【感想・ネタバレ】ねじまき鳥クロニクル―第2部 予言する鳥編―(新潮文庫)のレビュー

あらすじ

「今はまちがった時間です。あなたは今ここにいてはいけないのです」しかし綿谷ノボルによってもたらされた深い切り傷のような痛みが僕を追いたてた。僕は手をのばして彼を押し退けた。「あなたのためです」と顔のない男は僕の背後から言った。「そこから先に進むと、もうあとに戻ることはできません。それでもいいのですか?」(本文より)

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Posted by ブクログ

ネタバレ

妻クミコの失踪、義兄綿谷ノボルの選挙出馬、また主人公岡田亨の自宅付近の井戸での不思議な体験など、これまでの日常生活が徐々に一変している。井戸の水は相変わらず涸れているが、彼は井戸の中に入り、しばらくの間そこで過ごした。そんな中、岡田は夢と現実の境目が曖昧な時空間に佇む。その後も彼は不思議な出来事に遭遇し、ギリシャへの旅を誘われたが、彼は結局、自宅に留まり、妻の行方を追うという、これまでの村上春樹作品とは少し異なる展開を迎える。

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2025年04月27日

Posted by ブクログ

ネタバレ

この作品だと叔父さんがそれにあたるかなと思うけど、自分でものを考えて主人公と接点を持つキャラクターの言葉がすごく刺さる。

家出されたり、閉じ込められたり、突き飛ばされたり、殴られたり、澱んだ展開がきつかったけど、最後あたりで少し救われた。必要とされていたんだと思うと勇気出るよね。よかった。

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2025年02月09日

Posted by ブクログ

ネタバレ

犯人あてのミステリー小説ってわけでもないから書いちゃうけど、電話の主が奥さんのクミコだったのと、クミコが主人公のもとを去った理由が不特定多数の男と寝ていた(その衝動が抑えられなかった)からというのは、なんとなーく想像がついていた(^^ゞ
それは、第一部にある、クミコの“あなたは疲れていても誰にもあたらないでしょう。あたっているのは私ばかりみたいな気がするんだけど、それはどうして?”のセリフからだ。

「第一部:泥棒かささぎ編」の感想でも書いたけど、主人公の岡田亨と奥さんのクミコっていうのは似たもの同士すぎるのだ。
お互いの出たところと引っ込んだところがうまく噛み合わない、つまり、岡田亨が出ているところはクミコも出ていて、岡田亨が引っ込んでいるところはクミコも引っ込んでいる、そういう者同士なわけだ。
お互いに惹かれ合って、付き合いだすわけだけど、その相手の惹かれた部分っていうのは、その部分が自分とそっくり同じだったからこそ、惹かれたんだと思う。
相手に自分を見出して、それに惹かれるというのは中二病的ナルシシズムでしかない。
そんな男女の関係が続くわけないし、ナルシシズムだからこそ、自分が嫌な自分の部分が相手にも同じようにあることに気づくはずだ。

つまり、二人がそのよい関係を続けたいのなら、変わるしかない。
でも、人というのはそれに気づけない。
なにより、人は変われない。
でも、変わらなければそれは続かない。
続かないことを無理に続けようとすれば、人はいつか壊れてしまう。
奥さんのクミコが疲れやストレスから徐々に壊れていく中、ふと他の男と寝てしまったことがきっかけとなって、不特定多数の男の体を求めるようになっていったのは、人として必然なんだろう。

クミコがそういう風になっていったその気持ちや衝動をイメージできない人は多いと思う。
でも、どんな人の中にもそういう気持ちや衝動はあって、何かのきっかけでそれが暴走しだすということは誰にも普通に起こりうることなんだよ。
クミコの気持ちや衝動が理解できないという人は、幸いなことに、その何かのきっかけがないから気づかないだけだ。

それは、第一部でクミコが岡田亨に言った、“あなたは疲れていても誰にもあたらないでしょう。あたっているのは私ばかりみたいな気がするんだけど、それはどうして?”というう言葉からみても明らかだ。
それを言ったクミコのように、仕事の疲れやその他ストレスで、自分が一番信頼して安心できる相手に身勝手にあたり散らすことは誰にでもあるはずだ。
でも、普通はあたり散らした人もあたり散らされた人も、それとは関係のない何か楽しいことでそれを忘れることが出来る。
でも、クミコはそれを忘れることが出来なかった。
だから、クミコはひょんなことから他の男と寝たことをきっかけに、不特定多数の男の体を求めるようになっていったんだし。
そんな風におかしくなった自分をなんとか止めてほしくて、自分を罰して欲しくて。
だからこそ、一番信頼していて安心できる旦那の岡田亨に淫らな電話をかけたのだ。

ただ、これは小説であって、現実の男と女ではないから。
そこには、クミコの兄である綿谷ノボルから受けた精神的暴力(?)が大きな原因となっていて。
その原因を取り除けば、クミコはまともなクミコに戻って、岡田亨とハッピーエンドというフィクションを描けるんだろうけどね(^^ゞ
(実際、第三部はそれに近い展開になる)

自分は、この『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいた時、頭の中で、ビートルズのAcross the Universeと、ドン・ヘンリーのThe End of the Innocenceが繰り返し流れていた。
それこそ、第二部の途中からは、主人公の岡田亨が何か言うたんび、♪Nothing’s gonna change my world〜って歌っていたくらいだ(爆)

著者がこの小説に、個人に降りかかる理不尽な組織的な暴力みたいなことをテーマとして込めたらしいことは、なんとなーくわかる。
でも、自分としては、そんなことはどーでもよくって。
ていうか、岡田亨とクミコのこの話になんでその要素が入っているのだろう?と全然わからなかったんだけどw、とはいえ、そこは村上春樹。
たぶん、その要素を入れることで、村上春樹が心がけているという、読者が“平易で親しみやすい”ようにしているってことなのかな?、とも思った。
ただ、ウィキペディアに書いてあるのは、“平易で親しみやすい文章”だからなぁー。
ま、その暴力の話には戦争の話もからんでいるわけで、全然親しみやすくないじゃん!って話ではあるのだが(^^ゞ
ただ、著者としては、もろに男女の関係の、あるいは夫婦の危機の話としてしまって、ドロドロとした昔の文学になってしまうよりは、そっちの方がいいと考えたっていうのはあるんじゃない?
だって、『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』のあの文章を書いた人だよ。
子供心にも暗鬱だった70年代が終わろうとしているあの頃に当たり前だった、辛気臭くて大げさに深刻ぶった文学ばかりの中、ああいう小説を書くような人が、わざわざ60年代の文学や昔の昼のメロドラマの定番みたいなことをテーマにして書こうとは考えないと思うけどなぁー。


そういう意味で、この第二部のなんとも生温くやりきれない結末はすごく納得出来たし。
なによりよかったと思う。
だって、結局、岡田亨は最後まで、♪Nothing’s gonna change my world〜と叫ぶだけで、自分が変わらなければクミコは戻りたくても戻れないってことがわからなかったんだもん。
というか、岡田亨とクミコは別れた方が、お互い楽に生きることが出来ると思うのだ。
人というのは理想よりも、肩肘張らないで生きていく中で手に入れられる、言わば等身大の幸せを手に入れるためにいろいろ頑張ることの方が大事なんじゃないかな?

実は、この『ねじまき鳥クロニクル』の後、『1Q84』を読んでいるんだけど、それを読んでいても、つくづく思うのは、村上春樹の小説に出てくる主人公って、なんで必ず自分の近くにいる(いてくれる)自分と釣り合った相性のいい相手を振り切って、お互い不幸になるだけの相手を追うのだろう?ということだ。

いや。もちろん、この『ねじまき鳥クロニクル』の岡田亨が加納クレタとクレタ島に行って結ばれ、『1Q84』の天吾が千倉で安達クミと暮らすことになっちゃったら、小説として面白くもなんともないわけだけどさ(爆)

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2024年05月01日

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