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Posted by ブクログ
この本はまず、現在の受験戦争の早期化の時代背景を説明し、その後「ゆとり教育」の目的について話し、学校の必要性について説いた後、「学力向上」を求めるだけでは学力は上がらず、近代的な個人(おとな)になることができないことを述べ、最後にこどもにとって、ひとにとっての垂直的な存在(絶対な存在)の必要性について説明し、本を閉じている。
筆者は近代を「農業社会的な近代」、「産業社会な近代」、「消費社会的な近代」の3つに分けている。「農業社会」では共同体の力が強く、こどもは自身共同体の1個人であるという感覚を持っていた。自分が勉強し、頑張ることが親のため、家族のため、共同体のためになるという感覚が漠然とあった。「産業社会」では、生活の中に「消費」という概念が入り、裕福な家族像を描きながら、家族の一人一人が「個」としての存在を形成していった。「消費社会」では一人一人が「私」という感覚を持ち、それぞれがお互いを主張する関係性に発展していった。そのような時代に生まれ育ったこどもは、幼い時から「私」という感覚を持ち始めた。「社会」があって、「私」があるのではなく、「私」があって、「社会」があるという感覚だ。
そのような時代のこどもに合わせて行おうとした政策が「ゆとり教育」である。私は恥ずかしながら、ゆとり教育の目的やヴィジョンを分かっているようで、理解していなかった。教育の有り方を細分化し、こどもに決定権を与え、社会にこどもを合わせるのではなく、こどもたちが選択した道によって社会を形成しようというのが、ゆとり教育の目的であり、それによってこどもたちは一人一人が大切にする「個性」を持った近代的個人に成長し、社会を形成していく、ヴィジョンがあったのだと、解釈した。しかし、結局親、こどもが学校教育のゴールは良い大学に入って良い企業に入るというゴール像に縛られてしまったことや、教育の多様化が義務教育時間の削減と教育の細分化という「科目」の面でしか改革が行われなかったことなどから、失敗してしまった(と認識されてしまった)。細分化されても、結局細分化される前の道をこどもは選択した(させられた)ため、細分化される前の道筋だけが残った。また時間に「ゆとり」ができたため、お金に余裕のある家庭は塾などにこどもを通わせ、教育格差が広がった。「ゆとり教育」が終わった今、またこどもの学力を向上させることが学校、家庭の役割であるという考えが強くなってきている。
しかし学校はこどもの「学力向上」の機能だけではなく、社会のルールや、コミュニケーション能力など、「生きる力」を学ばせる場所である。学校は塾がなくても存在することができるが、塾は学校がないと存在することができない。学校で「生きる力」を学び、その土台があった上で塾などの教育機関で学ぶことができるからだ。だから、こどもは学校に行かなければいけないし、親もこどもは学校に行ったほうがいいと、直感的に分かっている。
消費社会的な近代において、こども、ひとは自分の考えを主張し、自分の分かっている範囲内で周りの物事を判断するようになってきている。自分は1人の自立した個人であり「私」であるのだ。しかし、人とはちっぽけな存在であり、社会を構成する一要素(その人がいないと今の社会が成立しないという意味で大事な要素ではあるが)でしかない。その事実を認識させてくれる、絶対的な、垂直的な位置に存在するものが、今の日本には無いと筆者は述べる。筆者は日本の中学校で先生をしていたころ、オーストラリアの生徒が海外から交換留学に来て、その子の「決して自分の主観だけで物事を判断しない姿勢」に衝撃を受けたという。それは彼女にキリスト教という絶対的な宗教が存在し、それによって、彼女は自分自身を客観的に評価し、高められたのだと、筆者は考えている。この考えに、自分の過去に見たり聞いたりした経験が重なり、深く共感した。
現在の消費社会的な時代において、ひとが自立するというのは、自分が1人では生きていけないことを認めることだと、彼は言う。たしかに、勉強し、新しいことを学ぶということは、一度、そのことを知らなかった自分を否定し、それを自分の中に内面化する作業であるし、内面化した内容によって、「私」という存在が再構築されていく。
自分は「私」であるというありのままの「私」を一度否定し、私はいろいろなものに依存しながら生き、社会という圧力の中で部分的な「自分らしさ」を失い、自分が大切にしたい(とがりたい)「自分らしさ」を内面に持つこと(たこつぼ的な)。これが近代的な個人なのであり、勉強する意義なのだと思った。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
学校不信が止まらない。
保護者たちは、右往左往の教育改革を横目に、「わが子だけを良い学校に」と必死だ。
そのニーズに応えて、「百ます計算」や「親力」といったメソッドが次々と紹介され、指導法のカリスマが英雄視される。
勉強の目的といえば、「得になるから」「勝ち組になるため」に収束した感があり、すこぶるドライな経済的価値観が目立つようになった。
だからこそ、本質から問いたい。
「なぜ勉強させるのか?」と。
本書は、「プロ教師の会」代表の著者が、教職生活四十年間で培った究極の勉強論である。
[ 目次 ]
プロローグ―そして「学力向上」だけが残った
1章 時代論1―「お受験キッズ誌」が映し出すもの
2章 時代論2―ゆとり教育は案外、将来を見据えていた
3章 学校論1―それでも学校を信じなければならない訳
4章 学校論2―塾・予備校は学校改革のモデルとなるか
5章 指導論1―「百ます計算」・陰山メソッドの問題点
6章 指導論2―「親力」ブームの誘惑に耐えられるか
7章 子ども論1―世界の子どもと比べてみる
8章 子ども論2―「なぜ勉強するの?」と問われたら
エピローグ―勉強するにも、させるにも覚悟がいる
[ POP ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
"勉強の意味"とは。
プロ教師の会代表で、実際に長年現場を経験してきた筆者が「教師」と「子ども」のあり方について鋭い考察をおこなう。
ところどころ飛躍的であったり、歪曲的であったりする箇所があり、正直読んでいて不快になる事もあるが、全体を通してはきれいにまとまっている印象。
筆者は戦後日本を「農業社会」「産業社会」「消費社会」にの3つに分類し、その中で「個(私)」というものがどの様に変遷していったのか、現場でのリアルな経験を元に提示する。
教師論、子ども論にしても、勉強する意味について聞かれた時の対処法にしても、かなり現実的。ここらへんは、やはりプロ教師の会といったところ。
賛否両論ありそうだが、一読の価値あり。得るものは大きい。
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ビジネス・実用
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