齋藤純一のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレローティ→肩甲骨のおののき
以下松岡正剛引用
リチャード・ローティの両親は戦前の共産党員だった。両親はいっときトロツキー(130夜)の秘書を匿ったことがあった。少年ローティはそういう両親が誇らしかった。その両親の影響らしいのだが、ローティは12歳のころには、「人間としての大事なことは、社会的不正義との闘いに自分をささげることである」という仄かな確信をもつようになった。
しかし他方では、12歳のローティはニュージャージー北西部の山に自生する野生の蘭の美しさにとても惹かれていた。その途方もなく官能的な美しさには「うしろめたさ」を感じるほどだった。
では、「トロツキーと野生の蘭」をともに抱くに -
Posted by ブクログ
リチャード・ローティ。
本書を読み進める前の彼の印象は、近代以降の真理探究哲学を完全否定したアンチ哲学の哲学者、というか、会話をし続けることが哲学であるというスタンスでやりきったアメリカのおっちゃんというイメージでした。
本書は、三部構成で、タイトルにあるように「偶然性」について、「アイロニー」について、「連帯」についてのパートで書かれていますが、正直なところ第一部「偶然性」から読み進めてサッパリなところも多く、納得したとしても、いざメモを取ろうとして、はて何と書き残せばいいやらとなってしまいました。
さいわい併読した、『100分de名著「偶然性・アイロニー・連帯」』(朱喜哲さん)のお陰で -
Posted by ブクログ
政治哲学。これまで何の違和感もない単語だったが、これを読むといかに座りの悪い組み合わせであるかがわかる。理想を突き詰める哲学と、現実社会においてある種の妥協を要請する政治。ただ政治も確固とした哲学を土台としたものでなければ安定性を欠いてしまう。ロールズはこの難しいバランスを哲学的な方法でバランスさせた。ただ、それも限界がある。運の平等性を追求していけば、やがて結果の平等につながり、共同体成員の承認が得られなくなる。最後は「まぁこれなら多少自分に不利でも納得できるかな」と言う感覚的な落とし所を探ることになる訳で、政治への哲学の受け入れは八分目くらいに留めておかないと、いつかおかしな方向に進んでし
-
-
Posted by ブクログ
手垢にまみれた古臭いカテゴリーを敢えて使うなら本書は「リベラル」である。現代社会が直面する困難な現実への最も真摯なリベラルの応答である。リベラルがリベラル足り得るために、中道に歩み寄るのでなく、文字通りラディカルでなければならない。それが本書のメッセージだ。
いかなる普遍にも還元できない共約不能な価値の共存がリベラルの条件だが、生身の個人がそれを追求する為に不可欠な資源へのアクセスとなると、マジョリティとマイノリティの間に決定的な非対称がある。この点への感受性を欠く時、どんな多元主義も自由主義も、実質的にはマジョリティが奉じる普遍の強要、さもなくばマイノリティの排除を帰結してしまう。だから古 -
Posted by ブクログ
前作『哲学と自然の鏡』において普遍性を目指す営みとしての哲学を批判的に解体したローティはその批判を突き詰め、表題にもなっている「偶然性」、「アイロニー」、「連帯」をキーにリベラルユートピアの実践の可能性を探索する。
リベラルユートピアに必要なことは
アイロニーによる私的な領域と
残酷さへの意識という公共的な領域とを並存させることだとローティは説く。
本書では、私的領域を開発していくアイロニストの例としてプルーストやデリダが、
残酷さを描き出すことによって連帯に寄与した例としてナボコフやオーウェルが検討されていく。
わたし個人、特に興味を惹かれたのはアイロニストとしてのプルーストについての -
Posted by ブクログ
岩波の「思考のフロンティア」シリーズの中でも、おそらく最も有名な一冊でしょう。
本書は、「公共性」という多義的な概念について、J・ハーバーマスやH・アーレントを参照することでその可能性を探り、それに倣って、あるいはそれに抗してこの概念の再定義を試みた著作です。
ちなみにこの「それに坑して」の部分は、両者が想定する「公/私」の区別が実は非自明であり、その区別を問い直す役割こそが「公共性」の一側面であることを著者が強調している点にあります。
「公共」と名の付く著作で頻繁に引用される箇所ではありますが、著者は冒頭で、公共性概念の現代的な使用を、①国家に関係するものofficial、②共通のものc -
Posted by ブクログ
H・アーレントとJ・ハーバーマスを中心として「公共性」について書かれた思考のフロンティアシリーズのテキスト。
このテキストの中で終始一貫して強調されていたのは「他者の複数性」だと思う。公共圏は言説の空間であり、そこに支配的な価値観などは存在せず、常に見えざる複数の他者との間で議論がなされている。この逆の状態は何かといえば、全体主義やナチスと考えて間違いないだろう。独裁政権をこの公共性に関する議論の反面教師と立てることでやはり“他者”の重要性は再認識される。
とっても学問的におもしろい。深く思考する楽しみもある。
学生のうちに酒を交えながらでいいから、とことん議論しまくりたいです。 -
Posted by ブクログ
アーレントとハーバーマスの議論を中心に紹介しながら、「公共性」というものの理念、概念を解説しています。
100ページほどの短い文献ですが、公共性をめぐる議論の歴史的変遷や言葉の定義などが分かりやすくまとめられていると感じました。ただ自分は、アーレントやハーバーマスについて何の前知識もなく読んだため多少難しく感じる部分もありました。それでも公共性という問題が、グローバリゼーション、新自由主義、福祉国家、家族など近年の社会の変容を考える中でよく目にするこれらの議論に深く関わっているものであることが理解できた。
「個人の共約不可能な生が提示される空間」
「公共性は真理ではなく意見の空間」 -
-
Posted by ブクログ
正義論や政治的リベラリズムを紐解くのは荷が重いなか、功利主義以外の妥当な政治哲学のオプションとして外せないジョンロールズを一旦俯瞰することができた。
読んでみると、上記に該当するロールズの試みは特に正義論という感じであり、射程の長い基礎理論として、分析哲学的道具立てからアプローチしているように思える。
他方、実際の政治的複雑さは当然にシンプルな前提から導出される正義論の範疇には収まらず、以後の著作で射程を限定したなかで立憲デモクラシーを擁護することになったと解される。
リベラリズムというイデオロギーの擁護(もちろん、リベラリズムがその性質上特定のイデオロギーの擁護を所与とせず、ロールズ流 -
Posted by ブクログ
個別事例に功利主義を直接適用することは、カテゴリーミステイク(行為功利主義)
個々の事例を意味づける制度やルールの評価にこそ功利主義は有効(規則功利主義)
ロールズにとってあるべき社会とは、個人を超えた有機体や、個人をパーツとする機会ではなく「公正なゲーム」とのアナロジーで捉えられる。
各人に自己実現のチャンスを公正な仕方で与える場合、社会は理にかなったものになる
ロールズは功利主義の擁護者から批判者に
「無知のヴェール」
「コミットメントの負荷」
「功利主義は諸個人のあいだの違いを真剣に受け止めていない」
どのような善の構想を持つ人であっても受容可能な「公正としての正義」
実際