「誰にとっても不寛容な社会」
排除アート。
それは特定の立場の人間を排除することを目的に造られたアート(もどき)である。
筆者は自己責任論が蔓延するこの日本社会の不寛容さについて、この排除アートなるものを元手に追及している。
排除アート。はて、何のことやら。
その実態は何と私たちの身近にあるもの
...続きを読むだった。
彼らはベンチやアートの体を成し、実に巧妙に弱者を排斥することを念頭に置かれた建築物だったのだ。
例えば近所の公園のベンチ。
巷ではひじ掛けが後付けされたものが散見される。
当方てっきり座れる人数を増やすための配慮だと受け取っていたが、本著を読む限りその可能性は著しく低いらしい。
そう。あえてひじ掛けを付けることで寝そべるという行為を拒否しているのだ。
権力の側の人間からすればそれはホームレス排除に繋がり、街の景観の改善や治安維持に繋がるという。
はたして、そんなことがあっていいのか。
ホームレスをその場からは排除したところで、また違う場所で彼らは暮らさざるを得ない。問題なのはホームレスが生まれる社会状況、経済の在り方ではないか。
それによそ見をし、ホームレスなのはお前の責任だ、だからおれの目の付く場所でうろつくなと言わんばかりに権力を行使する。
ましてやそれに神聖なアートが利用されているのだ。
そしてこれは社会的弱者、そしてアーティストを巻き込んだ問題にとどまらない。
今は住む家があっても、何かの調子に社会的弱者になる可能性のあるすべての人間にとっての問題。
つまり、私たち全員にとっての問題なのだ。
都市空間が差別と偏見、監視と抑圧にまみれた、まるでジョージ・オーウェル『一九八四年』の世界観へと人々が隷属してしまって、果たして良いのか。
私は危機感を覚える。
さて、
最後にタイトルにもある、誰のため?
本著は文量が少ないながらそれ考えるための一助になると同時に、都市空間に対する新しい知見を与えてくれるだろう。