小泉義之のレビュー一覧
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冒頭の二者択一は間違えているという指摘、問題意識は鋭い。(離婚、就活も)
1 プラトンと尊厳死
ソクラテスの哲学が身体を忌避していた様に嫌悪する
2 ハイデッガーと末期状態
死の意義づけに共同体、家族が登場してくるのは意外だったが納得できる。諸刃の剣だが。国家のために死ぬのも、家族のために死ぬのも。
3 レヴィナスと臓器移植
哲学的次元で見た、臓器移植のインパクトが大きすぎる。確かに他者を絶対と見なすレヴィナスの哲学との親和性が高い。
4 病人の(ための)祈りーーパスカル、マルセル、ナンシー
冒頭の二分法を乗り越えられる可能性がここに。
5 病人の役割ーーパーソンズ
新たな患者の戦略の必要性は説かれても、具体的な姿はない。
6 病人の科学ーーフーコー
死は多様だ。脳死を認めたくはなくなった。尊厳死は認めたいが。
本書で「死観」が変わった。ここまでは「生」でここからは「死」という境目がない。病気に対する見方も変わった。病も生命的で、いや生命そのものなのだ。医学モデルはある程度正しいと思うが、社会モデルで補えるほど、病は単純ではない。
結論して、本書の感想を述べるならば、生と死の二項対立だけでない、その間、死の哲学と死の哲学の間にある「病の哲学」の可能性というか現実というか、その価値に目が開かれた。
<メモ>
・死に淫する哲学の傾向性。
・被投性、不随意性をもつ人間身体存在。 -
Posted by ブクログ
BOOKOFF響ヶ丘店にて購入。
もう30年前、大学の教養課程の哲学の講義がレヴィナスだった。高校で倫理の授業がない課程だったので哲学については全く何も知らなかったから、レヴィナスはおろか、カントやニーチェさえ知らなかった。
案の定、哲学の成績はD(!)だったが今回この本を見つけたので、昔を思い出して買ってみた。
やはり哲学の議論というのは「言質を弄する」という感じで苦手だが、帯にあった「人は生まれて生んで死んでいく」という言葉が一番端的にこの解説本のまとめになっているのではないかと思った。
だとすると、「産む性」にあって産まなかった私のような人は生きる意味がないのか?という残念な気持ちがむくむくと頭をもたげてくるが、産まなかったとしても他者と関わり、相互交流して影響を互いに与え合っている限りはそう落胆することもあるまい、と思ったのでした。
哲学の本など原書の翻訳を読んでもほとんどわからないので、このシリーズを少しまとめて読んでみようかな…。
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度肝を抜かれた。前半部が最高にいい。今年ベスト。「なんでいきるのか」「幸福になるために生きている」……これは非常に凡庸な問い(と答え)だ。
そこからの、小泉=レヴィナスのよる、問題構造の立て直し方がすごい。
目的を問わなくても、人は生きていける。息を吸って、食物を食べて、風景を眺めること…、我々はそれらをすでに享受してしまっている! 享受し続けている時点で、生きているという時点で、我々はもうすでに幸せなのだ。
……それでも、享受しているはずなのに、元気じゃないときがあるよね、特に理由もなく。
→→それは、「実存そのもの」に疲れてしまっているのだ。生きて、存在することへの倦怠。
そしてそこから抜け出す方法は、ただ自分が「幸福に生きる」という堂々巡りするだけの回答から導き出すことは出来ない! という。
もう、こんな入口を建てられた時点ですごい。ものすごい。
それにくらべて後半部は引き込みが若干弱いと思う。それが、ただ単に私の理解不足なのか、おぼろげに理解していても小泉=レヴィナスに共感できないからなのかは、わからない。
でも、いずれにせよ、こんな「問いの入り口」があるのだ、と知れただけでも大きな収穫である。入り口に入ったあとの道は、自分で探してみるのもよいと思う。…とにかく、読んでよかった。 -
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いつもドゥルーズの求めた「新しい人間」は仏陀みたない存在なのではないか、と思うわけだけど、他方で、ドゥルーズは第一の自然としての欲望を捨て去った先に「新しい人間」を見ているわけでもなさそうなので、あらゆる欲望(煩悩)を消滅させる仏陀のイメージとは、やはり、違うのかなぁ。でも、いつもドゥルーズの「新しい人間」の生きる所の雰囲気が、悟りの境地を思うときの静謐で何もないような空虚な所に思えてしまう。そして、それはかなり怖いイメージでもある。ただし、ドゥルーズが考え抜いても、答えを出せない来るべき新しい人間、来るべき民衆への渇望を共有したいと思ってしまう。別のしかたでの人間があって欲しいと思う。小泉先生の徹底して、苛烈で、優しのある読解のおかげで、また少し、ドゥルーズの思想に近づけた気がする。
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構成は
・永井ー小泉の対談
・永井論考
・小泉論考
<文庫版書き下ろし>
・永井論考
・小泉論考
対談は恐ろしく噛み合ってない。
それは永井先生も論考内で「この対談に際して小泉氏は私の以前の著作をずいぶん勉強してこられたようで、氏の発言には私の用語がちりばめられている。しかし、その用法が私の理解と食い違っているため、逆に理解しにくかった。」(p82)と言っていたり、「小泉氏の発言の意味がわからなかった」といった趣旨の発言をかなりの回数使っているところからも伺える。(逆に小泉先生はそのような類の発言はしていなかったように思う)
ただ、この噛み合わなさ、対談後の論考の議題設定のあまりの違いが非常に良かった。
個人的には永井先生のほうに与する。永井先生の方が、表題の問に真摯に答えているように思うからだ。
小泉先生の議題設定は、(私はよくわからないので、あくまで直感的に「そうではないか」という予想で言うならば)極めて脱構築的であるように思った。
その議題設定が悪いなどというわけでなく、今ひとつ私にとってはスカされた印象を持ち、永井先生の方が<子ども>としての立場から誠実に答えているを印象を受けたという話である。
もちろん文庫版にして200頁に満たない書籍である。永井先生も頻繁に以前の著作を前提としていることを提示しながら論理的補完を行っていた。この一冊で成敗することなどできるわけもなく、ただその導入としては非常に良い一冊だと思う。 -
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『ヨーロッパ思想入門』で震えた「他者」の概念にも触れられているが、本書の肝は「繁殖」の概念。適所で例示を示し、レヴィナス思想の核心に迫る試み。
気になった記述。
・働きながら生きている。ということは、なにものかを享受して生きていることになる。
・人生は無条件に幸福であり、「人生は人生への愛である」。
・「享受において、私は絶対的に私のために存在する。私はエゴイストであるが、他者に対してエゴイストであるということではない。私は独りであるが、孤独であるというとではない。私は無垢な独りのエゴイストである。」
・自殺に定位して死を考えたところで、生まれて老いて死んでゆく肉体の次元には決して届かないからである。
・虐げられた貧しき人びととに告発されることが倫理の始まりであり、虐げられた貧しき人びととの連帯と共同性を目指すことが倫理であるという思いは変わっていない。
・倫理の根拠や基礎付けをほしがる心性には、どこか怪しげなところがある。繰り返しレヴィナスは倫理こそ第一哲学であると語った。
・「他者の本質的な悲惨に答えうること、私を資源として発見すること」によって、私はエゴイズムを脱することになる。
・<死んだら終わり><死ぬまで頑張る>は未来の他者に向けての遺言ではないか?
・従来の哲学と論理学は、人間が人間を生むということ、二人の人間が一人の人間を生むということについて、重く深く考えることをしてこなかった。 -
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[ 内容 ]
真の人生は、どんな人生なのか。
人間は、生まれて、生んで、死んでゆく。
この事実をどう受け止めるか。
レヴィナスと共に、人生の意味と人生の目的について根底から考え直す。
[ 目次 ]
はじめに 生きていてよいのか
第1章 自分のために生きる(こんなもののために生まれてきたんじゃない;No Music,No Life ほか)
第2章 他者のために生きる(倫理の始まり;他者の顔 ほか)
第3章 来るべき他者のために(とはいえ、私は死ぬ;存在と無、生成と消滅、生と死 ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
ドゥルーズの単著としては、彼の主著と呼ぶこともできる『差異と反復』の議論を紹介しつつ、ドゥルーズの思想を新しい「生命論」に根ざした自然哲学として読み解く試みがなされています。
普遍数学や分子生物学、スピノザ、ニーチェ、フーコーといった思想家たちや、画家のフランシス・ベーコンなどにかんする章がならんでいますが、基本的には著者の解釈する生命論的な世界像にもとづく議論がくり返し語られているという印象です。ただし著者の考える生命論は、一元論的な生命への還帰を説くものではなく、微分にかんするドゥルーズの議論を踏まえて、世界のうちに身を置くわれわれが、無数の差異を認めつつも、その差異を肯定することのできるような倫理を可能にするものとして考えられているところに、ポイントがあるように感じました。
本書は、ドゥルーズの解説書という体裁をとっていますが、本書をおもしろく読むことのできるのは、ドゥルーズの思想の解説ではなく、著者の倫理学的な考察そのものに興味を惹かれるような読者なのではないかという気がします。 -
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永井の『これがニーチェだ』(講談社現代新書)の刊行を受けておこなわれた、当時話題になった「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問をめぐる対談と、永井と小泉それぞれの論考が収録されています。
個人的には、小泉の問題提起の鋭さに感銘を受けました。対談のなかで「生活」と「生」という対概念が提出されていますが、永井は大江健三郎のような世間的な意味での道徳的言説を「生活」に、ニーチェの権力意志を「生」に割り振っています。これに対して小泉は、永井のそうした立場が、「生活」と「生」の境界線を引きつづけるという振る舞いを通じてのみ担保されるほかないということへの問題提起をおこなっています。これはいわばハイデガーのニーチェ批判を道徳の領域で再演したものということができるように思います。
こうした小泉の問題提起に対して、永井は「分からない」といいつづけていますが、けっきょくのところそうした永井の振る舞いもまた、小泉の言説を「生活」のほうに繰り込むことにほかならず、結果的に小泉の提起している問題をいっそう裏づけているのではないかと感じました。
小泉にしてもおそらく、こうしたみずからの永井批判の言説に何ら特権性がないことを理解しており、その批判が言葉にもたらされたとたん、否応なしに「生活」へと繰り込まれてしまうほかないことを十分に承知しているはずです。そのうえで、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対しては、後は殺す実践あるいは殺さない実践によって答えられるほかないと述べているのだろうと思われます。