桐野作人のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
本能寺の変関連の諸説の中で、一番説得力を感じる。陰謀論は朝廷にしても足利義昭にしてもイエズス会にしても無理がある。主犯なら変後の対応がまず過ぎる。シンプルに明智光秀単独犯。重臣斎藤利三と長宗我部氏の関係の深さと信長の四国政策の転換、明智と稲葉氏との斎藤と那波の帰属を巡る確執に原因を求める桐野氏の論はわかりやすい。一見、一回転して昔に戻った感もあるが、主な原因を怨恨とするより説得力がある。斎藤利三の遺族の多くを長宗我部氏が保護しているのも両者の関係がただの遠い親戚ではなかったことを傍証している。個人的には斎藤利三を筆頭とする家臣団の激発を明智光秀が押さえ込めなくなったのではないかと思っている。秀
-
Posted by ブクログ
犬たちが愛された歴史、日本人と犬との関係を紐解く。
第1章 戦国・南蛮犬合戦 第2章 誰もが欲しがる武将の南蛮犬
第3章 江戸の世に犬栄え
第4章 あれも狆 これも狆 たぶん狆 きっと狆
第5章 生類憐みの令とは何だったのか?
第6章 薩州犬屋敷ー島津家の犬外交 第7章 幕末・犬絵巻
第8章 ツンだけではない、西郷隆盛の愛した犬たち
第9章 国交われば、犬が来るー明治の愛犬家
第10章 華麗なる愛犬界ー大正の犬事情
第11章 戦争を駆けた犬たち
第12章 ドッグ・トゥ・ザ・フューチャーー戦後から現代へ
参考文献有り。コラム多数。
二人の著者が本文とコラムを分担しての執筆。
参考文献も -
Posted by ブクログ
ネタバレ「ときは今天が下しる五月哉」。三日前にそう詠んだ光秀だが、いまだこのとき、謀叛を決断していなかったことが新発見の書状で明らかになった。そんな光秀を追いつめた張本人はいったいだれ!?足利将軍か、朝廷か、はたまたバテレンか。黒幕説飛び交うその裏で、一人の男の影が浮上した。斎藤利三。他家を出奔し明智家家老にまでなった勇者には、信長を許せない複雑な事情があった。長宗我部元親、三好康長、羽柴秀吉、織田信孝。四国情勢をめぐって濃密に絡み合う人間関係に、翻弄される光秀、そして信長の誤算とは。
真相は誰にも分からないが、このテーマは日本史上の永遠の謎である。 -
Posted by ブクログ
「軍事カリスマ」という縦糸を通すことで、かなり長い文章でありながら読みやすい構成になっている。
ただし、筆者も言う通り、時代ごとに割かれる分量に大幅な偏りがあり、しかもそれが最も古い時代に重心が置かれていることがやや残念。天下統一事業に乗り出してからの軍事政策などの記述がもうすこしあれば良かった。
軍事カリスマという観点から通したために、逆にその視点に頼りすぎ、信長の求心力や他者との比較優位性についての考察が不足しているようにも感じた。読みやすさの点からは致し方ないかもしれないが。
しかし、これまでの信長に関する研究をまとめ、そのそれぞれに批判を加え、もっとも合理的と考えるものを採用して -
Posted by ブクログ
所在 :展示架
請求記号:210.48/Ki54
資料ID :11400411
選書担当:豊田
後に夏の陣と並び戦国時代最大の戦いとされる「関ヶ原の合戦」。例の武将さえいなければ西軍は勝てたと言われていますが、この本を読んだあとは、それすら定かではありません。どちらも圧倒的な力をもっていたわけではなく、両者のミスの積み重ねの量が勝敗を決しました。そして、この合戦はもともと家康VS三成という構図ではなく、両者のそれぞれの問題を家康が画策し、「家康VS三成という構図」に仕立て上げたことも綴られています。戦国時代がお好きな方は必読すべき1冊だと思います。 -
Posted by ブクログ
非常に分厚く、かつとにかく登場人物と見慣れない地名が多いので、読むのに苦労するが、しかしその苦労の見返りとして、有名なようでいて、あまりどのような人物か明らかではない島津義久の考え方、行動原理、島津家の統治方法等を深く理解できた。
「島津家久と島津豊久」では、島津の血の掟に従い弟と家老を暗殺する厳しい義久像が描かれていたが、本書では、秀吉や家康との力関係を見極めながら、いかに薩隅日3ヶ国守護の島津家を維持するかの観点で、島津家を俯瞰的に統治する義久像が描かれている。
島津家を、九州引いては日本全土を支配できる大名とみるか、薩隅日3ヶ国守護とみるかで義久の行動に対する評価は分かれるのかもしれ -
Posted by ブクログ
島津家文書等の一級史料に基づく「退き口」の決定版。
戦場を離脱した島津軍のその後の運命は。生き残った
兵士の手記で綴る迫真の戦国ドキュメント。
本書を読むと、関ヶ原前夜から戦後の撤退行までの流れ
が良くわかる。家康と懇意にしていた島津義弘がなぜ西
軍についたのか、島津家家中の事情により、説明されて
いるが、理由が面白く納得いく。
島津傍観説というものがある。西軍についたものの、石
田三成と不仲になった義弘は、関ヶ原の戦い当日、戦に
加わることなく、傍観していたというものである。
著書は、史料の記述から島津勢は後陣であったという。
(つまり予備兵力として待機していた。)