作品一覧 2023/11/22更新 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性 試し読み フォロー 継続する植民地主義 ジェンダー/民族/人種/階級 試し読み フォロー 正義 試し読み フォロー マルクス いま、コミュニズムを生きるとは? 試し読み フォロー 1~4件目 / 4件<<<1・・・・・・・・・>>> 大川正彦の作品をすべて見る
ユーザーレビュー 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性 リチャード・ローティ / 齋藤純一 / 山岡龍一 / 大川正彦 前作『哲学と自然の鏡』において普遍性を目指す営みとしての哲学を批判的に解体したローティはその批判を突き詰め、表題にもなっている「偶然性」、「アイロニー」、「連帯」をキーにリベラルユートピアの実践の可能性を探索する。 リベラルユートピアに必要なことは アイロニーによる私的な領域と 残酷さへの意識とい...続きを読むう公共的な領域とを並存させることだとローティは説く。 本書では、私的領域を開発していくアイロニストの例としてプルーストやデリダが、 残酷さを描き出すことによって連帯に寄与した例としてナボコフやオーウェルが検討されていく。 わたし個人、特に興味を惹かれたのはアイロニストとしてのプルーストについての言及だ。ローティが使用するアイロニストの意味はやや特殊である。 ローティの言う「アイロニスト」とは普遍性、永遠性、固定的な真理性とは対照的に「偶然性」をもって臨んでいる者のことである。変化することのない絶対的な真理や存在を求めない、いや、そもそもそんな問題にかかずりあわない。自分が関係を持つことになった対象、-それは必然的に偶然性以外のなにものでもないのだがーを歓待する。そんなスタンスを有した者のことだ。 アイロニストは偶然性を受け入れる。偶然性を受け入れるということは要するに、変化を受けれいることであり、それはまた時間性への意識でもある。 プルーストがアイロニストの代表として取り上げられているのはまさにこの点においてなのだ。 『失われた時を求めて』の最終巻のタイトルは「見出された時」だが、主人公は、貴族の没落、成り上がりの者の繁栄、美しき婦人の老衰、政治思潮の激変、憧憬を抱いたものへの失望などなどを目の当たりにし、それら圧倒的な変化としての「時」を再発見する。 このように主人公が時を見出したことによって『失われた時を求めて』の執筆を決意し物語の幕が閉じられるのだ。 整理すると『失われた時を求めて』を執筆したプルーストは、ローティの言う「アイロニスト」になるまでの過程を、アイロニストとしての眼差しで描き直したということになる。 このあえてつくられた位相のずれはプルーストが本来の意味でも「アイロニスト」たることを証立てていると言えるだろう。 Posted by ブクログ 継続する植民地主義 ジェンダー/民族/人種/階級 岩崎稔 / 大川正彦 / 中野敏男 / 他 ・尹京順「基地村の発生と展開―ユングミ事件が突きつけること」 基地村の問題について、簡単な歴史。 性売買特別法などの話も。(2010.6.23) Posted by ブクログ 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性 リチャード・ローティ / 齋藤純一 / 山岡龍一 / 大川正彦 なんの因果か、原書は1989年に出版されたもの。 ある意味で、ソシュール学者の丸山圭三郎やフロイト学者の岸田秀と、モチーフを同じくしているところもある。 その意味で世界的な同時代性を彼らの思考に見ることもできよう。 ローティーが突出しているのは、おおむね、丸山や岸田がモティーフの提示を中心にすえたの...続きを読むに対して、そこから広がる世界の可能性を中心的に論じて見せたところにあるように思う。 スリリングで刺激的な一冊 Posted by ブクログ マルクス いま、コミュニズムを生きるとは? 大川正彦 マルクスのコミュニズムの構想を、集合的身体、受苦的身体など、初期疎外論、フォイエルバッハの人間学の影響などから資本論まで射程にいれながら論じている。 初期マルクスは、例えばアルチュセールによって認識論的切断をしたとされる。これは『ドイツイデオロギー』のテキストクリティック、後期マルクスから物象化論を...続きを読む展開していた広松渉によっても同様に認識されていた。 それを身体から、マルクスの思想を断絶を強調せずにトータルに読解している。 Posted by ブクログ 正義 大川正彦 ジューディス・N・シュクラー「恐怖の自由主義」という考えを中心に、マイケル・イグナティエフ、ジェレミー・ウォールドロン、マーサ・ミノウといった(少なくとも私にとっては)あまり馴染みのない思想家の議論を紹介しながら、現代的な正義論が見落としている問題を鋭く指摘している本です。 著者はナンシー・フレイ...続きを読むザーとアイリス・M・ヤングの論争に言及し、「再分配の正義」と「承認の正義」という2項対立がつかみ損ねているのは、ある出来事を不正だと感じ、その感覚を受け取った者たちの声を聞き届けようとする、そうした意味での「正義」ではないかという問題提起をおこないます。その上で、理性に基づいて理想的な規範秩序を実現しようとするロックの「自然権の自由主義」や、みずからの能力を十全に活動させることに自由の意義を見いだそうとするミルの「人格的発展の自由主義」ではなく、「いま現在、どこかで誰かが拷問を受けており、深刻な恐怖がふたたび社会党性のもっともありふれた形態になってきている」ことに目を向けることから出発するシュクラーの正義論へと議論を進めていきます。その上で、「強き者」たちが語り出す「権利」の語法を一挙に廃棄してしまうのではなく、たえずそこへ向けての見直しをおこなっていくような形で、「権利」と「ニーズ」を調停する方向性を探ろうとしています。 政治哲学を専門としない読者としては、フレイザーやヤングはともかく、シュクラーやウォールドロン、ミノウといった思想家は名前すら聞いたことがなかったのですが、現代の正義論のうちでこのようなテーマを扱うことができるということに驚きを覚えました。表象可能性の彼方に他者を放逐してしまうレヴィナスのような語り方でもなく、経験的なレヴェルに密着するあまり理論を自然化してしまう危険性に付きまとわれざるをえないギリガンのような語り方でもない仕方で、正義の見直しを進めていこうとする試みがなされているということに興味をかき立てられます。 Posted by ブクログ 大川正彦のレビューをもっと見る