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Posted by ブクログ
bound proof 未校正版にて。
「書くこと」とは何か。そのことに対する逡巡。これはとても素敵な、そしてとても大切な作品だと思った。
書きたいけれど書いたことがない人は論外として、小説を書き始めたならば、避けては通れない問題がある。なぜ書くのか。いかにして書くのか。小説世界は作者が創るものだとしても、作者の思惑通りにすべてが進むわけではない。作者が創ったはずの登場人物たちにはそれぞれに感情があり、それぞれの為すべきことを為す。だから作者は、書き手であり、同時に第一の読み手でもあるのだ。本間は書き始め、モイパラシアの死によって書くことの孕む問題に突き当たり、そして怖くなって物語を葬る。しかし既にモイパラシアもアルタッドも、そしてアロポポルも存在を始めており、物語を葬ったところで、その事実は覆せない。それは強迫観念であり、また同時に希望でもあると思う。それは、本間が再び書き始めるための、希望だ。
モラトリアム、と言ってしまうことは簡単だ。しかし人間には、人間らしく生きるために思索の時間が必要なのだと思う。ただ思索をするためだけの時間が。その思索の時間を経るからこそ、次に進むことが出来る。それで再び書き始めることが出来ないならば、それまでのことだ。
書くことの歓喜と恍惚。書くことによって汚される物語世界。言葉とは、何か。書かなければならない人間は不幸だ、と誰かが言っていたけれど、これは書きたいとか書きたくないとかの問題ではない。「書かなければならない」のだ。書かずに済ますことは出来ない。書かないことは死を意味する。だから、書く。歓喜と恍惚を与えてくれるような言葉。本間と亜希が点描によってアルタッドの生きた証を描き出したように、書くことで何か大切なものを掬い取れるかもしれないから、そんな奇跡のような一瞬を求めて、書くのだ。
この作品の中で一つ気になったのが、「さて」と「ところで」の使い方だ。この二つの接続詞によって、所々文章が分断されている感じがする。この接続詞だけが宙に浮いているような。これはわざとそうしているのだろうか。
しかしこの作品は間違いなく、美しい小説だった。
Posted by ブクログ
小説の主人公である少年が作者の知らないうちに死に、現実の世界には少年から託されたトカゲのアルタッドとサボテンが出現する。架空のものだったはずのそれらを、現実世界で育てていく作者(小説家志望の大学院浪人生)の話。
設定こそ奇妙でシュールだが、テーマは「書くこと」とそれによって与えられる「命と死」である。物語からこぼれ落ちてしまったトカゲとサボテンの飼育を通して、作者は書くことの根源、意義を真っ向から見据えて、ラスト数ページで明らかにしている。
トカゲとの生活はリアルで、微笑ましい。爬虫類は得意でない私ですら、愛着が涌くほどだ。小説が完成したとき、アルタッドは現実の世界から消えてしまうのだろうな。
元恋人との距離感も絶妙だ。
頭でっかちで堅苦しくなりがちなテーマを、じつにうまくアレンジしている。
文藝賞を受賞したデビュー作で、大学院在学中に執筆したそうだ。新鮮さに今後どんな魅力が加わるか、楽しみな作家だ。
Posted by ブクログ
献本企画にていただきました。
突拍子のない始まりから続くリアルの物語。正直あらすじを読んだ時からこれはどういう意味だろうと思っていたのだけれど、本当にそのままの意味だった。作中で死ぬはずのなかった人物が死ぬという不可思議な事態に陥るのは面白い。現実にはありえない非現実性が逆に魅力に思えた。
固有名詞に少し引っ掛かりは覚えたが、文章は読みやすい。アルタッドに対する思いが溢れていて、思わずトカゲ飼いたくなった。
しかして現実にはありえない現象である。不意の出来事で筆は止まり、書くことは頓挫した。その代わりにアルタッドの世話を焼くがそれでは前に進まない。やる気がうすく、現実を直視したくなくて逃げる言い訳を探している。
「書くこと」それ自体は少しでもしたことがある人なら完結させることの大変さがわかるかと思う。言い訳を探して書かないことなんざ、日常茶飯事。気分が乗らない、夢見が悪い。箪笥の角で小指をぶつけた。さまざまな言い訳ができる。けれど書き上げることができたなら、そこには奇妙な高揚感がうまれるだろう。主人公は書くことではなく描くことで、その気持ちを思い出したように思う。
迷子たちを再び物語のなかに帰してやる、という表現がなんともその気分の高まりを表しているようにも思える。
Posted by ブクログ
第51回文藝賞受賞作 刊行前サンプル版レビュー。
理屈をこねるような文体なのだが、言葉選びは適確のようで、物語の終結点までの流れは淀みなく体に浸み透った。本質的にとまでは言わないまでも、作者の言わんとする恍惚や高揚が生に対して持つ意味、あるいは死に向かい合う緊密な距離のようなものを享受できた。そんな気がする。
本間は人間の本性をある程度バランスよく備えた人格を持っていて、だからこそ生きているということが死んでいくことと同義であることも心から理解している。
モイパラシアの生を受け継ぐかのような始まりだったが、本間の生を彼のものに戻し、彼の死をあるべき位置にまで遠ざける契機を与えたのが、亜紀であることは意外だった。
「点描の恍惚の夜」を迎えるまで、アルタッドとの関わりはアロポポルと同じくモイパラシアの残像としてのそれだった。
しかし本間自身の学生時代…彼には大切だった時間の共有者であると同時に、彼と現実社会を軋ませることなく繋いでいる唯一の存在である亜紀が、まるで触媒のような働きで、本間の生と死を本間の中に取り戻したように感じる。
そう言えば、妄想の産物であり、実体など存在しないはずのアルタッドに亜紀は触れ、餌をやり、絵に描く。
亜紀もまた、本間の一部。そんな陳腐な言い方しか浮かばないが。
ものを書くひとりの人間が、ものを書くという行為それ自体に倦み、取り憑かれ、現実の中に非現実を生み出す狂気。彼の言う積極的諦念はアルタッドとの穏やかな暮らしの中で醸成され、生が死の対極ではないことをも悟らせてくれたのだと思う。
心地よく、本当に心地よく読み終えた。清々しい。だからこそ、一部の文学愛好者には物足りないかもしれない。私には丁度良い。
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