田中裕のレビュー一覧
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「死のうとしても死にきれない。死にたいのに。違う、俺はむしろ生きたいんだ。自分という(癩病を患った)人間がここに存在していた という証を残したいのだ」
そんな訴えが聞こえてくるようだった。
これは北條民雄の魂の叫びだ。
癩病を発症し、面識のない人間にまで差別、偏見の目に晒された上、隔離病院へ押し込まれる。
そんな過酷な状況の中、声を上げることを止めなかった彼はカッコイイ。
人間らしさが詰まった声は文字になり、 それらはやがて文学となった。
癩病がなんだ。俺は患者である前に一人の人間だ。俺を見てくれ。みんなと同じ人間なんだよ。
彼は自身の作品を癩病患者としての色眼鏡で評価されることを最も嫌っていたという。
癩病になる前は普通の人間だった。
その事実を、作品を前にした私たちは忘れてしまう。今ではハンセン病として世に流布しているが、彼が生きていた時代背景を鑑み、彼の受難や葛藤を誤解なく伝えるには、癩病 という言葉を使用する方が適切だ。ということを解説でも書かれている。その通りだと思う。
樹木希林が出ていた映画「あん」で、ハンセン病患者として差別的な生活をしていた姿が印象に残っていた。
しかし本書を読んでみて、癩病患者の内面の葛藤の激しさに圧倒された。
「死にたいと思う心も、実は生きたい念願に他ならなかった」P283
自殺について
「自殺を覚悟するとき、狂人か放心状態になる。そんな状態で自殺することは、殺されることを意味する。病気に、運命に殺される。」
「どんなどん底の人間だって希望は残っている。それを失うことができない。それが生命の、いのちある証拠だ。
俺は希望を憎悪する。俺は希望あるが故に、苦しみ悶えているのだ。ああ俺が、全き絶望に陥り込むことができたら。」P254-255
「みんな同情してくれるから、私の世界には敵はいない。真の敵は自分自信の体内にいる。外の敵ならば戦うことが救いになるが、自己の体内にいる敵とどう闘えばいいのだろう。」P233
「実際私にとって最も腹立たしいことは、我々の苦痛が病気から始まっていること。それは何等社会性を持たず、それ自体個人的に好きであり、社会的にはわれわれの苦しみがまったく無意味だということだ。だから私はもう少し癩を書きたい。社会にとって無意味でも、人間にとっては必要であるのかもしれぬ。」P247
「いのちの初夜」
P54
ハンセン病に罹患したとき、その人の「人間」は滅びる。
ただ、「いのち」だけがピクピクと生きている。
新しい思想、(ハンセン病患者としての)生活を得るとき、再び「人間」として生き返る。
ハンセン病患者になりきる ことが大切だ。
→それはすなわち、ハンセン病に罹患した自分自身を受け入れたくないと拒んでいた尾田に覚悟を与える言葉だけ。
尾田の苦悩は、死んだ過去の(ハンセン病になっていなかった頃の)自分の姿を探し求めているからだ。だからこそ現在の姿とのギャップの大きさに苦しむ。
ハンセン病になった自分、を受け入れられないために、佐柄木に対して「彼と親しくなっていく自分を、言うべからざる嫌悪を覚えた」のであるし(P28).
何度も自殺未遂を繰り返すが死にきれず、ココロと肉体が分裂する感覚を覚える。死にたい自分と、死ねない自分。どうすれば良いか
途方に暮れ嘆く尾田(P30.31)
そんな尾田に、佐柄木は寄り添う。
生死に翻弄され、心と肉体のちぐはぐさに悲哀する尾田へ語りかける。
「きっと生きられる。人性には抜け道がある。水からの人生に謙虚になれ」と。P38.39
「間木老人」 P63
ハンセン病患者としての自分を肯定しつつも、自らを患者として取り扱うことを拒む心の矛盾に、苦しんでいる宇津。
これは吃音にも共通する。
自己実現の期待値が高いほど、実情との落差に愕然とする。
「吹雪の産声」
ハンセン病の施設において、患者同士の触れ合いが描かれる。
刻一刻と死に近づいていく矢内。死への恐怖感に恐れおののき、藁をも掴む思いでしがみつこうとする主人公。P105
矢内が急変し運ばれた際には、取り付く島もなく、外に降る雪でさえ敵意を持っているように見えてしまう。そこで主人公は、人間の孤独、頼りなさを痛感する。
いずれ死にゆくことが分かっていながら、励まし合い、今確かに存在している生を繋ごうとする患者たちの切実さが伝わってきた。
生命とは、自然と戦う1つの意思なのだ。P118.119
そして、患者のうちの女性が施設内で出産する場面で、シナリオに逆行するかのような展開に場が賑わいを見せる。
1つの命が無くなろうとしていること、
新しくいのちが生まれてくること
の対比が美しい。
「望郷歌」
ハンセン病がゆえに親から捨てられ、祖父からも殺害未遂にあった男の子と、自らも患者であり行事の鶏三の話。
ハンセン病、ただ病気に罹患してしまっただけなのに、周りから差別され根拠の無い偏見に晒される当事者たち。
その被害は大人だけでなく子供にも及び、人生において消せないほど深い傷を与えてしまう。
生きるとは何だ、人生の意味は。
2人の心の葛藤と触れ合いが切ない。P152
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この先死にたくなって3分間本を手に取る余裕があったなら、この本の「断想」か「柊の垣のうちから 表情」の一節を読むと思う。
「美しい、まだ十五六の少女が現はれる。この少女を直ちに殺すことも、また限りない愛情をもつて抱きしめることも、可能となる。しかも凡ては美しく、なつかしい。」
「歪んだ表情。
生硬な表情。
苦しげな表情
浅ましい表情。
餓えた猿が結飯に飛びつくような表情。
これが宗教に頼ろうとする時の自分の表情である。苦しくなった。 書いてはならぬことを書いてしまったような気がする。」
読むと死にたくなるし、生きたくもなる。どこか俯瞰している。真ん中から両極を見ることのできる気がするこの文を読んで、決めたらいいかもしれないなあと思った。 -
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西田幾多郎といえば、岩波文庫の『哲学論集』全3巻がとても気に入っていて、夜寝る前にときおり再読していると、あの独特の言い回し、「〜でなければならない。〜でなければならない。」といった畳みかけるような呪術めいた文体が催眠効果を持ち、よく眠れるような気のする魔法の本だ。
その西田哲学の、本書は講演を集めたもの。あのような特異な文章を書いた人が、話し言葉ではどのような平易な語り口になったのか、と興味を持って読み始めた。が、愕然とした。なんと、この話し言葉も書き言葉も、まったく同じなのである。
講演を聴いた人が筆記したようなことが解説に書いてあるので、後日いくらか修正されたにしても、どうやら本当にこのように西田幾多郎は講演で語ったようだ。話し言葉としてかなり奇妙なこの文章を、彼はどんな抑揚で読み上げたのだろう。
内容はもちろん、これまで読んできた西田哲学の既知の愛用とかなり重複しているのだが、ちょっと未知だった部分も語られていて、やはり興味深いものだった。
鈴木大拙と仲が良かったらしい西田の思想は、かなり禅問答的な部分があり、たとえば
「本当の現実の世界は主観と客観に結び付いた、主観的であると共に客観的、客観的であると共に主観的である。私の書物ぶよく言う一般的であると共に個物的、個物的であると共に一般的、直線的であると共に直線的である。それがいわゆる歴史の世界である。これが人格的生命の世界であると言ってもよい。」(P177)
といったパラドキシカルな論理を駆使する。
西田の書物は海外でどのように受け止められたのであろう? そもそも翻訳され読まれたのかどうかも知らないが、欧米人がこの論理にどんな風に反応したのか、気になる。ジョン・ケージのような奇人なら気に入ったかもしれない。
他に、本書では、
「日本文化は情的なもので上は流れるというような形に構成されている。」(P190)
「理論的に言えば社会は時間的空間的、主観的空間的であると言わなくてはならないが、しかし実際に成り立つ社会は主観に偏したものであるか客観に偏したものであるかである。だから主観から客観へ客観から主観へと動かなくてはならない。それが動いてゆく方向が社会の目的である。」(P194)
といった文化観、
「自分の働いて作ったものが、自分の作ったものでありながら自分のものでなしに公のものとなるのである。働いた結果が自分から離れて独立する。・・・物は私が作るがその物は公の物となり、つまり歴史的事物となり、そっれに依って私自身が変化を受ける、即ち私自身が作られてゆくということになるのである。ものを作るとは、自分が作られることである。」(P203-204)
というような「制作」についての分析を改めて興味深く受け取り、また、共感を持った。
その他に、「時間」に関する思考も、やはり西田の中心思想の一つとして、面白いものだと思う。
本書は、『哲学論集』全3巻と共に、折に触れ再読したくなる魅力を持った書物である。 -
Posted by ブクログ
「マンガ ダーウィン進化論入門」
著者 画・瀬口のりお 作・田中裕 監修・渡辺正雄
出版 講談社+α文庫
p87より引用
“あくまで事実を追及しよう、たとえ何年かかろうと・・・。”
進化論を作り上げたダーウィンの人生を、
フィクションをまじえてマンガにした一冊。
以前紹介したニュートンのものと同様、
年譜がついています。
上記の引用は、
「種の起源」の最初の覚え書きが書かれたころの、
ダーウィンの考えとして書かれた一文。
事実から理論を作る方法を大切にしたダーウィンなら、
本当に言いそうな一言だと思います。
参考資料も巻末のほうに紹介されているので、
タイトル通り入門にぴったりだと思われます。