増田義郎のレビュー一覧
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さあね、何年も顔をあげなかったもんだから、空のことなぞ忘れちまったよ。ま、空を仰いだって、どうにもなりゃしなかっただろうよ。天はうんと高いし、目もずいぶん弱ってたから、わしにゃただ地面だけ見えてりゃ言うことはなかったからね。それに、天国へはもう決して行けない、遠くからだって見られやしないってレンテリア神父が言うもんだから、もうどうでもよくなっちまった……。わしの罪のせいさ。でもな、神父様はそんなことなぞ言わなくてもよかったのさ。生きるってことだけで、もういいかげん苦しいんだから、死んだら別の世界へ行けると思うからこそ、足を動かす力も湧いてくるってもんだろう。天国から門前払いを食わされちゃあ、あとは地獄の門をくぐるしかない。それじゃあ生まれてこなけりゃよかったってことになる……。なあ、フアン・プレシアド、わしにとっての天国はここさ。わしが今いるここだよ。
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亡き母との約束を守るため、顔も知らない生き別れの父を探す青年が辿り着いたのは、ひとけのないゴーストタウンだった。女たちのささめきに導かれがらんどうの町をさまよう青年の父探しと、父ペドロ・パラモが町を支配していたころの記憶が交錯し、地上の煉獄のように死者が留まり続ける円環的な世界を描いたメキシコの名作。
マリアーナ・エンリケスやベンハミン・ラバトゥッツを通して南米面白い!となっていたところに、ネトフリで本書の実写版映画(2024)を発見してそちらを先に見た。眩い太陽の下でゴーストタウンと化した20世紀のメキシコの町が美しく、女性たちの演技も印象的で、これは原作も好きな気がする、とすぐに注文した。
これが本当に素晴らしく私の好みにバッチリで、なんで今まで出会えなかったのか不思議になってくるくらい。スペイン語圏の作家・批評家のあいだでは『百年の孤独』と並び評され、名作として名高いのだそうだ。
母の語りだけを頼りにやってきた青年フアンの足取りと彼の父だったペドロの記憶が混じり合いながら断片的に語られていくのだが、次第に彼らだけではなく、エドゥビヘス、ダミアナ、ドロテアら女たちの声、フルゴルやレンテリア神父のようなペドロに反発しながら屈服した男たちの声が重なり合い、こだまし合って、コマラという町に封じ込められた時が迷宮のように立ち現れてくる。小説家には目がいい人や空間把握が優れている人などがいるが、ルルフォは耳のいい人だったんだと思う。死者のささめきだけがこだまする町で再演され続ける在りし日々の記憶。それはレンテリア神父の矛盾と苦悩が象徴するように、カトリシズムとメキシコの風土との混淆のうちに捏ね上げられた白日の下の煉獄のようだ。
そしてコマラとメディア・ルナというペドロの領地から離れた女たちの声が、その煉獄にまた異なる彩りを添える。前半はフアンに語りかける生前の母・ドロレスの声。後半はペドロによってコマラに呼び戻されながら、夫との幸福な日々の夢想に浸りきるスサナの声。フアンを妊娠中にペドロと離別したドロレスは死に際にコマラの美しさを語り聞かせる一方、スサナは父母の記憶を除いてコマラの外で過ごした記憶に生き、コマラに閉じ込められた肉体のほうの生活はもはや顧みない。スサナとの思い出を抱えてコマラを牛耳り、彼女との再会を夢みて生きてきたペドロとの対比が残酷に描きだされる。
タイトルは『ペドロ・パラモ』だが、むしろ彼の強権的な力に踏みにじられながら生き延びてきた者たちの視点で書かれている。地上の経済と天界の崇高との板挟みで苦しんでいるレンテリア神父が残酷に切り離し、見捨てた者たちのことも。フアンに水や食べ物を与えてくれる女が近親相姦をしているというエピソードは強烈に印象付けられるが、彼らの姿から直接描かれることのないスサナと父の関係をも窺い知れるし、スサナがレンテリア神父に最期まで心を開かなかった意味も察することができる。誰のための祈りなのか、何のための告解なのか。かつて神父に拒絶され、フアンと同じ墓を分け合うことになったドロテアはこう語る。
「生きるってことだけで、もういいかげん苦しいんだから、死んだら別の世界へ行けると思うからこそ、足を動かす力も湧いてくるってもんだろう。天国から門前払いを食わされちゃあ、あとは地獄の門をくぐるしかない。それじゃあ生まれてこなけりゃよかったってことになる……。なあ、フアン・プレシアド、わしにとっての天国はここさ。わしが今いるここだよ」。
語り手すらも既に死者となった世界で円環的に閉じた土地の記憶が語られるという構造は、かつて読んだフリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』を思いださせる。きっとリャマサーレスもスペイン語圏作家としてルルフォの影響を受けているのだろう。『黄色い雨』はタイトルが示す通り腐食を象徴する黄色と緑の視覚的イメージが強烈だったが、この『ペドロ・パラモ』に満ちるのはひたすらに声、声、声。生者としては発せられることのなかった、魂のこだまとしての声ばかりである。 -
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膨大な情報をもとにひとりの人間の記録を書き切った作品で,当時のイギリス市民の精神がよく反映されている。漂着後は持ち前の知識と信仰心で困難を越え,捕虜をうまく飼い慣らし,やがて戦いに勝利する姿は,当時の理想像にも見える。
かつてスペインやポルトガルが握っていたカリブ海へ,イギリスは進出しようという時代。海の向こうに夢見た人々に,本作はうまく適合したのだろう。
1719年に59歳で『ロビンソン・クルーソー』を出版したデフォーは,もとはジャーナリストとして諷刺詩を数多く書き,トーリ党の幹部ハーレーの下で週刊誌『レヴュー』を発行し実質的な政府の広報官として活動していた。
全体的に,予定調和ではあるが面白いと思った作品である。 -
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ロビンソン・クルーソーと言えば、誰もが子ども時代に縮約版で親しむ作品だが、その実は文庫で400ページを越える長編小説なのであった。青年時代に親に反抗して家を出て以来、海賊に捕われて奴隷となり、脱出してブラジルに渡って事業で成功し、さらに貿易船の航海中に嵐によって無人島辿りついて、ようやく誰もが知っているサバイバル・ストーリーが始まる。
直面した苦難や無いものを嘆くのではなく与えられているものに感謝すること、足るを知ること、現状の暗い面よりも現に楽しんでいることに注目することなど、21世紀の自己啓発書にでも書いてありそうな知見を孤独な生活の中で獲得していく様と、その後の波瀾万丈を描く。子ども時代に読んで終わりにするにはもったいない大傑作。 -
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初読は高校の課題図書。
メキシコの片田舎、父を探して主人公がたどり着いたのは死者の町だった・・・といった話なのだがストーリーは当時全く意味不明。ただ、砂ぼこり舞う真っ白な道、陽炎に揺れる怪しげな街、という描写は異様に頭に刷り込まれている。
「燃える平原」にひっくり返り再読。
2017年12月14日付The Economistによると、魔術的リアリズムの元祖でもあるルルフォは、実はフォークナーの影響を受けているらしい。あれだけ土俗的なラテン・アメリカ文学が北米の作家の系譜に連なるのも意外と言えば意外。
“The reader gradually realises that all the novel’s characters are dead. It is modern because it frames a reality rather than merely describing it, and because time in it is simultaneous, not sequential, as Carlos Fuentes, a later Mexican writer, noted.”(記事より引用)。
物語の中で時間は順を追っては流れない、同時に生起する。まさに最も”modern”なことをこの作家はやっていたということだ。 -
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ネタバレささ‐めき【私=語】
ささめくこと。ひそひそ話。ささやき。また、男女のむつごと。
「貴妃の―、再び唐帝の思ひにかへる」〈海道記〉
初めてこんな言葉を知ったが、これほど的確にこの小説を表す一言はない。
ささやく。ひそめく。
まずは翻訳の文体の素晴らしさ、語のセレクトの素晴らしさ。
少ない文字数から滾々と湧く抒情。
次に構成のしかけ。
ただシャッフルしているのではない、ひとつの言説が連想を呼び過去を掘り起し広がり深くなる。
最後に語られる内容。
極悪な奴なのにスサナへの思いが、たまらなく切ない。
すべてを手に入れようとしてそれだけ手に入らず。
これだけの男の行き詰まりは街の行き詰まりを呼び廃墟へ。
cf 中上の浜村龍造 -
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死者が埋葬され土と石に帰るのなら、私たちは堆積した死者の上に生きているのではないか。彼らの記憶も積み重なり、それは時間の進行という枠組みを超えて断片的に交差する。本書が南米文学の起源であると同時に到達点だと言えるのは、決して循環する構造が故だけではない。土地と血縁、そして革命と血生臭いモチーフが用いられているのにも関わらず、それらが全て断片的な構成として提示されるからこそ幻想的な魅力を帯びてくる。死者の記憶に耳を傾け続けることが生者の努めだとするならば、本書はまるでレクイエムそのものなのだと言えるだろう。
(2013/10/08追記)
再読。積み重なる死者の記憶が印象的な故に初読時はレクイエムの様だと感じたが、実際に死の瞬間というのは驚くほど描かれない。「気分じゃないよ、アナ。人間が悪いんだ」言葉は簡潔かつ明瞭なのに、時にドスを効かせて読者を刺しにかかっている。荒地の寂寥感に潜んでいたのは、生きる事にも死ぬ事にも興味はないとでも言いたげな虚無感であった、死者が集う街・コマラは地獄の釜から浮かび上がる蜃気楼か、それとも登る事の叶わぬ煉獄の丘か―否、どうでもよいのだ、そんなことは。最も緻密に作り上げられた、生きることそのものに対する暴力。 -
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ネタバレなかなか勉強する機会がなかったラテンアメリカの歴史をしることができました。
モンゴロイド、白人、黒人がいりまじった社会を形成し、現代社会の坩堝と化しているラテンアメリカ。
そこから、新しい文化のいぶきを嗅ぎ分けるには、歴史を知ることが手がかりになるだろう。
気候、風土、資源、ラテンアメリカをしるのに、この3要素にもっと切り込んでもらえるとうれしいかもしれない。
ラテンアメリカに対抗する文化は、中東のイスラム社会だろう。
さらに、インドと中国の4つを加えれば、BRICSのブラジル、インド、中国の3つの主要国が押さえれたことになる。 -
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いつものように、なにげなく書店の文庫新刊棚を眺めていたら、ロビンソン・クルーソーという文字が目に飛び込んできました、
わあなつかしいと思わず手に取って、ふと訳者の名前をみてとても驚きました。
増田義郎・・その人は私にとっては特別の意味を持つ、いってみれば神のような存在でした。
というのはちょっと大げさですが、それでも高校生の一時期、熱狂的に没頭したラテンアメリカとりわけインカ帝国やアステカ王国について、この文化人類学者・ラテンアメリカ歴史学者=増田義郎教授のお世話にならなかった日はなかったのです。
もともと西部劇が好きで、いつも悪者扱いのインディアン=ネイティブ・アメリカン(アメリカ原住民)の処遇に疑問を持ったことから、いわゆる大航海時代(この言葉も増田教授の命名です)という名の侵略ムーブメントで、世界各地の独自に発展していた文明・文化・民族が消滅させられた事実を知って夢中になっていったのでした。
新大陸の発見?そんな悠長な傍観者的な立場は、とても許されるはずはなかったのです。
と同時に、その頃もう一方で没頭していたフォークソングの延長で民族音楽にも興味を持って、あるいはサイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んでいく」への関心もあって辿り着いたのがフォルクローレ、といえばやっぱり第一人者のギタリストで歌手のアタウアルパ・ユパンキです。
このインカ帝国の皇帝の名前を二人分つなぎ合せた名前もまた刺激的ですが、彼の弾き語りの「トゥクマンの月」や「嘆きのミロンガ」などを聞きながら、増田義郎の『インカ帝国探検記・・その文化と滅亡の歴史』(中公文庫)や『古代アステカ王国・・征服された黄金の国』(中公新書)や『新世界のユートピア』(中公文庫)や『略奪の海カリブ・・もうひとつのラテン・アメリカ史』(岩波新書)などを読みすすめると、心に沁みて深い味わいを感じました。
近代戦以降の大量無差別虐殺の惨たらしさもひどいものですが、この16世紀の文明・文化・民族まるごとすべて消滅させてしまう≪征服≫という行為は、それ以上に破廉恥な犯罪的なことだと思い知りました。
あっ、思わず翻訳者のことで脱線しすぎましたが、本書がこれまた問題の書なのです。
今まで私たちが読んできた、たった一人で無人島に27年間も孤独に暮した男の不屈の物語うんぬんというお話が、実は少年少女向けに翻案されたかなり原作とは異なったものだということを、この本で暴露されているのです。
・・・ここまで書いてきて、ほとんどまる一日のあいだ本の整理・移動をしたせいで、かなりヘトヘトで疲れがドッと来てしまってダウン寸前なのを自覚し出しました。
続きはまた今度。 -
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ネタバレこの本は、ポーランド出身の人類学者ブロニスワフ・マリノフスキが、1914年から1918年にかけてニューギニア島東部のトロブリアンド諸島で行われたフィールドワークに基づいて著した民族誌である(原著の出版は1922年)。
よく語られることであるが、この本がもたらした人類学への貢献は、「フィールドワーク」という方法を、人類学にとって不可欠なものとして「定着させた」ことである。この本が出版される以前は、旅行者や宣教師からの「伝え聞き」によって集められたデータに基づいて、当該の「民族社会」が描かれる、ということがあった。
当時の西洋人たちの多くは、「西洋」の側に属さない人々に対する偏見が強かった。しかしマリノフスキは、「きちんとした習慣などなく、獣のような生活をしている」と考えられた「野蛮人」と共に生活をすることで、彼らの生活様式が実は複雑なものであり、彼らなりの秩序をもって生活が営まれていることを明らかにした。そのことは、トロブリアンド諸島の人々にとって重要なものである「クラ」と呼ばれる交易についての記述や、クラの際に行われる儀礼についての記述を読めばわかるだろう。
この本は、アルフレッド・ラドクリフ=ブラウンの書いた『The Andaman Islanders(=アンダマン島民)』と共に、「機能主義」と呼ばれる考え方を人類学の主流にしたことで知られている。現在の視点から見れば、機能主義に対してはいくつかの批判がある。例えば、現地の人々の「社会」も、西洋人の社会と同じように「経済」「芸術」「宗教」などの部分に分割できるという考えから脱することができなかったこと(竹沢尚一郎『人類学的思考の歴史』)、フィールドワークによって収集されたデータの解釈が機能の発見に終始しており(つまり、「Aという行為にはBという機能がある」という記述に終始している)、現地の人々が自分たちの慣習をどのように解釈するするのかが明かされていないこと(永田脩一「機能主義」、綾部恒雄 編『文化人類学20の理論』)、などである。
しかし、こうした批判を生み出したからこそ、人類学はその批判を、人類学という学問じたいの問題として受け止め、乗り越えようとしてきた。フィールドワークを定着させたことだけでなく、こうした建設的批判を生み出したことを含めて、この本は、人類学の発展に大きく貢献したということができるだろう。
※ この翻訳本は原著の全訳ではなく、クラを中心とした形になっており、原著の内容が圧縮されて翻訳されている。この翻訳本じたいは人類学的にも、また読み物としても非常に価値のあるものではあるが、原著からバッサリとカットされてしまっている箇所があるので、きちんと読みたい方は原著も併せて読まれることをおすすめしたい。 -
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ラテンアメリカ文学において、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』と並ぶ傑作だそうで。
そこまで分量があるわけではない中篇だが、夜中に読み始めたにもかかわらず、どうしても止められなくて一気に読み切った。
読むのを止められなかったのは、複雑な構成なので間を開けたくなかったこともあるが、何よりもこの独特の世界観に浸り続けたかったからだ。
会ったことのない父親ペドロ・パラモを探して訪れた田舎の街でのファンに起こる出来事を中心に描かれるかと思いきや、話は過去にも飛ぶし、目の前で話している人間が読み進めていくと死者だったりする。
70の断片からなる物語だそうだが、その断片は時間軸も、生死の境も、すべて交錯した状態で次から次へ迫ってくる。
読んでいて何のことだかさっぱり理解ができない場面もしばしば。だが、ざらついた荒野の情景が常に頭に浮かびながら読み進める迷宮世界は、ある種の心地良さを与えつつ、緊迫感でぐいぐい心を攻めてくる。
メキシコを舞台にしたと仮定したデビッド・リンチの映画を観ているような感覚だろうか。物語の理解よりも、その圧倒的な世界観の洞窟に潜り込むような。
しかし、この文庫版は解説もすごく丁寧で、読後にかなり理解を深めてくれる優れもの。指摘された箇所を改めて読み返すと、より魅力的な一篇だと感じられます。
イマジネーションをかきたてる驚異の小説です。ルルフォはこれを含め2作しか発表していないようだが、そりゃ崇められるだろうよ!