落ち着いた文章が読みたくなると戻ってくる須賀敦子。
1990年に『ミラノ霧の風景』を出版し、1998年に亡くなっているので、生前に出版されたものは5冊と実はとても少ない。
1998年から99年には5冊が出版されているが、追悼のタイミングにあわせるために雑誌などに掲載された文章を集めてバタバタと出
...続きを読む版された感が否めず。
この『霧のむこうに住みたい』は『須賀敦子全集』をもとに2003年に出版されたものなので、きちんと選ばれて編纂されているという感じがする。
選者の意図まではわからないけれど、最後の一文で泣かされるエッセイが多い。もともと須賀敦子のエッセイはラストの一文が見事なのだけれど、「アスパラガスの記憶」のように、ああ、あれはそういうことだったのかと過去の思い出と現在がすっとつながる。悲しい話ではないのになぜかそこでぐっときてしまう。
須賀敦子の文章がなぜすばらしいのか、なかなかうまく説明できないのだけど、巻末の江國香織の解説がそこをうまく文章化している。
須賀敦子を初めて読むという人にもその魅力が伝わる一冊だと思う。
以下、引用。
というのも、私は、ナタリアの大きい造作の容貌が、一般に女性的として肯定的に評価される種類のものではないことと同時に、それと対するときに感じる、するどい知性と深い安堵感について、どのように表現すればよいのか、解決のつかぬままにこれに触れることをずっと避けてきたからであった。
平和だ、平和だとうかれている今日の社会が、人間が、われわれの知らないところで腐敗し、溶解しはじめているとしたら、それは戦争で人を殺していたときと、おなじくらい、もしかしたら目に見えないだけもっと、恐ろしいことなのではないか。そんなことへの警鐘をギンズブルグは鳴らしているのではないか。今日の世界は、もしかすると、あの頃とおなじくらい、危機的なのかもしれない。
三十年まえに死んだ夫が、結婚して一週間も経たないころ、つとめていた書店から重たそうにかかえて帰ってきた、それがこの辞書だ。きみのだ、といって、もう夕食の支度のととのったキッチンのテーブルに、どさっと置いた、その音までを憶えているような気がする。夫になった彼からの、はじめての贈り物だった。
質量。それについて、須賀さんの文章は奇跡みたいな均整を保っている。この作家は決して多くを語りすぎないし、人々を切りとってみせたりしない。
ごくあたりまえのこととして、人には人一人ぶんの厖大な物語があり記憶があり、その向うには家族がしっかりーどういう境遇にせよどんな考え方を持っているにせよーつながっていて、街があり国があり歴史があり言葉があり、たいていのことはわからないまま光もあてられぬまま、それでも一度だけの輝きをもってくり返されていくのであり、切りとることなど不可能だし無意味なのだ、と御本人が思っていらしたかどうかはともかく、本質的には物語とはすべからく長く重く暗いものだということを、須賀さんのエッセイは思いださせてくれる。そして、だからこそ存外、ひそやかで心愉しい瞬間にみちているのだということも。