Posted by ブクログ
2018年07月22日
『嫌われる勇気』の著者である岸見一郎さんによる恋愛論。
愛は「誰を愛するか」という対象の問題ではなく、「どのように愛するか」という技術の問題であることをアドラーやフロムなどの言葉を引用しながら解説しています。
以下、印象に残った箇所の要約です。
第1章 なぜあなたの「恋愛」は幸せをもたらさないのか...続きを読む
・対人関係の中に入らない人は、自分に価値がないと思うから対人関係の中に入らないのではなく、対人関係の中に入らないために自分に価値がないと思うようにしている。
・恋愛をためらう人が勇気を持つためには自分には価値があると思い、そんな自分を好きになることが必要。
・なぜ、本当は出会いがあるのにないと思ってしまうのか。1つは恋愛がうまくいかないことで傷つきたくないから。もう1つは誰もが羨むような結婚をすることを友人と競っている人が、競争に勝つために現実に会う人を結婚の候補者から外してしまうから。
・多くの人は「愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手を見つけることは難しい」と考えている。しかしフロムはそうではなく、大切なのは相手を見つけることではなく、相手を「愛する能力」と言っている。
第2章 結婚と子育ての困難について
・二人の関係が付き合い始めたり、結婚したりした当時とまったく同じままであることはありえない。これは必ずしも二人の関係が悪くなるという意味ではなく、よくなることもある。
・知り合った当初から相手への思いがまったく変わらないという人がいれば、それは相手への思いが初めからまったくなかったのと同じ。
・二人の関係が変化する以上、結婚した後の未来を予測することは不可能であり、予測できないからこそ結婚には価値がある。
第3章 人を愛するとはどういうことなのか
・「あの人は嫌いだけど、あなたは好き」という人は愛する能力を持っているとはいえない。「あの人もあなたも好きだが、あなたのことがより好き」ということはできる。
・誰かを愛する前に他の人を排斥する必要はない。
・まず人を愛せなければ、つもりフロムのいう愛する能力がなければ、個々の人を愛することもできない。
・あなたのことも、他の人も愛することができるけれども(インパーソナル)、あなたを他の誰よりも愛する(パーソナル)というのが本来の愛の形であり、インパーソナルな愛がパーソナルの愛の基礎になければならない。
・運命の人は存在しない。運命の人がいるのではなく、この人が運命の人だと決めるのが本当。
・恋愛もすべての人に会ってから比較検討してこの人と付き合うとか、結婚しようと決めるのではない。偶然の出会いを必然、運命、縁であると思えるような出会いにまで高められるかどうかは自分次第。
・相手についての自分の印象が思い込みにすぎず、間違っていたことに気付くためには、二言三言話すだけで十分。
・愛は活動であり過程であるため「持つ」ことはできない。愛が人が「持つ」ものであると見なされるようになったとき、人は愛されようとする努力も、愛そうとする努力もしなくなる。
・フロム曰く「幼稚な愛は『愛されているから愛する』という原則にしたがう。未成熟な愛は『あなたが必要だから、あなたを愛する』と言い、成熟した愛は『あなたを愛しているから、あなたが必要だ』と言う」
・失恋が苦しいのは恋愛をギブアンドテイクで考えているから。相手が自分をどう思っていようとも、そのこととは関係なく相手を愛することができる人には失恋は存在しない。
・失恋の悩みは振られても諦めきれないことだが、相手が自分をどう思っていようとも愛せる人には、本来、失恋は存在しない。
・本当に有能な人は有能な教育者でもあるので、最初はすべて自分でしていた仕事でも、それを他の人ができるように教育しているはず。職場が自分がいなければ回らないのであれば、後進を育てていないという意味で、その人は有能ではない。失恋が辛いのは自分でなくてもよかったことを思い知らされるから。
・相手が自分を愛さないのなら、自分も相手を愛さないというのは愛ではなく一種の取引。愛は取引ではない。
・相手の心の中に自分がいなければ自分に価値があると思えないのだとしたら自分の価値は相手に依存していることになってしまう。相手が自分をどう思うかは自分の価値には関係ない。
・大切なのは「自分は一人でも生きられる。それでも二人でいた方が同じ経験を共有する喜びを持つことができる」と考えること。
・本当の意味で他者を愛する人にとっては相手から必要とされていると感じることすらも必要ではない。
・講義の時に学生に話すと大抵「無理」と一蹴されてしまうが、自分の好きな人が、自分ではない好きな人といて幸せであれば、そのことを喜べるのが愛。アドラーは「自分自身よりも愛するパートナーの幸福に、より関心があること」が大切だといっている。
第4章 幸福になるための「愛する技術」
・アドラー曰く「愛と結婚の問題は、完全な平等に基づく時にだけ、満足に解決できる」。
・アドラー曰く「それぞれのパートナーが自分よりも相手にこそより関心を持たなければならず、そのことが愛と結婚が成功する唯一の基礎である。そして相手により関心があれば二人は対等であるに違いない」
・人は仕事をするために生きているのではない。生きるために、さらにいえば幸福のために働くのである。
・喧嘩をした後に仲良くなるとか、喧嘩するほど仲がよいというのは、甘えでしかない。甘え続けていれば、ある日本当に関係が終わることになる可能性があることを知っておかなければならない。
・愛し合っていると思っていても、言葉に出さなければ何も伝わらない。付き合う前であればなおさら自分の思いを言葉にしなければならない。自分が好意を持っていることを何とかして相手に伝えたい場合、遠回しな変化球を投げようとは思わないでストレートの直球で伝えるしかない。
・よいコミュニケーションとは、上手に話ができるという意味ではない。大事なのは、この人の前では普通にしていてもよいと感じられること。
・状況によって態度を変える人は、不機嫌でいる時にまわりの人が腫れ物に触るように接するのを見て、不機嫌でいれば、まわりの人を支配できることを幼い頃に学んだのであり、今も機嫌によって人を支配できると思っている。
・自信を持つためには、自分の個性をまず自分が認め、それを受け入れることが出発点。
・一人で過ごすことができる、一人でいても不安にならない。そんな人だけが二人でいる時間を楽しむことができる。
・関係が長く続くことは目標ではなく結果。「今ここ」を二人が生き切ることができれば二人の関係はこれからも続いていく。
・この人と会うのは今日が初めてなのだと毎回思えるようになれば二人が過ごす時間は生きられる時間になる。今日は昨日の繰り返しではなく、明日は今日の延長ではない。
・フロム曰く「『尊敬』とは愛する人が私のためにではなく、その人自身のためにその人なりのやり方で成長していってほしいと願うこと」
・結婚する時に女性に対して「守る」とか「幸せにする」という男性がいるが、二人が力を合わせて幸福になる努力をするのであって、どちらかが相手を幸福にする、あるいは幸福にしてもらうという発想は、二人が対等であると考えているカップルからは決して出てこない。
・セックスは何のためにするかといえばコミュニケーションのため。この親密なコミュニケーションにおいては、二人の関係のあり方が、他のどの場面よりもはっきりと現れる。
・二人が普段からよい関係を築けていなければセックスにおいても満足を得ることはできない。セックスは狭義の性行為ではなく、例えば、一方が仕事から帰宅した際に「ただいま」といい、もう一方が「おかえり」というところから既に始まっている。親密なコミュニケーションは、その後の行為に先行するものとして意味があるのではなく、それ自体が既にセックスそのものであるといっていい。
・セックスをコミュニケーションと捉えれば、言葉による交わりこそ大事なのであり、身体的接触は二人が親密であると感じられるための補助的な手段でしかない。
・人を好きになることに理由がないように、嫌いになるのにも理由はない。相手が変わったわけではなく、以前は好ましいと思えていたその人の性格が、いつの頃からか耐え難くなる。