諏訪哲二のレビュー一覧

  • なぜ勉強させるのか?~教育再生を根本から考える~

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    光文社新書なのに内容が重い、というか堅めな文章。
    ただ戦後の教育史とゆとり教育の実態などが事細かに述べられている。
    読んだ価値はあった。
    満足度7

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    2010年08月07日
  • オレ様化する子どもたち

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    内田樹の『下流志向』で取り上げられたので読んでみた。

    “80年代以降の子供たち”である私にとって(生まれは79年だけどね)身につまされる話ばかり。
    自分探しの罠に陥りがちなわが身を振り返り、
    自分のためより人のために働かなければと思うこのごろ。

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    2010年02月02日
  • 間違いだらけの教育論

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    「オレ様化する子どもたち」の諏訪哲二さんが書いている、ということで読んでみた。面白いし納得させられる部分も多いんだけど、「誰かの意見の批判」ってかたちで話が進んでいくのがちょっとイライラするかもしれない^^^^

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    2009年10月04日
  • オレ様化する子どもたち

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    p64『学校は成績評価、人物評価、規律や規範を提示することによって、子ども(生徒)たちに近代的な個人(市民)の「客観値」を示し、自己との距離を測らせようとする。距離が測れるようになるということは、(私そのもの)へのこだわりを少なくして、世の中に通用する大人になることだと表現してもいい。』
    p68『勿論、10年前の学園闘争のときにも教師にその意味はわからなかった。しかし、何を主張(要求)しているかはわかった。当時は、まだ、教師と生徒は同じ文化性、コード、時代感覚にある、言葉は通じていたからである。』
    p87『頭と身体が「商品交換」(人と人とは対等なやりとりをしなくてははならない)を求めている。いや、そう生きなければならないと「消費社会的」社会の倫理に脅迫されている。自分以外の誰かに判断を委ねたりしてはいけない。全て自分で決めなければいけないのである。だから、「共同体的な子ども」と違い、教師の話を一歩退いて聞こうとしていない。つまり、学ぼうとしていない。』
    p98『子ども・若者たちは共同体による保護がなくなり、いつも自立(孤立)し「個」として「等価交換」に脅迫されているように見える。…「新しい学力観」にあるように、子ども(買い手)の望むものを、望むレベルとスピードで与えようとする「等価交換」の発想は、市民社会性に基づいて共同体的な教育を否定しようとしている点では進んでいるように見えるが、子どもの育つリアリティや現実に即していない。教育の必要性はまず子どものほうよりも、子どもを抱え込もうとする社会のほうにある。普通教育の前半において社会が必要とするものを、必要とするやり方で子どもたちに提示することに怯む必要は全くない。勿論、そうすることの痛みは感じなければならないが、そのことによって当座はあまり勉強をしたくない子どもも救っていけるのである。』
    p115『太陽系の運行について教えられていながらあえて実感にこだわることや、生命体の死の復元可能性を信じることは、近代の「知」への離反ないしは違和を表していよう。近代社会と近代社会に生きる「個」の確かさが子どもたちに疑われてきている。学校教育を受けた近代的個人(市民、国民)とは、自分の目に見えないもの(こと)や、自分にわからないもの(こと)にも価値があることを知っているもののことである。もちろん、ひとりの「知」や検分で世界の全てを確かめることはとうていできないから、ほかの人たちの意見や認識や見聞を信じるということである。つまり、近代的な個人にとって必要なことは、何より「近代(社会)」というものを信じていることであり、近代社会に生きることが自己の実現につながると確信することであろう。』
    p160『いずれにしても近代の世代は、全ての人との相互行為において「等価交換」を求めようとするから、相手に対しティ津用意上に厳しくなってしまう。・・・・・・みんな無限の「贈与」である『愛」から非常に隔たっている。この出来事は、そういう私たちの危機的な事態の一つの現れのように私には思える。』
    p184文科省がこの十年ぐらい言ってきた「自分探し」
    『私は、自分で自分を探しても自分は見つからなかろうと思う。本当の完璧な自分がどこかにあると設定されているからである。いつでも不満でもの足りない自分を発見して、さらに内部へ内部へと入り込もうとするのではなかろうか(オウムの若者たちのように)。自分は今の自分から「選んで」、自ら「つくり上げよう」とするものであり、自ら選んでつくり挙げたことの責任を取ろうとする営みの中で、ある程度確定されてくるものであろう。ある断念なしに自己とは出会えない。』
    p189『幼児的全能感』が『社会(「外部」)』から『叩かれないと、「全能感」や「好奇心」のみが肥大化して成長し、社会性が育たず、「オレ様化」する可能性がある』『子どもが社会性を身に付けるということは、自己の「全能感」を挫折させることにほかならない。』『おとなとしての資格のひとつは、「全能感」を抑制できることであろう。そして、「全能感」がうまく志向性を持ち社会化されたものが「好奇心」であるとも考えられるのである。だから、「全能感」ではなく「好奇心」を持つとは、すでにその「個」がかなり「社会化」された人になっているということである。』

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    2009年10月04日
  • オレ様化する子どもたち

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    前半中々おもしろかった&興味深かったのですが
    後半の色んな人(村上龍とか)の論文&著書等々を引用し、批判していくくだりは
    読んでて若干しつこかったです。
    でも「子供」自体を批評する本ってあまりないので
    教育論的な事を語る本の中では好きです。

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    2009年10月07日
  • なぜ勉強させるのか?~教育再生を根本から考える~

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    この本が出てから読み終えるまで、そう時間はかかっていない。しかし、ずっとレビュー書くの忘れていた…。でも、今、内容を覚えていない。ということは…再読せねば。

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    2009年10月04日
  • オレ様化する子どもたち

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    かなり間を置いて読んでしまったので、繋がらなくなってしまった。付箋を貼って読めば良かったと後悔。
    これは再読の必要有り。

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    2009年10月04日
  • オレ様化する子どもたち

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    やや難解な記述だが,非常に論理的で説得力がある。つまるところ,現代の子どもは消費者的で,対価的関係を求める・教育の責務は個別化の前提として協調性を育てるべきという主張。もっともだと思うが,途中の批判文は読んでいて疲れる。

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    2009年10月04日
  • オレ様化する子どもたち

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    目の当たりにする状況にえらく一致するところが多く、ひざポン状態。しかし、しばらく考えて、自分を含めた世代も「オレ様化」しているなぁ、と反省。

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    2009年10月04日
  • なぜ勉強させるのか?~教育再生を根本から考える~

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    少し難しい部分もあったが、だいたい著者の言いたいことは分かった。再読すればもう少し理解が深まりそう。

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    2025年05月07日
  • プロ教師の見た教育改革

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    新しい学力感の否定を色んな観点から否定した1冊。
    なんか難しい言葉を無理やり使ってる感じで分かりにくかった。
    日本語は目的語が曖昧で、議論がなあなあで終わる。教師も西洋的価値観を絶対視してる割に、その意見は個人内で神話化してなあなあにしてるじゃんというのは面白かった。
    幸福度や経済成長率で見てたら西洋的価値観の教育のが良さそうに見えるけどなあ


    文部科学省の転向
    新しい学力感とは 個の選択に任せる 知識か創造性かの二項対立
    子供の学ぶ意欲 観念上の子供と現実に生きる個々の子供の分離 大人の一方的なもの

    教育改革論の原点
    個の尊重 学校は文化性を内在させている所で変わりにくい体質 偏差値排除 推薦入試
    選択科目 子供は完全な主体では無い
    チャータースクール ヤマギシ会 個の尊重神話 強迫神経症

    ゆとり教育の限界
    学校の秩序維持より生徒の利益 契約性の薄い日本文 法的には出席日数で卒業は関係ない
    3割減のねらい 平均的市民のミニマムエッシェンシャル 身構えが軽くなる
    子供と先生の客体と主体性 教師が教える以上主語は教師 大人と子供とは違い、生徒は一時的なありようとしての存在
    心の教育は公教育の対象? 神のみ? 受動的能動性こそが至高
    完成された近代的自我を形成するのが任務 実態ではない上に不確定
    選択授業制 自己責任 既に自立しているかの如く
    公と私は分離できない 私の原型は、公によって私以前の私が衝撃を受けて出来る 公共的な個が成立していない

    教育改革の中心と周縁
    歴史の終焉から文化の衝突へ フランシスフクヤマ 最終的に西洋的自由民主主義的な国に ハンチントン 異なるものの衝突
    日本は西洋主義的教育へ 昔は共同体からの個人
    知的階層と非知的階層と中間層に教育が分ける

    教育の自由化とは何か
    中国から西洋中心に 日本は第二世界 第一世界が普遍
    911を巡って アメリカ絶対主義と相対主義

    平均的な教師の生活と意見
    日本の教師は上澄みだけ西洋であとはジャパンローカル 普遍が絶対的
    議論は道義的非難のレベル 私の中に公がない
    日本語は他動詞がない 責任の明確さを曖昧に
    先生の根拠は啓蒙主義 教える主体

    21世紀の学校はどうなるか
    寺内研批判 人間本来の姿 とは 西洋近代絶対普遍原理主義者
    教育は誰のもの? 家庭 地域 学校 情報メディア←New!経済的人間である個人をわすれてた



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    2023年02月16日
  • なぜ勉強させるのか?~教育再生を根本から考える~

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    なぜ勉強しなきゃいけないの?

    と子どもに問われたら、私は「なんでだと思う?」と聞き返すことにしている。そして、子どもの答えをニコニコと聞いて、「そうかもね」とだけ言い、自分の答えは教えないことにしている。そして、時々家でも勉強している父の背中を見せることにしている。


    著者は、頭脳明晰で、かつ、現場に立ち続けてきたホンモノの教師である。だから、説明がうまいし、説得力がある。けれど、だからこそ、上から目線で、やや断定的である。好みは分かれるところだろうし、「我が子を賢くする方法」などの記事を探しては読み、子を通わせる塾を転々と変えているような方は、絶対に読まない方が良いと思う。

    ゆとり教育のせいで学力が低下したわけではないことは、確かにそうだなと納得した。


    あとがきの抜粋。
    【したがって、勉強するということは、まず私たちひとの生物性を一度否定することと言えましょう。(略)まず先に「私」があって、後からその「私」が知識を身につけていくのではありません。近代的な主体である「私」をつくるために、ひとの本能や自然性に逆らって、知的な身体に変えていくことなのです。】

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    2022年09月14日
  • オレ様化する子どもたち

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    ネタバレ

    プロ教師としての教育論
    戦後60年間でこどもがかなり変容をとげてしまったということを前提に教育論を語るべきという主張。

    なんといっても、教育における共同体的要素=社会化の重要性を強く主張しているところが特徴。また実践者の感覚でもある。
    ・教育における共同体的要素の必要性:宮台の考え方の否定。共同体的対市民社会的
    ・生活指導の必要性:和田秀樹と上野千鶴子の(生活指導などではなく)授業に集中する学校への回帰論がいかに現実的でないか
    ・子供は聖域ではない:特に、いわゆる教育の内部(家庭、学校、地域)だけの影響を受けているわけではない。すでにメディアによる共同体的要素の破壊は大きい。尾木直樹はユートピアから課題指摘を学校だけに対してしている
    ・共同体的枠組みの重要性:村上龍のは好奇心に偏りすぎ
    ・かといって贈与にだけ偏る世界は教育はない。水谷修の「夜回り先生」は、聖者であって教師ではない

    結論として、子供は「教育の外部」の影響を大きく受けており、子どもが教育現場に入ってくる前に大きく情報メディアの影響を受けている。また、農業社会、産業社会、消費社会と変化してきた中、消費者としてのこどもは、強い自己に固執。要するに教育の内部である地域、家庭、学校を超えた世界の影響によって子供は「オレ様化する」

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    2021年08月07日
  • オレ様化する子どもたち

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    フロイト好き?
    10年ちょっと前の著作だが、SNSが普及した今の状況をどう見ているだろうか。
    現場の意見なので、ああそうなのかとも思うが、教師を唯一神の補完するものとしてとらえているのは納得しかねる。

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    2017年01月22日
  • 「プロ教師」の流儀 キレイゴトぬきの教育入門

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    プロ教師の会と法則化は、日本の教育現場から立ち上がった教師集団の両横綱だと思う。前者は、生徒の質的変化、教育の偶然性を重視する。そのため、鋭い問題提起はあるが、具体的な指導方法に対する関心が希薄である。しかし、本書では,珍しく指導法に言及されている。そこで、諏訪氏が超難関校の自主性を重視した指導を理想としているのが意外だった(155ページ)。そうした超難関校の生徒たちは、学校以外の場でその能力を身に付け、学校での活動は息抜きであるのは自明であるのに、である。また、諏訪氏が英語教師であったのも初めて知った。

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    2015年01月09日
  • オレ様化する子どもたち

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    子どもは親(教師)の思い通りに行かないと思うのだが、それでも80年代90年代と子供たちは代わってしまったと感じることがある。
    「プロ教師の会」というのがあるらしい。論争を煽り、批判する集団なのか?
    2部構成になっており、第1部は子どもが悪い、といことの検証。第2部は教育論者の子ども観。
    ゆとり教育はうまくいかなかった。変わる子ども、変わらない教師。
    教育が贈与から商品交換となった。
    子供たちは、個性=自分独自=他人と異なる、という比較を嫌う。大人と対等な関係を望む。

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    2014年08月26日
  • 間違いだらけの教育論

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    筆者のこれまでの主張を「啓蒙としての教育」として再構成している。具体的にどうすればいいかという臨床面ではなく、病理面の研究だと思った。

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    2014年06月19日
  • オレ様化する子どもたち

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    「プロ教師の会」代表が「子どものオレ様化」を軸に、教育を論じているのが本書。

    「オレ様化」とは? ただ生徒がエラソーになったというだけのことではない。かつて「生徒」というものは、人格的にも知識的にも半人前で、教師から一方的に「贈与」を受け取る存在だった。しかし社会の近代化にともなって、子どもは変わった。大人と対等の存在、教師と対等の1人の「個」として現れてきた。教師-生徒関係が、「贈与」から「商品交換・等価交換」になってきたのが、教師の権力の失墜→学級崩壊→不登校・いじめ・援助交際・ひきこもり、へとつながっていくのだ……と本書は説く。

     いつの時代も子どもは変わらないとか、子ども1人1人に合った教育をしなければならないとか、子どもが自ら学ぶ姿勢を大事にとか……そういう考え方を著者は教壇に立ち続けた経験から「甘い」と切って捨てる。子どもたちにまず必要なのは「個性化」ではなく「社会化」であると。

    「子ども」と「学校」の関係だけでなく、「子ども」と「社会」との関係を織り込んで展開される論理は、教師としての実感に支えられているぶんだけ、他の教育論者に比べうわすべりしていない。第1章の論理に従って、第2章で宮台信司、和田秀樹、上野千鶴子、尾木直樹などの教育論が批判されるが、一理あるなぁと思う。
     しかし、本著に従えば、「子ども」の変化に対応するには、「学校」を変えるだけでは足りない。「社会」が子どもに注ぐ視線も変えなくてはいけない。それをどうするかまではさすがに荷が重いようで、明確に言及はされていない。それは読者1人1人の課題となるだろう。
     また、本著で展開されているのは、しょせんは「精神論」であり、学校のカリキュラムをどうするか、入試をどうするかという現実的な施策を超えたところに成立していることを忘れてはならない。難しいのは、「そっから先」なんである。

     先生や親が子どもと友だちのような関係を結びたがったり、小学生のうちから「個性を伸ばす」教育を施したり、学校に「市場原理」を持ち込もうとしたり……つーのは、この本をあてにすると、かなりヤヴァイことのように思える。「ゆとり教育」か「詰め込み&反復」か、「生きる力」か「学力」か。そういう二項対立の図式からすこし視点をずらして考えるために、悪くない本だと思う。

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    2014年03月30日
  • オレ様化する子どもたち

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    ネタバレ

    水無月新月の候におすすめする一冊は、諏訪哲二著『オレ様化する
    子どもたち』です。著者は1941年生まれで、01年に定年で引退した
    元高校教師。教師として教育現場の荒廃と格闘し続けてきた方です。

    タイトルはちょっとキワモノっぽい本書ですが、中身は至って真剣。
    教師ならではの視点での極めて真面目な教育論が展開されていて、
    のっけからぐいぐいと引き込まれます。教育の考察を通じて、近代
    とは何か、個性とは何か、というところまでが問い直されているの
    で、子どもの教育に特に関心がないという方にも、十分な読みごた
    えのある内容となっています。

    「オレ様化」とは、80年代中葉以後の学校現場で出現してきた「新
    しい生徒たち」を形容する言葉です。この「新しい生徒たち」に特
    徴的なのは、すでに完成した人格を有しているかのようにふるまい、
    学ぼうとも、自分を変えようともしないことだそうです。だからと
    言って「強い自己」が確立されているわけでもなく、むしろ対人関
    係や社会的適応性の面で問題を抱えやすく、自己の殻の中に閉じこ
    もりがちな「弱い自己」であることが特徴だとも言います。教師に
    は全く不可解な存在。それが「新しい生徒たち=オレ様」でした。

    このようなオレ様が生まれてきた背景には、消費社会の進展がある
    と著者は説明します。消費社会の中で、学校に入る前から消費の主
    体として扱われるようになった子ども達は、教育される客体として
    扱われることを拒むようになります。コンビニやファーストフード
    店で一人前のお客様として扱われるのと同様に、学校でもお客様と
    して扱われないと我慢ができないのです。そういう中で、教師と生
    徒という上下関係は成立し得なくなり、教育も機能しなくなります。

    管理教育批判の中で、学校を民主化せよ、市場化せよ、という要請
    が高まったことが、この傾向に拍車をかけました。教育が市場経済
    や商取引の論理=等価交換の原則で語られるようになったのです。

    極め付けは、1984年の中曽根内閣の時に臨時教育審議会が打ち出し
    た「個性重視」の方針でした。これに基づき、80年代後半には、学
    習要領の全面的な改訂が行われ、「社会性」よりも「個性」の方を
    重視する教育が行われるようになるのです。これは、幼児期の全能
    感を抱えたままの子ども達を大量に出現させることになります。そ
    の結果、「学級崩壊」という現象が生まれ始めるのです(学級崩壊
    という言葉がメディアに登場するのは1998年のことです)。

    このように、消費社会化の進展の中で、もはや学校は機能しなくな
    っています。かと言って、教師の無能や学校システムの無効性を騒
    ぎ立てても、ましてや子どものせいにしても、何も解決しません。
    誰が学校を、子どもをこのようにしたかと言えば、結局のところ、
    消費社会に安住する我々一人一人なのです。ですから、これからは、
    親として、或いは、オレ様化した部下や後輩を抱える上司や先輩と
    して、この問題と向き合っていくしかありません。それは、簡単に
    解の出ない、とても困難な作業です。

    賛否両論ある一冊のようですが、親としても、上司や先輩としても
    一読しておく価値はありますので、是非、読んでみてください。

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    ▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

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    いい教育とは「のびのびして厳しい教育」である。「のびのび」か
    「厳しい」のどちらか一方になってしまってはいけない。そうなれ
    ば学校ではなく、遊園地か収容所になってしまう。「のびのびして
    厳しい」は、言い換えれば子どもに合わせないと教育は成り立たな
    いが、すべて合わせてしまうと教育たりえないという意味である。
    教育の営みには「従いなさい」と「自立しなさい」という矛盾した
    要素が入っている。

    子どもはつねに社会の状況の関数として語られるだけで、決して
    「主体」としては論じられない。つまり、子どもについては論じら
    れているが、子どもそのものは論じられていない。子どもはいつも
    「聖なる存在」のように奉られている。

    「不登校」や「いじめ」や「援助交際」や「引きこもり」は、日本
    が近代化を達成して大量消費社会、高度情報化社会に突入し、その
    変化が子ども・若者たちに受け取られて新しい<個人的な価値観の
    創出>が始まった結果生じたものではないかと私は考えている。

    問題は日本の子ども・若者たちのいまある姿が西欧的な意味での
    「個」の「自立をしていない」から生じているのか、それとも「個」
    として「自立した」(あるいは自立しようとしている)から生じて
    いるのか、どちらかということである。

    情報メディアとお金の発するメッセージによって子どもは社会的に
    自立(一人前のおとな、生活者になる)するまえに、すでに「個」
    を「消費主体」として自立させている。

    子ども(生徒)たちはすべからく自分について「外」から批評され
    ることを拒むようになった。

    自分というものの価値は絶対に自分のものであり、他人の介入を許
    そうとしない。異常なほどに「外」や他人(親も含む)からの評価
    (比較)を恐れている。

    クラスの集団性は日々弱まっている。集団性(共同性)が弱まって
    生徒たちの「個」がそれぞれに自立(孤立)するようになった。

    家も地域も学校も市民社会(経済社会)の侵蝕にあって共同体性を
    喪失し、それぞれの「個」の利害だけが関心事となり空洞化しつつ
    ある。「社会化」とは経済が支配的になるということであり、今問
    題なのは「社会化された家庭」であり、「社会化された地域」であ
    り、それによって「社会化された学校」なのである。

    子ども(生徒)は自ら学ぼうとしなければ、どんなにたくさん授業
    を受けても学べない。そして、「自ら学ぼうとする」生徒の姿勢は、
    学びを始める前に形成されている必要がある。ここが「個」を基軸
    とするリベラルな思想からすれば理不尽なところである。

    自分の「個」に対するさまざまな抑圧や障害を乗り越えて、生きて
    いく力を身につけさせることこそが教育なのである。そのとき、あ
    まりに子どもたちの「個」のありのままを認めたり、救おうとする
    こと自体が、逆に子どもの「個」の生命力を弱める結果になりかね
    ない。

    少年時代の「全能感」や「好奇心」は叩かれる必要がある。叩かれ
    ないと「全能感」や「好奇心」のみが肥大化して成長し、社会性が
    育たず、「オレ様化」する可能性があるからである。

    自己を超えようとする者は、自己の欠如を覚知している者であろう。
    自己の存在欠如(不完全さ)を知り、それを自らのものとして引き
    受け、その欠如を埋めようとして走りだす者が、自己の変革、つま
    り自己の実現に到達する可能性を持つ。

    子どもたちにとって、「学ぶこと」が困難な時代に入ったのである。
    極端に言うと、家庭(の親たち)に教養や文化力があって子どもを
    「消費主体」の自信を持たせると危険であることを知っていて、な
    おかつ、人が生きるということは単に経済的な自立を意味するわけ
    ではないということを「教える」ことのできる家の子どもたちは、
    「学び」に向かっていける。家にそういう「文化資本」のない子ど
    も(若者)たちは、経済にただ翻弄されるだけである。

    「個性」を大事にしないと「個性」が潰されてしまうと危惧する人
    が日本には多いが、市民形成(「社会化」)のプロセスで潰されて
    しまうような「個性」は潰されるべきである。そういうレベルの
    「個性」を潰すために、「社会化」はなされるのである。

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    ●[2]編集後記

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    先日、ボーイスカウトの体験入団をした娘は、すっかり気に入った
    ようで、昨日、正式に入団しました。小1なので、カブスカウトの
    下のビーバーという階級です。昨日から支給された制服を着て活動
    しているのですが、制服を着た彼女はとても嬉しそうでした。

    制服の力ってありますよね。

    消防団に入って制服を着て出歩く機会が増えてから、制服の持つ力
    について考えるようになったのですが、例えば、消防団の制服を着
    ている時は、とにかく間違いは起こせないのです。信号無視も飲酒
    をしての自転車の運転も、絶対禁止です。常にぴしっとした姿勢で
    のメリハリある行動が求められます。

    地域の人々からもそういう目で見られているなと思うから、制服を
    着ると、なんかこう心身共にぴしっとしてくるんですよね。普段の
    自分には考えられないことです。制服には、所属しているグループ
    なりチームなりのルールや権威を守るべく、個人の中に責任の意識
    を芽生えさせたり、居ずまいを正させたりする力があるのでしょう。
    軍隊や宗教組織は、こういう制服の力を熟知していて、組織の規律
    を守るために、制服の力を活用してきたのだと思います。

    サラリーマンの制服はスーツだ、なんて言う人もいますが、スーツ
    にはそういう制服的な力はないように感じます。むしろ個人を没人
    称化し、無責任化させる側面のほうが強いかもしれません。

    では、スーツで武装したサラリーマンに責任の意識を持たせたり、
    居ずまいを正させたりするものは何でしょうか?

    それって意外とないかも…、と思うのです。

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    2013年06月10日
  • なぜ勉強させるのか?~教育再生を根本から考える~

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    学力至上主義に異を唱える。なんのために勉強するのかということに経済観念で考えるのには限界がある。
    今、君たちが最も関心のあることの一つかもしれない。でも、そんなこと考える前に勉強するっていうのも一つの手です。長山 靖生『不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か』(光文社新書2005)は勉強する意味が見つかるかも。

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    2014年12月18日