要するに、高い学習能力を持っている学習システムでは、何かのきっかけでシステムが起動されると、知識が知識を生むというブートストラッピング・サイクルによって知識がどんどん増えていくのである。単に知識のボリューム(個別の要素知識)が増えるだけではない。新しく加わる要素知識は既存の知識に関係づけられ、知識システムの構成要素となる。同時に、新たな知識は既存の知識を質的にも変化させる。知識を整理する上で根幹となる「似ている」や「同じ」についての認識時代が変化するのである。
ブートストラッピング・サイクルによる学習では、知識はつねに再編成され、変化を続けながらボリュームを増し、構造も洗練されていく。節目節目で重要な「洞察」が生まれ、「洞察」が学習を大きく加速させたり、概念の体系を大きく変化させたりする。つまり言語習得とは、推論によって知識を増やしながら、同時に「学習の仕方」自体も学習し、洗練させていく、自律的に成長し続けるプロセスなのである。
演繹推論、帰納推論、アブダクション推論のうち、つねに正しい答えを導くことができるのは演繹推論である。帰納推論とアブダクション推論は、つねに正しい答えに辿り着けるわけではない。帰納推論は、観察したサンプルの99%があてはまる事象に基づいて、「すべてのXはAである」という一般化をしても、AでないXが一事例でも見つかれば論理的には偽になってしまう。アブダクション推論はそもそも仮説に過ぎない。科学史において誤った仮説は星の数ほど存在する。しかし、この三つの推論のうち新しい知識を生むのは、帰納推論とアブダクション推論であり、演繹推論は新たな知識を創造しない。
パースによる帰納推論とアブダクション推論の違いの考察は非常に興味深い。帰納推論は、観察した事例での現象・性質が、それらの事例が属するクラス全体についても見出されるという推論である。言い換えれば、観察される部分を、全体に一般化するのが帰納推論である。
推論の過程において、直接には観察不可能な何かを仮定し、直接観察したものと違う種類の何かを推論する。たとえば、物体は支えがないと落ちるという結論は帰納的に導出できるが、この帰納推論からは、「重力」という概念はどんなにがんばっても生まれてこない。アブダクション推論は、なぜ支えられていないモノが落下するのかという現象に対して説明を与えるものである。ただし、帰納推論とアブダクション推論がまったく質の異なる推論化というと、実際にはこの二つの境界は曖昧である。科学において私たちの観察の限界を超えて帰納を広げていくと、推論はアブダクションの性格を帯びるようになるのだ。
あらかじめアブダクションにより仮説の提案がなくては、帰納は、その役割を果たすことができないのであり、仮説なしに帰納的方法は成り立たない。そもそも、同じ問題(たとえば肺癌の原因)でも、探求の異なる段階で個々の研究者がどんな判断を下し、どのような推論を行い、どういう仮説を思いつくかによって、どの事実が問題に関連性があるか、どういう種類のデータを集めることが理にかなっているかが決まる。関連性のある事実は、取り組まれている問題だけで決められるわけではなく、この問題に対して研究者が仮説的に思いつく解決の私案(たとえば肺癌の原因を体質の遺伝と考えるか、喫煙と考えるか、大気汚染と考えるか)によって決められる。帰納推論は、事実をして自ら語らしめると言っても、まず何らかの仮説がないと事実を集めることはできない。このように、帰納推論とアブダクション推論は連続し、混合しているのである。
本章では、オノマトペに潜むアイコン性を検知する知覚能力だけでは、言語の巨大な語彙システムに行き着くことは不可能であることを指摘した。そして、オノマトペから言語の体系の習得にたどり着くためには、「ブートストラッピング」という、今ある知識がどんどん新しい知識を生み、知識の体系が自己生成的に成長していくサイクルを想定する必要があると考察した。しかし、ブートストラッピング・サイクルが起動されるためには、最初の大事な記号は身体に接地してないといけないのだ。
ブートストラッピング・サイクルを駆動する立役者はアブダクション(仮説形成)推論である。複雑かつ抽象的で膨大な記号の体系としての言語を持つのはヒトという種のみだ。記号接地問題を考えていく上で、人間と動物とで推論能力にどのような違いがあるかを考えることは、人間を理解するために、そしてなぜ人間のみが言語を持つのか、という最大の問いに答えるために、とても重要な示唆を与えてくれるはずだ。
「AならばXである」を「XならばAである」に過剰一般化することは、人間には日常的に頻繁に見られることである。以下は、私たちがとくに「推論」だという感覚も持たずに行っている推論である。
太郎は、仕事が早く終わったら、飲み会に参加すると言った。太郎は飲み会に来た。よって太郎は仕事が早く終わったに違いない。
外を見たら道路が濡れていた。気づかないうちに雨が降ったに違いない。
右の二つの例は「間違い」だとは思わないだろう。しかし、これは論理学では「後件肯定の誤謬」と呼ばれる「論理の誤り」なのである。太郎が飲み会に来なかったのは仕事が早く終わらなかったためとは限らず、他の急用ができたためかもしれないし、疲れたので家で休みたくなったためかもしれない。地面が濡れていたのも、可能性は低いが放水車が水を撒いたのかもしれない。
後件肯定が誤謬であることは、次の例を見るとわかりやすい。
英雄は色を好む。Xは色を好む。だから、Xは英雄である。
英雄色を好むというのは有名な格言である。しかしXが色を好むからといって、Xが英雄とは限らない。英雄でない色好みの人物がたくさんいることを私たちは知っている。
そして、これとまったく同じ論理形式のこのような例はどうだろう。
新型コロナに罹患すると、喉が痛くなり、発熱することが多い。今、私は喉が痛くて熱がある。だから私は新型コロナにかかっている。
喉が痛くなる病気は新型コロナだけではない。インフルエンザかもしれないし、他の病気で同じ症状が出ることも十分ありうる。しかし多くの人は、新型コロナが流行しているときにこのような症状が出たら、当然のように自分もコロナ感染をしたのではないかと疑うだろう。
そもそも病気の診断は、たいていの場合、症状からその原因(病名)を訴求的に推論するアブダクション推論である。もちろん現代では病名を確定するためにさまざまなテストを行う。しかし、第6章で述べたように、医師が最初に病気について症状から予測ができなければ、何のテストを行うかを決めることができないのである。
<中略>
原因と結果をひっくり返す。大人でもよくあることである。たとえば、いつも店の前に長い行列がある店があると、(「おいしいから混んでいる」ではなく)「混んでいるからおいしい」と考え、つられて自分も列に並んでしまう。これと関係するのが、必要条件と十分条件をひっくり返すバイアスだ。筆者たちは大学生を教えているが、「8割の出席が単位取得の必要条件」と伝えると、多くの学生は「8割出席すれば単位がもらえる」と思うのである。
いずれにせよ、対称性推論による(論理的には正しくない)逆方向への一般化は、言語を学び、習得するためには不可欠なものであるし、我々人間の日常の思考においても、科学の中で現象からその原因を遡及的に推論する因果推論においても必要なものである。
帰納推論・アブダクション推論という誤りを犯すリスクのある非論理的推論が持つ利点をあらためて考えてみよう。先述のように、これらの推論は、既存の限られた情報から新しい知識を生み出すことができる。しかも、より少ない法則や手順で多くの問題を解くという節約の原理にかなっており、不確かな状況、能力的な制約の下で、限られた情報でも、完全でないにしろそれなりに妥当な問題解決や予測を可能にしている。
また、事例をまとめるルールを作ることで、外界の情報を整理・圧縮することが可能になり、情報処理上の負荷を減らすことができる。現象からその原因を遡及的に推理し、原因を知ることで、新しい事態にも備えることができるのだ。
ヒトは、居住地を全世界に広げ、非常に多様な場所に生息してきた。他方、そのために多くの種類の対象、多民族や自然などの不確実な対象、直接観察・経験不可能な対象について推測・予測する必要があった。未知の脅威には、新しい知識で立ち向かう必要があった。この必要性を考えれば、たとえ間違いを含む可能性があってもそれなりに上手く働くルールを新たに作ること、すなわちアブダクション推論を続けることは、生存に欠かせないものであった。アブダクション推論によって、人間は言語というコミュニケーション思考の道具を得ることができ、科学、芸術などさまざまな文明を進化させてきたと言えるかもしれない。
他方、生息地が限定的なチンパンジーなどでは、生活の中で遭遇する対象の多様性・不確実性がヒトほど高くない。そのような環境の下では直接観察できる目の前の対象を精度よく処理するほうが生存には有利なので、「間違うかもしれないけど、そこそこうまくいく」思考はそれほど必要なかったのかもしれない。その場合、誤りのリスクを冒してアブダクション推論をするより、誤りを犯すリスクが少ない演繹推論のほうが、生存に有利だったのかもしれない。
人間はあることを知るとその知識を過剰に一般化する。ことばを覚えると、ごく自然に換喩・隠喩を駆使して、意味を拡張する。ある現象を観察すると、そこからパターンを抽出し、未来を予測する。これらはみなアブダクション推論である。人間にとってアブダクション推論はもっとも自然な思考なのであり、生存に欠かせない武器である。
他方、ヒト以外の動物種はアブダクション推論をほとんどしない。その萌芽がないわけではない。しかし萌芽があっても、ヒトという種に至るまで、私たちが現在操るような抽象的で複雑な記号の体系は生まれなかった。それはなぜだろうか?
人類だけがなぜ言語を持つのか。この深く壮大な問いに対して、人類はそれ以前の種に比べて脳のボリュームが格段に増え、とくに思考を司る前頭葉が発達したからという説明や、二足歩行を始めたために重い脳を支えて自由に移動できるようになったから、あるいは人間という種特有の集団内の社会性や、そこから派生する社会の形態の観点、生物学的な観点など、多くの説が提案されている。
数多の言語起源論の中で、本書では、人間独特の思考の様式に注目した。アブダクション推論という思考である。人間は、アブダクションという、非論理的で誤りを犯すリスクがある推論をことばの意味の学習を始めるずっと以前からしている。それによって人間は子どもの頃から、そして成人になっても論理的な過ちを犯すことをし続ける。しかし、この推論こそが言語の収得を可能にし、科学の発展を可能にしたのである。
第6章で、言語習得における記号接地問題を解決する鍵となるのはブートストラッピング・サイクルによる学習であると述べたが、言語の発達と思考の発達もまた、互いにブートストラップし合う関係にある。身体と直接つながりを持たない抽象的な概念は、乳児が生まれつき持っているものではないし、天から降ってくるものでもない。極度に抽象的な概念、たとえば数の概念や数学の概念は、一見「言語の領域の外」の概念だと思う人が多いかもしれない。しかし、数学も言語も、知覚的に同一ではない、あるいは知覚的観察のみからは同一であることに絶対に思い至ることができない対象を「同じ」として扱うという意味で、共通なのである。
乳児は音と対象の形などの、異なる感覚の間に類似性(アイコン性)があると感じることができる。二つのモノ同士の間の視覚的類似性を検出することもできる。そこから、統計推論と帰納・アブダクションの推論をエンジンとして用いて、ブートストラッピング・サイクルによって、感覚・知覚レベルに留まる類似性ではなく、背後にある関係の類似性を見抜き、抽象的な概念を習得したり、目では観察できない因果関係を理解したりできるようになっていく。ここで大事な役割を果たすのがことばだ。
観察しただけでわかる類似性から始めはするが、ことばに導かれて、観察不可能な関係の類似性に気づくようになる。さらに、動詞のように抽象的な関係性を示すことばによって世界を分類し、整理することができるようになる。ことばが子どもを知覚的で具体的な類似性から、関係性による抽象的な類似性にブートストラップするのである。
ことばの知識は言語の領域にとどまらず、言語の外部と一般的には考えられている数や数学の領域での思考も変えていく。言語と思考は、左足と右足のように片方が一歩進めばもう片方が必然的に歩みを進めるような関係で、互いにブートストラッピングを繰り返す。
対称性推論をしようとするバイアスがあるかないか、このような、ほんの小さな思考バイアスの違いが、ヒトという種とその他の動物種の間の、言語を持つか持たないかの違いを生みだす。そして言語によって、人間がもともと持っているアブダクション推論が、目では観察できない抽象的な類似性・関係性を発見し、知識創造を続けていくというループの端緒になるのだと筆者たちは考えている。