八幡和郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
最近はエリアを問わずどの時代の歴史も興味を持っていますが、興味を持っていたにもかかわらず、あまり触れてこれなかったエリアが日本の現代史です。
高校時代の日本史の授業も、戦国時代あたりまでは聞いていた記憶がありますが、受験を目前にした時期に授業が行われていた「現代」は、殆ど記憶がありません。その授業中に何をしていたかは覚えていますが。。
そんな私にとって、この本は日本の近代現代史において、従来は定説とされている内容は、実は異なっているというスタイルで、34のポイントに絞って解説しています。
私の場合、殆ど前提となる知識は無かったので、二つの考え方を一気に知ることができて楽しい読書となりました。井沢氏の「逆説」シリーズに続いて、この本の著者である八幡氏の「本当」シリーズも追いかけていきたいと思いました。
以下は気になったポイントです。
・戦後改革で採用されたシステムの多くはアメリカナイズされたもの、廃止された多くは、フランス・ドイツ・イギリスを中心としたヨーロッパから輸入されたもの(p16)
・藩校に通えるのは基本的には上級武士のみ、内容は漢学のみ、簡単な算術すら教えていないのが普通。武士は革命を行ったが、実学の知識はなかった(p21)
・中国が失敗し、日本が成功したのは、「中体西用」に固執した中国と異なり、「和漢洋才」に拘らなかったことにある(p24)
・日本の初代内閣総理大臣は、伊藤博文だが、それは明治18年。それまでのトップは、三条実美(太政大臣)、ナンバーツーは、岩倉具視。明治18年までは彼らがリーダーだった(p27)
・王政復古の大号令により、摂関制と将軍職は廃止、総裁・議定(皇族2名、公卿3名、尾張・越前・安芸・土佐・薩摩藩主の合計10名)・参与(公卿5名、議定5藩より各3名の合計20名)の三識が任命された。総裁は、有栖川宮熾仁(たるひと)親王、日本初めての宰相である(p28)
・1888年当時で村落は、71314あった、それを小学校が運営できる規模の人口3000人ほどに合併させて、15859の市町村にまとめた(1890)、明治初期までに都市化の進んだ郊外を吸収して、9868(1953)、戦後に新制中学運営のため、人口7000人をめどに昭和の大合併が行われ、3490(1961)、平成の大合併により、現在は1742(2012)となっている(p33)
・全国平均では士族は人口の数パーセントだが、薩摩では4分の1、つまり全国の士族の10%は薩摩藩にいた。廃藩置県行っても、薩摩では地租改正も新しい地方制度も実施できなかった、つまり薩摩武士が余っていた(p40)
・遣唐使廃止以降は、中国との正式な外交は持たなかった。足利幕府が遣明船を派遣したんことはあるが朝廷は関与していない、途中からは、一大名(大内氏)が代行した(p44)
・明治維新まで、琉球国王は、明・清に朝貢し皇帝から冊封を受ける一方で、薩摩藩にも支配され、将軍にも使節を送る外交を行った。(p51)
・政府は、宮古島の島民が台湾で原住民に殺される事件が起きた後に、明治12年に警察隊を率いて首里城へ赴き沖縄県の設置を宣言、国王一家の東京居住を命じた、この動きを「琉球処分」という(p53)
・アジアで最初の憲法を制定したのは、オスマントルコで、明治9年。2年後には停止となり、明治41年の青年トルコ党革命まで30年間停止した(p83)
・近代日本の政党は、板垣退助の自由党、大隈重信の立憲改進党に発する保守2党が常態としてある。例外として、保守一党になったのは、隈板内閣のときの憲政党、戦時中の大政翼賛会、そして55年体制の自由民主党(p92)
・大正8年から皇太子(昭和天皇)が摂政に就任した(p117)
・日英同盟では、東アジアにおいて敵国が一国の場合は、中立という取り決めになっていたため、英国は参戦しなかったが、ロシア艦隊のスエズ運河通行阻止、情報提供などの援助を得られた(p127)
・平民宰相といわれる「原敬」は、人口全体の何千人に一人という上級武士の出身なので、欧州なら貴族階級に相当するが、爵位をもらわず貴族院議員になっていなく、分家するときに士族でなく平民になっていたので、平民宰相と言われた(p131)
・朴元大統領は、師範学校、満州や日本の士官学校に入学して軍人になった。小学校ではハングルの使用が急速に普及、京城(ソウル)および台北に帝国大学を設立した(p138)
・比較的に日本統治時代への好意的な評価がされている台湾と比べて、韓国・朝鮮では厳しい評価がされるのは、日本統治が両班など支配階層の利益を侵害するものであったから。(p140)
・日本人に対して、韓国・朝鮮の人との関係は、イギリス人とアイルランド人、フランス人とアルジェリアの関係と似ている(p142)
・万里の長城の内側がほぼ統一されたのは、2400年前に現れた秦の始皇帝になってから、56の多民族国家は、1636年に三民族(満漢蒙)を総べる大清帝国皇帝と称した太宗の子、順治帝が1634年に明を滅ぼしてから(p134)
・日本の平均寿命は1960年代まで、欧米諸国に比べて数歳低かった、衛生面や栄養状況の悪さが原因である。和食がいいのは、飽食の時代だから(p160)
・上位1%の所得シェアが1920年には、約15%で、英仏日米の順序であるが、1937年には約20%に上昇して、日英米仏、の順となり、日本の貧富の格差が大きくなった(p161)
・二大政党制では、野党がむちゃな要求をするので改革が進まないが、巨大政党をつくれば軍部にも対応できて国策も進められるだろうと、大政翼賛会をつくった(p172)
・日本は海外の領土と外国的地位を失ったが、自由貿易を手に入れた。(p183)
・新憲法施行を前にした昭和22年の総選挙では社会党が第一党になったため、片山氏に政権を譲った。(p193)
・新憲法についても、旧憲法の改定手続きに乗っ取って成立した、もともと連続したもの(p195)
・岩手県の漁業者から社会党国会議員として政界に出てのちに自民党に転向し、調整役として定評があった鈴木善幸氏が首相となった(p214)
・中古マンションの売買価格は、家賃100か月分程度が相場、バブル前の東京は150か月、バブル期は、800-1000か月分となった(p217)
・沖縄戦では、本土への攻撃を遅らせるために、水際戦ではなく上陸させて抵抗する作戦がとられ、県民の4分の1の15万人が死亡した(p249)
・とくに責任が問われるのは、50歳代から70歳代くらいの世代。1)経済成長に十分努力せず、2)財政赤字を放置したまま高福祉低負担継続、3)少子化放置、の3点(p253)
2015年5月14日作成 -
Posted by ブクログ
高校時代に歴史を習った時に、昔の武将は敢然と敵に立ち向かっていって尊敬したと同時に、自分は同じようには振舞えない、と恥ずかい気持ちになったものです。母・父方ともに武家出身と言われていた私には、そのような血は流れていないのか思い悩みました。
最近研究が進むにつれて、当時の戦国武将も私と同じような気持ちでいた人も多く、また勇ましい形で書かれれている軍記物も多くの脚色があることが判明し、少し安心しました。すると本当の姿を探求する思いが強くなり、矢幡氏に代表されるような本を興味深く読ませていただいています。
本当の彼等の姿を理解するにつれ、親近感を覚えると同時に、今までテレビドラマ(私の場合はNHKの大河)にかなり影響を受けていたことが分かりました。今後は(見ることがあれば)民法放送と同様に単なる娯楽番組として見ていくつもりです。
以下は気になったポイントです。
・織田信長が古い秩序を破壊し、秀吉がナポレオンのように世界最先端のシステムを構築、家康がその成果を普及させた(p17)
・室町時代は、戦前に支配的だった皇国史観と、江戸幕府によるアンチ西日本史観の両方から攻撃される不運がある(p24)
・現在の皇室は北朝の系統、正統性(前の天皇から譲位されない以上はダメ)では南朝に分がある(p25)
・足利義満が明帝国に朝貢して「日本国王」ということが避難されるが、遣唐使も朝貢外交だった点が避難されないのは片手落ち(p25)
・織田家は室町幕府体制で早くからかなりメジャーな存在であった(p31)
・室町時代の守護は原則として京都在住、東日本については鎌倉在住、九州では元寇が来てから地元に戻った(p35)
・応仁の乱により、治安が保たれていた京都の町の大半が焼けてしまい、京都在住だった守護がそれぞれの領国に引きこもることになった(p37)
・戦国時代に大軍を率いて上洛して政権をとったのは、大内義興が最初、三好長慶が二人目、次が織田信長(p43)
・戦国時代は夥しい死者がでて家が焼かれたが、人口は増えて経済は成長し、全国的に文化水準が飛躍的に上がっていった(p45)
・三河には、細川・一色・吉良などが足利一門で、吉良家が最も権威があり、今川家はその分家、三河では強力な守護がいなかったので遠江の守護を斯波家と交代で務めていた、織田家は三管領の1つの斯波氏に仕え、斯波三守護代のうち越前甲斐氏につぐ重臣で朝倉氏より格上(p69)
・三好長慶の勢威に陰りが出るのは、桶狭間の戦いの翌年に、猛将といわれた十河一存を失ったあたり、その3年後には本人も死去(p74)
・信長は、大内や三好氏と異なり、本人は岐阜にあって朝廷との付き合いは義昭に任せて、それを遠隔操作した(p79)
・信長から長政に降伏勧告が出されて戦闘も止んだ、重臣の赤尾氏が投降したのに生け捕りにされるという手違いが起きて、長政は自害した(p84)
・鎌倉幕府の将軍に、藤原頼常や維康親王も就任しているので、平氏である織田信長に資格がないとは言えない(p92)
・1582年の清州会議は信長の後継者を決めるのではなく、信忠亡き後の後継者を決める会議であったはず(p98)
・前年の京都での馬揃えでの序列は、信忠、信雄、信包(のぶかね)、信孝、信澄であった(p99)
・信雄は後に家康から領地をもらって、子孫は江戸大名(丹波柏原藩、出羽天童藩)として残った(p103)
・秀吉が茶々(淀殿)を求めたのは、織田家の血を引く子供を授かるため、織田信長の4男(秀勝)が1586年に死んでしまったのが原因(106)
・明治元年に家康によって廃止された豊国神社が復活するが、それは秀吉が幕府をつくらずに、関白太政大臣として政務をとった勤皇の功績を評価したから(p111)
・豊臣政権は全国的な検地をおこなったおかげで、大名を同じ石高なら文句を言わせず移封させたり、石高に応じた負担を課すことができた、太閤検地は古い体質の名門大名(島津氏など)ほどメリットをもたらした、島津は22.5から56万石へ増加、家臣たちは元の領地で自己申告していた石高に見合う領地へ移された、秀吉の蔵入地は5万石を得た(p117)
・織田や豊臣軍団は遠征の際には遠征先の住民に迷惑をかけなかったが、東国武士は現地調達が多かった、後の蛤御門の変でも、長州は人気あったが、会津は悪かった(p124)
・天下人としての信長や秀吉の下でしか働いたことのない三成は、圧倒的な物量作戦でねじふせる横綱相撲にこだわった、家康は優勢な相手(今川、武田、北条、豊臣)であり異なったのが関ヶ原で明暗をわけた(p153)
・江戸を大都市にしたのは秀吉、江戸は家康から嫌わわれていた、大阪の建設者は秀忠、幕府支援のもとで日本を代表する商業都市になった(p163)
・米どころの越後は明治6年(1873)に行われた最初の人口調査で1位、太閤検地後の39万石から堀氏や溝口氏のおかげ(p190)
・三方原も長篠の戦も、正面衝突をまともにしたので、数に勝る方が大勝利を収めたというだけ(p195)
・当直では身分差を覆すことは難しかった、平安時代からの秋田・岩城、鎌倉時代の地頭出身である、伊達・南部・葦名・葛西・相馬、南北朝にやってきた斯波一族の大崎、最上といった名門がそのまま秀吉の天下統一まで生き残った(p199)
・壇ノ浦で平氏を殲滅した源頼朝は、平氏の地盤だった九州に大量の関東武士を地頭として送り込んだ、武藤(少弐)資頼には前三州(豊前、筑前、肥前)、大友義直には後三州(豊後、筑後、肥後)、島津忠久には奥三州(薩摩、大隅、日向)を統括させた(p206)
・郷士とは、処遇としては上士と徒士(下士)の中間だが、足軽から見れば雲の上の存在、身分的には下士と同じだが、乗馬を許す等上士なみの待遇も認められていた(p220)
・イギリスやギリシア等、日本でおなじみの名前が英語名と異なるのは、ポルトガル語の呼び名がもとになっている、大航海時代の主役・先導者は、ポルトガル(p246)
・1494年に結ばれたトルデシリャス条約後に、ポルトガルは1510年にインドのゴア占領、1513年にはマカオで明国と通商開始(p247)
・秀吉が生きている間は、領地が不足することは無い、親が死ねば領地を引き継ぐことは行っていない(p255)
・秀吉の朝鮮遠征が失敗したのは、制海権もないのに大規模な地上兵力を送り込んだから(p257)
・島原の乱にてこずった幕府はキリスト教への警戒感が強まった、そこへプロテスタントのオランダという人畜無害な商人国家が現れて、貿易を窓口になってくれることになったので、幕府はポルトガル人の追放に踏み切った(p263)
・鎖国下でも、長崎でオランダと中国と貿易、対馬を通じて朝鮮と、琉球王国、アイヌを仲介した貿易もあったが、日本人渡航は認めなかった(p263)
2012年7月7日作成 -
Posted by ブクログ
今の小学校の先生たちは社会の教科書に最初に登場する人名が卑弥呼であることに疑問を感じないのだろうか。日本の歴史学者はバカばかりなのか。自国の歴史と文化に誇りを感じずに歴史研究をやっていて楽しいのだろうか。
本書は、そんな疑問をスッパリと断じてくれた。
邪馬台国も卑弥呼も地方の一部族とその首長に過ぎず、日本の歴史上ほとんど重要な意味はない。歪んだ媚中思想で子供たちを洗脳しているということだろう。
そもそも卑弥呼という名前の漢字を見るだけでもピンとくるだろう。「卑しく呼ぶ」などという名前を王様につけるはずがない。周辺国を低俗な属国としか考えない隣国の歴史書を何故我が国の歴史学者はこれほどありがたがるのだろう。媚中論文でなければ評価されない歪んだ学会なのだろうか。
あらゆる事象を全て文字に記述することなど断じて不可能である。歴史とは、その国の多くの人々が重要だと感じたことを語り継ぎ、時代を経るにつれて重要でないと思われた事象は省略され、重要な事象は誇大化される。神話、民話、昔話、伝承、おとぎ話などなどおそらくどこの国でも同じだろう。日本人は万世一系の天皇を頂くことに誇りを感じてきたのだから、その歴史を大切にすべきである。 -
Posted by ブクログ
あまりにも単純に、シンプルに、古代史を(記紀の記述をもとに)そのまま読めば謎なんかないよ、というタイトルまんまの一冊。その割には年代を都合よく修正してあるような気がしないでもないけど、あまりこねくり回さずに読みとく方向性もありよね、という考えには賛成。邪馬台国論争についてもあっけないほどシンプルに結論づけているが、私自身も「邪馬台国ってそんなにほんとに日本全体を支配するような巨大な存在だったのかな?」とか思ってたりするので、納得できるところもそれなりにあった。でも、いくら何でも記紀の記述をまるまる信用しすぎでは?と感じなくもない。嘘は書いてないかもしれないけど、意図的に本当のことを書かないとかぼかして描くなんてことは今の歴史教科書にだってあることで、そりゃ支配者に都合悪いことなんか書いてあるわけないじゃん、と思うので。わからないことはまだたくさんある、それは当たり前だけど実は謎でも何でもないことを無理やり謎に仕立て上げなくても…とは確かに感じるところだけど。でも、書かれていないことやわざとぼかして書いてあるところについて、いわゆる「行間を読む」作業だって必要じゃないかと思うんだけど。著者は考古学的な発見をあまり重視していないように見えるが、個人的にはそれにもあまり賛成できなかった。
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Posted by ブクログ
ネタバレ[ 内容 ]
歴史上の有名人たちの評判というのは時代とともにコロコロ変わるのが常だ。
たとえば直江兼続は、明治に出版された伝記のおかげで突然有名になり、いまや大河ドラマで秀吉、家康と並ぶ有名人になった。
では、本当のところはどうなのか。
大河ドラマの主人公はみんな偉いのか、信玄は、信長は、龍馬は?
本書では政治家や武将を中心に、歴史人物70人の評判の変遷をたどりつつ、ズバリ本当のところの評価を下していく。
著書による10点満点の採点付き。
歴史ブームのいまこそ知りたい、あの人物たちの実像に迫る。
[ 目次 ]
第1章 古代の10人-聖徳太子はやっぱり偉かった?
第2章 平安・鎌倉・室町の9人-天皇から将軍までを辛口診断
第3章 戦国時代の12人-No.1は秀吉!信長、兼続は?
第4章 江戸時代の11人-家康は本当に名君だった?
第5章 幕末の9人-激動期の英雄たちの偉人度は?
第6章 明治の9人-岩倉具視、大久保利通の評価を正す
第7章 大正・昭和・平成の10人-原敬から小泉純一郎まで
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[ 参考となる書評 ]