中村高康のレビュー一覧
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本書は、能力主義について、その「再帰性」という観点から、社会全体を分析対象にして論じている。国内外における近年の大学や就職に係る能力観の議論は、やや食傷気味の感があったが、本書はアプローチの方法も結論も大きく異なる。能力主義は再帰的な性格を帯びるものであることを、明瞭に示したこの仕事はとても重要である。
第1章では、「『新しい能力』であるかのように議論しているものは、実はどんなコンテクストでも大なり小なり求められる陳腐な、ある意味最初から分かり切った能力にすぎない」(p.46)と早々に断じた。能力観が変わってきた、という固定観念に対処するために、これまでの議論から「最大公約数的な陳腐な能力」 -
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この本は、個人が持ち、磨いたり評価したりできると信じられている「能力」という概念が、実はそれほど明確なものではないことを示している。
特に、近年新しい能力として注目されているコミュニケーション力や課題解決力は、それほど目新しい概念でなく、今も昔も変わりなく必要とされてきたものであると指摘する。
「メリトクラシーの再規性」
この本が焦点を当てるのは、能力そのものの新しさではなく、近年高まってきている「新しい能力を求めなければならない」という議論の論拠である。
その根拠は、複数の命題を証明する形で説明される。キーとなるコンセプトは、「メリトクラシーの再帰性」だ。
- メリトクラシーは、「能 -
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分断、分断ということが、実際のところはどうなのだろうか?ハイ・モダニティにおける貨幣経済や専門家システムが抽象度を上げ、ローカルコミュニティへの帰属を薄いものにしてきたというギデンズの主張も分かりやすく、「学力主義」もその抽象性からこの分断を生み出す要因の議論に含んでも良さそうだが、そもそもそこまで人は孤立し、孤独を感じているのだろうか。
不登校や自死者の増加を分断による証左として挙げるのは少しムリがあるような気がしてきたな。
しかし熾烈な生存競争が、他者を敵として認識させるという力動を作り出すというのはある気がする。となると、分断という言葉は、その内的な敵視性が投影されている、すなわち分 -
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『現場で使える教育社会学』を教科書に、各章のメイントピックのサマリー、追加インプットを経て、各グループのやり取りと授業後のレポートが一冊の新書としてまとめられている。
まずこの形式が面白いなと思って手を取った。
投げかけられた問いを自分も考えながら、こういうバックグラウンドを持つ人はこんなふうに考えるんだな、なんて眺めていると、一部だけではなく、取り上げられなかった人のレポートも読みたくなった。
「知って」「想像する」=「配慮する」ことの大切さを語る人が多かったが、率直な想いを語れる人や言葉にならない言葉を必死に紡ごうとする学生がいることが心強く思えた。
想像するにはきっと原体験が必要 -
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学生の感想パートを通読すると、何とはなく、いかにも東大生だったらこう答えるよな、という臭みが目立つような気がする。といっても、きれいに視点や論点を敷きならべているので、標準的な教材としての価値はあるのだろう。
中学校、高校の部活動は、教科学習以外の軸で生徒の自己実現のチャンスを用意するとか、生きていれば避けて通ることができない社会の「決まり事」を体得するための複線教育という意味合いは、たぶんあるかもしれない。しかし、パワハラ、いじめを、根っこのところで大なり小なり肯定するような、体育会系の気質を再生産し続けている元凶でないか、そしてその毒素を現実のオトナ世界に投射し続けているのではないのか、と -
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人間の能力は、基本的に測定不能であり、社会で必用とされる能力の変遷に伴い、教育内容を変えるべきということを「メリトクラシーの再帰性」という言葉で説明した。
◆Aiの発展で単なる暗記に偏った勉強だとAiに仕事奪われるよ→マークシートによるセンター試験(共通一次)の廃止、
◆記述式の共通テストへ、英語は読書きメイン→読書きだけでくヒアリング・リスニングも、
と言った現象は、まさにメリトクラシーの再帰性の高まりだろう。
しかし、早急(拙速?)な改革が行われつつあるという印象は否めない。
記述式テストは採点の難しさ、採点者による評点のバラツキを発生させ、その調整には多大なコスト時間がかかる -
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タイトルは著者が理論的にインスパイアされたギデンズ『暴走する世界』にちなんだもの。現在の「教育改革」を席捲する「コンピテンシー」論を理解する補助線として。
著者の議論の要諦は、21世紀に入って以降の日本で次々と提案されている「新しい能力」論は、後期近代における「メリトクラシーの再帰性」のあらわれとしての「能力不安」言説の反映に他ならず、基本的な論点は過去の反復でしかない、というもの。その点は明快だし、説得力もあるのだが、次々と簇生する「新しい能力」論をギデンズ的な「嗜癖」(=一時的な不安の置き換えとしてのaddiction)と見なしていることには違和を感じる。
というのも、日本におけ -
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なぜ新しい能力が求められるのか?コミュニケーション能力、非認知能力がなぜこんなにも叫ばれているのか、教育改革がなぜ成功しないのかということをメリトクラシーの再帰性という現象から説明している。
メリトクラシーの再帰性とは、メリトクラシー(業績主義)が常に自己反省的な性質をもっているということである。必要な能力は定義することができないという性質上どんな能力を想定してもそれは批判可能性を秘めており、それに対する能力が提示される。
現代において教育はどんなあり方であるべきなのだろうか。
相対主義が蔓延する中で、学校が担う義務は何か。
反知性主義をどう考えればいいのだろうか。