あらすじ
各界カリスマたちが愛読するロングセラー!
選択肢は多ければ多いほどよい、そう考えているあなたは間違っています。実は人間はあまりに選択肢が多いと逆に「選択」ができなくなる。そのことを実験によって証明したのが、この本の著者コロンビア大学ビジネススクール教授のシーナ・アイエンガーです。
24種類のジャムの売り場と、6種類のジャムの売り場では、前者は後者の10分の1の売り上げしかあがりませんでした。
「なぜ自分の選択に失望することが多いのか」「他人に選択を委ねたほうがよい場合は」「その場合は誰に委ねるべきか」「出身や生い立ちは、選択にどう影響を与えるか」等々。20年以上に渡る広範な実験と研究によって、あなたの「選択」に関する疑問に答えます。
目次
オリエンテーション 私が「選択」を研究テーマにした理由
第1講 選択は本能である
第2講 集団のためか、個人のためか
第3講 「強制」された選択
第4講 選択を左右するもの
第5講 選択は創られる
第6講 豊富な選択肢は必ずしも利益にならない
第7講 選択の代償
最終講 選択と偶然と運命の三元連立方程式
単行本 2010年11月 文藝春秋刊
文庫版 2014年7月 文春文庫刊
この電子書籍は文春文庫版を底本としています。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
選択こそが幸福であるが、
選択できるからと言って全てが幸福だとは限らない、
ジャム理論、リルケの豹、ソフィーの選択
めちゃくちゃ興味深い本だった
Posted by ブクログ
著者の本を通しての1番の学びは、
「選択とは、発明である」ということである。選択とは創造的なプロセスであり、まさに意識的であろうと無意識的であろうと人は毎日の選択を通じて、環境を、人生を、そして自分自身を築いているのだ、
ということにはっとさせられました。
Posted by ブクログ
今年読んだ中で、最も面白かった本。2010年に単行本が出たときに既に有名だったそうだが、当時私は育児休暇から復帰して間もなくだったためか、全く知らなかった。
今回は文庫がたまたま行った本屋で話題の本コーナーにあったので購入することができた。やはり、本屋は実店舗があってこそ、巡り合える本かある。
内容は選択という行動がどのように起こるのか、という内容。どれもこれも面白い。日本人は親の顔ばかり伺って、自分の意思で決めることが出来ないのが悪いこと、みたいに言われてきたが、この本によると、日本人を含むアジア系の子供は、親が決めた選択肢の方が自分で決めた時より頑張れるという結果とのこと。なんだ。じゃあ、別に悪いことってわけじゃないのか。もっと早く読んでおけば子育てとかにも役にたったかもなーと思った。
Posted by ブクログ
数年に一度読み返している本。自己決定は幸福の鍵だと言うけれど、結婚相手など重大な選択を放棄している人の方が幸せだったり、顧客に選択肢が多い方が満足度が低下したり、我が子の延命治療の可否を選ばされることで心の傷が深まったり、世界中のケースから話は単純ではないことを思い知らされる。
これを読み返したからといって自分がより正しい選択を選べるようになるかというと疑問だが笑、「時に選択を放棄することを選択することの有用さ」をリマインドさせてもらえるのは良いなと思う。
Posted by ブクログ
選択する背景には文化、環境が影響を与える。日々の選択ですら、外的要因に影響を受けている。自分が選んだ!と言えるものはないのではないかとも思う。ただ選択する際の根拠、軸を持つことで、結果がどうであれ納得することができるのだと理解。
Posted by ブクログ
選択の科学
「選択」という行為をめぐる科学的な知見の本です。
”選択肢は多ければ多い方が良い”という常識を覆した「ジャムの実験」をはじめ、辛い選択は強く長く選択した人を苦しめる事例や野生動物に比べてはるかに安全で衛生的な動物園の動物が早死なことなど多くの実験結果や論文の知見が読みやすくまとめられています。
何よりも、著者自身の失明という運命にありながら、その中でも自ら様々な選択を行うことによって人生を切り開いてきた生き方が素晴らしい。
竹蔵も自ら決めることが重要と思い、実践してきましたが、選択を他人や運命にゆだねることも時には必要であることを知りました。
竹蔵
Posted by ブクログ
筆者は1969年カナダのトロントで生まれ、両親はインドのデリーからの移民で厳格なシーク教徒。そのコミュニティで育ち、学者となった彼女が選んだテーマは『選択』。豊富な事例と緻密な論考が紹介されています。
この本はずっと気になっておりましたが、やっと読み終えることができました。 いや、本当に歯ごたえのあるものでございました。ここまでの本を読んだのは本当に久しぶりのことでございました。
本書は2011年11月27日(日)からNHK教育で放映の始まった『コロンビア白熱教室』のテキストであります。僕自身はこの番組を1.2回程度しか見たことはありませんが、もし機会があれば一度全てを通してみてみたいと思っております。
厳格なシーク教徒の家庭に育ち、なおかつ全盲というハンディキャップを持ちながらコロンビア大学ビジネススクールにて教鞭をとるというシーナ・アイエンガー教授は『「選択」こそが、人間に活力を与える。』というスローガンの下に20年間に渡って、ずっと「選択」をテーマに研究し、さまざまなユニークな実験や調査をおこなってきた方で、その成果が本書に凝縮されております。
冒頭に掲げられている
「選択権を持つことは生き物の基本的欲求である。」
という言葉を膨大なエピソードや情報を提示して検証を重ねる文章と考証には本当にひきつけられるものがございました。
その一例として野生のアフリカ象の寿命は56歳ですが、動物園のそれは17歳。という本当に驚くべき事例が記されており、動物園の動物には、過剰な毛づくろいや、意味もない往復運動などの神経症状をみせる動物が多いのだということが紹介されてあって、そういわれてみれば確かに動物園の象にはそんな行動が見られることが多かったと思います。
その理由は、野生のときのような、「選択」ができないからだそうで、こういう事例を提示されると、『自分で自分の運命を選ぶ』ということがいかに重要なことだということを思い知らされました。
その法則には人間にも当てはまるそうで、人間にも同じようなことが言えるそうで、本書では英国の20歳から64歳の公務員男性1万人を追跡調査して、さまざまな職業階層と健康状態の比較を行うというものがありました。ここまでのことを調べ上げる筆者の執念には本当に驚くものがありましたが、その結果は『「モーレツ上司が、心臓発作をおこして40代でぽっくりいく」という予想と真逆の結果が出ていた』のだそうです。
そう考えると本当に空恐ろしいモノを感じましたが、『職業階層が高ければ高いほど、寿命は長かった。これらは、職業階層の高さと仕事に対する自己決定権の度合いが直接相関していた』ことに理由があったそうで、多くのビジネス書なんかにかかれてあるような
「やりたいことがあったら、早いうちに出世しろ。」
というのはある種の真実なんだな、ということでございました。
このほかにも、僕は本書を読むまで知りませんでしたが、産業界に広く応用されているといわれる「ジャムの法則」という事例も紹介されてあって、筆者がドレーガーズという高級スーパーマーケットを舞台に1995年に行った実験で、「豊富な選択肢は売り上げをあげる」というお店の方針を実証しようとするものでした。
ところが、実際のところは逆の結果が出て、24種類のジャムを売り場に並べたときと、6種類のジャムを売り場に並べたときでは、前者は後者の売り上げの10分の1しかなかったという話で、この話は様々な分野に応用されておりますが、僕は故スティーブ・ジョブズがグーグルのラリー・ペイジがCEOに復帰する際、
『いまのグーグルは何でもありだけれどもし5つだけ残すのなら何を残す? 大事なものは選択と集中だ。余計なものは切り捨てて、大事なものに全てを集中させるんだ。』
と死の床で語っていた場面でした。
このほかにも本当に面白い事例は紹介されていて、彼女のルーツに関する話も興味が引かれるのですが、ここに書かれていることは日々、何かを『選択』しなければならない全ての人間にとって、重要なヒントになることは間違いないと言えると思っております。
※追記
本書は2014年7月10日、文藝春秋より『選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫 S 13-1)』として文庫化されました。
Posted by ブクログ
自分は選択を外的なものに任せがちだけど、自分で選択することによって満足感が得られると知ったので、少しずつ実行して「決める・選ぶ」訓練をしていきたい。
Posted by ブクログ
「選択」という単純、かつ毎日何気なく行っている作業をここまで掘り下げるとは!(感動)
著者の「選択」にかける情熱がひしひしと伝わってきます。
「今日はA定食にするか、B定食にするか?」といったちょっとしたものから、「転職するべきか、それともとどまるべきか」といった人生に大きな影響を与えるものまで、私たちの生活は常に「選択」の積み重ねで成り立っています。
自分の意思で選択したと思っていた事も、実は外圧や周りの環境が影響していたのかもしれません。
(自信満々に自分で決めたようでいても、そうではない)
反対に、決めかねていたものを他人が決めてくれて安心した経験もあります。
私たちが選択する時、私たちの心の中では何が起きているのか?科学的に証明しています。
(恐らく何の影響も受けず、100%自分の意思で選択するってないと思う)
そんな選択の奥深さを知ることの出来る本でした。
この本を読むと、自分が選択してきた経験と本に出てくる実験を照らし合わせ、振り返りをしたくなってきます。成功した時、失敗した時、その時の自分の心理状態はどうだったのか?何を基準に選択したのか?
自分の選択の傾向を知ることで、今後の選択を後悔なく乗り切ることができるのではないでしょうか。
実は「転職したいな~」と思っていて、自分で転職のタイミングを決めるのが怖かったので、参考がてら手に取った本なのです。
この本読んで、成行きに任せるのもアリ(それも選択)なんだな、と思ったら気が楽にりました。
あと、この本は言語化という意味でもスッキリさせてくれました。
私は占いが好きなのですが、理由を聞かれると「神秘的だから」とふわっとしか答えられなかったのです。
なんと、この本で言語化された箇所を見つけました。
(自分の言語化できなかったものを本で見つけると嬉しくなりますね!)
”苦境に立たされたとき、自分が正しい方向に進んでいると太鼓判を押してくれる人がいれば、たとえ現実の結果が変わらなくても、苦しみは大いに軽くなる。”(抜粋)
ボリュームが多く、翻訳ものなので体力使いますが、読む価値はあります。
Posted by ブクログ
シーナ・アイエンガー教授の名前は知らない人でも、ジャムの法則は知っているという人は多いと思う。ジャムの法則の話はもちろん出てくるが、その他にも「選択」を色々な角度から考えさせられる内容になっている。しかし、哲学や思想に走らず行動心理学的な実験とインタビューをベースにした論が展開されるので最後までストレスなく読める。
コロンビア大学の講義の内容をまとめたものだけれど、その講義はNHKでもかつて「白熱教室」として放送されたらしい。DVDもあるので、本を読む暇のない人はそちらを見るのもいいのではないだろうか。
Posted by ブクログ
著者がビジネススクールの教授だからかビジネス書という分類なのだが,心理学ベースの学際研究という感じ。とても知的好奇心を刺激する本である。
内容は多岐にわたるため,ひとことでまとめるのは難しい。あえて言えば,選択とはアートであるということになろうか。
Posted by ブクログ
選択するということは、
すなわち将来と向き合うこと!
自分で自分の選択に責任取ることで
人のせいにはできない!
覚悟は必要
最後まで自分で選択したい♡
Posted by ブクログ
NHKの白熱教室(おそらく)を5年前くらいにお母さんと一緒に観て、読みたいな〜ってずっと思っていた本。
念願叶って読めた。
論文だったから読み終わるのに時間がかかっちゃったけど、わかりなすい文章だったし、具体例もすんなり入ってきて、ちゃんと理解できたのが良かった。
いろんな角度から「選択」について研究していて、
一言に選択って言っても、いろいろあるんだなぁと感心した。
日本とアメリカの集団主義と個人主義の違いによって選択の要因が異なることは身にしみて理解できた。
共産主義社会から資本主義社会に移行した東欧地域での選択肢の考え方は驚きだった。コーラもペプシもスプライトも全部ソーダで選択肢は一つ。決められた選択肢がある社会で育つとそうなるんだ、と驚き。
人間(と動物)は、自分に選択の自主性がないと窮屈に思うらしい。
生まれたばかりの病気の娘を安楽死させるかどうかについての選択は、
選択の自主性があって、自分で選択したとしても心理的苦痛を感じ続ける。
それは、自分が娘を死なせるスイッチを押したという気持ちが強いかららしい。
医師が安楽死させます、とか、安楽死させた方がいいです、と言った、専門家からの助言があった方が、選択権が無かったとしても、心理的苦痛は和らぐそう。
ここまで極端な例ではなくても、わたしは割と自分の選択を他人に任せてきたことが多かったかもしれない。
論点がズレるかもしれないけど、それは自分に対して責任を持つ自信が無かったから、ということのような気がする。
選択できることは幸せなことで、
心理的苦痛を感じるもの以外の選択については、
自分自身で納得がいくまで考えて行いたいと思った。
Posted by ブクログ
あの有名なジャムの実験の人!
本人も、実験がこんなに有名になって驚き!と書いてあった。
「選択」とは:
状況を自分でコントロールしたい欲。
そうできない状況はストレスになる。
選択にはまず、「自分の力で変えられる」という認識が必要。
人は本能的に「選択」を求めてしまう。そして選択肢を増やしたがる。
選択の決定権の大きさよりも、選択できるという「認識」が重要。
自分の人生を選択という次元で、自分に可能なこと、実現できることと捉えた方が未来は明るい。
前半は、その人の過去の経験、育ってきた文化によって「選択」に対する認識が異なる話で、面白かった。
後半は、人間全般における認知バイアスの話で、これは他の本でも欲出てくるもので、まぁまぁまぁ。
以下メモ
・文化はそこに住む人の世界を認識する方法に影響する
選択の判断基準:個人主義の文化→自分のため
集団主義の文化→周りのため
・人々が与えられたと感じていた選択の自由度が、彼らが望ましいと考えていた選択の自由度に一致すると満足する
望む自由度は文化によって異なる
・自由:
する自由freedom from
政治的・経済的・精神的な束縛「からの自由」※檻からの自由
からの自由freedom to
「やりたいことを実際にできる能力・機会」を含んだ自由。※檻を出た後の自由
資本主義は「からの自由」を尊重しがち
共産主義は「する自由」をある程度与える代わりに「からの自由」を制限しがち
・選択に関する考え方の違い
自分で選んでいるつもりでも、過去の経験に引っ張られている
・平均以上効果
人々が自分の能力や特徴を客観的な平均より上(上位10%)だと過大評価してしまう認知バイアス。でもあまりにも平均と離れるのはイヤ
大多数の人は、目立ちたがりだが、奇抜で孤独な少数派になるのはごめんだと思っている。
・選択の自由を手放すことを嫌うが、どの道を選んでも幸せを損なう選択も存在する。選択できることを手放すことも選択の一つ。それは、最初から選択がないこととは異なる。
・私たちの選択は他者の選択といつも結びついている。そして他者の目に映る自分は、内なる想像上の完璧な自分ではなくて、これまでとこれからの選択の積み重ねとしての自分なのだ。
・コカ・コーラの赤=サンタクロースの赤
コカ・コーラはこの赤色の特許を取得している
・プライミング
最初に目にする・聞く言葉やイメージが、脳の連想ネットワークを活性化させ、後続の情報をその枠組みで解釈しやすくなる。無意識的に「条件付け」されるため、自分で気づかずに選択が変わる。
Posted by ブクログ
「選択」という行為について、科学的な論考半分、哲学的な論考半分で述べた本。
選択肢は多い方がいいのか、選択に制約があるときの人の心理はない時と比べてどうか、選択権があることは絶対的に望ましいことなのか‥
何度も読み返したくなる味わい深い本だと思う。
Posted by ブクログ
自由結婚か、パートナーが決められた結婚か
自分で選択したことが全て幸せに繋がるとは限らないというのは勉強になった。
そもそも自分で選択しているように見えて、選択させられていることも多いし、
全ては自分とそれ以外の関わり合いの中で決定されること。
その決定をどう意味付けするかがやっぱり大事なんじゃないかなと思います。
Posted by ブクログ
宗教によって制約が多かった著者の実体験に基づく「選択」について、「選択」について直感に反するような研究結果の紹介などが書かれている。
著者のように選択の自由を宗教上制限されていたとしても「自分の人生を自分で決めている」という意識を持つのは可能である、といったように、選択についての疑問の答えが調査によって明らかにされる。
本書は7つの講義から構成されている。そのうち著者の直接の経験に大きく関わる講義ははじめの2つで、残りは著者の研究に関する話や、一般的な認識と異なる研究結果の紹介になっている。
個別の話の内容について書くと、本書の結論を盗み書きしているような記述になってしまうのでここには書かない。
巻末には養老孟司による解説が添えられていて、これを読んであまりに上手くまとめられていて詳しい感想を書く気持ちが削がれてしまった。
> 著者が有名になったのは、店頭に並べる商品の数は、せいぜい七つほどが限度だ、という調査をしたからである。...自由に選択することは幸か不幸か。著者は後半で、障害児のいわば安楽死問題に関する両親の選択を扱う。決して自由な選択が万能薬だなどとはいっていない。よく目配りされた内容である。ぜひ本書をお読みいただいて、人生における選択について、もう一度考えていただきたいと思う。多かれ少なかれ、今後の人生を生きる参考になるはずである。(解説 養老孟司 p.460)
Posted by ブクログ
幸福論の文脈で目にした「選択のパラドックス」というキーワードが気にかかっていて、本書に行き着いた。選択肢で溢れかえった社会に生きている自分が、ちっとも幸せだと思えない。そんな実感からだった。
著者は、「選択できる」ことの重要度が文化によって異なることを豊富な実験結果とともに示している。また、多すぎる選択肢がストレスにつながることや、ジレンマを生む選択肢に遭遇した時は選択を他者に委ねた方が心が楽になることも。
「人は自由であればあるほど幸せだ」という命題は、一見真に思える。一方で、本書の内容には頷ける部分が多々ある。むやみに選択肢を広げることを追い求めず、この先に何を掴みたいのかを熟慮し、丁寧に選択を積み重ねていくことが幸せへの近道なのかもしれない。
Posted by ブクログ
選択肢は多ければ良いというものではない。望ましくない選択肢ばかりの場合、選択権を与えられる事は却って、後に悔やんでストレスとなる場合が多い、という知見は、職業柄非常に参考になるものであった。
Posted by ブクログ
だれもがことあるごとに、自分だけは他の人とは違うと、自分に言い聞かせている。では、自分がだれよりユニークなのだとわたしたち全員が信じるその根拠は、一体どこにあるのだろう?
一つの根拠は、自分自身に対する親密感だ。自分のことは隅から隅まで知っている。自分が何を考え、何を感じ、何をしているかを、目が覚めている間はつねに把握している。自分のことを熟知しているからこそ、自分とまったく同じように考え、感じ、行動することができるような人は、だれ一人としていないと断言できるのだ。でも、ほかの人に目を向けると、どうだろう? みんな、それほど違わないように見えるのではないだろうか? だれもが同じような店で買い物をし、同じようなテレビ番組を見、同じような音楽を聴いている。みんなが同じ選択肢を選んでいるのを見ると、人の真似をしているように見えるのに、いざ自分でその同じ選択肢を選ぶ段になると、自分がたまたまほかの人と同じことをしている理由について、もっともらしいご託を並び立てるのだ。かれらが何も考えずに同調しているのに対し、自分だけは、じっくり考えた末に、判断を下したのだと言う。もちろん、わたしたちがみな、現実から目をそらす順応者というわけではない。わたしたちはただ、他人の思考や行動もまた、自分の思考や行動とまったく同じように、複雑で変化に富んでいることに、必ずと言っていいほど気がつかないだけなのだ。わたしたちはみな、羊の群れの中のひとりぼっちではなく、羊の皮を着た個人なのである。
実際、わたしたちが求めているのは、「真の独自性」と言えるほど極端ではないものだ。あまりにもユニークなものには、興ざめする。先ほど紹介した、店の個数を当てさせる実験を行なった研究者たちは、同じ実験を方法を少し変えて行った。このときも、前と同じように、一部の協力者たちには、点の数を実際より多めに推測する多数派に属していると言い、一部には少なめに推測する少数派に属していると伝えたが、残りの協力者には、あまりにも特異な結果が出たため、「過大評価なのか、過小評価なのか、分類不能」だったと告げた。この実験でも、先と同じように過大評価者は自尊心が低下し、過小評価者は自尊心が高まったが、あまりに特異なため分類不能と言われた人たちも、自尊心が急低下したのである。わたしたちが一番心地よく感じるのは、「ちょうどよい」位置につけているとき、つまりその他大勢と区別されるほどには特殊でいて、定義可能な集団に属しているときだ。
わたしたちは幼いときから、自分の周囲の世界を、自分の好みに応じて分類する作業を始める。「アイスクリームが好き。芽キャベツはきらい。サッカーは好き。宿題はきらい。海賊が好きだから、大きくなったら海賊になりたいな」。このプロセスは、年を取るにつれてますます複雑になるが、わたしたちが自分自身に対して持っている基本的前提は変わらない。「わたしたちはどちらかと言えば内向的だ」、「わたしたちはリスクテイカーだ」、「旅行は好きだけど、短気で空港セキュリティの煩わしさには耐えられない」。わたしたちが目指すのは、自分自身と世界に向かって「私はこういう人間だ」と宣言し、それを正当な評価として認めてもらうことだ。究極の目標は、自分自身を理解し、自分の本当の姿を、つじつまの合った形で描き出すことなのだ。
しかし人間は、一生の間に大いに発達し変貌を遂げる、複雑な存在だから、いつもそう簡単に自分の積み重なった過去を理解できるわけではない。記憶や活動、行動が積み重なった層の中から、自分の中核を象徴するものを何とかして選び出さなくてはならない。だがそうするうちに、さまざまな矛盾がいやでも目につく。たしかにわたしたちは自分の意思で行動することが多いが、諸事情からやむを得ず行動することもある。たとえばわたしたちの職場での振る舞いのうち、服装の選び方や上司に対する話し方などは、家庭や友人に見せるふるまいに比べて、ずっと堅苦しく、保守的なことが多い。わたしたちはこうした食い違いや曖昧さが入り混じったものをふるいにかけて、なぜ自分がそのような選択を行なったかを自覚し、その上で将来どのような行動をとるべきかを決めなくてはならないのだ。
エマーソンの弟子ウォルト・ホイットマンが、詩『ぼく自身の歌』によって、このジレンマを的確にとらえ、きわめて詩的な反論を展開している。「ぼくが矛盾しているって? 結構、では矛盾しているということにしておこう(ぼくは大きい。ぼくは多くのものを内に抱えている)」。だが内に抱える多くのもののつじつまを合わせるのは、そう簡単なことではない。特に問題が生じるのは、自分のいろいろな側面の間の矛盾や、信念と行動の矛盾に気づいたときだ。たとえば保守派を自負していたベニントンの女子学生は、リベラルな同級生たちと政治問題について語り合ううちに、相手の意見にますます共鳴していく自分に気がついた。自分のこの状態は、一体どういうことなのだろうか、それとも周りの圧力に屈して、信じてもいない意見に同調しているのだろうか? どちらを認めても、自分が「理性的で裏表のない人間」だという自己像の、最も中核的な要素が脅かされることになる。相矛盾する二つの力の板挟みになるという、この不快な状態は、「認知的不協和」と呼ばれ、不安、罪悪感、困惑を引き起こすことがある。
正常な心の働きを取り戻すには、不協和を解消しなくてはならない。イソップ物語の「すっぱいブドウ」の話を思い出してほしい。キツネはどうにかしてブドウを取ろうとして、しばらくの間がんばってみるが、どうしても届かない。そこでキツネはあきらめ、こんな負け惜しみを言って立ち去るのだ。「あのブドウは、どうせすっぱいに決まってるさ」。キツネの心変わりは、わたしたちが不協和を軽減するために本能的に取る方法の典型例だ。わたしたちは自分の信念と行動の矛盾に気づくとき、時間を巻き戻して行動を取り返すことはできないため、信念の方を、行動と一致するように変えるのだ。もし物語の筋が変わって、キツネがブドウをとうとう手に入れ、食べてみたらすっぱかったなら、キツネは努力が無駄になったと感じないために、自分はすっぱいブドウが好きなんだと、自分に言い聞かせることだろう。
人は認知的不協和を回避して、自分自身についてつじつまの合う物語を生み出す必要から、もともとは意に反して取り入れた価値観や考え方を肯定し、自分の価値体系の中に組み入れることがある。一例として、自分の個人的信念に反する意見、例えば自分が反対する増税を支持する作文を書かされると、次第に自分が主張したのその意見に賛成するようになることが、数々の研究により報告されている。ベニントンの学生にとって、不協和を軽減する方法は、大学に浸透していったリベラルな思想が、たしかに価値のある問題を争点としているのだと思い込むこと、あるいは自分はかねがねそのような考え方をしていたが、今になってようやくそれを表現する機会を得たのだと思い込むことだっただのだろう。自己意識をこのように変えたからこそ、外的要因がその後も長きにわたって影響をおよぼし続けたのだ。
同様に、わたしたちは一貫した自己像を作り上げると、それを裏付けるような選択を行うことで、不協和を事前に回避しようとする。ベニントンの女性たちの例で言えば、リベラル派の夫と結婚したり、リベラル派の友人と交際するといったことだが、同様のパターンは保守派にも、あるいは宗教団体、環境団体など、どんな集団にも見られる。もちろんこのような行動は、純粋に不協和を回避するためだけに行われるわけではない。自分と似た人を探し、つき合うことで、わたしたちは帰属欲求を満たす。このように自分の意思で選んだ相手とのつきあいを通して、私たちの自己像は時間とともに定着し、周りの人たちにわかりやすいものになっていく。
首尾一貫した自分でありたいという欲求は、自分の人生をどう生きるべきかを考えるとき、ジレンマを生むことがある。一方でわたしたちは、一貫性のない行動は取りたくないし、一貫性のない人だと思われたくもない。「あなたのことがわからなくなった」と言われるとき、その言葉には、はっきりと否定的な意味合いが込められている。他人が認め、好感を寄せるようになった自己像にそぐわない行動を取れば、よくわからない人、信用できない人と思われてしまう。だがその一方で、現実世界は絶え間なく変化しているため、整合性にこだわりすぎると融通がきかなくなり、世間からずれていってしまう。
なぜこのような認識ギャップ(※他人からの評価と自己評価のギャップ)が生じるのだろうか? わたしは意外な評価を受けて心をかき乱される学生たちに、こう言ってきかせる、あなた方は自分の行動の背後にある意図がわかっているから、自分の行動を正当と考える。でも人は、自分の見るものだけに反応するものだ。ちょうど、歌のリズムでテーブルを叩いて、曲名を当ててもらうゲームのようなものだ。自分は頭の中で歌が聞こえるから、「ハッピーバースデートゥーユー」のリズムだということはだれでにもわかるはずだと決め込む。でもほかの人には、ただ「タン・タ・タン・タン・タン・タン」としか聞こえないため、米国国歌の出だしと勘違いする人がいるのだ。その上、他人はあなたの行動をからっぽの状態で判断するわけではなく、自分の経験のレンズを通して解釈するか、またはあなたの外見からこういう人物だろうと判断を下し、その人物像についての一般的な固定観念を通して解釈するのだ。
三六〇度評価法がわたしたちに教えてくれるのは、他人の評価はまちまちだから真剣に受けとめなくていい、ということではない。わたしたちの日々の行動は他人によって解釈され、ひいては誤解される。人間社会に愛想を尽かして山にこもるのでもない限り、わたしたちは自分の自己認識と、友人や同僚、その他日々交流する数百人の他人による認識とを、できる限り一致させなくてはならないのだ。
他人による評価は、現実を把握する手段として役に立つ。先の述べたように、わたしたちは「レイク・ウォビゴン効果」の影響に陥りやすく、本当の自分というものをなかなか知ることができないからだ。正式な三六〇度評価でなくても、自己覚知と呼ばれる、自分を知る作業を通して、同様の効果を得ることができる。人が自分の行動に示す反応をよく観察し、できれば自分のことをどう思っているか、周りの人に直接尋ねてみるのだ(三六〇度評価の効果が高い理由は、相手から直接、多様なフィードバックを得られるからだ)。人にどう思われているかがわかれば、対策の立てようがある。
自分がそれほど立派に思われていないことがわかったなら、他人にどう見られたいかに合わせて、自分の行動を変えればよい。たとえば部下に傲慢で思いやりがないと思われていることを知った上司は、会議になにかと口を挟むのをやめれば、評価を上げることができる。あるいは行動を変える代わりに、自分は会議を有意義なものにするために口を挟むのだと、行動の背後にある考え方を説明するのもいい。自他の認識ギャップを完全になくすことは無理かもしれないが、ギャップを埋めるために打てる手はたくさんあるのだ。
わたしたちは自分の決定権が脅かされそうな気配を感じると、反射的に拒否反応を示すことが多い。わずかでも決定権を放棄すれば、やがてロボット同然になってしまうのではないかという恐ればあるからだ。この不安はあながちいわれのないものではないが、過剰な不安は何も生まない。問題は、わたしたちが選択を理想化しがちなことにあるのかもしれない。選択をあまりにも偶像化し、全てを自分の意思で決めることができてあたりまえと考えているのだ。もしかしたら、自分の価値観を脅かすような影響と、基本的に無害な影響とに分けて考えた方がいいのかもしれない。そうすれば、自分の理性のプロセスを意識的に分析して、有害な影響に少しは対抗することができる。
“ジュリー・ジレンマ”が教えてくれたように、ジュリーから生命維持装置を外すことを、医師が医学的に望ましい選択肢として提示したとき、選択者は、医師が意向を表明せず、ただ選択肢を提示したときほど、自分の決断に苦しめられなかった。わたしたちは、難しい決断の負担を軽減しようとして、権限や専門知識を持つ人たちに頼ることが多い。苦境に立たされたとき、自分が正しい方向に進んでいると太鼓判を押してくれる人がいれば、たとえ現実の結果が変わらなくても、苦しみは大いに軽くなる。わたしたちの文化では、選択の概念が、尊厳と主体性の美徳と、きわめて密接に結びついている。そのためだれからも、たとえそれが退行性脳疾患に苦しむ人であっても、選択の権利を剥奪すべきでないという強い意識が働いて、肉体的健康への配慮さえ、どこかに押しやってしまうことがある。その対処方法の一つが、ケアの最も厄介な側面を、医療専門家に任せることだ。息子や娘、夫が車のキーを隠す勇気がないなら、「運転はおやめなさい」という意思の一言が、祖母の運転免許証を返還するきっかけを与えてくれる。こうした難しい決断に限って言えば、選択の権利を行使するには、外部から何らかの助けが必要に思われる。
人が保護と世話を完全に人に頼るのは、幼児期と高齢期だが、自立を完全な依存の状態に変えるのは、老年だけだ。わたしたちは介護者になることで、選択にまつわる精神的負担を、他人の分まで引き受けることになる。もちろん、いつだって愛するものたちの幸せを望んではいるが、生活の質にかかわる、めまいがするような選択の数々には、頭がどうにかなりそうになる。わたしの同僚の女性は、まるで天啓に打たれたように、あることに気がついてから、肩の荷が下りたような気がしたと話していた。
「治療をどうするか何年も悩んでいたある日、突然はっと気がついたの。母は、わたしたちが何をやってもやらなくても、いつかは亡くなるってことに。残酷に聞こえるかもしれないけど、自分が母を治せないこと、母に自主性を戻してあげられないことを理解することは、わたしにとって本当に大切なことだった。そのおかげで、一緒に暮らした最後の数年間は、質の高い生活を二人で送ることだけを考えることができたのよ。完璧な介護者にならなきゃと、そればかりを考えていたあの頃は、とてもそんなことはできなかった」
もしかしたら、わたしたちはみな、完璧になろうとして頑張りすぎずに、愛するものたちとともに過ごす喜びに、もっと目を向けるべきなのかもしれない。
Posted by ブクログ
2009年にコロンビア大学で行われた特別講義の内容を記録したもの。15年も前の内容だが、結構新しい。更新されているのは、その後の実験で、マシュマロテストの再現性が否定されたらしいということくらいか。
重要なレッスン:
好みの問題(絵とか、食べ物とか、音楽とか、どちらを選んでも実質的な損得があまりないようなもの)は、情報を集めて慎重に検討した結果より、あまり何も聞かずに直感で選んだ結果の方が、後で後悔しにくいということ。
つらい選択(家族の生命維持装置を外すなど)は、専門家の推奨があれば、辛さが減る。
一気に負担の大きな行動(積立貯蓄など)を大きな規模で行うよりも、小さな規模で初めて、自動的に負担が漸増すいるような仕組みにしたほうが、最終的な効果は大きい。
Posted by ブクログ
選択が人間に与える影響を様々な実験を引用して教えてくれる。
一見難しそうだが、読み進めるとそうでもない。
専門的な話から、日常の会話で使えそうな話まで幅広く紹介されており、実用性が高い一冊。
時間をかけて何度もじっくり読みたい本。
Posted by ブクログ
行動経済学の本に参照されており読みました。
選択できるのはありがたいが,選択が重荷であることもある。
「何事も"その時点では"最善の選択」ですね。
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評価も高く気になっていたが、すでにダンアリエリーの行動経済学関連の書籍で読んでいたことと重なることも多く、新たな気づきはそれほどなかった。読み物としてはおもしろいと思う。
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選択という行為がかようにも実に奥深いことを知らしめてくれた。特に医療を巡るケースは印象的であった。選択には自由のイメージがあるが、それと同時に諦めきれない後悔を伴うこともあると知る機会になった。
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選択とは何か。
同じ環境でも自分で選択したと認識している時はストレスを感じず、誰かに決められていると思った時はストレスを感じる。また、決めたくないことの場合、興味がうすいとか決められないくらい大きな決断は誰かに決めてもらった方がストレスが減る。
いろいろな事例、立場や環境がありいろいろ考えさせられる。読んでいて面白かった。
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この「選択」について書かれた本が、他の作品と大きく異なるところは、著者の出自だろう。
アメリカのシーク教徒移民の居住地に生まれ、インドの習慣の中で育った彼女が語る「選択」、そして後天的に盲目になった彼女が語る「選択」は、(偏見を露呈したような書き方になってしまうが)自由の国アメリカの文化の中で生まれ育った白人の語る「選択」とは、まったく趣の違うものに感じられる。
いや、僕は別に、何が普通かとか、何が良く何が悪いかという議論をしたいわけでも、もちろんアメリカを否定しているわけでも無い。
ただ、異なる文化を行き来し、異なる文化に生きる人々を愛す彼女だからこそ、そして、見えない世界とかつて見てきた世界を俯瞰し、それらを『言語によって』架橋してきた知性だからこそ、このような作品が書けるのだろうと思うのだ。
作品中に出てきた名言を書き連ねると長くなってしまうので、巻末の解説から養老先生の言葉を抜粋したい。
「目の見えない人は論理に優れていることがある。百聞は一見に如かず、と俗にいうくらいで、目で見るとアッというまに結論が見えてしまう。いわば目は論理を飛び越す。(略)これが著者の最初の本なのに、筋が通ってわかりやすく、よく書けているのは、全盲のせいもあるのかもしれない。」
訳者の仕事も見事で、ほんとうに読みやすく仕上がっていると思う。英語で書かれた論説文を訳したことがある多くの人には、同意してもらえるのではないだろうか。
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様々な実験、事例とともに、わたしたちの「選択」について科学する。
「選択は人生を切りひらく力になる。わたしたちは選択を行い、そして選択自身がわたしたちを形作る。」
パラパラと捲って最初だけ読み、その時はイマイチ感しかなくて何年も積んであった本。時を経て、あるとき本棚で光って見えた。
きっと読むべき時に読んだから良いのでしょう。これもきっと自分にとっては最良の「選択」。
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意思決定に苦手意識があるので、ベストセラーになっていた本書の文庫を見つけて買いました。選択権がないのが当たり前の文化で育った著者が、選択の力やその反面をさまざまな研究からとりまとめて紹介されています。特に、「選択肢が多い方がいいわけではない」というのは当たり前だけど体感していて、だからこそ選択肢を適量に持つことが人生において有益と感じました。
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シーナ・アイエンガー
1969年カナダのトロント生。高校生の時に全盲となる。両親はインドからの移民であり敬虔なシーク教で、シーナ自身も着る物から結婚相手まで宗教に則り全てを決められて過ごしてきたが、学校で「選択」こそアメリカでは力だとする授業に感化され「選択」をテーマにした研究を行う。
行動経済学を中心とした人の行動面の研究がメインで、精神面や心理面での研究例が少なかったのが少し残念か。
選択肢があるということは、裁量権がありコントロールできる状態で自分の力で状況を変えられる、と認識できている様で、精神的には安定し健康にも良い影響を与える。しかし、選択肢が多く選ぶことができる状態が一概に幸福であり有益だとも言えず、自身の専門分野や、くり返すと飽きがくる食事や映画など特定の場合以外は決断力や判断力の低下に繋がる。選択肢は『7±2』の5〜9個に意識して絞るように心がけようと思う。本書とは繋がらないかもしれないが、マルチタスクではなく一つひとつに集中するシングルタスク(エッセンシャル思考)的な方が様々な面でメリットが多いのだな、と。
・「選択」と呼んでいるものは、
自分自身や環境を、自分の力で変える能力のこと。選択するには、まず「自分の力で変えられる」という認識を持たなくてはならない。
・実際に状況をコントロールできるかどうかよりも、「コントロールできる」という認識の方がはるかに大きな意味を持つ
・裁量権、コントロールできる状態、という認識が高いほどストレス度や病気になる確率は低くなった
・個人主義と集団主義
個人主義が強いアメリカでは、従業員に対し裁量権を多く与えた方が生産性がアップするが、集団主義的傾向の日本などアジア圏では、上司に仕事を決められた方がやる気が上がる。
金融不正などがあった時にも、個人主義では個人が犯した罪を責めるのに対し、集団主義では制度や監督システムへの問題点を指摘する傾向。
・人はその他大勢と同じと見られることに我慢できない
わたしたちは、大勢に従うときでさへ自分は例外だと思っている。つまり、意識が高い。