あらすじ
全軍敗走の中、島津義弘軍は故国をめざし、決死の敵中突破を敢行する。世に言う“島津の退き口”である。島津家はなぜかくも少数の兵のみで関ヶ原を戦ったのか?戦場を脱した彼らのその後の運命は?残された兵士の手記から、日本戦史上の快挙の全貌を描く。
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Posted by ブクログ
[誤記訂正]
P102 3行目 「白川口」→「白河口」
P228 2行目 「義久が立腹して義久を厳しくたしなめた」
→「義久が立腹して義弘を厳しくたしなめた」
Posted by ブクログ
関ケ原での西軍の敗戦。
島津義弘率いる軍勢は、いかにして敵中突破し、薩摩へ帰還したか。
かの島津退き口を、多数の史料から解き明かしていく。
その壮絶な十九日間!
敵は東軍だけでなく、飢え、村人が襲い掛かってくる。
大坂城から親族の女性たちの奪還、海上での戦闘・・・危機連発!
島津家内での事情、家来たちの目からの撤退の様子等、
まるでドキュメンタリーのようでした。
Posted by ブクログ
島津家文書等の一級史料に基づく「退き口」の決定版。
戦場を離脱した島津軍のその後の運命は。生き残った
兵士の手記で綴る迫真の戦国ドキュメント。
本書を読むと、関ヶ原前夜から戦後の撤退行までの流れ
が良くわかる。家康と懇意にしていた島津義弘がなぜ西
軍についたのか、島津家家中の事情により、説明されて
いるが、理由が面白く納得いく。
島津傍観説というものがある。西軍についたものの、石
田三成と不仲になった義弘は、関ヶ原の戦い当日、戦に
加わることなく、傍観していたというものである。
著書は、史料の記述から島津勢は後陣であったという。
(つまり予備兵力として待機していた。)
また、三成自身の参陣要請を断ったのは、小早川の裏切
りにより、勝敗が決した後のことと推定している。
なかなか、面白い見方である。
土地勘も無い中部地方から、本領である鹿児島を目指した撤退行。本書を読むと、その労苦がしのばれる。