檜垣立哉のレビュー一覧
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ネタバレ生きるために、生きるものを食べること。
生きつづけることは、この矛盾をのみこむことである。
ただ、そののみこみ方はさまざまだ。
自分が動物の肉を食べないようになってから、
『食べること』について考える事が多かったので、
多方面からの『食』についての考察が本当に面白かった。ただ、哲学というだけあって、自分の気持ちにゆとりがある時に読まないと、考え過ぎてしまって疲れる…かも。
というわけで、面白かったけど消化できていないので、もう一度、ゆっくり読みたい本になった。
あと宮沢賢治の作品を、ちゃんと読んでみたくなった。
特に『なめとこ山の熊』での食べる側と食べられる側の対峙が興味深かった。 -
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・何に対してであれ反対する書物は、いかなるものも重要ではない。何か新しいものに〈賛成する〉書物だけが大切である。それが新しいものを生みだすことができる。(「構造主義はなぜそう呼ばれるのか」)
・デリダの戦略とは、記号や言語、あるいはそれらを媒介とした解釈という仕方で世界に切り込むときに、結局は踏み入らざるを得ない方向ではないかと思われる。言語や記号によって世界を論じていくときに、世界は一義的に現れることはない。なぜならば、言語にはさまざまな解釈可能性が含まれるからだ。だから世界は、いつも複数の読まれかたを、どうしようもなくはらむからだ。そこでは、解釈を決定する現在はつねに不在であり、解釈の内 -
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「子供とは誰にとって何なのか」という、根源的な問いと向き合う。私たちが“自分”と呼ぶものの成立条件を揺さぶる本であり、読み進めるほどに、身体と他者の境界線が鮮明になる一方で、その境界をめぐる不確かさも浮かび上がる。子供は全くの他人に比べれば、私と大部分の利害を共有する。だが、それは自らの遺伝子を継承した子供だからなのか、家族という設定ゆえか、共同生活をしているからか。
私にとって「私」とは、まず身体を媒介に成立する領域だ。怪我をして痛むのは“私”であり、恥ずかしさを感じるのも、お腹が空いて苛立つのも、“私”の身体が経験している出来事だ。身体という輪郭により、私は無条件に「自己」を認識する。そ -
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久しぶりに哲学書に手を出してみた。(笑)
最近長女の性格、発言、容姿などが私に似ていると旦那含めあちこちで言われるようになったが、
なんだかそうたびたび言われることに対して心の中でふつふつと苛立つものがあった。
「長女は長女であって一人の人間で、私は私という人間である」
と自分自身は思っているものの、
なぜそんなにも周りは私と長女を同類化させようとするのか。
他にももやもやしていたところはあって、
そんなもやもやしていたところに見つけたのがこの本。
「子供の哲学」とあるが、
生殖し、妊娠し、生まれてきたいのちに対しての「哲学」である。
(なのでここでは「子ども」表記でなく「子供」表記で -
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[ 内容 ]
いま必要な哲学とは何か。
「問いが解けない」という事態をどうとらえるか。
生命科学の時代に対応するドゥルーズ哲学の核心をクリアに描く。
[ 目次 ]
1 はじめに―解けない問いがあらわになってくること(哲学とは何か;ドゥルーズと哲学;いまという時代 ほか)
2 世界とは解けない問いである ―ドゥルーズの〈哲学〉素描(世界とは卵(ラン)である
生成する流れの論理
異質的な連続性 ほか)
3 「私」ではない「個体」が生きること―結論に代えて(ドゥルーズの倫理;個体と生;個体には固有性も中心もない ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆