あらすじ
僕の考えていることが本当に正しいかどうか、わからない。でもこの場所にいる僕はそれに勝たなくてはならない。これは僕にとっての戦争なのだ。「今度はどこにも逃げないよ」と僕はクミコに言った。「僕は君を連れて帰る」僕はグラスを下に置き、毛糸の帽子を頭にかぶり、脚にはさんでいたバットを手に取った。そしてゆっくりとドアに向かった。(本文より)
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Posted by ブクログ
クミコと私。夫婦関係は良くも悪くもなく普通。
猫が居なくなった。
謎の女から電話。加納マルタと加納クレタ。
クミコがいなくなる。手紙が届く。
ねじまき鳥。綿谷ノボルの警告。苛立ち。
間宮中将の戦争話。
井戸の中から想像の世界へ。顔にアザができる。
加納クレタと関係を持ち海外に行かないか誘われる
断る。新宿にいて間宮中将の言っていたように人をとにかく眺める。赤坂の女、ナツメグに合う。
ナツメグの仕事を引き継ぐ。井戸のある場所を買い、久美子を取り戻す決意をする
ねじまき鳥クロニクル。ナツメグの父の戦争時代。顔にアザがあったことを知る。間宮中将の過去。
井戸に入り、綿谷ノボルがバットで殴られたニュースを見る、逃げ出し208号室に。いつもの女がいる。
他の男が入ってきて、バットで殴り殺す。夢から覚め、井戸に水が出ていることに気づく。死を覚悟したがシナモンに助けられる。現実ではあざが消え、綿谷ノボルが脳溢血で倒れる。シナモンのパコソンにクミコから連絡。これから綿谷ノボルを殺しに行くとのこと。笠原めいのところに行く。久美子は判決を待っている。
Posted by ブクログ
主人公が妻を救う、或いは悪に向き合うことを決心する第二部の結末に続く第三部。これまでどこか頼りのない人物像であった主人公像から良い意味での変化/ギャップがあり、長編ではあるが一気読みできた。個人的に示唆深かったと思うのは、笠原メイからの幾つもの手紙が全て主人公には届いていなかったというもの。本作に於いて、笠原メイは救いというか、主人公の思考の補助線のような役割を果たしていると解釈しているが、これが実際には届いていなかった、つまり岡田トオルは自ら悪/闇に立ち向かったということが最後に明確化された。そのことが終盤に明かされたとき、補助線を引かれていたのは、この本を読んでいる自分/読者の方ではないか?と不思議な感覚にさせられた。
結果的に、妻は主人公のもとには戻って来ることなく物語は結末を迎える(主人公は妻の出処まで待つと言っているが)ことになるが、ある意味に於いて、2人は共闘し悪に立ち向かったのだと思う。岡田トオルは井戸に降り、クミコは引き籠り、夫々が自身に内在する或いは影響が避けられない悪に向き合った。長編ではあり、幾つものエレメントが複雑に絡み合っているが、この本からはどこか昔話というか、物語性を強く感じた。
特に印象に残った箇所は以下の通り
・そしてそういういろんなちょっとしたものの助けで(もちろんねじまき鳥さんは「ちょっとしたもの」なんかじゃないけれどね、まあいちおう)、私は少しずつ「こっち」に戻って来ることができます(p.237~238)
・さて私は思うのですが、世の中の人々の多くは人生とか世界というのは、多少の例外はあるものの、基本的にシュビ一貫した場所であると(あるいはそうであるべきだと)考えて生きているのではないでしょうか(中略)なにかが起こると、それが社会的なことであっても個人的なことであっても、人はよく「つまりそれは、あれがこうだから、そうなったんだ」というようなことを口にして、多くのばあいみんなも「ああそうか、なるほど」となっとくしてしまうわけだけれど、でも私にはそれがもうひとつよくわからないのです。「あれがこうだ」「だからそうなった」というのは、ちょうど電子レンジに「茶碗むしのもと」を入れてスイッチを押して、チンと鳴ってふたをあけたら茶碗むしができていたというのと同じで、ぜんぜんなんの説明にもなってないんじゃないかしら(p.261)
・ねえ岡田さん、一人の人間が誰かを憎むとき、どんな憎しみがいちばん強いとあなた思いますか?それはね、自分が激しく渇望しながら手に入れられないでいるものを、苦もなくひょいと手にいれている人間を目にするときですよ(p.432)