作品一覧

  • 意識と本質 精神的東洋を索めて

    意識と本質

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻1,276円 (税込)
    東洋哲学の諸伝統の分析から得た根元的思想パターンを己れの身にひきうけて主体化し、その基盤の上に新しい哲学を生み出さなければならない。本書はこうした問題意識を独自の「共時的構造化」の方法によって展開した壮大な哲学的営為であって、その出発点には自分の実存の「根」が東洋にあるという著者の痛切な自覚があった。
  • イスラーム文化 その根柢にあるもの

    イスラーム文化

    ビジネス・実用

    4.2
    1巻858円 (税込)
    イスラーム文化を真にイスラーム的ならしめているものは何か。――著者はイスラームの宗教について説くことからはじめ、その実現としての法と倫理におよび、さらにそれらを支える基盤の中にいわば顕教的なものと密教的なものとの激しいせめぎ合いを認め、イスラーム文化の根元に迫ろうとする。世界的な権威による第一級の啓蒙書。
  • コーラン 上

    コーラン

    ビジネス・実用

    3.3
    1~3巻1,210円 (税込)
    イスラム教は、仏教、キリスト教と共に世界三大宗教の一つになっている。『コーラン』はイスラム教の聖典。その中にはイスラム教を興したアラビア人マホメットの行動と、彼を通してえた神の天啓とが鮮かに写し出されている。当時のアラビア民話も織りこまれており、アラビア人の本質を理解する上で、本書は大いに役立つ。口語訳。
  • 『コーラン』を読む

    『コーラン』を読む

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻1,738円 (税込)
    イスラーム哲学研究の第一人者が,『コーラン』をテキストにそって,多角的な観点を用いながら解読する.イスラームの根本概念である「終末論」「預言・預言者」「啓示」等を通して,『コーラン』の深い精神性が明確にされる.本書は,優れたコーラン入門としてはもとより,井筒哲学の基礎的構造を論じた「井筒俊彦入門」の書でもある.(解説=若松英輔)

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  • ロシア的人間 新版

    ロシア的人間 新版

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻1,210円 (税込)
    今やロシアは世界史の真只中に怪物のような姿をのっそり現して来た――。千変万化するロシア国家の深奥にあって、多くの人を魅了する魂のロシアとは何か。プーシキンからドストイェフスキー、チェホフにいたる十九世紀の作家たちの精神を辿りつつ、「ロシア的なるもの」の本質に迫る。 〈巻末エッセイ〉江藤 淳〈解説〉佐藤 優 目 次 序 第一章 永遠のロシア 第二章 ロシアの十字架 第三章 モスコウの夜 第四章 幻影の都 第五章 プーシキン 第六章 レールモントフ 第七章 ゴーゴリ 第八章 ベリンスキー 第九章 チュチェフ 第十章 ゴンチャロフ 第十一章 トゥルゲーネフ 第十二章 トルストイ 第十三章 ドストイェフスキー 第十四章 チェホフ 後記(北洋社版) 後記 井筒先生の言語学概論 江藤 淳 解説 佐藤優

ユーザーレビュー

  • 意識と本質 精神的東洋を索めて

    Posted by ブクログ

    1276円

    難解だけどめちゃくちゃ面白い

    井筒 俊彦
    (いづつ としひこ、1914年(大正3年)5月4日 - 1993年(平成5年)1月7日)は、日本の言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。文学博士、エラノス会議メンバー、日本学士院会員。語学の天才と称され、大部分の著作が英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、海外で高く評価されている[1]。アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語、パーリ語、ロシア語、ギリシャ語などの30以上の言語を流暢に操り、日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行し、ギリシア哲学、ギリシャ神秘主義と言語学の研究に取り組み、イスラムスーフィズム、ヒンドゥー教の不二一元論、大乗仏教(特に禅)、および哲学道教の形而上学と哲学的知恵、後期には仏教思想・老荘思想・朱子学などを視野に収め、禅、密教、ヒンドゥー教、道教、儒教、ギリシア哲学、ユダヤ教、スコラ哲学などを横断する独自の東洋哲学の構築を試みた。


    「だが東洋哲学の伝統の中には、これとは全く反対に、「本質」の実在性を全面的に肯定する強力な思想潮流がある。以下その方向に目を転じてみよう。しかし「本質」実在を主張する思想家たちを取り扱うためには、これまでやや漠然と無規定的に使ってきた「本質」という語を、ここでもっとはっきり規定しなおす必要がある。つまり、広い意味での「本質」あるいは「本質的なもの」を、例えば、個々の事物それぞれの自体性そのものとしての「本質」、個々に実在しながらも自らは普遍者であるような実在的普遍者として考えられた「本質」、外的実在性をもたずに、ただ抽象的思考の次元でのみ存在する概念的普遍者としての「本質」等々に区別して、その上で問題を検討する必要がある、ということ。一口に「本質」の実在性を肯定するといっても、どういう意味での「本質」を肯定するのかによって、議論がだいぶ違った様相を呈してくるからだ。むろん、このような区別は「本質」の否定にも関わらないわけではないけれど、肯定する場合のほうに実際上はむしろ問題が多いのである。」

    —『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

    「およそ概念とか概念的・抽象的思惟とかいうものを極度に嫌った本居宣長は、当然のことながら、中国人のものの考え方にたいしてほとんど本能的とでも言いたいほどの憎悪の情を抱いた。彼の目に映じた中国人は「さかしらをのみ常にいひありく国の人」、人間本然の情をいつわり、それにあえてさからってまで、大げさで仰々しい概念を作り出し、やたらに「こちたく、むつかしげなる事」を振りまわさずにはいられない人たちである。だから『詩経』の風雅三百 は別として、中国の思想家の書き残した書物は、ちょっと見には「いとかしこくは聞ゆれども」、その実、大抵は内容空疎なこけおどしで、とうてい範とするには足りないものだ、という。例えば『易』などという下らない書物、自分ではまるで宇宙の理法を窮めつくしたとでもいうような口ぶりだが、本当はこの書物に説かれている思想を支える太極、無極、陰陽、乾坤、八卦、五行、等々の概念は、ことごとく「くだくだしくこちたき」架空のこしらえごとで、「まことにはその理とてあることなし」といった代物にすぎない。ということは要するに、これらのものが事物、事象の実在性から遠く遊離した抽象概念にすぎない、ということだ。」

    —『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

    「中国的思考の特徴をなす と宣長の考えた 事物にたいする抽象的・概念的アプローチに対照的な日本人独特のアプローチとして、宣長は徹底した即物的思考法を説く。世に有名な「物のあはれ」がそれである。物にじかに触れる、そしてじかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からではなく内側から、つかむこと、それが「物のあはれ」を知ることであり、それこそが一切の事物の唯一の正しい認識方法である、という。明らかにそれは事物の概念的把握に対立して言われている。  概念的一般者を媒介として、「本質」的に物を認識することは、その物をその場で殺してしまう。概念的「本質」の世界は死の世界。みずみずしく生きて躍動する生命はそこにはない。だが現実に、われわれの前にある事物は、一つ一つが生々と自分の実在性を主張しているのだ。この生きた事物を、生きるがままに捉えるには、自然で素朴な実存的感動を通じて「深く心に感」じるほかに道はない。そういうことのできる人を宣長は「心ある人」と呼ぶ。  「たとへば、うれしかるべき事にあひて、うれしく思ふは、そのうれしかるべき事の心をわきまへしる故にうれしき也。又かなしかるべき事にあひて、かなしく思ふは、そのかなしかるべきことの心をわきまへしる故にかなしき也。されば事にふれて、そのうれしくかなしき事の心をわきまへしるを、物のあはれをしるといふ也」(『石上私淑言』)。「たとへば、めでたき花を見、さやかなる月にむかひて、あはれと情の感く、すなはち是、物のあはれをしる也」(同上)、等々。引用するとなれば限りがない。要するに、「物の心をしるは、すなはち物の哀をしる也」(『紫文要領』)ということに尽きる。」

    —『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

    「 「いかなるものにも、そのものをまさにそのものたらしめているリアリティーがある。だが(ここで注意すべきは)このリアリティーは一つでなくて二つであるということだ。その一つは具体的、個体的なリアリティー ​( aqīqah ​ ​ juz īyah) ​であって、これを術語で ​ huwīyah ​という。もう一つは普遍的リアリティー ​( aqīqah ​ ​ kullīyah) ​で、これを ​ māhīyah ​と呼ぶ。」西暦十五世紀の代表的イスラーム哲学者ジョルジャーニー ​( d. ​ ​ 1413) ​は、イージー ​( d. ​ ​ 1355) ​の世の有名な体系的神学書『存在の階層』 ​( Mawāqif) ​にたいする 解 ​( Jurjānī: ​ ​ Shar ​ ​ al ​​-Mawāqif) ​の中で、こう言っている。フウィーヤとマーヒーヤ、この二つをイスラームの哲学者たちが二つながらに事物の「本質」と考えていることは、彼らが後者を「特殊的意味での本質」 ​( māhīyah ​ ​ fī ​ ​ al ​​-ma nā ​ ​ al ​​-khā ) ​と呼び、前者を「一般的意味での本質」 ​( māhīyah ​ ​ fī ​ ​ al ​​-ma nā ​ ​ al ​-​ āmm) ​と呼んで術語的に区別しながら、それらを共に広義のマーヒーヤに含まれるものとしている事実によっても明らかである。もっとも、この術語は、フウィーヤ、マーヒーヤよりも時代的に後で成立した、古典時代以後の用語法だが、術語成立の時期はとにかくとして、イスラーム哲学ではごく早い頃から一般に、フウィーヤとマーヒーヤとは共に存在者の「本質」であるとされていた。つまり、あらゆる事物に二つの次元の異る「本質」が認められていたのである。」

    —『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

    「勿論、それでもなお、事実上、詩人は普通の言語を使って詩作しなければならない。しかし彼は普通の言語を絶対言語的に使う。普通の言語を普通の仕方で使えば、事物の感覚的形姿が浮んでくる。例えば「花」という言葉。それの呼び出すものは、ごく平凡な、どこのどの花にでも無差別的に当てはまる一般的「本質」によって規定された感覚的花の形象にすぎない。マラルメのいわゆる存在の「輪廓」だ。存在の感覚的な「輪廓」は移ろい易い。花は咲いて、やがて萎む。  だが、詩人が絶対言語的に「花」という語を発するとき、そこに或る異常なことが起るのだ。存在の日常的秩序の中に感覚的実体(「輪廓」)として現われていた花が、発音された語のひき起す幽かな空気の振動と化して消え散っていく。花の「輪廓」の消失とともに、花を見ている詩人の主体性も消失する。生の流れが停止し、あらゆるものの姿が消える。この死の空間の凝固の中で、一たん消えた花が、形而上的実在となって、忽然と、一瞬の稲妻に照明されて、白々と浮び上ってくるのだ。花、永遠の花、花の不易が。  「私が花!  と言う。すると、私の声が、いかなる輪廓をもその中に払拭し去ってしまう忘却の彼方に、我々が日頃狎れ親しんでいる花とは全く別の何かとして、どの花束にも不在の、馥郁たる花のイデーそのものが、音楽的に立ち現われてくる」(『詩の危機』)、とマラルメは書いている。」

    —『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

    「宋儒たちは、これに反して、経験的事物それぞれの「本質」を、それらの死と「忘却」の彼方にではなく、むしろ存在の経験的次元そのものにおいて、潑剌と躍動する事物の生命そのものの中に探求する。そして窮め終ったすべての「本質」の形而上性のさらにその彼方、あらゆる「本質」のより深い、あるいはより高次の形而上性の源としての絶対的無に出合う。そこに彼らの「脱然貫通」が実存体験的に現成する。彼らのこの形而上的無の体験には、しかし、虚無の匂いはなく、そこに絶望の影もなかった。なぜなら、それは経験的事物の死によって成立する無ではなかったから。存在するものの死ではなく、生の源泉で、それはあった。あらゆる経験的事物それぞれの「本質」を無化し尽す形而上的無「本質」。宋儒たちは、あらゆる「本質」の実在的原点、すべての「本質」を己れの形而下的自己限定として、意識と存在の経験的次元に現成させる唯一の「本質」、をそこに見たのだった。  「無極而太極」、私が既に繰り返し口にしてきたこの言葉。無極にして太極、無極でありながら同時にそれがそのまま太極である、という。無・即・有。「理」の形而上的極限における無と有の、この矛盾的相即のうちに、我々は宋学的「本質」把握の東洋的性格を見るべきであるのかもしれない。」

    —『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

    「 禅は現実を、「本質」によって固定された事物のロゴス的構造体とは見ない。そう見ることにまっこうから反対する。何々であるとして認知される事物、すなわち「本質」を核とする結晶体、はことごとく我々の目の曇りのゆえに虚空に現われる幻影のごときものにすぎない。「一翳眼に在れば空華乱墜す。」目の中にかげりがあると、現実にはありもしない幻の花が空から眼前にパラパラ降ってくる、と。ここに「目の曇り」というのは、後で明らかになるように、円悟克勤のいわゆる知見語言解会、つまりコトバの意味作用に基く「本質」形成的意識の存在分節機能のことだ。  しかし、もし花は花であるというふうに「本質」的に固定された事物がすべて我々の妄想意識の生みだす幻影にすぎず、経験的世界全体が存在論的根拠を欠く幻影のごとき事物の偶然的集合にすぎなくて、宋儒たちの描いて見せる「理」の秩序としての世界とはおよそ似ても似つかぬものであるとするならば、はたして現実はカオス以外の何ものでもないのか。アヴェロイスなら、きっとそういう結論を引きだすだろう。」

    —『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

    「これに反して分節 ​( Ⅱ) ​の次元では、あらゆる存在者が互いに透明である。ここでは、花が花でありながら あるいは、花として現象しながら しかも、花であるのではなくて、前にも言ったように、花のごとし(道元)である。 ​「 ​のごとし」とは「本質」によって固定されていないということだ。この花は存在的に透明な花であり、他の一切にたいして自らを開いた花である。分節 ​( Ⅰ) ​の次元では、花は一つの、それ自体で独立した、閉じられた単体だった。花はすべての他のものにたいして固く自らを閉じていた。だが「本質」のない分節 ​( Ⅱ) ​の世界に移される時、花は、頑なな自己閉鎖を解き、身を開く。  無「本質」の世界。それは存在的透明性と開放性の世界。「水清くして底に徹す。魚の行くこと遅遅たり。空闊くして涯りなし。鳥の飛ぶこと杳杳たり」(宏智『坐禅箴』)。この魚は、道元のいわゆる「魚行きて魚に似たり」の魚、この鳥は「鳥飛んで鳥のごとし」の鳥。魚は魚、鳥は鳥として立派に分節され区別されていながら、しかも、この鳥とこの魚との間には不思議な存在相通があり、存在融和がある。つまり、分節されているのに、その分節線が全然働いていないのだ、まるで分節されていないかのように。」

    —『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

    「 『無門関』第二十四則、宋代初期の臨済禅の巨匠、風穴延沼を主人公とする問答、題して「離却語言」。ある時、一人の僧が風穴に向って、前にも述べたコトバの分節機能に関する問題を投げかける。曰く、「語黙、離微に渉って、如何にせば通じて不犯なる」と。「離」とは一切事物の差別を離れ超えたところに現成する絶対無分節態。「微」とはその無分節者が経験的に自己分節した微妙な働き。言うまでもなく「語」はもの言うこと。例えば「花」とか「鳥」とか、語を発すれば、そのとたんに存在は花というもの、鳥というものに区別されてしまう。(勿論、これは普通の分節の事態を考えてのことである。)しかし反対に、「黙」して語らなければ、勿論、何ものも言語的に分節されはしないけれど、そのかわり存在の差別相は無視されてしまう。そこで、僧は言う、この両面をともに生かした形で呈示するには、一体どうやったらいいのか、と。黙っていても、口を開いても、存在の真相は死ぬ。しかも人間は常に必ず黙するか、語るか、どちらかの一方を選ばざるをえない。禅では修行道的によく活用されるアポリアだ。」

    —『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

    「分節されたもの(例えば花)が、その場で無分節に帰入し、また次の瞬間に無分節のエネルギーが全体を挙げて花を分節し出す。この存在の次元転換は瞬間的出来事であるゆえに、現実には無分節と分節とが二重写しに重なって見える。それがすなわち「花のごとし」といわれるものなのである。  この実に微妙な事態を見事に言い表わした有名な公案がある。或庵の「胡子無鬚」がそれだ。『無門関』に収められて第四則をなす。胡子(西方の異国インドから来た人)すなわち達磨、に鬚がない、という、ただそれだけのことだが、たった四語のこの言葉には、存在の幽深な真相が秘められている。我々の見慣れた絵に描かれる達磨は、きまって濃い鬚を生やしている。それなのに、彼の顔には鬚がない、と或庵は言う。有鬚でありながら、しかも無鬚。分節と無分節の二重写し。「胡子、甚に因ってか鬚無き」と或庵は我々に問いかける。現にちゃんと鬚が生えているのに、一体どうして一本も鬚がないのだろう、と。」

    —『意識と本質-精神的東洋を索めて (岩波文庫)』井筒 俊彦著

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    2026年08月29日
  • イスラーム文化 その根柢にあるもの

    Posted by ブクログ

    イスラムを理解するのに最もわかりやすい本だと思われる。ムハンマドが商業人であり、そこから起こったイスラムは、アラブの砂漠の民のイスラムとは全く異なる、という指摘は初めて聞いた。2分法で説明しており、内面に向くイランのシーア派と外面に向くスンニ派という分け方もわかりやすい。
     オイルショック後の経済界の人を前に3回の講演記録であるために、学生にとってもわかりやすく、いまではTedあたりで動画が出されるであろう。

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    2026年07月20日
  • イスラーム文化 その根柢にあるもの

    Posted by ブクログ

    イスラームの根本とも言えるような要素が平易な言葉を通じよく理解できた。歴史的事象を理解する上でも参考になると思う。ただ、考える重責を逃れ楽をしたいという人々の欲求を利用し、支配し、敵を破滅させるといった宗教の特徴は変わらないようだ。

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    2026年01月27日
  • イスラーム文化 その根柢にあるもの

    Posted by ブクログ

    イスラーム文化をイスラーム的にたらしめているものは何か

    イスラーム文化の独自性に迫る名著!
    イスラームというと、時局的な事件や歴史的背景の解説にとどまることが多いが、本書はその根本にあるイスラーム教そのものに光を当てている。

    キリスト教や仏教と並ぶ世界三大宗教の一つでありながら、現代でもたびたび社会を揺るがすイスラーム。その力強さの背景には、単なる信仰を超えて人々を動員する強大な教義がある。私自身、イスラームの「強さ」を人口増加や「子供を産み育てる」という行動様式に感じていたが、本書を通じてその一端に触れられたように思う。

    印象に残ったポイント

    1. 絶対帰依の宗教である
    イスラームをイスラームたらしめているのは「絶対帰依」。神に対する無条件の自己委託、絶対他力信仰の姿勢である。ムスリムという語そのものが「帰依する者」を意味しており、宗教の中核をなす。この徹底した信仰ゆえに、背信者やイスラーム法を破る者への処罰は厳しい。

    2. 世界性と強い共同体意識
    ユダヤ教やヒンドゥー教のような民族宗教と異なり、イスラームは普遍性を備え、血縁を超えてすべての人を受け入れる。そして契約によって結ばれた人々は、ムハンマドの権威のもと同胞となる。強い連帯意識を生み出す宗教である。

    3. 聖俗の区別を持たない
    キリスト教や仏教が「聖」と「俗」を区別するのに対し、イスラームは生活の隅々まで宗教が浸透する。コーランの教えはイスラーム法として人々を統治し、法を破ることは即ち神に背くことを意味する。政治をも包含する全生活的な宗教である。

    4. スンニ派とシーア派の違い
    スンニ派はイスラームの教えをもとに社会・政治体制を築く「外への道」。一方、シーア派は形而上学的な真理を探究する「内への道」として発展した。

    5. イラン政治の不安定さの背景
    シーア派思想は「絶対的な答えは存在しない」という前提に立つ。そのため人々は常に疑心暗鬼になり、政治的確実性を欠く傾向がある。イマームの意思を汲む哲人政治と、神から権威を与えられた王権政治の対立が繰り返され、その帰結としてイラン革命が起こったともいえる。

    イスラームの動員力の源泉は、神への絶対的信仰と、それを法のレベルまで具体化した点にあると実感した。個人の信仰から社会制度まで宗教が貫いている。なるほど、これでは強いはずだ!と腑に落ちた。

    時事的な説明にとどまらず、イスラームそのものを描き出す本として非常に貴重である。さらに、宗教書にありがちな著者の価値判断が極力排除されている点も好印象。入門書として最初に読むのに強く勧めたい一冊だ。

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    2025年08月17日
  • コーラン 下

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    離婚した場合の妊娠している女性とその子どもをどのようにするか、についても書かれていた。
     モスクではこのコーランのどの部分が読まれているのかがよくわからなかった。

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    2025年07月30日

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