岸美光のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ネタバレ【本の内容】
高名な老作家グスタフ・アッシェンバッハは、ミュンヘンからヴェネツィアへと旅立つ。
美しくも豪壮なリド島のホテルに滞在するうち、ポーランド人の家族に出会ったアッシェンバッハは、一家の美しい少年タッジオにつよく惹かれていく。
おりしも当地にはコレラの嵐が吹き荒れて…。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
ネタバレTitle: Die Betrogene, 1953. Die Vertauschten Köpfe, 1940.
緊迫感のあるプロット、微細な情景・心理描写、トーマス・マンの小説家としての技巧の高さをうかがわせる中編二本が収められている。
「だまされた女」はドイツを舞台に閉経後の年齢の女性が、「すげかえられた首」はインドの想像上の街を舞台に若い女性がそれぞれ中心人物。どちらも、主調は女性の愛欲である。
「だまされた女」で、中年のロザーリエが息子の若い家庭教師に惹かれて行く心情と、対比されているのは、合理的な性格の娘アンナの存在のように見える。だが、加えてロザーリエの信奉する「自然」との関係のおかげで、作品はひとひねり加わった味わいに仕上がっていると思う。
「すげかえられた首」、こちらは三角関係の物語といえばそれまでだが、これまた二〇世紀の文学にふさわしい形に仕上がっている。恋敵であるシュリダーマンとナンダは、互いに強い友愛で結ばれている。ヒロインのシーターは、シュリーダマンによって婚姻のよろこびを、ナンダによって愛欲の目覚めを知る。ここでは特に、愛欲に翻弄されるシーターの心理描写の巧みさが目を引いた。
加えて「すげかえられた首」には、少々哲学的に興味深い点がある。それは、シーターの手違いで、シュリーダマンとナンダの首と身体が入れ替わった時の、三人の反応である。
シーターの夫は誰か。このときは「頭」に優先権があることで一致する。誰であるかはどの「頭」をもつかが一番重要であると。つまりナンダの身体をもっていても、頭がシュリーダマンである以上、彼はシュリーダマンでありシーターの夫である。
では、シーターの身ごもっている胎児の父親は誰か。こうなると事情が少し変わり、(シュリダーマンの身体をもった)ナンダが自分こそその子の父親であると主張する。なぜなら「子供は体によってつくられるんだ、頭によってではないよ」(246)というのが彼のいい分だ。そして概ねこの事にシーターもシュリーダマンも同意しているように思える。
これが哲学的に興味深いのは、人間の同一性の問題にかかわるからだ。その人がその人であり続ける最も重要な身体の部分はどこか、それは多くの人が頭部(脳)だと考えているだろう。
しかし、親子関係は?社会制度の上ではこの場合、夫であるシュリダーマンが父親であることになるが、彼らの主調に従うなら、生物学上の父は、首のすげかえによってシュリーダマンからナンダに推移しているのだ。もしもこのような想像が許されるなら、親子関係とは一意に決まったものではなく、父親や母親がめまぐるしく変化するケースということも考えられる。
しかしナンダの言い分は間違っているかもしれない。「子供は頭によってつくられる」とも考えられるのではないだろうか。なぜなら、強制による場合を除けば、性交は同意があってなされるものだからであり、それは本人の意志による判断だといえるからだ。子供は、意志の結果であるといっても構わないかもしれない。だが、やはり子供は特定の精子と卵子によって生まれると考えるとき、ナンダの主張はやはりもっともらしい。親子関係を取り入れた同一性問題はというのは、哲学的に興味深い問題をもたらしてくれるかもしれない。 -
Posted by ブクログ
表題作2篇、いずれの作品も高橋義孝訳で新潮文庫から出ているはずですが、手に入れにくいのでこの新訳で読みました。帯には、「エロスの魔力これぞ物語を読む醍醐味!」とあります。これはまた「ヴェニスに死す」(光文社古典新訳文庫では『ヴェネツィアに死す』)に関しても同じことでしょう。2作品の饒舌さ、は、この訳でじゅうぶんに味わうことができました。マン後期の作品については、これもいいのかも、と感じました。とても面白く読みました。でも、敢えて言います。少なくとも私は、新訳の『ヴェネツィアに死す』を必要とはしていない、と。解説や訳者あとがきにあるように、訳者自身による「いま、息をしている言葉で」という試みは成功していると思います。そのうえで、再び敢えて言うことが許されるならば、それが「20年後には息をしていない言葉」にならぬことを祈る、と。ひとつだけはっきり言うことができるのは、訳者が書いているように、これらの作品にはヴァーグナーの音楽が響いているはずなのに、私の耳には、これを読みながらヴァーグナーが聴こえてこなかった、ということです(ごめんなさい)。……、あれこれ考えます。あれこれ考える機を得たという一事をもってしても、この文庫シリーズの意味は大きい、と思います。感謝します。そこから先は、各々の問題です。
-
Posted by ブクログ
原著1954年刊。
トーマス・マン(1875-1955)が35歳で書き始め、永らく中断して書き終えたのは何と79歳。
このインテリジェントな(大)作家については、北杜夫さんを通して畏敬の念を持ちつつも、近年は全く関心を寄せることなく、『ブッデンブローク』あたりも結局読んでないのだが、最近になって「トリックスター」への興味から、山口昌男さんの著作に本作がたまに言及されているので気になり、中古で入手した。
少年時代から誰にでも化けてしまう(演技する)天才的な特技を持つ主人公クルルの遍歴を描く。やたら女性にもてる外観と洗練されまくった身ぶり(演技)を持っているのがミソ。
が、本作は完全に「未完作」である。35で書き出して79歳までいったい何をやっていたのか。どうしてそんなに気にくわない物語だったのに、晩年になってこれの「第1部?」を書き継いだのは何故だったか。
読んでいくと「これについてはもっと後で・・・」というような様々な伏線がそのままで中絶してしまうし、更に物語は膨らんでいくだろうと期待させられるのに、非常に中途半端なところで終わってしまうのがこの上なく残念である。
もっとも読者がこの先「こんなふうに展開していくだろう」と予測できてしまうあたりに、老トーマス・マンはうんざりしてしまったのか。
なるほど、逸脱しつつ他者、主に女性を翻弄してゆくクルルはトリックスター的な傾向を示している。ただ、トリックスターという役柄は、本来、本人のモノローグのかたちでは発動されないはずだろうという気もするし、際限の無いトリックスター的「いたずら」を延々と書けばもの凄く長大な小説になってしまうだろうと思われ、到底書き切れないことに気づいてうつむく老マンの表情が想像されて、同情を抱かされる。
途中で妙な人物「クックック」氏によって開示される即物主義的・進化論的で壮大な宇宙観が本作にはまとまりのわるい長いエピソードとして挟まれるなど、気になる点をあれこれ残して、小説家が去ってしまったことが、いち読者としては悔やまれるところだ。 -
Posted by ブクログ
マンは(新井素子が好きだった関係で)昔から興味があった作家ではあるのだが、実はほとんど読んだことがなく、岩波で「トニオ・クレーガー」を読んだのと、これと同じ光文社古典新訳で「フェーリクス・クルル」を読んだくらい。
『だまされた女』(原題は "Die Betrogene" で、ドイツ語にはよくあることだが、「だまされた女」が一語で驚く)は序盤はタルいものの、主人公が想いを寄せる家庭教師キートンが登場してからは徐々に盛り上がり、衝撃の結末まで一気に読ませる。『すげかえられた首』もインド神話の雰囲気を湛えて楽しい。
いつの日か「ブッデンブローク」も読まねば。 -
Posted by ブクログ
高名な小説家が運命に引き寄せられて旅した先のヴェネツィアでの滞在で出会う美少年への恋と破滅。
主人公が織りなす内なる感情は持てる知識を以て飛躍し、混乱の域に達するが如し。同性への愛情がこの時代にあって相当にインパクトがあったと思われるが現代のマイノリティを肯定する風潮ではその驚きは失いつつも、あまりに美しい少年への思いを共感できるか否かで評価は変わるような気もする。
幾重にも重ねられた言葉で綴る文体はセンスを感じるが矢張り読みにくい。けれど何か惹かれるものがあるのも確かです。
途中までは旅の紀行と出会いが描かれタイトルの予感を全く感じないが、伝染病の噂からまさかこれで?と思わせつつ、最後のページで潔く完結するところがなんとも印象的。いちごにあたったのかな? -
Posted by ブクログ
アッシェンバッハは、才能があり決して怠惰を覚えなかった作家です。
そんなアッシェンバッハは、散歩中に異様な風采の男を見たことで、新奇な異郷への憧れ、解放と負担の軽減と忘却への欲望を感じ、“そうだ、旅に出よう(p16)”と考えます。
そして、ヴェネツィアに訪れます。そこで、ポーランド人の、高貴な時代のギリシア彫刻を思わせる十四歳くらいの少年タッジオを見て、この少年が完璧に美しいことに気づいて愕然とします。
アッシェンバッハは、タッジオを目で追い、後を追いかけることもします。タッジオを愛していたのです。
しかしヴェネツィアの町の中では、不潔な出来事(コレラ)が進行していました。アッシェンバッハは、イギリス人から事実を教えてもらい、ヴェネツィアから出発した方がいいと忠告されますが、この状況から逃げ出す気などさらさらありませんでした。“いったん自分から外れてしまった者は、再び自分に戻ることを何よりも嫌う(p131)”のでした。
そうして、破滅へと至ります。
最初に現れた異様な男から始まり、幻想的でふわふわとするような雰囲気もある物語でした。 -
Posted by ブクログ
トーマス・マンの代表的中編のひとつ。
ヴィスコンティの映画でも有名。映画はテレビでちらっと見たことがある。
内容は、よく知られているとおり、確固とした名声を築いた初老の小説家が、避暑地のヴェニスで美少年に魅せられるというもの。
20世紀を代表する大小説家であるトーマス・マンが、堅実で緻密な描写で、一人の芸術家の破滅を描いた作品。
おそらく傑作なのだろうが、個人的にはあまり面白くなかった。読んでも読まなくてもどうでもいいと思った本。
ドイツのくたびれたインテリおやじが恋する相手が美少年ではなくて美少女だったら、もう少し関心がわいたかもしれないが。
それに翻訳がどうも、イマイチなような気がする。
この光文社古典新訳文庫は、世界の名作といわれている作品を、新しい飜訳で紹介しようという画期的な企画で(いま、息をしている言葉で、もういちど古典を!)、ラインナップも飜訳の出来映えも素晴らしいの一言。
できればこの文庫で出る本は全部読んでみたいと思っているのだが、飜訳にはじめて不満を感じた。どこが、とははっきりいえないのだが。
そういえば、昔この作品は読んだはずなのだが、内容はすっかり忘れていた。昔もやっぱり退屈だなあと思いなが読んだんだろうか。それなら2度ムダな時間を使ったことになるなと思いながら持っている岩波文庫を見てみたら、20年以上前に一度読んでいることが判明。
しかも、アンダーラインなんか引いていて、けっこう感動した気配がある。
そうだったのか。
しかし、いったい何に感動したんだろう。
むかしは美少年方面に関心があったんだろうか。
チェックしている部分を読んでみると、どうやらその方面ではなくて、主人公のストイックな姿勢に関心を持ったようだ。その部分を読んでみると、なぜ新しい飜訳に不満を持ったのかわかった。
昔読んだ岩波文庫版。訳者は実吉捷郎。
この部分は、トーマス・マンの作品中でも有名な部分。
アッシェンバッハは一度、あまりめだたぬ個所で、現存するほとんどすべての偉大なものは、一つの「にもかかわらず」として現存し、憂患と苦悩、貧困、孤独、肉体の弱味、悪徳、情熱、そのほか無数の障害にもかかわらず成就したものだ、と端的に言明したことがある。(p18)
新しい飜訳では、
アッシェンバッハはかつておよそ目立たない箇所で、現存するほとんど全ての偉大なものは「にもかかわらず」として存在する、悩みや苦痛、貧困、孤独、病弱、悪徳、情熱、そして何千もの障害にもかかわらず成立したのだと、ダイレクトに語ったことがあった。(p21)
ほとんど同じような文章。
ただ、新訳版は、最後に「ダイレクト」なんてカタカナを使ったせいで、文章の格調が台無しになっている。まるで博多の森を「レベスタ」といってしまったときのようなガックリ感が漂う。
どうやらそういうセンスのなさと、この作品全体を流れる高い格調と美的な緊迫感があっていないようだ。
あるいは、
岩波文庫版
一体世の中に、弱さのもつ壮烈以外に、壮烈というものがあるだろうか
(p19-20)
新訳版
そもそも弱さのヒロイズムの他にどんなヒロイズムがあるのか
(p23)
「弱さのもつ壮烈」というとなんとなく伝わってくるものがあるが、「弱さのヒロイズム」となると、なんのことやらさっぱり。
違いはカタカナ使用の有無だけではないようで、たとえば、
岩波文庫版
孤独でだまりがちな者のする観察や、出会う事件は、社交的な者のそれらよりも、もうろうとしていると同時に痛切であり、かれの思想はいっそうおもくるしく、いっそう奇妙で、その上かならず一抹の哀愁を帯びているものだ
(p39)
新訳版
孤独と沈黙の人が行う観察や、その人が出会う出来事は、仲間の多い人の観察や出来事よりも曖昧であり、同日に切実でもある。そういう人の考えはより深刻で、変わっていて、どこかに悲哀の影がさしている
(p48)
前者は、おおそうなのかと思わず頷いてしまいそうな名文句、後者はたんなる叙述にすぎない。
どこでそういう違いが出てくるのか、その秘密はよくわからないが、岩波文庫版では、漢字とかなの選択に一語一語こだわっていることはうかがえる。
こう書いていて、実吉訳ならばもう一度読んでみようという気にはなってくるな。