諏訪哲二のレビュー一覧
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「神」の代理人はキリスト教でも神父や牧師という個別的な人の形をとっている。日本の場合はキリスト教を欠いているために学校の教師にその役割が期待され、教師が知的専門家であるよりは知的専門家プラス「魂」の導き手のような性格を持つようになっていった。218
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学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立の意味を説くまえに、すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校へ入って教育の「客体」にされること -
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「『見えない』『聞こえない』『表現できない』症候群」と筆者がいうようなタイプの子どもは、うちの教室にも結構いる。筆者はそんな子たちが外部を受け入れ「学び」に向かうよう「社会化」していくことを「『啓蒙』の教育」と呼んで、その大切さを訴えている。
それはいいのだけど、そのあとの本書の大部分では、教育に関してのあらゆる人たちの意見を取りあげては、あげ足取りとも思えるぐらいの批評(というか、批判)が展開されていて(というのも、ほとんどこの「『啓蒙』」の教育」に対する視点が欠けている、という指摘)、正直ちょっと疲れる。批評(批判)することがこの本の趣旨なんだろうから仕方がないけど。
筆者のいう「『啓蒙』 -
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中公新書ラクレでの著書に比べれば、興味深く読むことができた。
子どもはそのままでは社会で生きていけない。社会に自分を会わせる必要がある。また、学習して行くには、それへ向かう態度のようなものが必要となる。学校は学力向上にのみ目を向けるのでなく、子どもを社会化し、学習へ向かう態度を身につけさせることにも力を入れなければならない。そのために、強制は行われる。
子どもは、テレビとお金などの力により個として認められているために、学校でも個であり続けよう、教師と対等であろうとするがそれでは教育が行えない。
主張したいことは、変わらないようだし、他者の意見に対する断定と経験に基づく推測は相変わらずだった -
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自分が教師と対等であることを前提に、等価交換を求める子どもが目立ってきている。それは学校に入る以前に、市民社会的な個を成立させるためである。
後半では、宮台真司、上野千鶴子、和田英樹、尾木直樹などを批判する。
かなり一方的な批判が後半で展開されていて、残念な感じがした。
批判をするときに、徹底的に一方的にという方が売れるだろうとは思うが、相手の考えについてよく知らないこともあるが、ちゃんと理解した上で批判しているのか分からない部分もあった。
結構、凝り固まっている人なのかと思い、幻滅した。上野千鶴子と宮台真司のみを扱って、社会学の批判をするところも残念な感じ。
また、フロイトにこだわりすぎな -
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[ 内容 ]
ニセ教育論ばかりが、なぜもてはやされるのか?
理想に燃える教育論は、どこでつまずいてしまうのか?
本書は齋藤孝、陰山英男、「ヤンキー先生」、「文部省のスポークスマン」、ワタミ社長の各氏をはじめとする“カリスマ教育者”たちの議論を検証しながら、教育問題の正しい考え方を示していく。
著者は教員歴40年のベテランで、「プロ教師の会」代表。
メディアで活躍する教育論者の中では、現場を熟知する貴重な存在である。
[ 目次 ]
人間は教育から逃れられない
第1部 子ども論の大間違い!(齋藤孝さんは教育を論じていない(「商取引」としての教育)
齋藤孝さんが書けない“教育の本当”(「文化」とし -
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ネタバレ[ 内容 ]
大人と対等と信じ、他人を気にかけなくなった子ども。
「プロ教師の会」代表の著者は教職40年で、この変化と格闘してきた。
本書はオレ様化の原因を探り、個性化と社会化のあり方を問う。
[ 目次 ]
第1部 「新しい子ども」の誕生(教師と子どもは「他者」である 戦後社会の変遷と子どもたち 幼児期の全能感と「特別な私」 なぜ「校内暴力」は起きたのか 変わる子ども、変わらない教師 大人と「一対一」の関係を望む子どもは「一」ですらない 子どもに「近代」を埋め込もう)
第2部 教育論者の子ども観を検証する(宮台真司―「社会の学校化」か「学校の社会化」か 和田秀樹―学力低下論の落とし穴 上野千 -
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[ 内容 ]
教育改革をめぐる議論はとても分かりにくい。
というのは、これまで教育問題は、伝統的な「つめ込み」教育と、「子ども中心の自由放任」との対立に二分されてきたが、それが解消されないまま、国民形成を重視する「教え込み主義」かグローバリズムを背景にした「教育の自由化」かが、より大きな争点として浮上してきたからである。
混迷を深める改革論議を生徒・教師・親という教育の現場から整理し、いま実現可能な改革を考える。
[ 目次 ]
第1章 文部科学省の転向
第2章 教育改革論の原点
第3章 「ゆとり教育」の限界
第4章 教育改革の中心と周縁
第5章 教育の自由化とは何か
第6章 平均的な教師の生 -
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この中に書かれている、オレ様化現象が現実だとすれば、
全てを学校の責任だと押し付け、解決法を追求するには無理があるのだろうと思った。
子ども達全般に、このような風潮が広まっているのは、いったい何が原因なのだろうか。
教える側と教えられる側は、誰が何と言おうと上下の関係でよいのではないのか。
今は、先生が注意する事も躊躇し、まずは“アイ・シンク”、私はこのように思うのだが、どうなのかな?などという、まどろっこしい言い方しかできなくなっているそうだ。
子ども達は子ども達で、自分だけの意見であろうことを自己主張するというのではなく、
自分が思うことはみんなも思っているに違いない。または、思うべきであ -
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これまでもやもやしていたことが、少しすっきりしました。
学ぶ態度みたいなものをきちっと付けないと応用力も基礎力も付かない。
→確かにそうですね.
まず人格の形成、それから知識の形成。
子供の個性を見極める。
どの方向にどの程度伸びていけそうなのか見極める。
その上で一人前の社会人としてやっていけるようにしてあげること。
→そうですよね。
何よりもこの近代社会に生きていくことが「私」の幸せ、かつ私の幸せが社会の発展につながる。
他者に役立つことに喜びを感じることを学ぶのが大切。
→そういう人が増えると社会が変わりますね。
世の中に絶対的な価値はない。
そのためにも神は必要。
生かされてい