八幡和郎のレビュー一覧
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8年前2012年の書。松下政経塾一期生で民主党最後の野田さんが、首相の頃。
この頃が松下政経塾のピークだったのかなぁ、、、巻末に第29期生までの一覧が載ってるけど、いま政界で目を見張るほど活躍してる人は見当たらない。
松下新党結成が、良かったのかも知れない。走りながら考える。足りない政策は、指摘されないと分からないから。
最後に著者が述べている、「松下政経塾出身の促成栽培された未熟な政治家」。この言葉に尽きると思う。政治家に「なる」事が目的であって、真の国家感までは教えきれないのであろう。そうでなければ、卒塾生が自民党行ったり民主党行ったりする意味がわからない。
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来年(2019)の五月には新しい元号を迎えることになる私達ですが、昭和・大正・明治と遡って、その前の時代には江戸時代があり、その時の元号は今とは違う考え方で制定されたことを知っています。
しかし江戸時代はいったいどういう時代であったのか、昔のことは辛いことは忘れて美化して思い出す傾向があるのは、個人的な記憶だけでなく歴史の記録にもあるのでしょうか。そのような中で、本来の姿を紹介してくれている、八幡氏のこの本を読んでいて、何かホッとするものがあるのは不思議な感覚です。
鎖国政策と俗に言われる、特定の国とだけ限定的に、またこの本によれば、それを一部の商人に任せきりであったことは、筆者いわく、日本を三流にした徳川の過ちと言い切っています。
江戸時代の日本が三流だったとすれば、ごく短期間でトップグループ(一流グループ)に昇りつめた日本の実力は大したものであるなと思ってみたりもします。本当の姿を知ったうえで、そこから日本はどのように変化(進化)してきたか、その時の試練はなんであったかを考えることができるのは、この本を読んだお陰かなと思いました。
以下は気になったポイントです。
・一流の安土桃山、三流の江戸、一流の明治、というのが正しい。室町時代から安土桃山時代における明、南蛮文化の受け入れをしている、明治維新で取り組んだのは、16世紀に秀吉や石田三成が取り組んだ改革を、より近代化された形で実現した(p9、14)
・薩長土肥は、豊臣政権時代の前向きな遺伝子をしっかり保持していた、西洋で近代化の原動力となった市民階級に似た武士と庶民の中間層が、これらの藩では例外的に分厚く存在していた(p12)
・戸籍、系図とは真実かどうかよりも、それが世間で通用していたかが問題である、信長は平家としての立場で源氏の足利義昭と対峙し、取って代わったと受け取られていた(p28)
・全国の武士のびっくりするほどの割合が、尾張・三河・美濃を中心とした東海地方にルーツを持っている、堅実さ・組織重視の考え方をしていて、近代日本の大企業サラリーマンに引き継がれている(p31)
・戦国大名が故郷にとどまって生き残ったのは、島津・鍋島・大村・松浦・宗・遠山(美濃)・諏訪(信濃)・大田原・大関(下野)・相馬・南部・津軽(陸奥)・松前(蝦夷)くらいである(p32)
・桶狭間の戦いの頃、尾張(60万石超え)は、陸奥・近江につぐ大国であった、今川氏の70万石とあまり変わらない(p35)
・家康は信長の死後、信濃や甲斐を横領していたのを信雄に追認してもらおうとして協力した、秀吉は信雄を大納言にすることでナンバー2とし、家康がナンバー3、天下統一の頃は信雄は内大臣、家康が大納言、秀長が権大納言であった(p46)
・三法師丸が1588年に元服して秀信となり岐阜城主となった、関ヶ原で西側について高野山におわれたが、このとき従三位権中納言であった(p48)
・幕府領として重要拠点を確保した、大坂・二条・駿府・甲府には城代ないし、それに代わるものを置いた。長崎・日田(ひた)・大森・倉敷・生野・堺・奈良・大津・山田(伊勢)・笠松・高山・相川(佐渡)には奉行所、代官所を置いた(p35)
・征夷大将軍は、東日本の治安維持が本来の仕事なので、関八州の家康が名乗るのは自然である、足利義昭がなくなっていたので、源氏の氏長者も空いていた、元々は村上源氏の久我(こが)家が占めていたが、足利義満から将軍が兼ねていた(p62)
・全大名264家のうち、隔年参勤は175、関八州の大名は半年交代が27、江戸詰めは26家、幕府要職にありしない家が21あった(p88)
・モンゴル族の元は滅びたのではなく、万里の長城の北に撤退しただけ(p97)
・大量の奴隷が連れ去られるのは、アフリカでもそうであるが、現地人が協力して自らの敵対勢力を拉致してポルトガルに売った場合である(p105)
・東日本中心の徳川幕府は海外貿易が盛んになる西日本が発展すると困るので、鎖国した。農民と関ヶ原浪人の島原の乱が伊賀に手ごわかったことも決断の理由(p108)
・鎖国しても、金銀を輸出して、木綿・茶・砂糖・陶磁器等を輸入していた、金銀の産出が減ったので自給化が進んだ(p110)
・ロシアは13世紀からモンゴル人によるキプチャク汗に支配されていたが、北部はロシア人による間接支配であった。やがてモスクワ大公国の建国が認められた(p120)
・藩主時代の吉宗は緊縮財政で財政再建をしたが、将軍が同じようにすると全国がデフレとなった(p139)
・家康は大名は権力から遠ざけるようにしていたが、養子に出ているとはいえ将軍の孫(松平定信)が老中筆頭では独裁者になり無理があった(p146)
・領地が入り組んでいると関所もおけず厳しい管理ができない、年貢は安いが治安維持も公共事業もできない、その場合は庄屋が中心に自治をしていた(p159)
・藩とは、明治2年の版籍奉還のときに創設された制度、全国を大名領国を藩、それ以外の幕府領は、府・県を設置した(p159)
・藩の正式名称がないので、明治2年には所在の都市名が一律に藩名とされた、改称して新地名を藩名にしたところもある(p161)
・47都道府県の県庁所在地の大部分は城下町である、例外は、明治になってつくられた札幌・宮崎、港町だった青森・新潟・横浜・神戸・長崎・那覇、宿場町だった千葉・浦和、門前町だった長野、そして京都と奈良(p162)
・実高では、加賀(134, 103が実高)、仙台(102,62)、長州(98,37)、尾張(91,62)、佐賀(89,36)、薩摩(87,73)であった(p162)
・具足は100石以上くらいの武士なら持っているが着用する機会はなく正月くらい、弓矢は400石以上、槍は100石以上とか上級武士の象徴となった(p192)
・最初の近代的戸籍(壬申戸籍=昭和43年まで閲覧可能)には、士族として載せられた、総数41万戸、189万人、3360万人のうち5.6%程度(p197、234)
・明治4年に、各府県が寄留や旅行する者に鑑札を渡す規定を廃止して、自由に旅行ができるようになった(p244)
・江戸時代の1両は、諸物価水準では15万円、賃金基準だと48万円、一両=4分=一石=実勢6000文(公定4000文)、銀75匁(公定60)、一日5合とすると大人一人1年間分=2.5俵(150キロ)(p250、256)
2018年9月30日作成 -
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この本は年末(2017)大掃除で部屋の隅っこに、読みかけ本として発掘されたものです。殆ど読み終えていたので、最後まで読み通しました。この本の著者である、八幡氏の本は今まで何冊か読んできて面白かったので、この本も私の期待に応えてくれました。
以下は気になったポイントです。
・戦争はどこを味方につけて、補給をどう確保するかも考えないと意味がない。日本は兵器も最新式で強力だが、アメリカ軍の戦略の一部に組み込まれたいびつな軍事力である。対潜水艦作戦と、掃海能力はトップクラス(p45)
・江戸幕府が儒教道徳を推奨したことで、武家社会では、男女の違いをはっきりさせて、男女の接触もあまりさせないようにした。明治以降、こうした風習が民間にも普及してしまい、女性の社会進出の妨げとなった(p54)
・中国や日本、ベトナや朝鮮など、それなりの国家が成立しているところを、ポルトガルやスペインが植民地にすることは無理であった(p63)
・オランダやイギリスといったプロテスタント諸国が、布教を伴わない貿易を提案した、イギリスはオランダとの競争に負けたのでオランダは江戸幕府から貿易の独占権を手に入れた(p66)
・フランス艦隊が沖縄に現れたとき、阿部正弘は、琉球が独自にフランスと貿易関係を持つことを認めて良いと島津斉彬に言ったが、そんなことをしたら、五島列島をイギリスが、対馬をロシアがといったことになっただろう(p76)
・士族は、おおざっぱに言って、上級武士、下級武士、足軽、武家使用人に分けられる。上級武士は騎馬が許されて殿様にお目通りでき、下級武士は裃袴姿だが歩兵、足軽は袴がはけず半ズボン、武家使用人は戦闘要員ではなかった(p88)
・会津は取り潰されたが、青森県東部に斗南藩を設立した、藩内の猪苗代か、斗南かと聞かれて斗南を選んだのは会津側、藩庁を極北の下北半島に置いたのも会津藩のミス(p110)
・明治新政府は、大阪への遷都を検討し、一時的に天皇を大阪へ移して様子を見よう、という方針で明治天皇も大坂城へ移った(p114)
・明治3年に、西還延期が発表されて、そのままにになっている。明治16年に、京都御所を保存、即位の礼・大嘗祭は京都で行うことで決着した。大正、昭和の御大典はそこでおこなわれたが、平成の即位の礼は東京で行われた(p118)
・廃藩置県により大名は東京に移住させられたが、こんな大胆な措置がどうして成功したかの理由として、もともと大名の生活の本拠は江戸にあって、特に正室と嗣子は両国に行くことを禁止させられていた、それが文久2年(1862)の政変で領国に移ってよいことになった、実家や親せきと生き別れになっていたので、東京に帰るのは大歓迎であった(p120)
・廃藩置県直後は藩をそのまま県にしたので、3府302県、明治9年には第二次府県統合が行われて、3府35県、後に独立(富山、福井、奈良、鳥取、徳島、佐賀、宮城)があり、明治21年には香川県の独立をもって、47都道府県となった(p122)
・戦争にほとんど負けたことのないロシアにとって、負けらしい負けは、チンギス・ハンに負けたのと、日露戦争くらいである。英仏に負けたクリミア戦争は、相手が連合なので少し違う(p209)
・昭和天皇の不興をかった松岡洋祐は、国際連盟脱退(制裁を避けるため、委託統治が継続、東京五輪の誘致の成功)ではなく、日独伊三国同盟を締結したこと(p237)
・戦後の平和が守られたのは、1)第九条、2)日米安保条約と、ほどほどの規模の自衛隊、3)経済力、の3点セット(p309)
2018年1月1日作成 -
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昨年(2015)の本棚の整理で発見した、八幡氏が書かれた「日本中世史」の本です。歴史は好きなのですが、平安・鎌倉・室町時代の出来事に触れることが少なかったので、この本で解説されている、まずは有名な事件に絞って学んでいきたいと思いました。
道徳に縛られずに、愛と欲望のために生きる姿が特徴のようですね。また、以前に「陰陽師」という映画を見た時に出てきた、怨霊や亡霊などが、とても活躍していた時代の様でした。機会を見つけて、更に日本の中世を学びたいです、その時の世界の動きにも注目しながら。
以下は気になったポイントです。
・奈良時代の律令制は、大規模な常備軍等の効率的なシステムを構築したが、平安時代は、地方自治や民間委託によって、小さいシステムを採用するようになった(p19)
・オペラ歌手が世襲でないのは、例外的な才能が要求されるから。歌舞伎は世襲(p22)
・小さな政府の時代である平安時代(最後の遣唐使が帰国した893)から室町幕府が滅びるまでを中世とする(p25)
・平安京への遷都の理由、1)宮廷を豪族の本拠である大和から離す、2)平城京は南都七大寺に代表される大寺院が立派すぎてコストかかっていた(p28)
・壬申の乱では、不比等をはじめ藤原一族は、大友皇子を担ぐ近江朝側であり、不比等は子供なので助かったが、戦後は冷や飯組だった(p37)
・日本が男尊女卑になったのは江戸時代になって朱子学が盛んになってから。(p37)
・時代の変わり目で新しい技術が導入されて、政府も農民も豊かになった。このタイプの政策は、1)大化の改新、2)太閤検地、3)明治維新、4)戦後改革(p60)
・人から税金を取るのを諦め、土地から取ることにした。人頭税負担の軽い女性になりすますものが増えて、女が男の10倍も登録された(p60)
・皇后陛下は、欧州の国王・王妃の制度にならった西洋的なモノ。独身皇族では、後宇多天皇の皇女に遺贈したのが最後、幕末に復活(p82)
・天下人となった、平清盛と後白河天皇でさえ、その生涯の中で、傲慢な独裁者として振舞えたのはごく短い期間(p111)
・源頼朝は軍事貴族であり、皇室や摂関との距離は近く、今日と出身の官僚を重用した(p142)
・保元平治の乱では、平清盛が権力を握ったが、武士の世が来たというより、貴族社会の中で軍事貴族が政治の主導権と利権を握ったのみで、関東武士にとってはメリットなかった(p170)
・明治維新後に東京を首都にした動機は、江戸城を徳川家に返さないためだった(p201)
・鎌倉は関東公方(二代将軍、義あきら、の同母弟の基氏が初代)を置いて、自治区のようにした(p202)
・室町幕府は将軍が弱体ではない、大名達の統制論理が江戸幕府のように大名同士の争いを避けることによる安定な権威ではなく、大名同士を争わせることによる、仲裁機会の確保であったから(p205)
・南北朝の合一から鎖国までの約250年間は、経済や文化についていえば、右肩上がりの成長期であった(p207)
・明治44年には、帝国議会で南朝を正統とする決議を行った、そして北朝の五帝は天皇号を用いていない(p214)
・本地垂迹説に基づき、日本古来の神様は仏様の生まれ変わり、大日如来・日吉権現・天照大神は同一と説かれた(p234)
・律令制が崩れて、正規軍・警察が弱体となったので、京都周辺で最強の武装集団は延暦寺と興福寺の僧兵ということになった(p237)
・天台宗と真言宗は朝廷の宗教であり続けた、徳川家は浄土宗の檀家であり増上寺を保護したが、天台宗の上野寛永寺も菩提寺として丁重に扱ったので、歴代将軍の墓は、この二つの寺に半分ずつある。これらが衰えたのは、明治の廃仏毀釈と農地改革のため(p238)
・中国から見て、日本は元寇や倭寇の歴史からして中国に従属などしない国に見なされた(p260)
2016年1月2日作成 -
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タイトルは少し過激なものになっていますが、内容は「中国の通史」について、私がいままで何冊かお世話になってきている、八幡氏が書かれた本です。
彼の著作で、「本当は恐ろしい江戸時代」という本を読んで、今までとは異なった切り口で書かれていたのが印象的です。
現在の中国は共産党によって、拡大された後に70年間ほど統一されていますが、分裂を繰り返してきた事実を知ることによって、中国が分裂するとしたら、どのなるのかを予想するうえでも参考になった本でした。
以下は気になったポイントです。
・現在では、ミトコンドリア分析によって、北京原人(50万年前)は現生人類とは関係ないことが分かっている。中国人、欧米人もすべて、数万年前にアフリカからアラビア半島に渡ってきた集団の子孫(p16)
・日本の今上陛下は、神武天皇から数えて125代目だが、世代数でいうと、75世代目(p20)
・始皇帝は、楚・斉・燕・趙・魏・韓の六国を滅ぼして、三皇五帝の皇と帝をあわせて、皇帝と名乗った(p21)
・中国語の発音は、時代とともに大きく変わった。清朝の時代には支配層である満州人にとって発音しやすいように変化していくことを繰り返してきたことも原因。漢帝国時代のものが南北朝時代の南朝に引き継がれた「呉音」、唐時代の長安の発音である「漢音」、禅宗の僧侶などを通じて宋代以降の発音が鎌倉時代以降に輸入された「唐音」が混在している、朝廷は呉音の発音をやめるように命令を出したので漢音が多い(p30)
・中華民国の掲げた五族共和は、満州(黄)・漢(赤)・モンゴル(青)・ウィグル(白)・チベット人(黒)、戦前の満州国は、ウイグルとチベットを抜いて、日本人と朝鮮人を加えた(p34、225)
・大和朝廷を、本州中央部を支配する原日本国にまで発展させてのは、崇神天皇である、神武天皇ではない(p50)
・律令制において、始皇帝の制度の郡にあたるものを「国」とし、県にあたるものを「郡」とした。一方で、明治維新直後に、新政府で受け継いだ旧幕府の小さな領地群を地域ごとに府県としてまとめた。これを、府藩県三治制といい、廃藩置県直前には、3府40県261藩(p67)
・南朝では皇帝を菩薩扱いしたのに対して、北朝(北魏)は如来とした。(p108)
・北魏では外戚の強大化を避けるために、皇太子の生母は自害させるという習慣があった。(p116)
・百済や高句麗の遺民は、唐・日本・新羅にばらばらに移った。日本にも百済王が逃れてきて、中堅貴族として処遇された(p134)
・唐の滅亡をもって古代の日中交流は終わった、そのあとは平清盛の日宋貿易、足利時代の日明貿易など細いパイプのみとなり、正式の日中外交は明治維新を待つ必要があった(p138)
・五大十国時代は、中原を支配する5つの王朝(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)と、地方に樹立された10国(前蜀、後蜀、呉、南唐、荊南、呉越、びん、楚、南漢、北漢)が乱立した、北漢は山西省にあったが、ほかは長江流域や西域という意味(p140)
・清盛は、大和田泊(神戸港西部)を整備し、ここで後白河天皇が宋人を謁見したりした。福原(神戸市)を都として南宋の都である臨安と直接に向かいかけたが、鎌倉幕府の設立と、モンゴルによる金の制服で夢と消えた(p156)
・中央アジアのウズベキスタンやカザフスタンなどは、チャガタイ・ハンが分裂してできた小国家がもとになっている。ロシアの歴史にはモンゴルの血が受け継がれている側面がある(p161)
・大元帝国は、大都(北京)から撤退した後も、中央アジアまで影響下に置く、モンゴル帝国(北元)として生き延びる。1636年に、満州族のヌルハチの後継者である、ホンタイジは、北元が持ち続けていた中国皇帝としての玉璽を手に入れ、満・漢・蒙三民族共通の皇帝であることを宣言した、これが大清帝国の成立となる、いまの中国はチンギスハンの作った国の後継者(p162)
・日本は銀の精製方法が遅れていたので、銀を含んだ銅の地金を明に輸出して、明は銀を取り出して銀貨、残りの銅を銅銭にして日本に輸出していた(p176)
・スペインが新大陸とヨーロッパの取引を独占したので、スペインの大船団をイギリスやフランスなどのカリブの海賊たちが襲って暴れまわっていました(p180)
・イギリスが東インド会社を設立したのは1600年、1613年には日本の平戸に商館を開いているが、活動の場はジャワ島であった。しかし、東アジアはオランダの天下で、その牙城を崩せず、1623年には日本からも撤退した。さらにモルッカ諸島で起きた「アンボイナ事件」でイギリスは致命的な打撃を受けて、それ以降はインドに重点を移した。オランダは台湾にも支配下(1624-62)に置いた(p215)
平成27年12月20日作成 -
Posted by ブクログ
最近はエリアを問わずどの時代の歴史も興味を持っていますが、興味を持っていたにもかかわらず、あまり触れてこれなかったエリアが日本の現代史です。
高校時代の日本史の授業も、戦国時代あたりまでは聞いていた記憶がありますが、受験を目前にした時期に授業が行われていた「現代」は、殆ど記憶がありません。その授業中に何をしていたかは覚えていますが。。
そんな私にとって、この本は日本の近代現代史において、従来は定説とされている内容は、実は異なっているというスタイルで、34のポイントに絞って解説しています。
私の場合、殆ど前提となる知識は無かったので、二つの考え方を一気に知ることができて楽しい読書となりました。井沢氏の「逆説」シリーズに続いて、この本の著者である八幡氏の「本当」シリーズも追いかけていきたいと思いました。
以下は気になったポイントです。
・戦後改革で採用されたシステムの多くはアメリカナイズされたもの、廃止された多くは、フランス・ドイツ・イギリスを中心としたヨーロッパから輸入されたもの(p16)
・藩校に通えるのは基本的には上級武士のみ、内容は漢学のみ、簡単な算術すら教えていないのが普通。武士は革命を行ったが、実学の知識はなかった(p21)
・中国が失敗し、日本が成功したのは、「中体西用」に固執した中国と異なり、「和漢洋才」に拘らなかったことにある(p24)
・日本の初代内閣総理大臣は、伊藤博文だが、それは明治18年。それまでのトップは、三条実美(太政大臣)、ナンバーツーは、岩倉具視。明治18年までは彼らがリーダーだった(p27)
・王政復古の大号令により、摂関制と将軍職は廃止、総裁・議定(皇族2名、公卿3名、尾張・越前・安芸・土佐・薩摩藩主の合計10名)・参与(公卿5名、議定5藩より各3名の合計20名)の三識が任命された。総裁は、有栖川宮熾仁(たるひと)親王、日本初めての宰相である(p28)
・1888年当時で村落は、71314あった、それを小学校が運営できる規模の人口3000人ほどに合併させて、15859の市町村にまとめた(1890)、明治初期までに都市化の進んだ郊外を吸収して、9868(1953)、戦後に新制中学運営のため、人口7000人をめどに昭和の大合併が行われ、3490(1961)、平成の大合併により、現在は1742(2012)となっている(p33)
・全国平均では士族は人口の数パーセントだが、薩摩では4分の1、つまり全国の士族の10%は薩摩藩にいた。廃藩置県行っても、薩摩では地租改正も新しい地方制度も実施できなかった、つまり薩摩武士が余っていた(p40)
・遣唐使廃止以降は、中国との正式な外交は持たなかった。足利幕府が遣明船を派遣したんことはあるが朝廷は関与していない、途中からは、一大名(大内氏)が代行した(p44)
・明治維新まで、琉球国王は、明・清に朝貢し皇帝から冊封を受ける一方で、薩摩藩にも支配され、将軍にも使節を送る外交を行った。(p51)
・政府は、宮古島の島民が台湾で原住民に殺される事件が起きた後に、明治12年に警察隊を率いて首里城へ赴き沖縄県の設置を宣言、国王一家の東京居住を命じた、この動きを「琉球処分」という(p53)
・アジアで最初の憲法を制定したのは、オスマントルコで、明治9年。2年後には停止となり、明治41年の青年トルコ党革命まで30年間停止した(p83)
・近代日本の政党は、板垣退助の自由党、大隈重信の立憲改進党に発する保守2党が常態としてある。例外として、保守一党になったのは、隈板内閣のときの憲政党、戦時中の大政翼賛会、そして55年体制の自由民主党(p92)
・大正8年から皇太子(昭和天皇)が摂政に就任した(p117)
・日英同盟では、東アジアにおいて敵国が一国の場合は、中立という取り決めになっていたため、英国は参戦しなかったが、ロシア艦隊のスエズ運河通行阻止、情報提供などの援助を得られた(p127)
・平民宰相といわれる「原敬」は、人口全体の何千人に一人という上級武士の出身なので、欧州なら貴族階級に相当するが、爵位をもらわず貴族院議員になっていなく、分家するときに士族でなく平民になっていたので、平民宰相と言われた(p131)
・朴元大統領は、師範学校、満州や日本の士官学校に入学して軍人になった。小学校ではハングルの使用が急速に普及、京城(ソウル)および台北に帝国大学を設立した(p138)
・比較的に日本統治時代への好意的な評価がされている台湾と比べて、韓国・朝鮮では厳しい評価がされるのは、日本統治が両班など支配階層の利益を侵害するものであったから。(p140)
・日本人に対して、韓国・朝鮮の人との関係は、イギリス人とアイルランド人、フランス人とアルジェリアの関係と似ている(p142)
・万里の長城の内側がほぼ統一されたのは、2400年前に現れた秦の始皇帝になってから、56の多民族国家は、1636年に三民族(満漢蒙)を総べる大清帝国皇帝と称した太宗の子、順治帝が1634年に明を滅ぼしてから(p134)
・日本の平均寿命は1960年代まで、欧米諸国に比べて数歳低かった、衛生面や栄養状況の悪さが原因である。和食がいいのは、飽食の時代だから(p160)
・上位1%の所得シェアが1920年には、約15%で、英仏日米の順序であるが、1937年には約20%に上昇して、日英米仏、の順となり、日本の貧富の格差が大きくなった(p161)
・二大政党制では、野党がむちゃな要求をするので改革が進まないが、巨大政党をつくれば軍部にも対応できて国策も進められるだろうと、大政翼賛会をつくった(p172)
・日本は海外の領土と外国的地位を失ったが、自由貿易を手に入れた。(p183)
・新憲法施行を前にした昭和22年の総選挙では社会党が第一党になったため、片山氏に政権を譲った。(p193)
・新憲法についても、旧憲法の改定手続きに乗っ取って成立した、もともと連続したもの(p195)
・岩手県の漁業者から社会党国会議員として政界に出てのちに自民党に転向し、調整役として定評があった鈴木善幸氏が首相となった(p214)
・中古マンションの売買価格は、家賃100か月分程度が相場、バブル前の東京は150か月、バブル期は、800-1000か月分となった(p217)
・沖縄戦では、本土への攻撃を遅らせるために、水際戦ではなく上陸させて抵抗する作戦がとられ、県民の4分の1の15万人が死亡した(p249)
・とくに責任が問われるのは、50歳代から70歳代くらいの世代。1)経済成長に十分努力せず、2)財政赤字を放置したまま高福祉低負担継続、3)少子化放置、の3点(p253)
2015年5月14日作成