あらすじ
そういえば、あの本のこと、なんにも知らずに生きてきた。
一度は読みたいと思いながらも手に取らなかったり、途中で挫折してしまったりした古今東西の「名著」を25分間×4回=100分で読み解きます。各界の第一線で活躍する講師がわかりやすく解説。年譜や図版、脚注なども掲載し、奥深くて深遠な「名著の世界」をひもときます。
■ご注意ください■
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■今月のテーマ
「詩を生きる」って、こういうこと
『二十億光年の孤独』での鮮烈なデビュー以来、昨年末に92歳で亡くなるまで、多彩な詩を紡ぎ続けた詩人・谷川俊太郎。なぜその詩のことばは人々の心を捉えて離さないのか。谷川自選の詩の数々を、詩作への向き合い方に光を当てて読みとき、詩を味わうとはどういうことか、私たちにとって「ことば」とは何なのか、その奥深い世界にふれる。
■講師:若松英輔
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Posted by ブクログ
詩はなんとなく難しと思い今まで避けてきた。
この本というかテキストは解説が初心者にもわかりやすい。
自分が日々感じた事が詩になるんだ。
テキストの中で紹介されている詩なかで「ここ」という詩がいいなと思った。
解説を読んでからもう一度読み返してみると、自分の中に落ちてくるのがわかる。
誰でも詩人になれることを教えてもらった。
Posted by ブクログ
恥ずかしい話、私は谷川俊太郎の詩を読みあぐねていた。
いや、特に学ぼうともしていなかったので、“あぐねていた”とも言ってはいけないかな。
谷川さんの詩集はいつも気になり、本屋でパラパラと流し読みしては、よく分からないからと棚に戻していた。
そんな時、5月の『100分de名著』が谷川俊太郎だと知った。
読むならば、今だ。
番組も見ようと決めた。
まずは、テキストだ。
本書の先生は、批評家であり随筆家、詩人でもある若松英輔さん。
若松さんはまず、詩を味わうための補助線を提示してくれている。
①急いで読まないこと。
意味の重みを感じながら味わうと、“一つの言葉が、詩のほかの部分よりも大きく、深く何かを表現することもある”と気付けるとのこと。
②余白を味わうこと。
連と連とのあいだにある一行の空きは“空白”ではなく“沈黙の表現”であって、“読者に少し立ち止まることを求めている”。
“焦らず、佇みながら読”めば、“一見しただけでは分からなかった意味の深みがゆっくりと立ち現れて”くるとのこと。
③頭で理解する前に、心の深い場所で味わうこと。
テキストを読み始めて僅か13ページなのに、詩を読むうえでだいぶ心強い助言をいただいた気分になった。
第1回放送としての章では、初期の作品7つが取り上げられている。
若松さんが仰有る①~③を心掛けてこれらの詩を読むと、初心者の私でも感じるものがあった。
そして若松さんからのヒントを元に、孤独、愛、悲しみに触れてゆくことができた。
それら孤独、愛、悲しみとは、谷川俊太郎個人的なものではなく、むろん私個人だけのものでもなく、読み手である私たちすべての人間の根本にある感情だった。
「「愛」を深めていくと私たちは「悲しみ」という根本的な感情に出会います。」という若松さんの言葉も印象的。
若松さんは“「すべてを理解する」必要はない”ともお話になられているので、ここまで言われると、私もだいぶ心が軽く、ゆっくりと自由に読み深められた。
詩と向かい合うにあたり、この分章がかなり私の支え・ヒントとなったので、少し長いが引用したい。
「たとえば絵を観たときにすべてを理解しようとする人はいないでしょう。絵が美しいから、何かを感じるから観ている。それに違和感を覚えることもない。ところが、なぜか言葉となると、すべてを理解しないと不安になってしまう。詩もまた芸術です。気になるところ、つながりを感じるところを扉にしながら、その奥の世界に入っていけばよいのです。」
「………すぐには分からないと感じた詩でも、数時間後、数日後、あるいは数か月後のふとした瞬間に深く味わえる場合が少なくありません。詩は、読んでいる瞬間だけでなく、その後の長い時間にわたって私たちに働きかけてきます。時間が経つごとにその味わいが進化するとすらいえる。大切な人からの手紙と同じです。」
普段、好んで短歌集などを楽しんでいるのに、「詩集」というと身構えてしまっていた自分に気付いた。
すべてをその場で直ぐに理解できなくても、「谷川俊太郎の詩」を経験しておくことが大切なのだな。
そうすればある日突然、ああこの感じ!と味わえる日が訪れるのかもしれない。
第2回放送の章は「「生活」と「人生」のはざまで」。
谷川俊太郎の人生は転機が多い。
結婚、離婚、再婚、長男の誕生、最愛の母の介護。
若松さんは「そこには避けられないかたちで「生活」が介入し、「生活」が彼を離さない。」と表現する。
「芸術には、どこか生活と離れた雰囲気を伴う場合があるかもしれ」ないが、谷川俊太郎は生活に呑み込まれながらも詩を書くことをやめないと。
谷川俊太郎本人も『ぼくはこうやって詩を書いてきた』の中で、「それが生きるということなら、どこまでも生活を生きてみようと思った」と語っているとのこと。
ピカソの青の時代を例に挙げながら、「自分にとって不自由が感じられる状況であったとしても、そこから逃げ出すのではなくその不自由さのなかに何かを見出だそうとする。」との若松さんの言葉が印象的だった。
第3回放送の章は、「ひらがなの響き、ことばの不思議」。
若松さんは1980年代~90年代にかけての詩をとりあげ、このころの谷川俊太郎が「詩人としてもっとも成熟し、力量的にも充実した時期を迎えていた」と述べている。
そして“挑みの一つ”として紹介されていたのが、ひらがなの詩たち。
若松さんは、例えば「かなしみ」と書くことで、悲しみ、哀しみ、愛しみ、美しみ、愁しみ、と五つのおもいが内包されると解く。
「理論で考える前に、経験を想い起こしながらひらがなの可能性を感じ取ってみましょう」として、最初に紹介されていたのは詩「さようなら」。
「ぼく」がどのような状況であるかは、読み手によってまったく違ってくると若松さんも仰有られているが、私には、幼いながらもその小さな勇気を胸に進んでいこうとする健気な想いが伝わってきた。
どこか別れを匂わせているようにも感じられたり、それは、親からの自立にも感じたりして、どちらにせよ胸に響くものがあった。
“いかなきゃなんない”と繰り返されるのも、全てがひらがなであることも、胸を打つ想いが増長される。
続いて紹介される幾つものひらがなの詩たちにも、なんだか私は心の深い部分が打たれてしまって、何度も読み返した。
ひらがなの持つ力、表現の豊かさって無限だ。
第4回放送章は、「こころとからだにひそむ宇宙」。
谷川俊太郎の詩における哲学的な側面にふれている。
若松さんはまずゴーギャンの作品「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を挙げながら、詩「生まれたよ ぼく」から紹介する。
そして「この詩人は、人は、この世に生まれる前から、何らかのかたちで、この世界とは違う場所にすでに存在していた」、「明示はされていませんが、……もと来た場所に還ることであることもどこかで感じているようなのです」と述べている。
確かに詩「生まれたよ ぼく」には、
「生まれたよ ぼく
やっとここにやってきた」や、
「いつかぼくが
ここから出て行くときのために」といった表現がある。
では、私たちが帰ってゆくところとはどこなのか。
詩「生まれたよ ぼく」では、この世からどこかへ向かって“出て行く”と表現されていた。
だが、その先については歌われていなかった。
そこで若松さんは詩「臨死船」の一部を引用しながら、その詩の冒頭より、
「死が存在の消滅を意味しないことは〈知らぬ間にあの世行きの連絡船に乗っていた〉という一節からも明らか」だとする。
そこから、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」やソクラテスの言葉とも響き合うと述べている。
最終的に「詩とは何か。詩人とはどういう存在なのか」に、話は及ぶ。
「さらにいえば、人はいつ詩人になるのか」。
詩「理想的な詩の初歩的な説明」の中で谷川俊太郎は、
「詩はなんというか夜の稲光りにでもたとえるしかなくて」
「だがこう書いた時
もちろんぼくは詩とははるかに距たった所にいる」
と表現している。
谷川俊太郎ほどの人であれど、詩と一つになり詩人となりうるのは瞬間的な出来事なのだ。
最終セクションは「言葉と出会い直すために」。
若松さんは、詩「言葉は」を引用しながら、言葉とは、自分の内的世界で言の葉の種子を育てていくものではないかと述べている。
言葉は、人間の道具などではなく生けるものであり、深くつながり得るものである。
そして、「どう言葉を用いるのかよりもまず、言葉とは何かを見つめ直し、感じ直す。そうすることで...…略……言葉によって自分の世界を形作っていることにも気が付くのではないでしょうか」と結んでいる。
このテキストを読み終えて、これまでより詩が身近なものに思えたのと同時に、その瞬間瞬間の想いを言葉で捉えるという行為が非常に尊いものに思えた。
さて。
今月放送の100分de名著、毎回忘れずに見れるといいな~。