及川茜のレビュー一覧
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「宝をめぐって闘うことは、宝そのものより重要だ」
地球へ向かう輸送艦、老いた艦長から老いた火星総督への伝言、物語はここから始まる。
舞台である「火星と地球」は、火星独立時の事情から、「統制管理と経済支配」という社会構造の相違から、再び戦火を交える直前にあった。その様子は、まるで現代の「社会主義と資本主義」を比喩しているよう。
人の幸せとは何か
自由と保護は相反するのか
そしてこの大きなテーマは、主人公達の葛藤という内面でのテーマとも通じている。
「自由とはなにか」主人公ロレインたちの迷い……。
自由、それは束縛からの離脱、独立。離脱したのちにあるものは、自らが作る新たな束縛?
レイニー医師の言葉
「世界は扇動と盲従の上に築かれている。その原動力は欲望だ」
「幸福とは頭をはっきりさせておくこと。自由とは頭をはっきりさせておけること」
第三章、刻々と迫る変化のなかで繰り広げられる群像劇、そして結末。
SFでありながら、カミュやサン=テグジュペリからの引用を多用した哲学書のようなこの物語。
『流浪蒼穹』この二つの熟語の題名は、「流浪、その果てに蒼穹」と、私は感じた。 -
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『闇に包まれた穴の底には、龍が横たわっているような気がした。(中略)年寄りたちの言うには、そうした穴は龍が冬眠をする穴ぐらだそうで、龍は夏になると穴からはいずり出てきて天空に飛び立ち、冬になると再び穴に舞い戻ってくるという。穴の付近の雪が解ける理由は、龍の吐く息が穴から噴き出してくるせいらしい。ぼくはその言い伝えを知っていたので、穴の底でひとりぼっちにさせられたとき、龍に食われてしまうんじゃないかと怖くてたまらなかった』―『ラシャムジャ/穴の中には雪蓮花が咲いている』
「絶縁」というテーマのアンソロジー。村田沙耶香が作品を寄せているというので読んでみたのだけれど、その他のアジア圏の作家の短篇にも魅せられる。中でもチベット語で創作活動をしているという中国青海省海南チベット族自治州生まれのラシャムジャという作家の作品は、地方出身の主人公による地元の幼馴染の思い出と都会で失望感を味わう自身の境遇の対比の問わず語りなのだが、その対比の中にある地方と都会あるいは自然の中に生きることの多面性と都市化された環境の中の画一的な生活の効率性の対比という構図が多重露出的に描かれ、知らない筈の土地に対する郷愁を呼び起こす。まるで台湾の呉明益の小説かと思わせるような作品で、特に惹かれた。
日本、シンガポール(マレー語)、中国、タイ(南部)、香港(広東語)、中国(チベット語)、ベトナム(南部)、台湾(広東語)、韓国の作家が並ぶのだが、国籍は必ずしも作家の特徴を典型的に表象する訳ではないのだと(アンドレイ・クルコフの「優しい死の天使」の中で国民性と国語の関係について言われていたことを思いだすが)判ったようなことを言いたくなる。それが編んだ人の意図であるのかは定かではないが、母語がその国の標準的な言語である作家と方言を含め母語が標準的言語ではない(もちろん、書き言葉では口語ほどの違いは出ないだろうけれど)作家の立ち位置の違いが、「絶縁」という言葉から連想されるものの違いになって表れているようにも見える。例えば、村田沙耶香の「無」(日本語)や郝景芳の「ポジティブレンガ」(北京語)では絶縁は「個人」の感情から主に湧き上がる「違和感」に由来する。その違和感を感じさせるものの正体は「社会」という捉えどころの無い、あるいは実態の無い相手であり、その実態の無さを二人の作家は空想科学小説風のディストピアとして描く。基本はミヒャエル・エンデの「モモ」あるいはジョージ・オーウェルの「1984」に似た物語。一方で、その国において少数民族と呼ばれる人が用いる言語で書かれたラシャムジャの「穴の中には雪蓮花が咲いている」(チベット語)やアルフィアン・サアットの「妻」(マレー語)が描く絶縁は違和感ではなく「孤立」に由来するものであり、少数派としての視点を通しての社会への隔絶感はあるとは言え、対象は個人の顔をしている。もちろん個人はその社会における多数派という立場を代表していると読めるのだが、社会の制度そのものというよりは立場を利した強者への拒絶感が孤立を生む(生ませる)という構図が共通してあるようにも思う。
そのように要約してみると、ベトナムやタイにおける南北対立の構図や、香港、チベット、台湾における「中央」との対立の(それらは往々にして官民の対立でもある)構図といった社会的課題が「違和感」を「拒絶」へと高める一因となっているのだろうかと考えたりもする。だからと言って日本の村田沙耶香や中国の郝景芳や韓国のチョン・セランが何も社会的課題を描いていない訳ではないが、敢えて言えばこの三人の作家の描く主人公には個人が能動的に「絶縁」をすることの可能性がある一方で、他の作家の描く主人公には「絶縁」を受動的に許容する他選択肢が無いようにも見えるという違いがあると言えばよいだろうか。
もちろん、違和感であろうが、孤立であろうが、向き合っている社会に対する個人の信条との対立という構図に変わりはない訳で、それは突き詰めれば個人の持つ正義感とでも呼べばよいような硬質の言葉に帰結するように思うが、それを声高に叫ぶことを必ずしも善しとしない態度が、不思議なことにどの物語の主人公にも共通して認められる。日本では最近若年層の対人関係におけるとみに「温和」な態度が話題となったりもするが、格差間の弱い側に属しがちな若い世代はどの社会でも同じような傾向にあるということを示しているのだろうか。だとすれば、ポピュリズムに支配されつつある世界の中で「対立」の構図を越えた新しい関係性を産み出す萌芽をそこにみることも出来るのかと思ったりもする。
『私くらいの世代のことを、私は、心の中で「リッチナチュラル世代」と呼んでいる。世代それぞれの生き方や性格の流行を、心の中でこっそり名付けるのが好きだ。私より上の「過剰浪費快楽世代」には理解できない、ぱっとみて楽しそうな浪費や快楽ではないものにお金をかけている世代なので、「ずいぶん地味ねー! 人生楽しまなきゃ!」と九条さんに言われたりしてしまう。一方、「安定志向シンプル世代」からみると、無駄遣いに思えるような高いインテリア家電に手を出したりして、戸川さんに、「え、あれ買ったんですか、すごいですね」と少し引かれてしまったりする』―『村田沙耶香/無』
そしてそんな硬質の思考を紡ぎがちな作品が多い中、やはり村田沙耶香のデフォルメし架空の社会に投影された現代の写し絵は、その一見するとぶっとんだような語り口とは裏腹にいつも通りの世界観を強烈に放っていて、秀逸なのだった。 -
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日本の作家と共作しませんかと問われた韓国の作家チョン・セラン氏が「アジアの若手世代の作家が同じテーマのもと短編を書くアンソロジーはどうか?」と編集部に逆提案。それで編まれたのが本書だとか。
今回のテーマは“絶縁”。人によって、国や地域によって、こんなにもいろんな“絶縁”があり、それぞれが自分だけの「生」に翻弄されながらそれでも生きていくしかないのだな…。誰かに代わってもらうわけにはいかないものね。
作品ごとに作者紹介に加えて訳者解説やあとがきがあるのがうれしい。世界が広がるような一冊でした。テーマを変えたり執筆者の顔ぶれを入れ替えたバージョンも読んでみたい! -
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私が今まで読んできた小説とは違う、新しいもの、知らない感覚に触れた、という読後感があった。これは読書において私がとても大切にしていることだったのでとても嬉しかった。
この作品だけでなく過去のさまざまな作品も、自分の内部や世界を見つめるために実験的に書いているのかもしれない。著者の後記を読んでそう思った。
全てを理解することなんて到底できない「自然」という大きな存在だけれど、個人の物語の中にどうにか落とし込んだときに、彼の場合はこういう物語になるのだろう。表紙や挿絵の神秘的な雰囲気も作用して、読んで見て色んなことを感じ取ることができた、素晴らしい読書体験だった。
ネイチャーライティング(・フィクション)という分野を初めて読んだが、これは新しいブームが私の中で始まるかもしれない。 -
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『「経験の中にないんだ。 前に読んだ哲学書に書いてあった」 阿賢は言った。 「人間は自分の経験の中でしか生きられない。でも今朝の俺たちは自分の経験の中にはいない」 小鉄は自分には永遠に阿賢のようなことは言えないと思った』―『// // アイスシールドの森』
六つ(プロローグも数えれば七つ)の、バラバラだが緩やかに符牒を通して繋がり合う短篇に共通するのは、「クラウドの裂け目」と呼ばれるコンピュータ・ウィルスによる厄介な現象と、そのウィルスから届く鍵を使って、他人の、だが近しい人の、内面にも似たアーカイブを覗くことで振り回される主人公たち。豊かな(複雑で乱雑な)自然の営みの傍らで、空想科学小説に出て来るようなテクノロジー(その架空の技術が現実となる日もそう遠くないのかも知れない)が、登場人物たちの生活に深く関与している社会が描かれる。だがそれは、例えばスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のように乾いた情景ではなく、むしろリドリー・スコットの「ブレード・ランナー」に登場する世界のように湿っている(と書き記して思うのだが、その湿度の違いはアーサー・C・クラークのノベライズされた「2001年宇宙の旅」とフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の間に明確に存在する訳でもないと思う)。湿った世界は有機物の存在臭を強く放つ。
そう、呉明益が好んで描く未来と過去がないまぜとなった世界では何故か雨がよく降る。ひょっとするとそれはギルガメシュ叙事詩にも登場する古代の洪水の物語と同じ高温多雨の世界が再び訪れ得るということの暗示なのか。地質学者はその洪水の記憶を約六千年前をピークとする温暖期(いわゆる縄文海進の時期)に起こった海水準の上昇期の多雨(とその結果として河川の氾濫)の記憶と結びつくものではないかと解釈してみせる。そんな暗示だとしてもそこに作家の単純な環境保護のメッセージが潜んでいる訳ではないとも思う。そのことを裏付けるような呉明益の環境問題に対する中立的とも言える立ち位置について「後記」の中で作家が言及するところがある。作家は自身の作品を「ネイチャーライティング」と位置付け『いわゆるネイチャーライティングが打ち出すのは、ノンフィクションの自然体験や環境倫理をめぐる思弁、さらに作者自身の感情と環境との相互の関わりだ』と結論する。そしてその特質を越える試みが自身の作品作りの芯にあると説明する。目に映る事象を小さな視野の中に収まる世界の事象として解釈し何らかの思弁を語ることはしたくないが、ではその方法はとなると難しい。この作家の書く物語の登場人物は自然の中でしなやかに生きる術に長けた人物が多いが、自然の変化を(あるいは自然のもたらす脅威を)あるがままに受け止める達観も持ち合わせている。この作家の立ち位置もそのようなものなのだろうか。
人類の活動が地球環境に影響を与えることはあるだろうけれど、だからと言って自然を全て制御可能な物理現象と考えることもまた傲慢だろう。オーストラリアのディンゴ、沖縄のマングース、人が浅知恵で自然の複雑系を理解したと思う時、必ず痛いしっぺ返しを喰らう。もちろんそれは、「複眼人」に登場する超越した存在が決して起きつつある事象に手を差し伸べないように、擬人化された「自然」という存在の示威行為の結果という意味ではない。自然とはそのように擬人化された個の存在ではなく、生息数も生存周期も異なる生命群が際限なく繰り返す生存競争。そこに確定的な因果律は存在せず、一過性の事象が積み重なるだけ。しかし、しばしば人は、それを俯瞰し切り取った静止画として見てしまう。もちろん、静止画の中に自然の本質は存在しない。
そんな「複眼人」に連なる系譜の作品である「雨の島」だが、六つの目の「サシバ、ベンガル虎および七人の少年少女」には「歩道橋の魔術師」や「自転車泥棒」にも登場する中華商場が登場する。そこのことから小説の舞台となる時代を推し量って何かを探ろうとするのも野暮な話だけれど、その描かれ方からすればこの物語の時代は現在と余り時間差がないことになる。一方で、前時代的な生活様式にキメラ状に溶け込むガジェットなどは、どんなものかの想像はつきつつも現物として存在しない。ひょっとすると、やはりこれはずっと先の未来の話で、ここで描かれた中華商場は取り壊された筈の建物群を仮想空間世界の中に再構築したもので、全ての登場人物もまたその空間に巣食うアバターに過ぎないのか。そんな妄想をふと読み取って見たくなる。そこまで空想を膨らませずとも、本書には少なからず謎が残る。例えば、プロローグに登場する胖胖[パンパン]は、叔父さんことサラッサの買った鷹なのか。そして六つの物語を書いたのは作家の妻を亡くした男ではないのか。七人の少年少女たちが各々どうやって三千元を稼いだのか。しかし、それらも所詮、互いに関わり合いながらも、どちらが原因でどちらが結果とは言えない、混ざり合った色からなる物語なのだということを深々[しんしん]と理解する。 -
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明晰で硬質な言葉によって書き留められた自然描写のなんと素晴らしいことだろう。
自然は、うちに秘めた合理性と、完璧な精緻さによって僕等をいつだって驚嘆させる。
顕微鏡が捉えたかのような完璧さを、柔らかく滲ませて、水彩絵の具を何層も重ねていったかのように透かして見える奥行きを与えるのは、ひっそりと降る雨だけではない。
細密画には書き込めない、網膜に映らないものが自然の中には確かにあるのだ。
季節や天候の移ろいに、動植物の営みに、人は意味や徴しを見いだし、記憶や自己を重ねてゆく。つまりそれは、世界に物語りを付与するということ。
そうやって人は、目に映るあるがままの自然から、己のためだけに差し出された特別な美しさを受け取ることになるのだ。
それはまた、己が歩む道標を見つけるということ。
泥土を喰む雨虫に導かれて辿りついた西の果ての地で、ルーツである台湾の山々に想いを馳せる。
かつては唯一の言葉だった鳥のさえずりを、聴力を失ったのちの世界で手話という新しく獲得した言語 ー それは発せられることも書かれることもない詩のようだ ー で伝える。
欠落を抱えて人々は自然の中へと深く足を踏み入れてゆく。揺れる巨樹の樹冠。雲海が湧き上がる高山。煌めく陽光が瞬く間に暴風雨へと変わる海洋。
“昨日は過ぎ去ったが、明日がくるとは限らない”場所で、失ったものを探し求めるかのように。
“クラウドの裂け目”が本当に意味するところは、僕にはわからない。美しくあれ醜くあれ、受け取ったkeyで開けられるのは他者の記憶であり、他者の目に映った自分だ。
keyは旅の始まりの扉を開けるに過ぎない。扉を抜けて人は、自然の中に自分自身で己を見つけるのだろう。
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Posted by ブクログ
草や木、海や山、鳥や獣や昆虫に混じって、人が物語を奏でる。
背景ではなく物語のkeyとして……
六つの中短編と挿し絵が一冊の物語としてまとまる。
これは、「ネイチャーライディング(自然書写)とフィクションの融合」だそうです。
でてくる自然は台湾由来のものを示すが、登場人物の名前は一様に漢字表記ではない。これも台湾という土地の歴史が物語ること。
少し現実に引き戻される事柄として「クラウドの裂け目」「鍵」がどの物語にも登場する。
主人公をもう一つ不思議な事へ誘うkeyとなる。
……正直、なんだか安易で、よくわからないかな〜
お気に入りの作者だけに、やや不満。