あらすじ
かつて科学者の大反発を浴びた異端の考え方――「人間原理」。この宇宙は人間が存在するようにできている、という一見宗教のような見方が、21世紀に入った今、理論物理学者のあいだで確実に支持を広げている。なぜか? 宇宙をめぐる人類の知的格闘の歴史から最新宇宙論までわかりやすく語る、スリリングな科学ミステリー。科学書の名翻訳で知られる青木薫の初の書き下ろし! (講談社現代新書)
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Posted by ブクログ
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科学の面白い所って、人間っていうものを重要視してない所なんだよね。人によってはそれが嫌だって言うのかもしれないけど、私からするとここが面白くて堪らないポイントだな。だって文系分野とか宗教って絶対人間がデーんってあってそれ以外は矮小化されてるじゃん。でも科学にとって人間は空気の粒子のひとつとかその辺に舞ってる埃とかと価値が等しいんだよね。そのものの見方が面白すぎてやめられない。そんなヤバイものの見方してるやつ居たら頭おかしすぎて友達になりたいもん。
青木薫
1956年、山形県生まれ。京都大学理学部卒業、同大学院博士課程修了。理学博士。専門は理論物理学。翻訳家。サイモン・シンの一連の著作『フェルマーの最終定理』『暗号解読』『宇宙創成』(以上、新潮社)をはじめ、ブライアン・グリーン『宇宙を織りなすもの』(草思社)、マーシャ・ガッセン『完全なる証明』(文藝春秋)、マンジット・クマール『量子革命』(新潮社)など、数学・物理学系の一般向けの書籍から専門書まで幅広く手がける。数学の普及への貢献により2007年度日本数学会出版賞受賞。本書は初の書き下ろしとなる。
宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論 (講談社現代新書)
by 青木薫
古代ギリシャの数学は、紀元前六世紀ごろに活躍したピュタゴラスに始まり、彼が設立した教団とその流れを汲む人たちが、ひとつ、またひとつと幾何学の定理を証明するうちに徐々に成果が蓄積されて、紀元前三世紀に、エウクレイデス(ユークリッド) の『原論』(ギリシャ語で「ストイケイア」、基本命題集というほどの意味) としてひとつの頂点に達した──というのが、長らく定説だった。今もたいていの本にはそう書いてあるので、きっとみなさんもそのように記憶しているだろう。
古代地中海世界で生まれた二つ目の宇宙像は、今度こそほぼまちがいなくピュタゴラスに発し、プラトンからアリストテレスへと引き継がれた、有限な「コスモス」像である。コスモスという言葉通り、それは秩序ある宇宙だった。 もともとピュタゴラスは、「大地は球形をしており、他の天体とともに、宇宙の中心火のまわりに円を描いて運動している」と考えていたと伝えられている。つまりは、一種の地動説である。
たとえば、若き日のマキャベリは、『ものの本性について』をまるまる一冊、自ら書写し、所有していたことが現代の研究により明らかになっているし、前章で登場した知識人モンテーニュは『随想録』の中で、ルクレティウスの文章を百ヵ所以上も字句通りに引用している。こうして、古代の原子論と無限宇宙の考え方はよみがえり、知識人のあいだにじりじりと支持を広げていった。
では、その物質世界を、神はどのようなものとして創造したのだろうか? ニュートンはその点に関して、『プリンキピア』を書き上げたころを境に考えを変えたようである。『プリンキピア』とは、正式名称を『自然哲学の数学的諸原理』といい、古典力学を確立し、ニュートンの重力理論(いわゆる万有引力の法則)を打ち出した、近代自然科学の歴史上おそらくはもっとも重要な著作である。
絶対空間と絶対時間にもとづくニュートンの古典力学体系は絶大な成功を収め、ニュートンの無限宇宙は、それから二百五十年にわたり科学的宇宙像であり続けた。しかしその宇宙は、神がたえず介入していなければ重力崩壊する宇宙だったのである。
ニュートンの無限宇宙に潜んでいたこの深刻な問題に立ち向かったのが、二十世紀が誇る知の巨人、アルベルト・アインシュタインである。 一九〇五年にアインシュタインはまず、ニュートンの絶対空間と絶対時間を解体し、新たに「時空」という概念をもたらすことになる特殊相対性理論を発表した。それからおよそ十年後の一九一六年、彼はその特殊相対性理論に重力を取り込んだ一般相対性理論を発表する──それはニュートンの重力理論を包含する、アインシュタイン版の重力理論だった。
だがリーマンの登場により、そんな状況が変わりはじめる。リーマンは、幾何学的な空間のいたるところで、空間が自由に伸び縮みできるような幾何学──リーマン幾何学(微分幾何学) ──を創始したのである。
宇宙が「誕生した」というからには、宇宙を誕生させた何者かが存在するにちがいなく、その何者かは「神」ということになりそうだった。そんなあからさまに宗教臭い説を、カトリックの司祭だというルメートルが唱えたとあって、ほとんどの物理学者は激しく反発した。アインシュタインもルメートルに面と向かって、「あなたの数学は正しいかもしれないが、あなたの物理学は忌まわしい」と言ったというから、相当なものである。じっさい、その当時は多くの物理学者が、宇宙には始まりがあるというその説を、キリスト教の逆襲だと受け止めたのだった。
アウグスティヌスはキリスト教の歴史上、もっとも尊敬される人物のひとりであり、その魂の遍歴をつづった著作『告白』は、今日なお世界中で読み継がれている。わたしがはじめてアウグスティヌスの『告白』を読んだのは、一九八〇年代の後半のことだった。彼の半生の回想に当たる前半部分(岩波文庫『告白』上巻) を読み終え、有名なアウグスティヌスの時間論が含まれる後半(下巻) に進んだとき、わたしは「えっ!」と驚いた。アウグスティヌスが、神の全知全能性にもとづいて論証する時間と空間の創造が、ビッグバン・モデルが描き出す宇宙誕生の考え方に酷似していたからである。
そこでわたしは当然のごとく、こう考えた。カトリックの司祭だったというルメートルの膨張宇宙説は、キリスト教神学に根ざしていたとみてまずまちがいないだろう。キリスト教文化圏である西欧でビッグバン理論がすんなり受け入れられたのは、そんな宗教的な土壌があったからなのだ、と。
しかし、その後知ったことだが、わたしのその考えは、偏見にもとづくありがちな思い込みだった。「ビッグバン理論はキリスト教思想から生まれたのだろう」というのも、「欧米にはキリスト教の土壌があるから、ビッグバン理論はすんなり受け入…
現実には、ルメートルは信仰と科学という二つの道を切り離しておくことに心を用い、なおかつその両方を生涯追求した希有な人物だったし、キリスト教神学との類似性は、ビッグバン理論にとって大きなハンデにはなっても、何の得にもならなかったのである。キリスト教文化圏の物理学者たちは、ビッグバン・モデルを歓迎するどころか、科学に宗教を持ち込むものだとして…
ボンディはその『宇宙論』の中で、まずはじめに「原理的な諸問題」をいくつか取り上げた。当然というべきか、そこには有名な「コペルニクスの原理」も含まれている。というよりむしろ、「コペルニクス」の名前と「原理」という言葉とを結びつけて、「コペルニクスの原理」という言葉を作ったのは、じつはボンディなのである。彼は、「論理に飛躍もあり、中途半端で不完全ではあるが」としながら、「コペルニクスの原理とでも呼ぶべきものがある」として、「地球は特別に恵まれた場所に位置しているわけではない」という考え方がそれだと説明した。
二十一世紀の今日から振り返ってみれば、二十世紀の後半は、たしかにボンディが説いた通り、ミクロなスケールの物理学と宇宙スケールの物理学との深いつながりが明らかになった時代だったといえる。そんな状況の象徴として物理学者がよく持ち出すのが、自分の尻尾に嚙みつくヘビ、ウロボロスのイメージだ(図3‐1)。
もうひとり、コインシデンスの問題に深く関心を寄せたのが、二十世紀の物理学に華麗な足跡を残した天才、ポール・ディラックである。
しかし、そんな人間中心主義的な考えは到底受け入れられない、とディラックは考えた。そして彼はその代わりに、宇宙の年齢が大きくなるにつれ(つまり、時間が経過するにつれ)、重力の強さが変化するのではないかと考えたのである。初期宇宙では重力が強く、その後だんだん弱まったのだとすれば、この関係はあらゆる時刻で成り立つ関係となり、われわれ人間の存在するこの時代を、何か特権的な時代と考えなくてもよくなるからだ。
ここには人間の自己中心主義に対するディラックの警戒心が見てとれ、それ自体として興味深い。ディラックは、そんな人間中心の考えを受け入れるよりは、物理定数はじつは定数ではなく、時間とともに変化するという、大胆な説を取るほうを選んだのである。
科学は、われわれ人間のありようとは関係なく、その外側に広がる宇宙を理解しようとしてきたのではなかったのか? カーターは、ボンディの言う完全宇宙原理の代わりに、何を受け入れなければならないと言っているのだろうか?
じつを言えば、宇宙の年齢に一定の制約があるということに気づいたのは、カーターが最初ではなかった。カーターの発表よりも十年ほど早い一九六一年に、ロバート・ディッケ(宇宙マイクロ波背景放射の検出で遅れをとり、ノーベル賞を逃したあのディッケ)が、そのことを指摘していたのである。
この世界を理解する方法のひとつとして、「目的」という考え方を体系的に打ち出したのは、やはりと言うべきか、万学の祖アリストテレスだった。 彼は、「ものごとは、なぜそうなっているのか?」という問いに対しては、原因を示して答えなければならないと考えた。ものごとは多面的なので、ひとつの原因だけで説明できてしまうということはなく、探究にはいくつものアプローチがあり、それに対応していくつもの原因があるというのは当然のことだろう。 しかし基本的な型は四つだ、とアリストテレスは考え、それらを「質料因」「形相因」「動力因」「目的因」と呼んだ。
物理学者は、この「起こりうることはかならず起こる、何度でも起こる」という考え方を、空気のように吸い込んで物理学者になっている。それはいわば物理の世界の暗黙の了解、一種の常識なのである。しかしそれは量子的な世界での常識なので、日常的な古典物理学にもとづく常識からすると、なぜそんなことが言えるのかと不思議に思われるかもしれない。これはけっこう重要なポイントなので、簡単に説明しておこう。
──「なぜ自分は今の今まで、 λ はゼロだと決め込んでいたのだろう」と。 たとえば、ポルチンスキーという著名なひも理論家は、「 λ がゼロでないという観測結果が出たら、自分は物理学をやめる」と言っていたそうだ。しかしそのポルチンスキーも目から鱗が落ちたらしく、前言を撤回し、今も活発な研究を行っている。
物理学者は学生のころから、数式をいじって出てきた結果を鵜吞みにせず、その物理的意味をしっかり考えるという態度を叩き込まれる。そんなわけで、数学的な理論から導き出されたものに対しては、物理学者はちょっと意外なほど慎重なところがある。 もちろん、理論から出てきたものに対して慎重なのは健全な態度というべきだろう。しかし、物理学の歴史を振り返ってみれば、物理学者よりも自然のほうが大胆だったということが、たびたび起こったのも事実なのである。物理学者が「単なる数学だ」と言ってしりぞけた奇想天外なアイディアを、自然がちゃっかり採用しているということが度重なったのだ。スティーヴン・ワインバーグは、そんな物理学者たちの過度の慎重さに警鐘を鳴らして、「物理学者は理論を信じすぎるのではない。信じ方が足りないのだ」と述べた。
しかし、本当にそうなのだろうか? 本当に科学は、白黒はっきりさせられるものなのだろうか? わたしはその考えに懐疑的である。というのも、科学においては、何かが絶対に白であることを保証してくれるような、疑うべからざる真理──宗教なら啓示に相当するようなもの──は存在しないからである。 どこまでいっても白黒確定せず、それぞれの結果はどの程度信用できるのか、どんな根拠に裏づけられているのかと、たえず足元を確認し続けなければならないのが科学なのだと思う。その意味で、科学はつねにグレーの階調の中にあると言えよう。むしろ、足元を確かめながら知識を更新していけることこそが、科学の本領であり、強みなのではないだろうか。 原子やクォークやブラックホールの実在性は、今ではほとんど白に近いといえる。それにくらべると多宇宙ヴィジョンは、はるかにグレーの色味が濃い。それでも多宇宙ヴィジョンはすでに、更新可能な科学的知識という領域の中に入り込んでいるように思われるのである。
つまるところ、人は誰しも、自分が生きる時代の文化と手を切ることはできない。科学者とて、それに関してはほかのどの分野の人たちともなんら変わるところはない。それどころか、もしも科学者が時代と完全に切り離されていたとしたら、まともな仕事はできないだろう。科学者はその時代その時代に、今、何が重要な問題なのだろうかと知恵を絞り、手持ちの道具を使って、目の前の問題に立ち向かうしかないのだから。
後世から見れば的外れだったり、トンデモだったりするような問題意識に駆り立てられていたとしても、それぞれの時代の深い問題に立ち向かうことで、科学者は知識の更新に貢献することができる。過去の巨人たちがどんな色眼鏡をかけていたとしても、続く世代の科学者たちはその肩の上に立ち上がり、新たな眼差しで少し遠くまで見ることができるのである──現代の科学者たちもまた、この時代に特有な色眼鏡をかけているにしても。
Posted by ブクログ
感動した。コペルニクスの話からマルチバースに至るまで、知っているといえば知っている話だが、人間原理という観点からまとめあげて納得させる著者の力量はさすがだと思う。そして行間に垣間見える、宇宙科学に対する思い入れの深さに共感を覚える。ところで人間原理的な観点から見ると、我々はこの宇宙の中で孤独な存在なのだろうか。
Posted by ブクログ
本書では、宇宙論の歴史について、その中で人間中心主義がどのように扱われてきたかを軸に描かれている。
古代から、コペルニクス、ニュートンなど多数の科学者の長年の研究を経て、宇宙はあらゆる物理定数が今のような値でなければ存在しえないことが明らかにされるに至り、アインシュタインが究極のテーマと位置付けたのは「神が宇宙を作ったとき、ほかに選択肢はあったのだろうか?」、即ち「宇宙はなぜこのような宇宙なのか?」ということであった。
それに対して20世紀半ばに出てきたのが、「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないからである」という、一見科学的ではない「人間原理」と言われる考え方であった。
そして、その後の研究で、「インフレーション・モデル」、「ひも理論」いずれからも、宇宙は無数に存在するという「多宇宙ヴィジョン」が導かれ、アインシュタインの究極のテーマは、「われわれは存在可能な宇宙に存在しているだけであって、この宇宙がこのような宇宙なのはたまたまなのである」という答えが得られそうなのだと言う。
しかし、この結論は、人間中心主義を排除することによって進歩を遂げてきた現代科学において、「未来永劫観測することのできない多宇宙ヴィジョンは、科学と呼べるのか?」という、科学についての究極とも言える争点を提示しているのだとも言う。
この論争にいつか決着のつく日は来るのだろうか。
(2014年5月了)
Posted by ブクログ
サイモンシンの「宇宙創成」と話が重複する部分があるが、本書で紹介している人間原理は非常に興味深い。
宗教的価値観におちいることを恐れるあまり、偶然の排除と客観性に必要以上に囚われた科学的考え方に対する問題提起。
「この宇宙がこのようにできているのは、そうできたからだ」という、まるで聖書のような文に納得させられる。
我々人間がこの宇宙に存在してこうして宇宙を観測するためには、宇宙の物理法則や定数はこうなる以外になかった、そうでなければ我々は存在し得ないという観点。
”神”はいくつも宇宙を作り、それぞれにでたらめな初期値(=物理法則、定数)を与えたかもしれないが、我々が生まれて観測できるのは「この宇宙」だけだから、この宇宙が人間に都合のいいようできているのは必然。
Posted by ブクログ
人間原理とはなにか。「宇宙がなぜこのような宇宙であるのかを理解するためには、われわれ人間が現に存在しているという事実を考慮に入れなければならない」という考え方のこと。作者は古代メソポタミアまでさかのぼり、人間原理とはなにか、なぜそんな考え方が生まれたのか、そしてその教訓は何であるのかをあきらかにしていく。
なぜ歴史をたどることが必要なのか? 宇宙論の歴史が、神が世界をどうつくったのか、そのなかで地球がどのような地位にあるのかという問いへの答えとして進化してきたからだ。たとえば本書では地動説を打ち出したコペルニクスが「人間を宇宙の中心から追い出した」犯人ではなく、「人間は特別な存在」だと思っていたことが明かされる。キリスト教的世界観では、天に近いほうがよい場所であり、中心=下の方は地獄であって、コペルニクスは地球をよりよい場所に位置づけたのだ、なんてことは本書を読んで初めて知ったことだ。
第2章から、天の全体像を人間はどう考えてきたのか、宇宙論がなぜ出てきたのかと話がすすんでいく。ニュートンの宇宙では、重力の作用により、宇宙がそのうちひとかたまりになってしまうこと。アインシュタインの宇宙で「宇宙が空間的に閉じている」なら「地の果て」が存在しなくなることになり、ひとつの回答を得たこと。ところがそうした静的な宇宙観を破るビッグバン・モデルが徐々に力を得ていったこと。そうした背景のもと、「人間原理」がなにを提起したのかが描かれる。
「宇宙がなぜこのような宇宙であるのか」という問いは、「各種の物理定数がなぜこのような値を取るのか」と言い換えることができる。しかし、「人間原理」はその問いに意味があるのかどうかを問題にする爆弾のようなものなのだ。
サイモン・シンの一連の著作などの翻訳で、すばらしい仕事をされている著者。自分で書いている本書も、訳文以上に読みやすく、一度で理解できて、さらに読者をぐいぐいと先に引っ張っていく力強さがある文章で書かれている。新書1冊で、これだけまとまりのある、内容のある宇宙論が読めるのは幸せなことだ。
Posted by ブクログ
非常に分かりやすい!
分かりやすいんだけど、相変わらず「宇宙」というものは分からない。
人間原理というおよそ科学的ではないと思われていた考え方により、宇宙の起源・有様を考える。
なぜこのような宇宙なのか=たまたま人間が存在しているこの宇宙を、人間が観測しているから
言われてみれば、まぁそうかもしれないと納得。
つまり、宇宙はユニバースではなくマルチバースでありメガバースだった。
たくさんある宇宙の中の1つの宇宙たまたま我々人間が存在しているだけ。
現在では証明不可能のようだけど、いつの日か科学者が明らかにしてくれる日が来るだろう。
ロマンだ!
わかりやすい宇宙論
サイモン・シンの著作の翻訳などで知られる青木さんの宇宙論の本。
とにかくわかりやすい!
まさに入門編といった感じで、
古代から現在までの宇宙論の流れを教えてくれる!
あらためて20世紀から現在も進行中の、物理学のダイナミックな変化は面白い。
Posted by ブクログ
宇宙にたいする見方がどのように変わってきたかがまとめられている
これまで、人間原理のことを狭義の観測バイアスとしてしか認識していなかったため何でそんなに論争が起きているのか疑問だったが、科学、宗教的背景の違いによる違いや、多宇宙のより詳細な議論がされていることなどを知り色々と合点がいった。
Posted by ブクログ
本書で出てくるワードをネットで検索しながら何とか読み終えました。
人間原理、コインシデンス、ひも理論、多元宇宙論、その単語の意味や概要はわかりましたが、その論理展開や発見された方法は難しくて、正直半分も理解出来ませんでした、、
これからは私立文系らしく、理系の新書には手を出さないようにします、、、
Posted by ブクログ
「フェルマーの最終定理」や「宇宙創造」の翻訳者で、ご自身も理論物理学の博士という著者による、宇宙についての考え方の変遷についての解説です。特に、人間原理という人間を作るために宇宙が存在するという、ちょっとトンデモ理論に思える考え方について焦点を当てているところが面白い。
人間原理というのは人間が登場するために無から宇宙が誕生し進化するという説で、それを為すのは神のみだろうということになり、科学者からは敬遠されてきました。ところが、近年になって、量子論や真空におけるエネルギー論などから、様々な宇宙が無数に作られており、その中のたまたま一つに我々が住んでいると考えるのが理論的に自然である、ということになってきた(これもまたなかなかスゴイ発想ですが)。人間は人間が存在できる宇宙にたまたま存在しているだけである、というように、新たな人間原理が言われるようになってきたのだそうです。
昔から、勉強や仕事、人間関係に疲れると、気分転換に宇宙に関する本を読んできました。視点が抜本的に変わって、落ち着くことが多いのです。それでも、近年の宇宙論の変化は刺激的すぎて、ちょっと興奮してしまうかも。この分野の読書、少し掘っていきたいと思います。
Posted by ブクログ
この世の物理法則や宇宙は、それを観測できる人間の存在が理由で存在しているという人間原理。最初読んだときアンチ科学主義か?と思ったほど馬鹿げた理論だと思い込んでいたけど、実際に科学者たちによって一定数支持されているとわかった時は驚いた。
確かに物理定数や、原子のサイズが仮に少しでも違う値だったら、この宇宙を維持することはできず、人間は存在しえないのだから、こういった理論にも妥当性があるのだろう。とても文系脳では追いつくことはできないが、一見、科学の考えと思えない説が存在するのは興味深い発見だった。
人間原理につぃて知りたい人に
人間原理についての説明している本。多分日本語でこのテーマについて詳しく説明している本は他にはない。
この本の魅力は人間原理否定派から人間原理容認派に変わった著者による作品だということ。
故に最初から人間原理に肯定的な人間より深いところが見えているような気がする。
著者は人間の宇宙観の変遷を昔から現在までを展望しているので、人間原理だけでなく宇宙観に興味がある人間にも
お勧め。
Posted by ブクログ
科学本の質の高い翻訳で知られる著者が人間原理を平易に解説。多宇宙論につながるという私の理解は間違っていないとわかった。人間原理を受け入れるまでの科学者たちの驚きやとまどいがわかって興味深い。最後の方に展開される著者の科学観は勉強になった。
Posted by ブクログ
今までは科学者に危険視されていた人間原理が宇宙論の世界で話題になってきた。なぜ人間原理が復権しつつあるのかを述べる。多宇宙(マルチバース)ビジョンにより人間原理が観測選択効果であるかもしれないと思われてきた。たまたま人間は多くの世界のうちで生存可能なこの世界に存在するという解釈である。古代メソポタミアのカルデア人の世界観から最新物理学のひも理論まで。
Posted by ブクログ
かなりレベルの高い現代物理学における宇宙論の解説書
物理学者たちが、我々の宇宙の物理定数が、なぜこのような数値になっているのかについて、必然性はなく、多数の宇宙のうちたまたまこのような数値にをとった宇宙に我々が存在しているという見解に至る歴史を描いている。
Posted by ブクログ
人間原理の本。多宇宙になってないとおかしいと思う派の京大出身の科学ライター?
そういう気はします
・COBEのグループによる「ゆらぎ発見」の報道に接し、物理学者の中には、あらためてこう感じた人が大勢いたのではないだろうか。「これ(宇宙の誕生)が、一度きりの出来事であるはずがない」と。
私自身、そう感じた者のひとりだった。「二度あることは三度ある」と世間ではいうけれど、物理学者から言わせれば、「起こりうることはかならず起こる、何度でも起こる」のである。
物理学者は、この「起こりうることはかならず起こる、何度も起こる」という考え方を、空気のように吸い込んで物理学者になっている。それは言わば物理の世界の暗黙の了解、一種の常識なのである。
・むしろ、「なぜ、この宇宙だけだと思い込んでいたのだろう?」と不思議な気がするほどだ。わたしはこの宇宙の唯一性を、もはや信じる気にはなれないのである。
Posted by ブクログ
以前に同じような本を読んだことがあるが、その簡易版。むしろ、人間性原理の歴史的意義の流れに結構、紙面を割いている。マルチバースの考え方と、人間性原理の考え方のつながりが、まだしっくりこない。
Posted by ブクログ
ズバリ『人間原理』をテーマにした本。
この宇宙のあらゆる物理定数は、われわれ人間(観測者)が存在するために都合よくできている。なぜか?
それは、人間のために宇宙ができたという「目的論」を示すものでは決してなく、ひとつの問題提起である。その問題に対し、今日有力視されている回答がマルチバース(メガバース)である。宇宙が無数に存在しているのであれば、われわれの宇宙が現在の物理定数を有するのは「たまたま」であり、われわれは存在できる宇宙に存在しているに過ぎないという「観察選択効果」で説明できる。
Posted by ブクログ
面白く読めた。人類が紀元前の昔から現在に至る迄、世界は、物質は、宇宙はどうなっているのかを説き明かして来た歴史を、こんな薄い新書に平易に、飽きさせること無く書かれています。
Posted by ブクログ
2013年発刊。とてもおもしろかった。
天文学の歴史がこの一冊でざっとわかります。
理解力の乏しい僕ですら楽しめるくらいですから。
ええ。
【以下へぇ〜って思った点】
地球の自転=1日、月の満ち欠け=一ヶ月
季節のめぐり(地球の公転)=1年
地球と月と太陽という三つの天体が暦の元になっている。こんなの今さらすぎますが、僕はへぇ〜と思いました。昔の人たちは夜空をずっと観察しながらこの世界とは何なのかを探ろうとした訳ですな〜。
バビロニア国カルデア人が一日を24時間に区切り、一週間とう区切りを設けた。月〜日の曜日なんかも。
天動説から地動説へ。人間中心主義が崩壊。
宇宙の果て。ユークリッド幾何学。アインシュタインの登場。ビッグバンモデルの登場。
宇宙の晴れ上がり。コインシデンス。10の40乗。宇宙の平均温度はマイナス270度。インフレーションモデル。
ユニバース(単一宇宙)ではなくマルチバース(多宇宙)の考え方が有力に。
原子→原子核(中性子と陽子それをとりまく電子)→クォーク。
クォーク(粒子)以外にもさまざまな粒子が発見される
ビックス粒子など。
ひも理論。10次元。もう訳わかんない。
現代では多宇宙論があたりまえの説となっているそうです。
しかもその宇宙の数は人間が確認できる範囲外すぎてお手上げ状態。
結局、僕が感じたのはこの果てしない宇宙の歴史の中で、この地球で生きているということは、瞬きよりも短いくらいの本当に一瞬のできごとなんだということ(地球の寿命ですら)。しかも宇宙全体からすれば、すごくマイナーというか些細なできごと。
偶然なのか必然なのかわからないけれど、奇跡すぎる世界を生きていること。
すごいよ。
Posted by ブクログ
宇宙の見方の科学哲学史。
初期の天動説、あるいはギリシャ時代の単純な地動説から、コペルニクスによる地球の太陽系での相対化が行われたとされるが、実はコペルニクスはそれも神の意図を知る上でのものであったと考えていた。むしろ後世の科学者たちがキリスト教的世界観からの離脱がこの時行われたと見た。また、ニュートン力学は依然完全統一理論を希求するところの出発点であり、アインシュタインもその系譜に載るが、量子力学や多元的宇宙論が出てくることで、現在の宇宙はたまたま人間が観測できている時代、空間にあるからだという、逆の意味(確率論的であるが)で人間中心論に戻って来ている。
Posted by ブクログ
人間原理的な考え方は、まだ科学を十分に学んでいない小学生ぐらいの考え方だと思っていた。しかし、その人間原理が常に最先端の宇宙論の中で見え隠れしているという構図が面白い。
著者の青木薫氏は数々のサイエンス・ノンフィクションを翻訳していて、幅広い知識と分かり易い説明が特徴なので、本書もすんなりと読み進める事が出来る。
標準理論での限界や、インフレーション理論とひも理論のオーダーが全く異なる両極端から多宇宙ヴィジョンがでてくる件は非常に興味深い。
現在測定可能な宇宙と、多宇宙ヴィジョンが相容れない事も事実であろうし、我々が生きている間に検証が行われる可能性少ないだろうが、固定概念にとらわれず想像力を働かせる事により宇宙誕生の全体像が説明出来ると考えるだけでワクワクする。
「確実に正しい事などない」という疑問を持つ事が科学を進歩させる。
人間原理にもとづく宇宙論は、我々信じている科学がまだまだ発展途上であることを教えてくれているということではないか。
また、多宇宙ヴィジョンが間違っていたとしても実生活にはなんの支障もないであろう。
最先端の科学的アプローチの方法そのものを楽しめるのだから幸せな時代だと言える。
Posted by ブクログ
最新の宇宙論のひとつである"人間原理"が導かれた背景について、古代ギリシャ以降の宇宙論の変遷をなぞりつつ丁寧に語る。
古代の"神が作った"=人間のための宇宙の理念を破ったコペルニクスの原理。
・宇宙における人間の居場所は、なんら特権的なものではない
・宇宙には特権的な場所はない
このコペルニクスの原理が長らく科学的考え方のベースになっていたが、現代の多元宇宙論に至って状況が変わる。一度ビッグバンが起きた以上、それは何度あっても不思議ではない。そうして宇宙は無数に誕生し、その中でたまたま、この宇宙は人間が存在するに都合のよいものであったという。
⚪︎物理学者は、この「起こりうることはかならず起こる、何度でも起こる」という考え方を、空気のように吸い込んで物理学者になっている。それはいわば物理の世界の暗黙の了解、一種の常識なのである。
Posted by ブクログ
科学関係の良書をたくさん翻訳している著者による人間原理による宇宙論を解説した一冊。
著者の訳はどれもこなれていて、素人でも読みやすいのが特徴だが、その力が決して翻訳だけではないことを教えてくれる。本書では、つい最近まで異端視されていた人間原理に宇宙論(簡単にいえば「人間がいるからこの宇宙がある」)という考え方を分かりやすく解説している。
SFファンとしては、すんなり納得できた原理だが、本職の人にとっては別の見方もなるのだろうと思う。しかし、天文学者や宇宙物理学者という人々は日々このようなことを考えているのだろうか。頭が下がる。
Posted by ブクログ
サイモン・シンの訳者で知られる著者の書き下ろし。
新書らしく、一般にも分かりやすく科学の知見を歴史的推移に沿って紹介。科学から人間原理が生まれてくることを、というより科学が人間原理を利用できる局面を紹介している。
つまり、まだまだ科学が解明できている領域は限定的であること。
でも、一番驚いたのは、クォークモデルを提唱した本人が、「クォークを実在物と考えるべきではありません。クォークは数学的な工夫にすぎない」と言明していたこと。
これは現実は理論物理学を超えていたことを証明している。
てことは、実際の宇宙の姿には人間の知見はまだまだ追いついていないのかも。
Posted by ブクログ
宇宙というか、自然科学に対する歴史的な変遷をほんの少し感じられました。理系出身ではありますが、基礎知識がまだまだ不足してるので、膝を打てるようになりたいなと、正直思いました。m(__)m
Posted by ブクログ
「人間原理」なんて当たり前じゃないか、と思っていたが、僕はどうやら「弱い人間原理」と「強い人間原理」を区別して理解できていなかったようだ。
人間原理というのは、20世紀半ばにケンブリッジ大学の物理学者ブランドン・カーターによって提案された、宇宙物理における原理である。その背景には、物理定数の様々な組み合わせから10^40という無次元量が見られる「コインシデンス」があった。些か数秘術じみている気もするが、それはともかく、この理由を考えていくうちに生まれたのが人間原理であった。
人間原理には、弱い人間原理と強い人間原理の二つがある。前者は「宇宙における私たちの位置は必然的に、観測者としての私たちの存在と両立する程度に特別である」(三浦俊彦『論理学入門』p.153)というもので、後者は「宇宙は、その歴史のどこかにおいて観測者を創り出すことを許すようなものでなければならない」(同、本書には一般的な形の人間原理のステートメントが書かれていなかったので、三浦から引いた)というものである。
簡単に言えば、前者はこの宇宙に観測者(人間)がいるという事実から物理定数の値がなぜそのような値なのかを説明する立場である。例えば、もしも重力の値がこの宇宙での値より大きければ星はグシャッと潰れ、人間どころか如何なる生命も生まれないだろう。一方で、重力が弱くても、宇宙にあるのはガスばかりで生命が生まれそうにない。弱い人間原理は、現代の言葉で言えば「観測選択効果」の一種として説明される。「実験家ならば誰しも、観測選択効果のことをつねに念頭に置いている。例としてよく持ち出されるのは、湖に網を打って魚を捕るという話だろう。もしも網目が直径5センチもあるような粗い網だったなら、小さな魚は網にかからず、漁師は、「この湖には胴回りの直径が5センチ以下の小さな魚はいないようだ」と結論してしまうかもしれない。一方、もしも直径5ミリほどの目の細かい網を使ったとしたら、メダカのような小さな魚もどっさりかかるだろう。どんな網を使うかによって、見えるものがちがってくるのである。」(p.151)言ってみれば当たり前のことで、実際殆どの物理学者は弱い人間原理に関しては問題にすらしていないそうだ。
一方で、如何にも眉唾で、発表当時多くの物理学者から反発を受けたのが強い人間原理である。というのも、その主張から、人間中心主義、或いは「目的論」が透けて見えるからだ。勿論それはカーターも分かっていて、そこで彼はこう述べた。「物理定数の値や初期条件が異なるような、無数の宇宙を考えてみることには、原理的には何の問題もない」(p.159)これが、人間原理におけるマルチバースである(世界アンサンブル、多宇宙ヴィジョンとも)。
マルチバースという概念がまともに取り上げられるようになるには、宇宙論・素粒子論の発展を待たねばならなかった。宇宙論ではインフレーション+ビッグバン仮説が有力視されるようになっているが、この理論からはマルチバースという考えが自然に出てくる(この見方では、マルチバースではなくメガバースと呼ぶ方がより適当らしい)。また、素粒子論において究極の理論の最有力候補であるひも理論では宇宙は11次元であるとされており、宇宙のあり得る可能性は膨大なものとなる。
宇宙(universe)が一つのものだという考えの下では、強い人間原理は確かに目的論に堕してしまうが、宇宙が複数(それも膨大な数が)存在する事を認めてしまえば、強い人間原理も単なる観測選択効果となるのである。
ただ、本書でも指摘されていることだが、他の宇宙というのはこの宇宙から観測不可能であり、その存在を認めることは「検証可能性」を大前提とする近代科学と呼べるのかという疑問がある。マクロ(インフレーションモデル)とミクロ(ひも理論)から、ともにマルチバースの可能性が示唆されているのだから、気持ちとしては、非常にありそうだと思えるのだが、未来永劫存在が確認できないものを仮定して良いのかというところにやはり抵抗がある。今よりもっと研究が進み、マルチバースの(間接的な)裏付けが続々と上がるようになれば、例えばブラックホールやクォークのように、いつかはマルチバースなんて当たり前になるのだろうか?
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「人間原理」というのだそうだ。
そんなことを、とやかくいう発想というかこだわりがそもそもわからないというか、演繹と帰納の問題だと思うのだが違うのかな。
現に人間は存在する。存在するための条件があるわけで、別にそれは人間を存在させるためにあるわけじゃなくて、意思のない現実なだけで。
いずれにしろ、物理と人間を取り巻いてきた科学史の一面として面白く読める。
Posted by ブクログ
コペルニクスによって地球は特別な地位を失ったとか、アインシュタインが宇宙項を生涯最大の失敗と悔やんだとか、宇宙好きにはよくある話の信憑性を疑う記述が面白かった。へえ~、そうだったのね。
が、肝心の「人間原理」についてはなんだかいまいちわからず。
ん?「世界には幾つもの宇宙があって、そのうちのたまたま一つに我々がいる」という世界観が人間原理ってこと?結局人間原理って何なんだ?
いや一冊読んだのに、ぜんぜんそもそもを理解していないのであった。
Posted by ブクログ
青木薫氏の初の著書ということで話題になっているようだ.本格的な内容は最近の新書の中ではかなり硬派な部類に属するだろう.
カーターの強い人間原理(p.155)とは
宇宙は(それゆえ宇宙の性質を決めている物理定数は),
ある時点で観測者を想像することを見込むような性質を持っていなければならない.デカルトをもじって言えば,
『我思う.ゆえに世界はかくの如く存在する』のである.
ということ.ストア学派の目的論の再生のように考えられた人間原理が,ビッグバン・インフレーションモデルから多宇宙ヴィジョンの誕生という宇宙像の変遷の中で,観測選択効果として受け入れられるようになっている.
というのが内容.
前半のギリシャ以来の宇宙観の解説が長い,そして少々退屈.先に進むと必要だというのはわかってくるのだが.人間原理が登場するのは半ばより後で,それ以後の展開ははやい.そしてゆっくり読まないと難しい.
こうなると物理と哲学の距離はかなり近そうだ.大変だろうな.
Posted by ブクログ
化学は物事を明らかにする。事象に光を照らす。そういうものだと思っていた。
しかしながらこの本で描かれるのは、薄暮の世界。
少しずつ角度を変えて世界を照らしていく、そういった科学の歴史。
めまぐるしく化学が進化してきているように感じるけれど、論理のみでは化学は進まず、観測機器や社会情勢の変化による意識の変化も必要で、ほんとにゆっくりである。
そもそも私自身ビッグバンってなんなの? え? 多次元宇宙ってSFの世界じゃないの?というレベルなので何度も読み返さないと理解はできないのだけれど、ゆっくりと一歩一歩仮説を重ねて研究を進めていく世界なんだなあ……と面白く感じた。
もっと科学的教養があれば楽しいんだろうけれどね!
少なくとも、あと5回くらいは読み直し、読んで驚ける自信がある。それくらい理解できてない。