大川正彦のレビュー一覧

  • 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性

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    哲学について無学だったと思い知らされました。

    無学なりに理解できた範囲で、いくつか心に響く部分があったのだけど(「終極の語彙」が改訂されたと感じられたのだけど)、たぶん哲学の語彙が身についてないせいで、いちいち言葉に詰まって文章にならない(汗)。

    もう一回読んでみます。

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    2026年09月27日
  • 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性

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    言葉の意味、人生の意味などについて考えていた時期があったが、文化や時代によって言葉のもつ意味は変わるし、明確に境界線を引けない曖昧語や誤解しやすい言葉もあることは理解していたけど、偶然性という表現でとらえることは初めて知った。そして、なるほどと納得できた。
    フロイトによる道徳主義とロマン主義の争点の終結という話で、両者を数ある適応形式の一つに過ぎないという考えが示されてスッキリした。
    ・個人の自発性や私的な完成に生きる人には、畏敬の念を示すが、未発達的と記述する
    ・その社会で普遍的に共有された責任を果たす、単に道徳的な人には、退屈するが、成熟した人と記述する
    では、道徳性をどう考えるかというと、共同体のメンバー、共通の言語の話し手としての私たち自身の声であると考えることができる場合にのみ維持できるものと考えるということだと理解した。そして道徳性を磨くのに、小説や演劇といった芸術が役立つと書かれていた。
    以前より、人が悲劇や悲惨な暴力描写などのある芸術を鑑賞するのはなぜか?と考えることがあり「ポジティブシンキングにならないために」という本を読んでいたのを思い出した。本書「偶然性・アイロニー・連帯」にあるように無意識的な人も意識している人もいるかもしれないが人々は道徳性を磨こうとして小説などで体験に触れているのかもしれない。

    後半の書物に関する批評は、先に取り上げられている書物を読んでみてから、また読むのが良さそう。

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    2026年09月16日
  • 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性

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    ネタバレ

    ローティ→肩甲骨のおののき

    以下松岡正剛引用
    リチャード・ローティの両親は戦前の共産党員だった。両親はいっときトロツキー(130夜)の秘書を匿ったことがあった。少年ローティはそういう両親が誇らしかった。その両親の影響らしいのだが、ローティは12歳のころには、「人間としての大事なことは、社会的不正義との闘いに自分をささげることである」という仄かな確信をもつようになった。
     しかし他方では、12歳のローティはニュージャージー北西部の山に自生する野生の蘭の美しさにとても惹かれていた。その途方もなく官能的な美しさには「うしろめたさ」を感じるほどだった。
     では、「トロツキーと野生の蘭」をともに抱くにはどうしたらいいのか

    ◯戦後の学問そのものの方向性に根差した独創的思考
    言語はゲームに過ぎないことを喝破したリトゲンシュタイン、アプリオリなんてないことを証明したゲーデル、相対性理論のさらにその先科学は人間のものの見方のひとつに過ぎないことこそがその優位性であることに気付かせる物理学、文化人類学の存在論的転回…
    コスモスからカオスへ
    を体現する「偶然性」の思考の源流がリチャード•ローティ。

    現代美術作家のワイド・ガイトンもおそらくローティーのコンセントを作品化している。コンテンジェンシームーブメント。

    偶然性に身を委ねる、とは何かの実践こそがローティ以降の哲学的試行錯誤となっているし、あらゆる分野でローティ的価値観を垣間見る。マイケル・サンデルの「すべては運である」。

    近代が目指した「社会が良くなれば人は幸せになれる」リベラリズムの理想が崩壊した後に巻き起こるトランプ現象を予言したローティ。法を守りさえすれば道を踏み外さずに済むと考える人はただ快楽と暴力が政治を左右する21世紀にただ立ち尽くすことしかできない。

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    2025年07月27日
  • 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性

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    リチャード・ローティ。
    本書を読み進める前の彼の印象は、近代以降の真理探究哲学を完全否定したアンチ哲学の哲学者、というか、会話をし続けることが哲学であるというスタンスでやりきったアメリカのおっちゃんというイメージでした。

    本書は、三部構成で、タイトルにあるように「偶然性」について、「アイロニー」について、「連帯」についてのパートで書かれていますが、正直なところ第一部「偶然性」から読み進めてサッパリなところも多く、納得したとしても、いざメモを取ろうとして、はて何と書き残せばいいやらとなってしまいました。

    さいわい併読した、『100分de名著「偶然性・アイロニー・連帯」』(朱喜哲さん)のお陰で本書の全体像とローティ哲学のエッセンスをくみ取ることはできました。

    ローティは、「リベラル・アイロニストのあり方」を本書で提示してみせたのですが、対比させている「形而上学者」や「真理」や「コモン・センス」については、とっても鋭く批判しているように感じました。

    それぞれにあたる哲学者への痛烈な批評もすごいのですが、取り上げている著述家がフロイトやハイデガー、プルーストやニーチェ、デリダ、ナボコフ、オーウェルといったメンツで、後半につれて文芸批評に斬り込んでいくところ、非常に面白かったです。

    個人的には、ナボコフ論での「カスビームの床屋」の提言がグッと来ました。われわれは感情教育で被害者に共感することは学んでいますが、残酷さに無自覚であるという点において、加害者もまたわれわれと同類であることを気づかせてくれる挿話です。

    ローティもいうように、「われわれ」を拡張していくことによって、会話を守り、連帯を生んでいくことが、いまの分断された世界や危険なポピュリズムに陥ることを防ぐ術であると納得しました。


    たまたま、朱喜哲さんを『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)で知っていたため、私の中で、「ネガティヴ・ケイパビリティ ー 朱喜哲 ー ローティ」とつながって思い読んでみた哲学者でしたが、予想通りの難しさと、魅力的な語りのローティに引き込まれる読書体験でした。


    本書とは違いますが、朱喜哲さんによると、ローティの「バザールとクラブ」の比喩が、(「世界と世間」みたいにみえるかもしれませんが、)本書のテーマの一つである「公私について」の重要なたとえとなっているそうなので調べていこうと思っています。

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    2025年05月04日
  • 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性

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    我々の価値観や人間性の定義などの絶対的であると案じられるものは、歴史の中の「偶然性」によって獲得された相対的なものである。リベラリストは 自らのアイデンティティの基底を為す終極の語彙に関して常に疑いの眼差しを向ける「アイロニスト」であるべきである。我々の「連帯」を為す唯一の根源は「残酷さを減らすこと」であり、その内部には哲学が探究してきた真の価値などはなく、我々の範囲を拡大するために外部に積み上げてゆくものである。哲学の概念自体を大きく転換させる21世紀にも読まれづけてゆくべき名著。

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    2024年11月09日
  • 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性

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    前作『哲学と自然の鏡』において普遍性を目指す営みとしての哲学を批判的に解体したローティはその批判を突き詰め、表題にもなっている「偶然性」、「アイロニー」、「連帯」をキーにリベラルユートピアの実践の可能性を探索する。

    リベラルユートピアに必要なことは
    アイロニーによる私的な領域と
    残酷さへの意識という公共的な領域とを並存させることだとローティは説く。

    本書では、私的領域を開発していくアイロニストの例としてプルーストやデリダが、
    残酷さを描き出すことによって連帯に寄与した例としてナボコフやオーウェルが検討されていく。

    わたし個人、特に興味を惹かれたのはアイロニストとしてのプルーストについての言及だ。ローティが使用するアイロニストの意味はやや特殊である。
    ローティの言う「アイロニスト」とは普遍性、永遠性、固定的な真理性とは対照的に「偶然性」をもって臨んでいる者のことである。変化することのない絶対的な真理や存在を求めない、いや、そもそもそんな問題にかかずりあわない。自分が関係を持つことになった対象、-それは必然的に偶然性以外のなにものでもないのだがーを歓待する。そんなスタンスを有した者のことだ。

    アイロニストは偶然性を受け入れる。偶然性を受け入れるということは要するに、変化を受けれいることであり、それはまた時間性への意識でもある。
    プルーストがアイロニストの代表として取り上げられているのはまさにこの点においてなのだ。
    『失われた時を求めて』の最終巻のタイトルは「見出された時」だが、主人公は、貴族の没落、成り上がりの者の繁栄、美しき婦人の老衰、政治思潮の激変、憧憬を抱いたものへの失望などなどを目の当たりにし、それら圧倒的な変化としての「時」を再発見する。
    このように主人公が時を見出したことによって『失われた時を求めて』の執筆を決意し物語の幕が閉じられるのだ。

    整理すると『失われた時を求めて』を執筆したプルーストは、ローティの言う「アイロニスト」になるまでの過程を、アイロニストとしての眼差しで描き直したということになる。
    このあえてつくられた位相のずれはプルーストが本来の意味でも「アイロニスト」たることを証立てていると言えるだろう。

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    2021年06月19日
  • 継続する植民地主義 ジェンダー/民族/人種/階級

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    ・尹京順「基地村の発生と展開―ユングミ事件が突きつけること」
    基地村の問題について、簡単な歴史。
    性売買特別法などの話も。(2010.6.23)

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    2010年06月23日
  • 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性

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    なんの因果か、原書は1989年に出版されたもの。
    ある意味で、ソシュール学者の丸山圭三郎やフロイト学者の岸田秀と、モチーフを同じくしているところもある。
    その意味で世界的な同時代性を彼らの思考に見ることもできよう。
    ローティーが突出しているのは、おおむね、丸山や岸田がモティーフの提示を中心にすえたのに対して、そこから広がる世界の可能性を中心的に論じて見せたところにあるように思う。
    スリリングで刺激的な一冊

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    2009年10月04日
  • マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?

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    マルクスのコミュニズムの構想を、集合的身体、受苦的身体など、初期疎外論、フォイエルバッハの人間学の影響などから資本論まで射程にいれながら論じている。
    初期マルクスは、例えばアルチュセールによって認識論的切断をしたとされる。これは『ドイツイデオロギー』のテキストクリティック、後期マルクスから物象化論を展開していた広松渉によっても同様に認識されていた。
    それを身体から、マルクスの思想を断絶を強調せずにトータルに読解している。

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    2009年10月04日
  • マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?

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    ロックへの批判、マルクスのテクストを通して,私的所有への違和感、問題点を指摘した点は常識が覆された。初めて、少しだけだが、マルクスに触れられて、すでに共産主義の否定的な結果しか刷り込まれていない私には新鮮だった。

    うすうす感じてはいたが、資本主義の人間疎外は事実なのだ。

    ただその解決はどれほど難しいのか。

    ・各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!P99
    ・私的所有の感覚、自らの身体/生命にたいする「占有」感覚、「保有」感覚だけで生きているというのは、どこか一面的で薄っぺらな自己了解だ。それ以前に、というより生の基層には、世界を享受するという経験感覚がある。P101
    ・横に集まる。5人の都市。社会の自衛

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    2016年05月11日
  • 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性

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    やべ〜、『資本論』ぶりに全然頭に入ってこないし何言ってるかわかんない←哲学に造詣深くないので最初は苦戦したけど読み通していくうちに言いたいことはなんとなくわかってきた

    第三部に入ってから読みやすくなった…ような気がする。文芸批評的趣きが強いからかな。ナボコフやオーウェル批評としても興味深いのでこの機に『一九八四年』読み返したり『ロリータ』『青白い炎』読みたくなった
    『一九八四年』の拷問についての解説読んでると韓国の小説『生姜』思い出す

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    2024年02月03日
  • マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?

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    著者はまず、『経済学・哲学草稿』などの議論を紹介しながら、現代のわれわれにとって当たり前になってしまっている「私的所有」という概念に揺さぶりをかけます。そして、自分の身体と労働の対象を、主体としての自己が所有するという枠組みではとらえることのできないような、人びとのつながりがありうるということに、読者の注意を向けようとしています。そのうえで著者は、やはりマルクスの『資本論』を引用しつつ、資本主義のもとで人びとのつながりがどのようなかたちをとるのかということを論じるとともに、そのような状態から脱却する可能性を見つけだそうとしています。

    なお著者は、『資本論』においても「初期マルクスの根本的な意想のいくつかのモメントがただちに失われていったわけではない」と述べて、いわゆる疎外論においてあつかわれていたテーマが受け継がれているという立場に立っています。この点について、著者の考えがくわしく語られているわけではないのですが、マルクスが「本源的蓄積が経済学で演じる役割は、現在が神学で演じる役割とほぼ同じである」と述べていることに触れながら、「原罪」としての「前史」はいまもなお「反復」されているという、ポスト・モダン的な発想の枠組みを採用していることが注意を引きました。初期マルクスの疎外論も、『資本論』において放棄されたのではなく、「前史」とみなすことができるのかもしれない、という気もします。

    100ページをすこし超える分量の小さな本なので、マルクスの思想をていねいに紹介しているわけではありませんが、著者自身が関心のある問題に限定して、マルクスの思想のうちに深く入っていこうとする意図で書かれているように感じました。

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    2022年04月27日
  • マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?

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    このシリーズは著者の思いがダイレクトに伝わってきて好き。
    とは言え本書は、少々文学的・感傷的に過ぎるところがあって、やや「やりすぎ」感がある。

    マルクスの平易な解説というよりは、マルクスの思想のエッセンスは現代にどのような問題提起をするか、という文脈がメイン。
    その解決策のようなものとして提示されたものの実効性について僕はかなり懐疑的ではあるけれども、「労働のための能力という一つのものさしで測られたものが、人間性や生活水準などなどすべてを決定づけてしまうことの不公平」などなどといった問題提起そのものは魅力的だと思う。

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    2015年01月31日
  • マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?

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    経済学者ではなく、哲学者マルクスとしての
    思想を詳しく知りたかったので購入。

    mixiのレビューが一件もない上、そもそも
    著者が何者なのかよくわからないので不安だったが、
    まあそれなりに読みやすかった(あくまで哲学書レベルで…)

    「私的所有の止揚」に対する
    哲学的な思想は数あるが、『人間』という言葉をとって、

    「人と人の間に『あいだ』があるのではなく、
     あいだとあいだの間に『人』がいるとは考えられないか」

    という示唆はなかなか興味深かった。

    夜中にマルクス読んでると死にたくなります。
    とりあえず本棚の肥しにしときますかね。

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    2012年10月10日