【感想・ネタバレ】暴走する能力主義 ──教育と現代社会の病理のレビュー

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Posted by ブクログ

本書は、能力主義について、その「再帰性」という観点から、社会全体を分析対象にして論じている。国内外における近年の大学や就職に係る能力観の議論は、やや食傷気味の感があったが、本書はアプローチの方法も結論も大きく異なる。能力主義は再帰的な性格を帯びるものであることを、明瞭に示したこの仕事はとても重要である。

第1章では、「『新しい能力』であるかのように議論しているものは、実はどんなコンテクストでも大なり小なり求められる陳腐な、ある意味最初から分かり切った能力にすぎない」(p.46)と早々に断じた。能力観が変わってきた、という固定観念に対処するために、これまでの議論から「最大公約数的な陳腐な能力」を毎回定義し直してきている、という見方は、非常にわかりやすかった。

また個人的には、この「再帰性」という言葉の説明力の大きさに気づかせてもらったことは有益だった。再帰性とは、「常に反省的に問い直され、批判される性質がはじめから組み込まれている」(p.51)状態を指すとここでは解した。再帰的に、能力に関する議論を社会が求めていることを実証するために、著者は以下の5つの命題を設定してる。

命題1 いかなる抽象的能力も、厳密には測定することができない 【2章】
命題2 地位達成や教育選抜において問題化する能力は社会的に構成される 【3章】
命題3 メリトクラシーは反省的に問い直され、批判される性質をはじめから持っている(メリトクラシーの再帰性) 【4章】
命題4 後期近代ではメリトクラシーの再帰性はこれまで以上に高まる 【5章】
命題5 現代社会における「新しい能力」をめぐる論議は、メリトクラシーの再帰性の高まりを示す現象である 【5章】

この議論の立て付けは参考になった。上の「能力」や「メリトクラシー」を、同じくらい議論が重ねらている「教養」に置き換えた上で検討すると、よい仮説が導けるのではないか。またそれらは、近年の大学教育における議論に通ずることがあるのではないか。本書はこうした点に気づかせてくれた論稿だった。211頁に示された再帰的メリトクラシー理論の図表は秀逸。

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2018年09月09日

Posted by ブクログ

新しく求められる能力が求められる社会的な背景が詳細に説明されている。頭が冷める。

特に能力をめぐる議論は英語教育関係者として読んでおいたほうが良いと思った。

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2018年08月03日

Posted by ブクログ

本年度一番のヒットの新書であった。再帰性によって問い直し続けられる能力について、論理的かつ非常にわかりやすく書かれている。

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2018年07月27日

Posted by ブクログ

人間の能力は、基本的に測定不能であり、社会で必用とされる能力の変遷に伴い、教育内容を変えるべきということを「メリトクラシーの再帰性」という言葉で説明した。
◆Aiの発展で単なる暗記に偏った勉強だとAiに仕事奪われるよ→マークシートによるセンター試験(共通一次)の廃止、
◆記述式の共通テストへ、英語は読書きメイン→読書きだけでくヒアリング・リスニングも、
      と言った現象は、まさにメリトクラシーの再帰性の高まりだろう。
しかし、早急(拙速?)な改革が行われつつあるという印象は否めない。
記述式テストは採点の難しさ、採点者による評点のバラツキを発生させ、その調整には多大なコスト時間がかかるし、藤原正彦の言っているように英語が流暢に操れる人間は全体の2-3%もいれば十分だろう。("1に国語、2に国語、3.4がなくて5に数学"と藤原氏は言っている)
現在の教育改革(メリトクラシーの再帰性の高まり)は、何を生み出すのか? 全く予測できないが、近い将来に、また再修正されることになるだろうという気がするねぇ。
(あまり批判的なことを言っていると代案だしてみろと言われるので、ここら辺でやめておこう。)、

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2020年11月23日

Posted by ブクログ

 タイトルは著者が理論的にインスパイアされたギデンズ『暴走する世界』にちなんだもの。現在の「教育改革」を席捲する「コンピテンシー」論を理解する補助線として。

 著者の議論の要諦は、21世紀に入って以降の日本で次々と提案されている「新しい能力」論は、後期近代における「メリトクラシーの再帰性」のあらわれとしての「能力不安」言説の反映に他ならず、基本的な論点は過去の反復でしかない、というもの。その点は明快だし、説得力もあるのだが、次々と簇生する「新しい能力」論をギデンズ的な「嗜癖」(=一時的な不安の置き換えとしてのaddiction)と見なしていることには違和を感じる。

 というのも、日本における「新しい能力」論は、まちがいなく新自由主義的な人的資本論というイデオロギーと、そこに焦点化することで駆動する教育投資市場の拡大という問題がある。つまり、本書の枠組みで言うなら、それぞれの「新しい能力」論が、誰の・どんな欲望に応じて・どのように構成されてきたかが決定的に重要ではないか。「嗜癖」という理解は、問題を過度に一般化する(それは現代社会に通有の病理なのである)か、過度に個人化する(それはイデオロギーに目を曇らされている個人の問題である)おそれなしとしない。

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2020年02月22日

Posted by ブクログ

非常に読みやすい。スルスル読める。

階級、学歴の次に基準となる「新しい何か」は見つかるのだろうか。メリトクラシーを俯瞰で見たときに今、学校教育で行うべきはなんなのだろう。「自分の中の答え」みたいなものがまた遠くにいった気がした。

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2019年12月25日

Posted by ブクログ

なぜ新しい能力が求められるのか?コミュニケーション能力、非認知能力がなぜこんなにも叫ばれているのか、教育改革がなぜ成功しないのかということをメリトクラシーの再帰性という現象から説明している。
メリトクラシーの再帰性とは、メリトクラシー(業績主義)が常に自己反省的な性質をもっているということである。必要な能力は定義することができないという性質上どんな能力を想定してもそれは批判可能性を秘めており、それに対する能力が提示される。
現代において教育はどんなあり方であるべきなのだろうか。
相対主義が蔓延する中で、学校が担う義務は何か。
反知性主義をどう考えればいいのだろうか。

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2019年03月12日

Posted by ブクログ

確かに、「これからの時代に必要な能力」みたいなものってめっちゃ抽象的でありふれてることが多いと納得してしまった。

考えてみると、プログラミング教育みたいなものも、プログラマーである自分からしてみてもなんでやってるのかよく分からないので、本で説明されている、再帰性の現れなのかもしれないと思った。

近代という時間軸で説明が丁寧になされており、自分でも普段目にする、「新しい」何かや、世の中の自己啓発圧の起源がよく分かった。面白かった。

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2023年02月26日

Posted by ブクログ

構造は非常にわかりやすく、①能力を厳密に測定することは難しい、②身分が属性によって規定されない、オープンな社会では何らか能力により身分の配分をせねばならず、社会的要請として暫定的な能力の尺度を決めねばならない、③上記により、測定される能力には常に反省すべき点が必ず含まれる(メリトクラシーの再帰性)、④情報化社会の中で相対比較を壮大にできるようになったことで、自分の身分を決める能力の尺度の不正確性や相対の可視化により、能力不安に陥る、⑤これらが、より平等で能力を重視する社会では増幅していく。この構造はその通りだが、人権を根本原理とする、現代的な平等社会においては、正確だから決められない、では機能せず、社会的にキメの部分が必要なはずで、それが常に反省的に新しい能力を求める流れになったとして、新しくないからそれが問題、とは思えない。新しいことに価値があるわけではなく、社会や人がそれによって学習され、成果を出せるか、が重要であり、文脈依存性が高いとはいえ、基礎的なコンピテンシーの尺度は必要だと思う。

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2022年12月27日

Posted by ブクログ

ネタバレ

<目次>
まえがき
第1章   現代は「新しい能力」が求められる時代か?
第2章   能力を測る~未完のプロジェクト
第3章   能力は社会が定義する~能力の社会学・再考
第4章   能力は問われ続ける~メリトクラシーの再帰性
第5章   能力をめぐる社会の変容
第6章   結論:現代の能力論と向き合うために

<内容>
著者は、「新しい学力観」には与していない。というか、「新しい学力観」は「新しくない」ことを証明している。また、「コミュニケーション能力」や「協調性」が公平に測れるはずがないともいう。それは基準を決めるのが、社会だからだという。
ここまではついてこれた。しかし、第4章は全く分からなかった。もう少しうまく説明してほしかった。

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2018年07月21日

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