作品一覧 2023/11/22更新 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性 試し読み フォロー 公共性 試し読み フォロー 公共哲学入門 自由と複数性のある社会のために 試し読み フォロー 講座 人権論の再定位 試し読み フォロー 縮減社会の合意形成―人口減少時代の空間制御と自治― 試し読み フォロー 自由 試し読み フォロー ジョン・ロールズ 社会正義の探究者 試し読み フォロー 対論 憲法を/憲法から ラディカルに考える 試し読み フォロー 平等ってなんだろう? 試し読み フォロー 不平等を考える ──政治理論入門 試し読み フォロー 1~10件目 / 10件<<<1・・・・・・・・・>>> 齋藤純一の作品をすべて見る
ユーザーレビュー 公共性 齋藤純一 今年1番の読書体験。刊行当時(2000年)の日本の現況に触れながらアーレントの思想を語っていくのでどんどん頭に入ってきた。さらに、社会から疎外されている人々の存在と自分の関わり方とあるべき姿について考える言葉が沢山で何度も読み返したい。人と人の間に世界があるのであって、誰かがいなくなると世界が一つな...続きを読むくなってしまうということ。そして誰とも世界を共有できない人がいること。もう一度原典に当たってみる。何を言ってるのか考える。一つのテーマになる。 Posted by ブクログ 偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性 リチャード・ローティ / 齋藤純一 / 山岡龍一 / 大川正彦 前作『哲学と自然の鏡』において普遍性を目指す営みとしての哲学を批判的に解体したローティはその批判を突き詰め、表題にもなっている「偶然性」、「アイロニー」、「連帯」をキーにリベラルユートピアの実践の可能性を探索する。 リベラルユートピアに必要なことは アイロニーによる私的な領域と 残酷さへの意識とい...続きを読むう公共的な領域とを並存させることだとローティは説く。 本書では、私的領域を開発していくアイロニストの例としてプルーストやデリダが、 残酷さを描き出すことによって連帯に寄与した例としてナボコフやオーウェルが検討されていく。 わたし個人、特に興味を惹かれたのはアイロニストとしてのプルーストについての言及だ。ローティが使用するアイロニストの意味はやや特殊である。 ローティの言う「アイロニスト」とは普遍性、永遠性、固定的な真理性とは対照的に「偶然性」をもって臨んでいる者のことである。変化することのない絶対的な真理や存在を求めない、いや、そもそもそんな問題にかかずりあわない。自分が関係を持つことになった対象、-それは必然的に偶然性以外のなにものでもないのだがーを歓待する。そんなスタンスを有した者のことだ。 アイロニストは偶然性を受け入れる。偶然性を受け入れるということは要するに、変化を受けれいることであり、それはまた時間性への意識でもある。 プルーストがアイロニストの代表として取り上げられているのはまさにこの点においてなのだ。 『失われた時を求めて』の最終巻のタイトルは「見出された時」だが、主人公は、貴族の没落、成り上がりの者の繁栄、美しき婦人の老衰、政治思潮の激変、憧憬を抱いたものへの失望などなどを目の当たりにし、それら圧倒的な変化としての「時」を再発見する。 このように主人公が時を見出したことによって『失われた時を求めて』の執筆を決意し物語の幕が閉じられるのだ。 整理すると『失われた時を求めて』を執筆したプルーストは、ローティの言う「アイロニスト」になるまでの過程を、アイロニストとしての眼差しで描き直したということになる。 このあえてつくられた位相のずれはプルーストが本来の意味でも「アイロニスト」たることを証立てていると言えるだろう。 Posted by ブクログ 公共性 齋藤純一 公共性とは何なのか、逆に、公共性とは何でないのか。著者はアーレント、ハーバーマスらの記述を用いて、国家と市場の双方から区別される市民社会の領域を描き出す。人々が互いの生と彼らの間に生起する出来事への関心をメディアに結びつく領域としての公共性。しかし、それはユートピア的空間ではない。著者は、その内部に...続きを読む存在する権力的非対称や周辺化の圧力に触れつつ、ハーバーマスやアーレントの「公と私の境」に関わる主張を批判的に汲んで公共性の概念に新たな解釈を付け加えている。 Posted by ブクログ 公共性 齋藤純一 公共性の概念がこれほど重要なものであるとは全く知らなかった。人間という存在を理解するためのキーポイントであり、石工が石目を発見したような感じである。再読、再再読が必要だ。 Posted by ブクログ 公共性 齋藤純一 Who と What の区別と前者の重視。 What=共同体の名ではなく、Who =共訳不可能な個人との付き合い。 Whoを前提とする公共性。 (一神教の一神教性を去勢し、一神教を多神教の一部として受容してきた日本において、つまり、ずぶずぶの共同体思考を引きずった日本において「共訳不可能な個人」を掲...続きを読むげることに「可能性」があるのか?) Posted by ブクログ 齋藤純一のレビューをもっと見る