなく、「粗悪品」だったが。

    《世界に粗悪品が溢れ返った─おまけとして生まれた怪物、ミニチュア化された冷たい何かの副産物、そして、元型から外れてしまい、何にも義務を負わない軽々とした独自の人生を進もうと決意したひしゃげた仮面。
    こんな具合に、生活そのものが粗悪品で溢れ返った。》(『デボラ・フォーゲル「アカシアは花咲く」(1932)─アカシアは花咲くモンタージュ(1936)より』/翻訳・改題:加藤有子/「れにくさ」 : 東京大学現代文芸論研究室論集巻 1より。)〉/

    だとすると、この規律訓練のシステムは絶えず「不良品」を作り出し続けるとも言えないだろうか?
    僕をはじめとして、世間でときどき様々な事件を起こす「鬼」たちのような。/


    【規律においては、臣民たちの方こそが見られなければならないのだ。彼らを照らし出すことによって、彼らに行使される権力の支配力が保証される。絶えず見られているという事実、常に見られる可能性があるという事実こそが、規律的個人を、従属化された状態にとどめるのである。】/

    ここにおいて、見られることを拒否する「箱男」の有効性が見出される。
    『監獄の誕生 監視と処罰』は1975年にフランスで出版されているが(邦訳は1977年)、安部公房の『箱男』はなんと1973年に出版されているのだ。
    いつもながら安部公房の先見性には驚きを禁じ得ない。/


    【権力の効果を、常にネガティヴな観点から記述するのをやめなければならない。権力は「排除する」、権力は「禁圧する」、権力は「抑圧する」、権力は「検閲する」、(略)権力は「隠蔽する」、などとばかり語るのをやめなければならない。実際には、権力は生産する。(略)権力は、客体の領域と真理=真実の儀礼を生産するのだ。個人は、そして個人に関して得ることのできる認識は、そうした生産に属しているのである。】/

    この文章の【常にネガティヴな観点から】の次に「のみ」と書き加えたいところだ。
    なぜなら、「常にポジティブな観点からのみ」記述するのもまた同様に誤りだと思うからだ。
    権力には「排除し」、「禁圧し」、「抑圧し」、「検閲し」、「隠蔽する」などの側面も、たしかに存在するはずだから。/


    【非行性はむしろ、刑罰制度(それも拘禁刑という制度)の産物である。違法行為の数々を差異化し、案配し、管理統制することを可能にする刑罰制度によって、その帰結としてもたらされたのが、非行性なのだ。(略)監獄の成功、それは法と違法行為とをめぐる闘争のなかで、一つの「非行性」を種別化する点に存するのだ。】/


    本書で僕が一番好きなシーン、浮浪罪で訴えられた一三歳の少年と裁判長とのやりとりのシーンは、既に旧訳の感想で引用しているので、今回は引用を断念した。/


    【規律の装置の遍在によってもたらされた裁く活動は、監獄的機構のすべてを拠り所としつつ、我々の社会の主要な機能のうちの一つとなったのである。標準性の裁判官が、我々の社会の至る所に現前している。我々は、裁判官としての教師、裁判官としての医師、(略)裁判官としての「ソーシャルワーカー」の社会に身を置いている。これらの裁判官は皆、標準にかかわるものの普遍性を行き渡らせる。(略)監獄網は、その(略)まき散らされた形態のもとで、組み込みや振り分け、監視や観察のシステムとともに、近代社会における標準化本位の権力にとっての大きな支えとなってきたのである。】/


    【そのように中央にあるもの、中央に置かれたものとしての人間性、複雑な権力関係の効果であると同時に道具である人間性、多数多様な「収監」装置によって従属化された身体であり力である人間性、そうした戦略の構成要素をなす言説にとっての客体である人間性のなかに、戦闘の轟きを聞き取らねばならない。】/

    その戦闘の相手は、もちろん、権力の「排除し」、「禁圧し」、「抑圧し」、「検閲し」、「隠蔽する」などの側面であろう。/


    ◯驚いたことに、慎改氏が『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学』 で展開していた以下のような読解が訳者解説をみても跡形もなく姿を消しているのだ。本書を読んだら、また、反論を試みなければならないと身構えていた僕には、少々拍子抜けではあるが。
    それどころか、旧訳の訳者田村氏に敬意を表する言葉さえみられる。
    さすがに、『ミシェル・フーコー…』で自らが展開していた読解への訂正の言葉こそないが、フーコーが書いたところのものをありのままに訳出してくれた点に、慎改氏の訳者・学者としての誠実さを感じた。/


    《『監獄の誕生』は、刑罰という、通常そのネガティヴな側面が強調される制度的メカニズムを、それが引き起こすことのできる「ポジティヴな諸効果の系列全体」のなかに置き直して研究しようと目指すことになる。》(慎改康之『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学』 (岩波新書)


    (コレージュ•ド•フランスでの講義で当初企てられていたのは、刑罰の理論および制度を、抑圧のシステムのなかに置き直して分析することであったが、)

    《しかし、研究を進めていくなかで、フーコーは次第に、抑圧や排除といった作用から、権力によってもたらされるポジティヴな効果へと、その視線を転じることになる。つまり、処罰形式をめぐる歴史的探求の進展が、彼を、権力をめぐる伝統的な考え方から引き離し、権力の生産的な側面の分析へと導くのである。そして、そのようにして権力のポジティヴなメカニズムに焦点を定め直した研究が進められた後、その成果として一九七五年に著された書物、それが、『監獄の誕生』なのだ。》(同上)/

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    2026年10月08日
  • 性の歴史IV 肉の告白

    Posted by ブクログ

    フーコーの最後の主著の最終巻が死後30年以上たって、ついに出版され、日本語で読める。これだけで、⭐️は5つは決まったようなもの。

    「性の歴史」の1巻の「知への意志」で提示されたいわゆる「生政治」「マイクロポリティクス」などなどの概念と「性の解放」に関する言説の分析の鮮やかさは、圧倒的であった。

    この話しが、どう展開するのか、期待していたところにでてきた2〜3巻は、なぜかギリシア、ローマ時代の話になって、一般的な性の歴史の記述としては興味深くあるものの、フーコーに期待していたものとは、ちょっと違う感じ。語り口も、なんだか平易で、淡々としていて、死を目の前にしたフーコーの最後の枯淡の境地かな?みたいな感じで、ちょっとはぐらされた感じがあった。

    その後、コレージュ・ド・フランスなどでの講義録がでてくることで、76年の「知への意志」以降のフーコーの思考プロセスの一旦を知ることができ、ギリシャ、ローマ時代を検討していくなかで、フーコーが「主体」というテーマに関心を移して、スリリングな思考を繰り広げていたことがわかってきた。

    それでも、結局、「性の歴史」はどうなっちゃたのかというのは、ずっと気になっていた。

    それが、日本語で読めるのだから、これはやっぱりすごいこととしか言えない。

    さて、内容であるが、正直言って、最初の100ページくらいまでは、ちょっと退屈な感じ。2〜3巻でのギリシア、ローマ時代における性の記述もそこまでエキサイティングなものではなかったけど、それでも、ヘ〜この時代はそんな感じだったんだね〜という興味はわく内容であった。が、キリスト教的な禁欲性が強まってくると、ギリシア、ローマの延長的なところもあるのだけど、読んでて、なんだか辛くなってくる。

    それでも頑張って読んでいくと、「処女」「童貞」の話しになって、いわゆる夫婦間の性行為の関係の議論に展開し、徐々に話は面白くなってくる。

    そして、最後は、アウグスティヌスの議論に流れ込んでいって、ここは、なんとも感動的というか、さすが、な展開。

    細かい議論は、省略するが、ここではアウグスティヌスによる人間の「意志」ということ、そして「リビドー」といった概念についての議論が展開されていく。

    なんとアウグスティヌスのリビドー論が、第1巻で議論されていた精神分析の話しに10数世紀を跨いで、繋がっていくんだ。

    第1巻での議論が、こんな形で回収されていた、まさにここで「性の歴史」が完結したのだと感銘をうけた。

    そして、アウグスティヌスの議論は、多分、ハンナ・アーレントのこれまた未完で終わった「精神の生活」の議論にも繋がっていくし、中動態、つまり文法的な主語=主体の問題にもつながるはずで最近の関心事にもずばり当たってしまった感じ。

    まだまだ、理解できていないことも多い。第1〜3巻も含めて、読み直ししつつ、もう少しこの世界に浸っていることにする。仲正さんの「講義」も時を同じくして、出ていることだし。

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    2023年09月17日
  • 性の歴史I 知への意志

    Posted by ブクログ

    フーコーは、死の直前に「性の歴史」の第2巻と3巻を発表し、最終巻の「肉の告白」の完成を目前にしてそれを果たせずになくなってしまった。その原稿は、「開けてはならない」箱に保存されたのだが、フーコーの死後十分な時間がたったということか、今年、ついに発表された。

    ということは、近いうちにその翻訳版がでるに違いないので、そこに向けて、1巻を再読し、長年読もうと思いつつ、読んでなかった「性の歴史」の2〜3巻を読むことにした。

    さて、その第1巻「知への意思」は、1976年に発表されていたのだが、翻訳版は1986年とかなり遅れている。

    当時、待望の翻訳みたいな感じで、わたしも読んだ。

    そのときの印象は、「フーコーとしては、結構、わかりやすいね」というものと、「面白いけど、ここまで言っちゃうと、お先真っ暗で、なんか希望ないな〜」というものだった。

    あらためて、読んでみて、30年くらいに前に、なぜ私が「わかりやすい」と思ったのか、全く不明で、かなり難しい。

    とくに、「◯◯ということではない」みたいな文章が多くて、◯◯というところは、わたしがきっとそういうことだよね、と思ってしまうことが入っていて、ことごとく私の先読みを否定されていく感じ。

    となかなかに手強い本で、理解からはとても遠いのだが、ここにまさに私が最近問題としていたことが、ぎゅっと圧縮されて、書いてあるという感じがした。

    つまり、私はなにものであるか、という素朴な実在論的な問いがあって、それは社会の抑圧によって隠されている。が、真実を知れば、人は解放されて、自由になることができるという物語。

    だが、そこに気づいて、そこから解放されるというのも、同じディスコースの内側のヴァリエーションに過ぎないわけで、そこに出口なしの悩みがある。

    というわけで、第2巻と3巻にこのままのいきおいで、読み進めることにする。

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    2018年12月21日
  • 性の歴史I 知への意志

    Posted by ブクログ

    生権力の概念をコンパクトに展開した章が白眉。史料考証は抑えてあるものの、フーコーの統治性論のエッセンスが示されてある。同氏の70年代後半のコレージュドフランスと合わせて読むことで、綿密な考証と概念枠組みの素描が一体となり、非常に重要な著作群であることが認知されてくる。

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    2015年12月26日
  • 言説の領界

    Posted by ブクログ

    学生のときに中村雄二郎訳で読んだが、あいまいな表現に煙に巻かれた読後感が印象に残っている。正直、内容を理解できたとは言えなかった。
    この新訳はずいぶん印象が異なる。明晰でやさしい。以前よくわからなかったことについて腑に落ちたところがいくらかあった。半分近くを占める解説も助けになる。

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    2015年02月19日

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