Posted by ブクログ
2022年06月23日
豊臣秀吉の死から関ヶ原の合戦に至る経緯は石田三成が焦り過ぎたことによる失敗と見ることもできる。徳川家康が仕掛けることは、天下を自分のものとするための作戦として成り立つ。これに対して三成が仕掛けることは悪手に見える。
三成と家康の実力は家康の方が圧倒的である。しかし、年齢は家康が圧倒的に上である。三...続きを読む成は秀頼の成長を待っていれば良かったとの考えが成り立つ。三成ほどの優秀な頭脳を持ちながら、何故それに気付かなかったかが不思議である。
伝統的な三成像では、単に権力を握り続けたいだけで、一時でも権力を手放した状態が我慢できない官僚的な小者だったからとなる。三成は豊臣政権内での地位向上が豊臣家のために働くという動機付けであり、自分が出世し続けることしか見えていなかったとする。だから、家康の謀略を見抜けず、関ヶ原の合戦で敗北した。ここから三成は豊臣政権を崩壊させた張本人と見られることが多い。
これは三成を貶める歴史観に乗っかったもので、それなりの人物と考える立場とは矛盾する。そこで三成が余命いくばくもない病気を抱えていたため、家康以上に時間がなかったとして合理化する説もある。
社会経済的視点に立つと中世から近世への転換期であり、より国力の差が戦争を左右する時代になったという変化がある。二十世紀の戦争が総力戦になった。それほどではないとしても、似たような転換が起きていたのではないか。その変化を三成は感じていたのかもしれない。そのために時間が経てば経つほど徳川家との差は拡大していくと考えたのかもしれない。
家康が秀忠に代替わりすることは武将としては脅威が減るとしても、武将個人の力が左右する範囲が小さくなっている。時間の経過で国力の差が積み重なることで勝ち目がなくなると考えたのだろうか。
逆に豊臣家を見ると秀頼の成長を待つことが選択肢に見えたが、それに期待できないことを冷徹な三成は見抜いたのかもしれない。秀頼を育てる豊臣家の体制から、秀頼が秀吉ほどの器量を持った人物に育たないと見通したのかもしれない。秀吉も三成も親の力よりも自分の才覚で成り上がった人物である。秀吉への忠誠心と同量のものが秀頼に向けられるとは限らない。むしろ一代目と二代目のギャップを持っていたかもしれない。
ここからすると文治派と武断派という伝統的な分類だけで豊臣家家臣団を見ることができなくなる。加藤清正や福島正則は三成とは犬猿の仲とされる。しかし、共に秀吉の小姓出身で一代目の存在である。武断派に分類される細川忠興や黒田長政は二代目であり、実はギャップを感じることもあったかもしれない。正則は大坂の陣で豊臣家に殉じなかった。江戸幕府に江戸に留め置かれたためであるが、秀吉に対するほど二代目の秀頼への忠誠心は有していなかったと言えるかもしれない。