谷川道子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
1609年、ガリレオ、45歳。オランダで市販されたという望遠鏡の噂を聞きつけ、それを自作。月や木星を観測するところから話は始まる。多少推理小説風の始まり。そして話は次々に展開を見せる。
話の大半は史実にもとづく。娘のヴィルジーニアも登場する(史実通り)。ガリレオを取り巻く脇役たち(たとえば彼のところの家政婦とその息子)もいい味を出している(これはたぶんフィクション)。
意固地なガリレオがよく描かれている。会話もウィットに富み、しかも理詰めだ。ガリレオの地動説に対して、聖職者たちは、太陽や星が大地のまわりを回っているという天動説を熱く語る。ブレヒトの話術の巧さのせいなのか、私たちが地動説に慣れ親しんでいるせいなのか、天動説のほうが新鮮で説得力をもって聞こえるから不思議(ブレヒトの意図したことではないかもしれないが)。
ガリレオ、天動説vs. 地動説、そして宗教裁判。こんなテーマを長大な戯曲にするとは、さすがブレヒト。書かれた時代背景とブレヒトの思索の変遷も頭に入れて読むのが正統。でも、そうでなくとも、この作品は十分に楽しめる。むしろ、そうしないほうが、なまの作品として生きるような気がする。
(解説+訳者あとがきが86ページ。参考にはなるが、少々煩い。なお、岩波文庫版の訳者あとがきは19ページ。) -
Posted by ブクログ
科学と言うより、知性とは、何かの「役に立つ」ものであるべきか、それとも、それ自体が価値あるものなのか。社会の営みの中で知性が発展していく以上、その価値も社会と切り離せず、果実は社会に「目に見える」還元がされねばならないのか。科学とは時代精神にほかならないとすれば、社会と切り離して考えるのは妄想に過ぎず、今の社会が経済的利益を求めるのならば、知性に求められるものも即物的な利益に限定されるべきなのか。
いち技術者として、知性や知識の果実を社会に「役立てる」のは大事だと思いつつ、心の何処かで、社会と隔絶した知性そのものの価値、それ自体が人間の蒙を啓く輝きを持つものであって欲しい、という思いが捨てきれないところがある。知性とは、人間の精神の羅針盤であり、未知の暗がりを照らすものでは、そもそもなかったろうか。
知性に即物的な価値を求めるのは、権力者、体制だけではない。民衆も、時代精神も、またそうなのであろう。ガリレオのようなエゴイスティックな程の純粋な探究心は、恐らくそれらのどれも理解出来ない。ただ知りたいから、で探究が出来た時代は、長閑であったからか、それとも、時代精神に沿わない活動も許される余白があった故か。
英雄を必要とする国、とは、英雄を必要とする程に暗く追い込まれた国、というだけでなく、誰も英雄になりたがらずに英雄をただ待望するだけの国、得た知性を自らが世界を照らすのでは無く新たな神を祭り上げることにしか向けられない国、という事でもあるのでは。
物語は本当に素晴らしく、★5は当然と思うが、訳者の谷川さんの解説が少々気になる。ブレヒトの研究者の語る事であるから素人の意見など不遜であろうが、科学や知性と人間の思想や活動との関わり、知性を追い求めることそのものの暗い面、それらの多面的なテーマが本来の内容ではと思うのだが、どうも原子力関連だけクローズアップされ、しかも、原子力廃止論という谷川さんの個人的な意見の披瀝に重きが置かれすぎているように思う。解説としてでなく、論考としては素晴らしいと思うし、それで本編の価値が減じるわけでもないのだが。 -
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非常に面白く、ギリシャ悲劇に興味を持てた。特筆すべきは、訳者・谷川道子さん(外語大名誉教授)の圧巻の解説!どういう経緯でブレヒトがこの改作に至ったのかを丁寧に記述してくれている。ウルフの『歳月』に出てくるアンティゴネ。その意味を紐解いていくのに非常に勉強になる情報ばかり。いくつか抜粋をば。
「それ故アンティゴネの論理は、単なる肉親の情愛の論理を超える。」(147)
「アンティゴネの反抗もまずは、国の掟は知らず、竈の掟、肉親の掟、人としての掟に誠実であろうとしたことから始まった。例えば『精神現象学』においてヘーゲルは、『アンティゴネ』を自覚的人倫共同体(国家の論理、公的領域、人間の掟、男の世界)と自然的人倫共同体(家族の論理、私的領域、神々の掟、女の世界)の対立と読み、アンティゴネの体現する神々の掟(私の世界)が圧迫からめざめた時(個我の誕生)、家族の敬愛という共同体の力を喪失し、これを破壊してしまった、ギリシアの国家共同体は崩壊した、と解釈した。」(149) -
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とにかく読みやすかった。ソポクレスによるいわゆるギリシャ悲劇をブレヒトが改作したもの。ソポクレスよりもブレヒトが前面に出てきてプロットよりも脚色とコンテクストの部分が気になりすぎて、もう終わったの?ってなった。オリジナルを思い出せないので、そちらと比べてみる必要があるかと思っている。
しかし解説にあったブレヒトの「異化効果」っていうポリシーは印象に残る。芸術を情緒的なものとしてではなく、理性的なものとして現実理解の橋渡しとして使う。というよりもそれが本来の芸術だといわんばかり。「異化効果」という言葉の使い方がいまいちわからないけど、要するにメタ視点のことを言っている。ここが源流かなと考えた。
17.5.1 -
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中世から現代で大きく変わった点は「科学の光」を発展させたことだろう。私たちの日常の中には多くの科学が結びついており、科学無しでは文明を維持することは出来ないだろう。中世から現代までに知の継承に成功したガリレオの人生を賭した良い作品である。
さて、本著のテーマは科学と宗教権力である。科学は今日までに様々な光の部分と闇の部分を辿ってきた。世界大戦を終えて76年経過(2025時点)した。これからも形は違えど様々な戦争は起きるだろう。そして、手書きだけだった知の継承は、活版、デジタル機器へ移行し、現代(2025)ではAIで誰もが知を得られるようになった。たった数百年、たった数十年でこの速度である。知の承継は紙とデジタルをベースに更に加速していくだろう。
宗教権力についても触れておかねばならない。宗教とは様々な解釈ができるが、教え一つで文明が止まるという利点と欠点がある。現代でもそれらの意思や教えは継承され続けており、中世ほどの力は無くても現代でも充分に権力は絶大である。人間が人間でいる限り、宗教は無くなることはなく、それは人の営みであり、文明の一部だと私は思うのだ。
この作品を通して、知の継承と科学文明の発展は大衆に迎合され、宗教権力も時代に合わせて形を変え、次の数百年、数千年、万年も続くことだろう。この作品は過去でもあり現在でもあり未来でもあるのだ。私たちが過ちを犯さぬよう注意し、過ちが起きたら正さねばならないことを覚えておかねばならないだろう。 -
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「三文オペラ」以来のブレヒト作品。ギリシャ悲劇作家ソフォクレス原作。
敵前逃亡罪で親族のポリュネイケスを死刑にして遺体を禿鷹・野犬に食わせ、弔うことを禁じたテーバイの暴君クレオンの命令に反して、兄を丁重に弔ったアンティゴネ。 死刑は免れたものの、郊外の洞窟に幽閉され、自ら命を絶つ。 その婚約者はクレオンの末息子。 父を命懸けで諌めるが聞き入れられず、アンティゴネの死に絶望し、彼もまた命を絶つ。
アンティゴネはあの有名なオイディプス王の娘。
クレオンの言動を見て、傷痍軍人の表彰対象に精神を病んだ人を含めることに反対する人たちが一定数いることを思い出した。
戦争で勇敢に戦ったひとがえらいことは否定しようがないが、同じく従軍して精神を病むまで頑張ったひとを貶めることが出来ないのと同様に、戦場から逃げた人を責めることもまた出来ないと思う。ましてや亡くなった人を弔うのは人として当然の感情だろう。
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Posted by ブクログ
1939年作。「三文オペラ」より10年ほど後に書かれた、ブレヒトの代表作ということらしい。かつて『肝っ玉おっ母とその子どもたち』という和訳タイトルであったものの新訳。
舞台は17世紀の三十年戦争(宗教戦争)。父親のそれぞれ違う3人の子どものいる母親アンナは、商いをしながら戦場をさまよう。
読み物としてとても平易で、随所にユーモアも感じられて楽しい。しかしブレヒト独特の「作り方」によって、なかなか容易ではない作風が見られる。
私は先にブレヒト自身による論考、雑記等の本を読み彼の「叙事的演劇」という概念を何となく理解したからこの作品の特徴をいいうるのだが、全く予備知識のない読者ならこれを読んでもあまり面白くないかもしれない。
ブレヒトは観客が登場人物にあまりにも一貫して感情移入し、感動してしまうというようなロマン主義的な様式を破壊したかった。だから、アンナが三人の子どもを次々に喪っていくのに、彼女の悲嘆は前面に出てこず、むしろそれでも逞しく一人で生き抜いていくような力強さだけが一貫している。
アンナに泣き叫ばせれば観客を感動させることもできたのに、敢えてそんな場面を避け、淡々と「リアリスティックに」状況を描き続けるだけだ。
あまりつながりのないような場面場面を接続し、各状況間に断絶を配置することで、観客が一歩下がったところで自ら「考える」ことを望むブレヒトの手法「異化効果」は本作にも発揮されている。
こうした手法を突き詰めていくと確かに20世紀の「現代芸術」の典型的な様相を帯びていくのだが、ちょっと不思議に感じるのは、ブレヒトは純粋に芸術(演劇)のことだけを考えていたというより、相当はまりこんだ「マルクス主義」のプロレタリアート観に基づいて、こうしたステージに進んだという事実だ。
だが、エッセイでなく戯曲だけを見ているとそのような「マルクス主義くささ」は感じられない・