宇沢弘文のレビュー一覧
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初版が2000年11月20日発売ということなのでもう26年も前のものだけど、書いてある内容は今も通じるところ、地続きなものが多いなという印象。ただ今はそれなりに事例も増えてきていて、そういうものを知りつつ、改めて地域や社会、都市、町村、技術、文化の在り方やこれからを考える必要があるなと思う。
「社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。」
「人間が人間らしい生活を営むために、重要な役割を果たすもので、決して、市場的基準によって支配されてはならないし、また、官僚的基準によって管理されてはならない。」
「社会的共通資本の考え方は、このような歴史の捻転をなんとか是正して、より人間的な、より住みやすい社会をつくるためにどうしたらよいか、という問題を経済学の原点に返って考えようという意図のもとにつくり出されたものである。」
「しかし、ル・コルビュジエの「輝ける都市」は抽象派の芸術作品としてはすぐれた作品かもしれないが、人間が生活して、人間的交流をもち、人間的な文化を形成してゆく場ではない。ル・コルビュジエの都市では、人間は主体性をもたないロボットのような存在でしかない。」
「ハイデンライヒ=ホールマンは、文化について、二つの異なった考え方が存在することを指摘する。 伝統的社会では、「文化」はつぎのような意味をもつ。「社会的に伝えられる行動様式、技術、信念、制度、さらに一つの社会ないしはコミュニティを特徴づけるような人間の働きと思想によって生み出されたものをすべて含めて、一つの総体としてとらえたもの」を意味する。他方、近代社会においては、「文化」は「知的ならびに芸術的な活動」に限定して考えるのが一般的である。」 -
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宇沢弘文(1928~2014年)氏は、鳥取県生まれの経済学者で、数理経済学の世界的権威。東大理学部数学科を卒業後、統計数理研究所を経て渡米。スタンフォード大学でケネス・アローに師事し、最適成長理論や二部門成長モデルを発展させた。1964年に36歳でシカゴ大学教授に就任し、ジョセフ・スティグリッツら後のノーベル賞学者を育てた。帰国後は東大教授として「社会的共通資本」を提唱し、公害・環境問題に取り組み、文化勲章など数々の賞を受賞した。
本書は、著者が、社会的共通資本に関して発表してきた書物や論文を、加筆・訂正してまとめたもので、2000年に出版された。
ポイントは概ね以下である。
◆「制度主義」とは、19世紀末に、資本主義か社会主義かという問題意識を越えて、自由が最大限に保証され、人間的尊厳が守られ、安定的・調和的経済発展が実現するような理想的な経済制度として、ソースティン・ウェブレンが提唱した考え方で、その制度は、一つの普遍的原理から演繹されるのではなく、それぞれの国・地域の持つ倫理的・社会的・文化的・自然的な諸条件が交錯して作り出されるものとする。
◆制度主義のもとで、希少資源は社会的共通資本と私的資本に分類される。「社会的共通資本」は、社会の安定・持続的運営に不可欠の基盤であり、政府や市場原理に委ねず、専門職の倫理に基づいて管理・運営されなければならない。具体的には、自然環境(大気、森林、河川、水、土壌等)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力・ガス等)、制度資本(教育、医療、司法、金融制度等)に分けられる。
◆経済理論的には、20世紀前半、世界恐慌により失業と需要不足が深刻化し、市場の柔軟性を前提とする新古典派理論では不況を説明できなくなり、財政政策や公共投資による需要創出を重視するケインズ経済学が台頭したが、20世紀後半、高インフレと失業が発生してケインズ経済学の限界が露呈した。ここで本来は、(新古典派やケインズ経済学の問題意識である)効率化や経済成長ではなく、分配の公正や貧困の解消を目指した理論が構築されるべきだったが、実際は、新古典派をより極端にした新自由主義が復権した。社会的共通資本の考え方は、これに対するアンチテーゼである。
◆農業は、一つの産業として経済的な効率性を追求するのではなく、社会的・文化的・自然的な視点を加えて、「農の営み」として捉えるべき。社会的共通資本としての農村は、自律的に組織・管理される「コモンズ」の形態であるべき。
◆社会的共通資本としての都市は、ある限定された地域に、複数の人が居住し、働くとともに、人間的交流を持ち、人間的な文化を形成してゆく場である。そうした観点から、望ましい都市とは、いわゆる近代的都市ではなく、徒歩での移動を可能とし、古い建物を残し、1地区に複数の機能を有し、人口密度が高く、適度なサイズの都市である。
◆教育の目的は、一人ひとりの子供の個性を大事にし、その能力を育てることと、子供たちが社会的人間として、幸福な人生を送るための人格的諸条件を身に付けさせることである。ジョン・デューイは、学校教育制度の機能を、社会人としての人間的成長を可能にすること、社会的・経済的不平等の是正、個人の人格的発達の促進の3つとしたが、法人資本主義体制の中では、学校教育はむしろ不平等を拡大している。大学も利潤最大化という基準で経営されているが、本来、社会的共通資本としての大学は、政府の圧力に対して自由を守り、一国の文化的水準の高さを示す象徴とならねばならない。
◆社会的共通資本としての医療においては、全ての市民が基本的な医療サービスを受けるための資源・コストを算定し、それが国民医療費とならなければならない。日本の医療制度の矛盾は、医療的最適性と経営的最適性の乖離にある。診療においては、保険点数制度に基づく額が支払われるのではなく、医者が、医学的観点から最適な診療行為を行い、実際にかかった費用が支払われるべきである。
◆金融は、高度に専門化し、経済的、社会的、政治的要素が複雑に交錯している社会的共通資本だが、それゆえに、その職業的規範を明確に定義し、市場の構造的・制度的条件を整備し、経済循環の安定性を確保しなければならない。
私は、現在の世界の諸問題の元凶の一つは(行き過ぎた)資本主義にあると考えており、その有効な解決策として、斎藤幸平氏が主張する「脱成長コミュニズム」に基本的に賛同する立場で、本書を手に取った理由も、書名の「社会的共通資本」に、斎藤氏らがいう「コモンズ」との共通性を予感したからである。
そして、一読してみると、予感は半分当たっていたというところだろうか。。。というのは、宇沢氏は、社会的共通資本に対して、新古典派(や新自由主義)が最重視する私有制と市場原理を当てはめることを基本的に否定しており、その点においてコモンズと共通する(実際に「コモンズ」というワードは何度か出てくる)。一方で、宇沢氏は、資本主義(≒成長至上主義)を前面否定しているわけではなく、「脱成長」的な主張に踏み込んではいない。
しかし、斎藤氏の『人新世の「資本論」』が2020年の出版であることを考えると、同じ時点、或いは今であれば、宇沢氏がどのようなことを書いたのか、大変興味のあるところである。
(2025年12月了) -
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ネタバレ自動車の社会的費用、というタイトルに惹かれた。自動車を運転することが歩行者の基本的人権を如何に蔑ろにしているかについて論じている。その費用は一台200万円だという。
もっとも、交通事故による障害や死亡もしくは排気ガスによる疾患などは、当事者にとっては不可逆的な事象であり、金銭に換算できない『費用』である。目が覚めるような論考であった。
そしていっそう不味いのは、そのような当事者には低所得者層が多く含まれる。富裕層は自動車の交通量の多い・排気ガスの多い地域からは、その財力を使って容易に逃走できるからである。
我々の世界は社会的費用を内部化する方向に向かっているのだろうか。それとも、深刻な外部不経済を生贄の羊として積極的に捧げるようになっていくのか。どうも昨今は、後者が勢力を強めているように感じる。 -
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堅苦しい。哲学ほど難解ではないが、スラスラとは読めない。もう少し柔らかく表現してくれると読後の満足感がもっと高くなりそう。
マネタリズムはキワモノ。市場至上主義は行き詰まり、修正が必要となること。戦後から現在をカバーする大きな物語でした。
権力を行使する役割を担う人と、その際の意思決定にあたり専門家として助言する人と、そいうった人たちを選んだその時代を生きる人たちの、ちょっと笑えない壮大なコント、とも思えました。
企業価値を上げること至上主義の今の日本、やっぱ周回遅れなのかな…。取り残されてしまう人たち、疎外感を感じてしまう人たちが一定数を超え、分断が政治情勢や社会現象に顕在化するほどになってしまうのかな…。
なかなか、うまくはいかないものですね。 -
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SDGsの考え方のもとになることが書かれています。初版は1994年です。
まさに2025年現在、環境問題、経済格差などの社会的問題について、この頃から声をあげていたのかと感心させられる。
まずは、本を知った経緯や読んだ経緯を。
当方エネルギー関係の企業に勤めています。5-6年ほど前になりますか。上司から読んでみろと言われ、受け取ったと記憶しています。
読んだか読んでないか記憶になくなってましたが、最近家の掃除をしていると出てきたので改めてちゃんと読んでみました。
5-6年前とは、世界情勢も自身の知識や考え方も異なり、より本の内容がスッと入って来ました。
ゆたかな社会とはどういうものを指すか。
格差のない、文化的でゆたかで自然と共存した生活をすること。これをゆたかな生活ではないだろうか。
本書では社会的共通資本を
自然環境(大気、森林、河川、海)
教育や医療、インフラ、司法、金融
と捉えている。
これらは資本主義、競争の中にあってはいけないいが、競争のないところは腐敗するので、適切な管理がいる。 -
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この本が出版されたのが1974年、
高度成長期の真っ最中に、自動車による外部不経済の発生を指摘した宇沢弘文の先見の名には脱帽するばかりだ
自動車は騒音や排気ガスを発生させている。また、我が国の道路政策も自動車のために最適化されている、すなわち歩行者道路と自動車通行道路は明確に分けられておらず、また自動車通行道路の開発に巨額の財源が当てられている。この結果、歩行者の歩行の権利は侵害されており、また公共交通サービスの低下が顕著である。
そして、こうした費用に対して自動車ユーザーは負担をしていない。いわば、自動車による外部不経済が発生している。
宇沢は、このような事態の背景にはこれまでの古典派経済学が環境破壊や公共財へのダメージを考慮してこなかったことが問題として存在すると指摘し、これらを考慮する理論的根拠・計算式を定立した。
ただ、第3章以降の内容は難しくて私はわからなかった。だがとりあえず趣旨だけわかったからいいでしょ -
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宇沢弘文教授の数式のない経済学。
まずここは、著者による「ゆたかな社会」についての明快な定義の引用から始めるべきであろう。
「ゆたかな社会とは、すべての人々が、その先天的、後天的資質と能力とを充分に生かし、それぞれのもっている夢とアスピレーション(aspiration: 熱望、抱負)が最大限に実現できるような仕事にたずさわり、その私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、できるだけ多様な社会的接触をもち、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会である。」
そしてこの実現を妨げている最大の要因が資本主義経済、とくに資源の私有を無制限に肯定するメカニズムである、というのがおそらく著者の基本的立場なのだろう。
私は、資本主義に対して、かつて民主主義についてチャーチルが語ったのと同じような感覚を持っている。すなわち、資本主義は最悪の資源配分方法である、これまで試みられてきた他のすべての方法を除いて、というような。とくに今日のようにお互いの顔の見えない巨大化した社会においては。
“democracy is the worst form of Government except for all those other forms that have been tried from time to time”(W. Churchill)
これを打破するために著者が導入するのが社会的共通資本である。
昨今、地域コミュニティなんかではコモンズの考え方がリバイバルしていたりするのをみると、著者の先見性には驚かされる。
また、実際読んでみると一部で誤解されているような意味でのマルキストでもなんでもなく、資本主義に基づかない効率的な資源配分を模索するというごく真っ当なテーマを追究していることがよくわかる。
その上で、あえて言うなら、うーん、多分宇沢先生バイトしたことないな。ていうか働いたことないんじゃないかな。
これ、今流行りの斎藤幸平さんにも感じたことなんだが。
はたらいたことない、をより簡単に言うと要するにモノに値段をつけたことがないんじゃないかなと。
例えばカテキョーだって時給の設定を間違えたら生徒は集まらない。これは何も金融資本主義のせいではない。
自分の手がける商品の性能や、世の中の需要や、自分のプライドや、そんなこんなを総動員して決めるのが値付け。働くっていうのは自分の労働への値付けという面もある。
資源配分を歪めているのは、強欲な独占資本、というほど宇沢先生の議論は単純ではないけれど、一度でも自力でモノを売れば新しい発見もあるんじゃないですか、という感想も持った。
というわけで、俗世間で働いている暇などないほどの知の巨人の考察、と考えれば極めて有益な本。
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Posted by ブクログ
社会主義的統制でも自由主義的放任でもなく、かといってケインズ主義的な手法だけでもよしとはしない。そこに宇沢の言う制度学派、あるいは進化論的な経済学が置かれる。ケインズと宇沢の着眼点の違いは、次のように著されている。
「ケインズ経済学で、財政支出の有効需要に及ぼす効果に焦点が置かれ、その内容を問わなかったのに対して、生活権の思想では、政府が果たす役割に関する理解が全く異なったものになってくる。「完全雇用を!」と言うスローガンに表されたケインズ理論に対して、「何のための完全雇用か!」と言うことが問題となってくる。このような観点から、生活権に対応するものは社会的共通資本の考え方であると言ってもよい。」(63頁)
本書が内容で読んだかいがあったのは第1部の経済史における制度学派の位置づけについて論じた部分。それ以降は、宇沢の歴代の著作の要約で、それはそれで過去の社会事象を社会的共通資本の考えで眺め直すと言う意味はあるが、要約であるためか、話は現実を述べているにもかかわらず観念的で総花的にさえ感じられる。様々な現場に関わってこられた方のようだが、やはり学者だなと言う印象。
彼の議論を読むにつけ、何か1つの論理で社会問題や経済問題は解決できない、従って中央集権的な体制で物事を良い方向へ変えていくこともできないと思った。 -
Posted by ブクログ
社会的共通資本について可能な限りシンプルに定義を試み、経済学的なアプローチで課題と対策をハイレベルな見地から示している。
宇沢氏のアカデミズムの端的な集大成なのかもしれないと、初心者には大変ありがたい著作だ。
既に20年経過しており、様々な環境変化を加味する必要はあるものの、普遍的な視点も多く、参考になる。特に、社会的共通資本としての医療は、指摘されている経済性の命を守る医療のバランスの難しさが最後は医療関係者の高邁なモラルに依存する、という指摘は、高齢化社会真っ只中の日本にとって喫緊の課題だ。
最後に、各共通資本項目をまとめると、今、そして将来、人類社会はどうすべきかどうあるべきかという示唆を宇沢氏から示して欲しかった。