シーナ・アイエンガーのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
あの有名なジャムの実験の人!
本人も、実験がこんなに有名になって驚き!と書いてあった。
「選択」とは:
状況を自分でコントロールしたい欲。
そうできない状況はストレスになる。
選択にはまず、「自分の力で変えられる」という認識が必要。
人は本能的に「選択」を求めてしまう。そして選択肢を増やしたがる。
選択の決定権の大きさよりも、選択できるという「認識」が重要。
自分の人生を選択という次元で、自分に可能なこと、実現できることと捉えた方が未来は明るい。
前半は、その人の過去の経験、育ってきた文化によって「選択」に対する認識が異なる話で、面白かった。
後半は、人間全般における認知バイアスの話で、これは他の本でも欲出てくるもので、まぁまぁまぁ。
以下メモ
・文化はそこに住む人の世界を認識する方法に影響する
選択の判断基準:個人主義の文化→自分のため
集団主義の文化→周りのため
・人々が与えられたと感じていた選択の自由度が、彼らが望ましいと考えていた選択の自由度に一致すると満足する
望む自由度は文化によって異なる
・自由:
する自由freedom from
政治的・経済的・精神的な束縛「からの自由」※檻からの自由
からの自由freedom to
「やりたいことを実際にできる能力・機会」を含んだ自由。※檻を出た後の自由
資本主義は「からの自由」を尊重しがち
共産主義は「する自由」をある程度与える代わりに「からの自由」を制限しがち
・選択に関する考え方の違い
自分で選んでいるつもりでも、過去の経験に引っ張られている
・平均以上効果
人々が自分の能力や特徴を客観的な平均より上(上位10%)だと過大評価してしまう認知バイアス。でもあまりにも平均と離れるのはイヤ
大多数の人は、目立ちたがりだが、奇抜で孤独な少数派になるのはごめんだと思っている。
・選択の自由を手放すことを嫌うが、どの道を選んでも幸せを損なう選択も存在する。選択できることを手放すことも選択の一つ。それは、最初から選択がないこととは異なる。
・私たちの選択は他者の選択といつも結びついている。そして他者の目に映る自分は、内なる想像上の完璧な自分ではなくて、これまでとこれからの選択の積み重ねとしての自分なのだ。
・コカ・コーラの赤=サンタクロースの赤
コカ・コーラはこの赤色の特許を取得している
・プライミング
最初に目にする・聞く言葉やイメージが、脳の連想ネットワークを活性化させ、後続の情報をその枠組みで解釈しやすくなる。無意識的に「条件付け」されるため、自分で気づかずに選択が変わる。 -
Posted by ブクログ
最高のアイデアを得るために。
前著をさらに発展させた実践的な思考法。
・イノベーションは「戦略的模倣」
◯「発明とは、無益な組み合わせを排除して、ほんのわずかしかない有用な組み合わせをつくることである。発明とは見抜くことであり、選択することなのだ」(アンリ・ポアンカレ『科学と方法』)
・ブレインストーミングは、「情報の洗い出しと共有」でしかなく、「箱の中の思考」
・人間が把握できる項目は「7個プラスマイナス2個」
◯Think Biggerのロードマップ
ステップ1:課題を選ぶ
・「課題の定義」が9割
・課題を「How?」で言い換える
・課題のUP/DOWNの階層分析をし、「意味があるほどには大きいが、解決できるほどには小さい課題」を特定する
・情熱テスト
ステップ2:課題を分解する
・サブ課題に分解する
・MECEでなくてよい。重要なのは、課題を理解するプロセス。解決策のヒントになる
ステップ3:望みを比較する
・「あなた」「ターゲット」「第三者」の望みを満たすものか?
ステップ4:箱の中と外を探す
・サブ課題ごとに、汎用検索・部分検索・並行検索をする
ステップ5:選択マップ
・領域内と領域外での戦略の組み合わせ
・最低でも3つに絞る
ステップ6:第三の眼
・フィードバックの中で自分に聞かせる -
Posted by ブクログ
ネタバレあらゆる種類の複雑な問題を解決するために、新しい選択肢を見出す手法を説明する本とのこと
課題を分解し、部分を解決し、調和するように組み合わせる
創造行為において常識とされつつあることを明確に否定していておもしろい
メモ
・発明とは、見抜き、選択すること。戦略的模倣
・イノベーションを目指すプロセスの構造。課題を明確かつ具体的に定義することから始まる。それから各部分を解決する既存の方法を探索する。そしてそれらの解決策を全体として調和して機能するように新しい方法で組み合わせる。
・think biggerのロードマップ
ステップ1課題を選ぶ 解決すべき課題を正しく選ぶ
ステップ2課題を分解する サブ課題を多くリストアップし5-7に絞り込む
ステップ3望みを比較する 3つの重要な当事者を特定し、解決策に何を望んでいるかを洗い出す
ステップ4箱の中と外を探す(業界内外など) 様々な分野業界過去の時代からすでにある解決策を探し、リストアップしていく
ステップ5選択マップ パズルのピースのようにいろんな方法で組み合わせ、ピッタリハマる組み合わせが見つかるまで繰り返す
ステップ6第3の眼テスト アイデアを他人がどう見るか。アイデアを理解するために、他人があなたのアイデアの中に何を見るかを理解する
・大事なのは好奇心と粘り強さ
・創造性を最も促すのは無地の壁、
・多すぎる選択肢はやる気を削ぐ
・人間が把握できるのは7±2
・3つのツール
選択マップ 課題、分解したサブ課題、サブ課題に対する戦術を選び組み合わせる
全体像 当事者にどう感じてもらいたいかを書き出す
第3の眼 アイデアを評価判断する
・課題を書き出す
毎日の生活に起こる解決したい課題は?
最も苛立たしく解決またれる課題は?
関心のあるテーマや詳しく知りたいテーマは?
一番大切にしていることは?食事?読書?
・意味があるほどには大きいが、解決できる程には小さい課題 -
Posted by ブクログ
宗教によって制約が多かった著者の実体験に基づく「選択」について、「選択」について直感に反するような研究結果の紹介などが書かれている。
著者のように選択の自由を宗教上制限されていたとしても「自分の人生を自分で決めている」という意識を持つのは可能である、といったように、選択についての疑問の答えが調査によって明らかにされる。
本書は7つの講義から構成されている。そのうち著者の直接の経験に大きく関わる講義ははじめの2つで、残りは著者の研究に関する話や、一般的な認識と異なる研究結果の紹介になっている。
個別の話の内容について書くと、本書の結論を盗み書きしているような記述になってしまうのでここには書かない。
巻末には養老孟司による解説が添えられていて、これを読んであまりに上手くまとめられていて詳しい感想を書く気持ちが削がれてしまった。
> 著者が有名になったのは、店頭に並べる商品の数は、せいぜい七つほどが限度だ、という調査をしたからである。...自由に選択することは幸か不幸か。著者は後半で、障害児のいわば安楽死問題に関する両親の選択を扱う。決して自由な選択が万能薬だなどとはいっていない。よく目配りされた内容である。ぜひ本書をお読みいただいて、人生における選択について、もう一度考えていただきたいと思う。多かれ少なかれ、今後の人生を生きる参考になるはずである。(解説 養老孟司 p.460) -
Posted by ブクログ
幸福論の文脈で目にした「選択のパラドックス」というキーワードが気にかかっていて、本書に行き着いた。選択肢で溢れかえった社会に生きている自分が、ちっとも幸せだと思えない。そんな実感からだった。
著者は、「選択できる」ことの重要度が文化によって異なることを豊富な実験結果とともに示している。また、多すぎる選択肢がストレスにつながることや、ジレンマを生む選択肢に遭遇した時は選択を他者に委ねた方が心が楽になることも。
「人は自由であればあるほど幸せだ」という命題は、一見真に思える。一方で、本書の内容には頷ける部分が多々ある。むやみに選択肢を広げることを追い求めず、この先に何を掴みたいのかを熟慮し、丁寧に選択を積み重ねていくことが幸せへの近道なのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレだれもがことあるごとに、自分だけは他の人とは違うと、自分に言い聞かせている。では、自分がだれよりユニークなのだとわたしたち全員が信じるその根拠は、一体どこにあるのだろう?
一つの根拠は、自分自身に対する親密感だ。自分のことは隅から隅まで知っている。自分が何を考え、何を感じ、何をしているかを、目が覚めている間はつねに把握している。自分のことを熟知しているからこそ、自分とまったく同じように考え、感じ、行動することができるような人は、だれ一人としていないと断言できるのだ。でも、ほかの人に目を向けると、どうだろう? みんな、それほど違わないように見えるのではないだろうか? だれもが同じような店で買い物をし、同じようなテレビ番組を見、同じような音楽を聴いている。みんなが同じ選択肢を選んでいるのを見ると、人の真似をしているように見えるのに、いざ自分でその同じ選択肢を選ぶ段になると、自分がたまたまほかの人と同じことをしている理由について、もっともらしいご託を並び立てるのだ。かれらが何も考えずに同調しているのに対し、自分だけは、じっくり考えた末に、判断を下したのだと言う。もちろん、わたしたちがみな、現実から目をそらす順応者というわけではない。わたしたちはただ、他人の思考や行動もまた、自分の思考や行動とまったく同じように、複雑で変化に富んでいることに、必ずと言っていいほど気がつかないだけなのだ。わたしたちはみな、羊の群れの中のひとりぼっちではなく、羊の皮を着た個人なのである。
実際、わたしたちが求めているのは、「真の独自性」と言えるほど極端ではないものだ。あまりにもユニークなものには、興ざめする。先ほど紹介した、店の個数を当てさせる実験を行なった研究者たちは、同じ実験を方法を少し変えて行った。このときも、前と同じように、一部の協力者たちには、点の数を実際より多めに推測する多数派に属していると言い、一部には少なめに推測する少数派に属していると伝えたが、残りの協力者には、あまりにも特異な結果が出たため、「過大評価なのか、過小評価なのか、分類不能」だったと告げた。この実験でも、先と同じように過大評価者は自尊心が低下し、過小評価者は自尊心が高まったが、あまりに特異なため分類不能と言われた人たちも、自尊心が急低下したのである。わたしたちが一番心地よく感じるのは、「ちょうどよい」位置につけているとき、つまりその他大勢と区別されるほどには特殊でいて、定義可能な集団に属しているときだ。
わたしたちは幼いときから、自分の周囲の世界を、自分の好みに応じて分類する作業を始める。「アイスクリームが好き。芽キャベツはきらい。サッカーは好き。宿題はきらい。海賊が好きだから、大きくなったら海賊になりたいな」。このプロセスは、年を取るにつれてますます複雑になるが、わたしたちが自分自身に対して持っている基本的前提は変わらない。「わたしたちはどちらかと言えば内向的だ」、「わたしたちはリスクテイカーだ」、「旅行は好きだけど、短気で空港セキュリティの煩わしさには耐えられない」。わたしたちが目指すのは、自分自身と世界に向かって「私はこういう人間だ」と宣言し、それを正当な評価として認めてもらうことだ。究極の目標は、自分自身を理解し、自分の本当の姿を、つじつまの合った形で描き出すことなのだ。
しかし人間は、一生の間に大いに発達し変貌を遂げる、複雑な存在だから、いつもそう簡単に自分の積み重なった過去を理解できるわけではない。記憶や活動、行動が積み重なった層の中から、自分の中核を象徴するものを何とかして選び出さなくてはならない。だがそうするうちに、さまざまな矛盾がいやでも目につく。たしかにわたしたちは自分の意思で行動することが多いが、諸事情からやむを得ず行動することもある。たとえばわたしたちの職場での振る舞いのうち、服装の選び方や上司に対する話し方などは、家庭や友人に見せるふるまいに比べて、ずっと堅苦しく、保守的なことが多い。わたしたちはこうした食い違いや曖昧さが入り混じったものをふるいにかけて、なぜ自分がそのような選択を行なったかを自覚し、その上で将来どのような行動をとるべきかを決めなくてはならないのだ。
エマーソンの弟子ウォルト・ホイットマンが、詩『ぼく自身の歌』によって、このジレンマを的確にとらえ、きわめて詩的な反論を展開している。「ぼくが矛盾しているって? 結構、では矛盾しているということにしておこう(ぼくは大きい。ぼくは多くのものを内に抱えている)」。だが内に抱える多くのもののつじつまを合わせるのは、そう簡単なことではない。特に問題が生じるのは、自分のいろいろな側面の間の矛盾や、信念と行動の矛盾に気づいたときだ。たとえば保守派を自負していたベニントンの女子学生は、リベラルな同級生たちと政治問題について語り合ううちに、相手の意見にますます共鳴していく自分に気がついた。自分のこの状態は、一体どういうことなのだろうか、それとも周りの圧力に屈して、信じてもいない意見に同調しているのだろうか? どちらを認めても、自分が「理性的で裏表のない人間」だという自己像の、最も中核的な要素が脅かされることになる。相矛盾する二つの力の板挟みになるという、この不快な状態は、「認知的不協和」と呼ばれ、不安、罪悪感、困惑を引き起こすことがある。
正常な心の働きを取り戻すには、不協和を解消しなくてはならない。イソップ物語の「すっぱいブドウ」の話を思い出してほしい。キツネはどうにかしてブドウを取ろうとして、しばらくの間がんばってみるが、どうしても届かない。そこでキツネはあきらめ、こんな負け惜しみを言って立ち去るのだ。「あのブドウは、どうせすっぱいに決まってるさ」。キツネの心変わりは、わたしたちが不協和を軽減するために本能的に取る方法の典型例だ。わたしたちは自分の信念と行動の矛盾に気づくとき、時間を巻き戻して行動を取り返すことはできないため、信念の方を、行動と一致するように変えるのだ。もし物語の筋が変わって、キツネがブドウをとうとう手に入れ、食べてみたらすっぱかったなら、キツネは努力が無駄になったと感じないために、自分はすっぱいブドウが好きなんだと、自分に言い聞かせることだろう。
人は認知的不協和を回避して、自分自身についてつじつまの合う物語を生み出す必要から、もともとは意に反して取り入れた価値観や考え方を肯定し、自分の価値体系の中に組み入れることがある。一例として、自分の個人的信念に反する意見、例えば自分が反対する増税を支持する作文を書かされると、次第に自分が主張したのその意見に賛成するようになることが、数々の研究により報告されている。ベニントンの学生にとって、不協和を軽減する方法は、大学に浸透していったリベラルな思想が、たしかに価値のある問題を争点としているのだと思い込むこと、あるいは自分はかねがねそのような考え方をしていたが、今になってようやくそれを表現する機会を得たのだと思い込むことだっただのだろう。自己意識をこのように変えたからこそ、外的要因がその後も長きにわたって影響をおよぼし続けたのだ。
同様に、わたしたちは一貫した自己像を作り上げると、それを裏付けるような選択を行うことで、不協和を事前に回避しようとする。ベニントンの女性たちの例で言えば、リベラル派の夫と結婚したり、リベラル派の友人と交際するといったことだが、同様のパターンは保守派にも、あるいは宗教団体、環境団体など、どんな集団にも見られる。もちろんこのような行動は、純粋に不協和を回避するためだけに行われるわけではない。自分と似た人を探し、つき合うことで、わたしたちは帰属欲求を満たす。このように自分の意思で選んだ相手とのつきあいを通して、私たちの自己像は時間とともに定着し、周りの人たちにわかりやすいものになっていく。
首尾一貫した自分でありたいという欲求は、自分の人生をどう生きるべきかを考えるとき、ジレンマを生むことがある。一方でわたしたちは、一貫性のない行動は取りたくないし、一貫性のない人だと思われたくもない。「あなたのことがわからなくなった」と言われるとき、その言葉には、はっきりと否定的な意味合いが込められている。他人が認め、好感を寄せるようになった自己像にそぐわない行動を取れば、よくわからない人、信用できない人と思われてしまう。だがその一方で、現実世界は絶え間なく変化しているため、整合性にこだわりすぎると融通がきかなくなり、世間からずれていってしまう。
なぜこのような認識ギャップ(※他人からの評価と自己評価のギャップ)が生じるのだろうか? わたしは意外な評価を受けて心をかき乱される学生たちに、こう言ってきかせる、あなた方は自分の行動の背後にある意図がわかっているから、自分の行動を正当と考える。でも人は、自分の見るものだけに反応するものだ。ちょうど、歌のリズムでテーブルを叩いて、曲名を当ててもらうゲームのようなものだ。自分は頭の中で歌が聞こえるから、「ハッピーバースデートゥーユー」のリズムだということはだれでにもわかるはずだと決め込む。でもほかの人には、ただ「タン・タ・タン・タン・タン・タン」としか聞こえないため、米国国歌の出だしと勘違いする人がいるのだ。その上、他人はあなたの行動をからっぽの状態で判断するわけではなく、自分の経験のレンズを通して解釈するか、またはあなたの外見からこういう人物だろうと判断を下し、その人物像についての一般的な固定観念を通して解釈するのだ。
三六〇度評価法がわたしたちに教えてくれるのは、他人の評価はまちまちだから真剣に受けとめなくていい、ということではない。わたしたちの日々の行動は他人によって解釈され、ひいては誤解される。人間社会に愛想を尽かして山にこもるのでもない限り、わたしたちは自分の自己認識と、友人や同僚、その他日々交流する数百人の他人による認識とを、できる限り一致させなくてはならないのだ。
他人による評価は、現実を把握する手段として役に立つ。先の述べたように、わたしたちは「レイク・ウォビゴン効果」の影響に陥りやすく、本当の自分というものをなかなか知ることができないからだ。正式な三六〇度評価でなくても、自己覚知と呼ばれる、自分を知る作業を通して、同様の効果を得ることができる。人が自分の行動に示す反応をよく観察し、できれば自分のことをどう思っているか、周りの人に直接尋ねてみるのだ(三六〇度評価の効果が高い理由は、相手から直接、多様なフィードバックを得られるからだ)。人にどう思われているかがわかれば、対策の立てようがある。
自分がそれほど立派に思われていないことがわかったなら、他人にどう見られたいかに合わせて、自分の行動を変えればよい。たとえば部下に傲慢で思いやりがないと思われていることを知った上司は、会議になにかと口を挟むのをやめれば、評価を上げることができる。あるいは行動を変える代わりに、自分は会議を有意義なものにするために口を挟むのだと、行動の背後にある考え方を説明するのもいい。自他の認識ギャップを完全になくすことは無理かもしれないが、ギャップを埋めるために打てる手はたくさんあるのだ。
わたしたちは自分の決定権が脅かされそうな気配を感じると、反射的に拒否反応を示すことが多い。わずかでも決定権を放棄すれば、やがてロボット同然になってしまうのではないかという恐ればあるからだ。この不安はあながちいわれのないものではないが、過剰な不安は何も生まない。問題は、わたしたちが選択を理想化しがちなことにあるのかもしれない。選択をあまりにも偶像化し、全てを自分の意思で決めることができてあたりまえと考えているのだ。もしかしたら、自分の価値観を脅かすような影響と、基本的に無害な影響とに分けて考えた方がいいのかもしれない。そうすれば、自分の理性のプロセスを意識的に分析して、有害な影響に少しは対抗することができる。
“ジュリー・ジレンマ”が教えてくれたように、ジュリーから生命維持装置を外すことを、医師が医学的に望ましい選択肢として提示したとき、選択者は、医師が意向を表明せず、ただ選択肢を提示したときほど、自分の決断に苦しめられなかった。わたしたちは、難しい決断の負担を軽減しようとして、権限や専門知識を持つ人たちに頼ることが多い。苦境に立たされたとき、自分が正しい方向に進んでいると太鼓判を押してくれる人がいれば、たとえ現実の結果が変わらなくても、苦しみは大いに軽くなる。わたしたちの文化では、選択の概念が、尊厳と主体性の美徳と、きわめて密接に結びついている。そのためだれからも、たとえそれが退行性脳疾患に苦しむ人であっても、選択の権利を剥奪すべきでないという強い意識が働いて、肉体的健康への配慮さえ、どこかに押しやってしまうことがある。その対処方法の一つが、ケアの最も厄介な側面を、医療専門家に任せることだ。息子や娘、夫が車のキーを隠す勇気がないなら、「運転はおやめなさい」という意思の一言が、祖母の運転免許証を返還するきっかけを与えてくれる。こうした難しい決断に限って言えば、選択の権利を行使するには、外部から何らかの助けが必要に思われる。
人が保護と世話を完全に人に頼るのは、幼児期と高齢期だが、自立を完全な依存の状態に変えるのは、老年だけだ。わたしたちは介護者になることで、選択にまつわる精神的負担を、他人の分まで引き受けることになる。もちろん、いつだって愛するものたちの幸せを望んではいるが、生活の質にかかわる、めまいがするような選択の数々には、頭がどうにかなりそうになる。わたしの同僚の女性は、まるで天啓に打たれたように、あることに気がついてから、肩の荷が下りたような気がしたと話していた。
「治療をどうするか何年も悩んでいたある日、突然はっと気がついたの。母は、わたしたちが何をやってもやらなくても、いつかは亡くなるってことに。残酷に聞こえるかもしれないけど、自分が母を治せないこと、母に自主性を戻してあげられないことを理解することは、わたしにとって本当に大切なことだった。そのおかげで、一緒に暮らした最後の数年間は、質の高い生活を二人で送ることだけを考えることができたのよ。完璧な介護者にならなきゃと、そればかりを考えていたあの頃は、とてもそんなことはできなかった」
もしかしたら、わたしたちはみな、完璧になろうとして頑張りすぎずに、愛するものたちとともに過ごす喜びに、もっと目を向けるべきなのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
2009年にコロンビア大学で行われた特別講義の内容を記録したもの。15年も前の内容だが、結構新しい。更新されているのは、その後の実験で、マシュマロテストの再現性が否定されたらしいということくらいか。
重要なレッスン:
好みの問題(絵とか、食べ物とか、音楽とか、どちらを選んでも実質的な損得があまりないようなもの)は、情報を集めて慎重に検討した結果より、あまり何も聞かずに直感で選んだ結果の方が、後で後悔しにくいということ。
つらい選択(家族の生命維持装置を外すなど)は、専門家の推奨があれば、辛さが減る。
一気に負担の大きな行動(積立貯蓄など)を大きな規模で行うよりも、小さな規模で初めて、自動的に負担が漸増すいるような仕組みにしたほうが、最終的な効果は大きい。