金子薫の作品一覧
「金子薫」の「アルタッドに捧ぐ」「壺中に天あり獣あり」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
- 作者をフォローする
- フォローすると、この作者の新刊が配信された際に、お知らせします。
無料マンガ・ラノベなど、豊富なラインナップで201万冊以上配信中!
「金子薫」の「アルタッドに捧ぐ」「壺中に天あり獣あり」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
小説・文芸
小説・文芸
Posted by ブクログ
驢馬に跨ってメタ的なファンタジーの世界を旅する双子の姿に、『はてしない物語』の冒険者アトレーユとその愛馬アルタクスを彷彿した。異なるのは「少年と馬」でなく「双子と驢馬」であるということ、それから『はてしない物語』は「読み出す物語」であるのに対して、これは「書き出す物語」であるということだろう。
この作家さんは、「書くこと」に対してとても意識的なのだと思う。
自らが書いた物語の世界が、人物が、自分の知らないところで「この世界」に存在していて、そして自分に会いに来るという。
一度でも物語を空想したことがある人にとって、これ以上の歓びはないだろう。
デビュー作の『アルタッドに捧ぐ』に続いて、小説の中でそれを実現させたこの作家はきっと本当に物語を作ることが好きで、深い没入と興奮の中で小説を書いているのだろう。
親子が興じる遊戯が「囲碁」であるのも意図的だと思う。囲碁には「布石」という言葉があるから。
けれど最終的には、この物語は幾つものを布石を放棄して破綻してしまっている。もちろん意図的に。
歩き続ける双子が「すべてを忘れてしまった」というのは、「空想を広げ続けるうちに最初の着想を忘れてしまった」ということの寓意なのだろうか。
それから、目的地に着いたと思った途端に次の地図が渡されるというのも、次々と着地点のないままにふらふらと続いていく空想そのもののようだと思う。
この小説は、「小説」を書く以前の、物語を作ること、空想すること自体の楽しさを書いた物語だろう。
Posted by ブクログ
これは「境界」についての物語だと思う。
現実と夢、覚醒と眠り、現在と過去、小説と戯曲…。その間に確かにあるはずの境目は、とてもあいまいだ。その境目にはグレーゾーンが存在し、緩やかに一方から一方へと変化してゆく。あるいは、自分が覚醒していると思っていても、別の視点から眺めてみると、それは眠りの中なのかもしれない。一体どこから変わってしまったのか? 架空の町だと思っていたら、そこは「架空の町」という現実の町で、でも、現実だと思っていたら、リュトリュクという夢の中のような地域があり、それでは私は現実にいるのか? それとも夢の中にいるのか? ここは誰かの書いた小説の中なのか?
私が覚醒していることを証明することは出来ない。ここが小説の中ではないと断言することも出来ない。夢の体現であるような美しいアレパティロオオアゲハを守るために鳥を撃ち殺す鳥打ち達も、夜更けには夢の中だ。朝になれば目が覚めるかもしれないし、目が覚めないかもしれない。明日も鳥打ちは鳥打ちであるかどうかは分からない。
Posted by ブクログ
彼の想像力が好きだ。
驢馬は驢馬のことを言っているのか、飼育されているのは誰なのか、その寓意性とでも呼ぶべきものが、好きだ。
この物語は、小説を書くことについて語っているのだと思う。
双子が驢馬に跨って親子を助けに来るだろう、という想像。想像は創造され、まず驢馬がU夫妻の元へやって来る。やがて双子が誕生し、旅に出る。
書き始めたのは良いけれど、時にどこへ向かっているのか分からなくなることもある。それでも目指すべき結末へ向かって進んでゆく。後戻りは出来ない。
親子は外の世界へ出たいと望みながらも、監禁生活に甘んじているようにも見える。配下たちが食事を持って来る隙を狙って逃げ出すことは出来ないのか。四人がかりで壁を黒く塗りつぶす作業をしていた時には、逃げ出すチャンスもあったように思える。でも、ただ二人は絶望する。地図の作成から絶望、そして囲碁の世界への陶酔。
作者が道に迷っている時でも、双子たちの旅は続く。なぜなら、誕生した時点で、作者とは別の人格として意思を持ち始めるからだ。
そして一通の手紙が、交わるはずのない世界を交わらせる。まるで一冊の本が、現実の世界と物語の世界を交わらせるかのように。
双子たちは親子のいるペンション、つまり旅の終着点、結末であるはずの場所へたどり着く。しかし結末は結末とならず、むしろ始まりとなる。なぜ終われないのか。その答えが親子の現在の状況を示す、この一文なのだと思う。「最後の一局を目指して打ち始めたはずなのに、終わりなく打ち続けられたら、という思いが高まり、親子は名勝負の連続、その幸福に溺れていった。」
終わらせたくない物語、というものがある。意志を持ち始めた登場人物たちは物語の中で確かに息づき、物語の時間の中を生きる。その物語に寄り添っている時、私達もまたその物語の時間を生きる。時間に限りがあるように、またページに限りがあるように、いつかその物語は結末を迎えるはずなのだ。しかし登場人物たちが確かな存在として生きていればいるほど、その物語の時間から抜け出せなくなる。それは、物語としては幸福なことである。幸福でありながら、同時にそれは現実を捨てることをも意味し、失われていく記憶は、そのことを示しているのではないだろうか。
しかしこの小説は、別の観点からも読めると思う。その重層性は、とても美しい。