あらすじ
終戦の翌年、極東国際軍事裁判が始まり、賢治はモニター(言語調整官)として法廷に臨むことに。戦勝国と敗戦国、裁く者と裁かれる者、そのいずれもが同胞だった……。重苦しい緊張の中で進行する裁判の過程で、自らの役割に疑問を抱き始める。家庭では妻との不和に悩まされ、次第に追い詰められてゆく賢治は、日本で再会した加州新報の同僚・梛子に、かけがえのない安らぎを感じていた。
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Posted by ブクログ
20年以上前、この本を初めて読んだ時の衝撃はこの「東京裁判」のシーンでした。 戦後教育の中でこの東京裁判に関しては学校でほとんど学んだことがなく、端的に言ってしまえば「大戦後、アメリカの占領下の日本で戦犯を裁く『東京裁判』が行われ、A級戦犯とされた28名のうち7名が絞首刑に処せられた」ということぐらいしか知らなかった KiKi にとって、この物語で描かれた東京裁判のシーンは初めてその裁判がどんなものだったのかを考えるきっかけとなったものでした。
そして当時の KiKi は戦勝国が敗戦国を裁くということに潜むある種の「不公平感」を強く感じ、同時に「原発投下を人類がどう評価すべきか?という極めて重要な問題に関してうやむやにしてしまった残念な裁判」という感慨が強く心に残った物語でもありました。 でも、当時の KiKi はそこから更にこの裁判のことやらA級戦犯のこと、ひいては「戦争責任とは何ぞや?」という問いに関して深く追求してみようとまでは思わず、バブル景気に沸くあの時代の東京の浮かれ騒ぎの中にあっという間に埋没していってしまいました。
その後、再びこの裁判に関して KiKi の関心がクローズアップされたのは時の首相・中曽根さんが靖国神社を参拝したことを契機に「靖国問題」がマスコミで大々的に取り上げられた時でした。 でもその頃はペーペーのサラリーマンだったために正直なところ自分のことで手一杯で、歴史を振り返るような余裕はなく、やっぱりあんまり深くは考えることもなく時が過ぎていってしまいました。 ただ、いつかはこのことをしっかりと知り、自分なりの立ち位置を明確にできるぐらいに熟考してみる必要があるだろうというある種の義務感のようなものだけはしっかりと心の中に残ったように思います。
そうであればこそ、その後さらに月日が流れ、このDVD(↓)が発売されるとすぐに購入し、「いつか時間がある時にじっくり見よう」と KiKi の DVD Library に大切に保管することになったのだろうと思います。 購入直後にこれを見なかったのは偏にあまりに長すぎたこと。 と、同時に日中戦争及び太平洋戦争に関する自分自身の知識のなさがあまりにもひどすぎて、「見てもどうせわからない・・・・・」という諦めのようなものが働いていました。
東京裁判
監督:小林正樹 講談社
その後、小泉首相の靖国参拝に端を発したマスコミによる「靖国問題クローズアップ」の時代に入り、ようやく KiKi はこの長編映画を腰を落ち着けて観てみました。 この「2つの祖国」初読の頃からかなりの年月を経ての視聴でした。 その後、数回は観直しているのですが、その最終視聴日から今日で既に5年以上の月日が過ぎ去っています。
今回、この物語を読んでいてあのDVD視聴時に心に残った一場面一場面が明確に記憶に蘇り、山崎さんの筆致以上にあのモノクロ映像から醸し出されていた「東京裁判」の空気・・・・のようなものが感じられたような気がします。 と同時に「東京裁判」そのものは、全体としては「判決の方向性が予め予定されていたショーのようなもの」であったことはやはり否めなかった・・・・・と感じられました。 ただそんな中で、日本に敵意剥き出しの人あり、「法の正義」に準じようと努力する人ありという、極めて人間臭いドラマが確かにそこには存在したこともヒシヒシと伝わってきました。
かの大戦時には生を受けていなかった KiKi にしても、日本人だからなんでしょうか? どうしてもブレイクニー及びスミス弁護士やパール判事には感謝・・・・と言うか、気持ちが寄り添い気味になるわけですが、彼らの立ち位置とウェッブ裁判長やキーナン首席検事の立ち位置の違いは個人的な思想の違いというだけではなく、当時の彼らが体現しようとしていたある種の「責務・職責・国益」みたいなものも見え隠れするだけに、良い・悪い、好き・嫌いは別として「所詮、裁く側も完璧ではない人間に過ぎないんだよなぁ・・・・・」と思わずにはいられません。
個人的にはこの巻に関しては主人公のケーン(天羽賢治)の抱える迷いやら何やら(特にプライベート部分)は、些末なことに感じられ(もちろん本人にとっては瑣末どころか、大問題なわけですが・・・・・ ^^;)、それよりは、あの東京裁判という席に彼が果たしたようなモニター(言語調整官)と呼ばれる人がいたことの重要性に気持ちが向いて読み進めた・・・・・そんな気がします。 特に KiKi 自身が外資系の会社でお仕事をしている際によく感じたことに、「英語が Native 並みに話せる人が必ずしもよい通訳者とは限らない(文化・思想といった背景部分を含め正しく伝達できることの条件とはなりえない)」ということがあったがゆえの感慨だったのかもしれません。
実際、KiKi はアメリカ人相手にきちんと理解してほしいことがある場合には、絶対に間に通訳(Native Speaker)を介さず、仮に若干の拙さがあろうとも自分の言葉で語り、相手の理解度をちゃんと確認するという動作が欠かせませんでした。 比較的シンプルなビジネス世界での会話であってさえもそうだったのですから、ましてそれが「世紀の裁判」という席であれば、そして当時の日米の価値観の違いの大きさを考えれば、本当に重要な役回りだっただろうと思います。
かのDVDを見るとさらに事は複雑で、時代が時代なだけに現在では使われていないような古語・漢語的な言い回しが出てくる場面あり、今の時代以上に地方出身者は方言とか独特のアクセントありで、活字で読めばスンナリと理解できることが、耳から入ってくる音だけでは同じ日本人である KiKi であってさえも「え??」と思うようなことがあったりもしたわけで(これは録画音声の問題もなきにしもあらず・・・・ではあるけれど)、そんな中での賢治の孤軍奮闘ぶりが痛々しいくらいです。
さて、まだまだ東京裁判の判決までには至っていない第3巻。 いよいよ最終巻に突入します。
(全文はブログにて)
Posted by ブクログ
戦争が終わり、戦争犯罪人たちを裁いた東京裁判が始まる。
東京裁判のモニター役を任された賢治は、その重圧と家庭や弟との不和から、次第に追い詰められていく。
今までは賢治たち二世の境遇がメインだったが、この巻からは東京裁判の描写にかなりの比重を置かれている。
漠然と「戦犯が国際法で裁かれたものだ」と記憶していたのだが、そんな簡単なものでは無いことを思い知った。
印象に残ったのは、日本側の被告を弁護するアメリカの弁護士である。
アメリカ人でありながら、日本の弁護に全力を尽くし、ともすれば祖国アメリカの正義にも臆せず疑問を呈す姿に感銘を受けた。