檜垣立哉のレビュー一覧

  • ドゥルーズ入門

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    ドゥルーズがいかにベルクソンに影響を受けたかが丁寧に整理されている。一方で新書ながらも用語が多く、入門書とはいえない。ドゥルーズを改めて別の本で読み直して再度挑戦したい。新書にする意味はあるのかしらと思いました。

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    2022年02月19日
  • 食べることの哲学

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    食べることは本質的に自己の中に他者を取り入れる汚染である、という観点は今まで自分の中になかったので面白く感じた。Pちゃんの話、イルカ漁の話などニュースでは見つつもあまり詳しく知らなかったことについての詳細な解説もあり全体としてわかりやすかった。ただ、拒食と絶食に関してはピンと来ない部分があった。

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    2021年05月03日
  • ドゥルーズ 解けない問いを生きる

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    たいへんかっこいい。こういうのをバリバリやれるのもいいななど思った。小伝に具体的な伝記的な話が全くないのだが、いまは浩瀚な伝記も出ていてちょっとみてみようかと思う。文庫化されるとのことだが、15年以上昔の本なんだ。お写真もだいぶお若い。

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    2019年10月31日
  • ドゥルーズ入門

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    第3章までは何とかついていったものの、その後は集中力を失った。著者がNHK出版から出した入門書で理解できたこと以上のことは、あまりわからなかった。

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    2018年03月23日
  • 西田幾多郎の生命哲学

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    ベルクソンやドゥルーズの生命の哲学を参照軸に、西田幾多郎の思想を読み解く試み。

    西田の「純粋経験」はあくまで現在の経験だが、ベルクソンの「純粋持続」と同様、異質的な連続性である一連の流れをも意味している。したがって、純粋経験は潜在的な体系であり、みずからを無限に発展させてゆく動的な全体だと理解しなければならない。

    だが、著者はこうした説明には一つの困難がつきまとうことを指摘する。それは、ほんらい現実化されたものとしては描けないはずの「全体」を、「現在」というあり方を拡張することで、あたかも一つのものとして描けるように想定してしまっているという問題だ。

    西田は、無限に発展してゆく「自覚」の働きや、関係性の階乗化である「一般者」の体系といったアイディアによって、「全体」を記述することが孕んでいる上のアポリアを回避しようとした。だが、「全体」の側から語る彼の立場は「発出論」に陥るという田辺元の批判によって、戦略のみなおしを迫られることになった。

    著者は、田辺の批判を受けた後の西田の議論が、「絶対無」を現在の彼方に設定するのではなく、現在の内にそれを内から崩す否定的契機として介入してくるものとして描きなおすものだったと主張する。「永遠の今」における「死」の契機や、「個物」についての語り方の変更などが、そうした見方の論拠とされている。

    ベルクソンの「現在」とその基盤となる「過去」に加えて、ドゥルーズは「蝶番のはずれた時間」という第三の時間を導入する。これは、現在の内に「亀裂」をもたらし、新たなものの生成を可能にする「未来」の時間だ。こうした時間論が、著者の西田解釈の下敷きになっている。

    一つの観点からの西田解釈としてはおもしろい。

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    2014年03月20日
  • 西田幾多郎の生命哲学

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    水野先生の課題図書

    まさか西田幾太郎さんの哲学を読むことになろうとは思わなかった。いつも水野先生には不意を衝かれる形になる。でもこれが自分の趣味嗜好から、私の脳の癖から抜け出す機会を作って戴けることになるのだからありがたい。それは水野先生に限らないだろう。すべて誰かに薦めて戴ける本はきっとそういう効果を私に与えてくれている。

    著者の檜垣立哉さんが『哲学的直観 ほか (中公クラシックス) 』でベルクソンさんの解りやすい解説を書かれていたと水野先生に話していたので、きっとこの本を選んでいただいたのだろう。

    養老さんが哲学者本人の著作を読むとその人自身の脳の癖があるからわかりにくくて、凡人は彼の研究者によって解説された本を読んだほうが理解しやすい…みたいなことを書かれていたように檜垣さんの解説は解りやすいように思う。おそらく、もし私が西田さんの著作を読んだら何がなんだかわからず、さっぱりお手上げだっただろう。

    だから、この本は西田さんの哲学を物語にした本である。凡人には物語しかわからない。

    ポパーのいう世界1を世界2を通して世界3にするのが哲学のようである。おそらくは科学もそうである。
    世界1は物質と現象の世界。これは人間には手の施しようのないあるがままの世界である。世界2は哲学者本人にしかわかり得ない世界。哲学者の脳はそのものそれ一つしかなくどこにも繋がってはいない。ある意味閉じきっている。それを開いていくのが文字や文章という言葉による表現なわけだけれども、もしそれによってみんなが共有できる、まぁ…上手くして「普遍的」なものになれば、それが世界3になるかも知れない。

    哲学は物質と現象を素材とする。それを自分の脳の中で自分しかわからない仕方で考え抜いて表現する。それがみんなに伝わればいいが、大抵はあまり伝わることなく「変な人」で終わる。まぁ、変であるのが当たり前。だってその人が頭の中で考え出したことなんて普通は他の人にはわからないんだから。(普通にわかることはもう既にわかるとされていることでしかない。それは社会にとって都合のいい物語である。それがわかるということは既にして誰かに支配されているということを意味している。)それでも、考えたいから考えるのであってそれは哲学者の勝手である。だれも文句をいう筋合いのものではない。しかも時には後からそれを研究する人もいて何かの役に立つこともあるのである。

    それにしても、巻末に解説にかえて檜垣さんと小泉義之さんの対談があるのだが、これが凄い!
    小泉さんの仰る哲学はまるで戦闘である。喧嘩腰!どうも哲学は戦うことのようである。そりゃそうだろう。「俺は自分の頭で考える。お前らに支配なんかされないぞ!」なんだから。

    いや~哲学はおもしろい。頑張れ!哲学者。



    Mahalo

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    2013年07月29日
  • 生と権力の哲学

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    フーコーは「正義」に依拠する思考を徹底的に拒絶する。そうした「革命」の夢想が、実は管理=コントロール型権力が発揮される、もっとも格好の実例ですらあることを、理論的にも歴史的にも確認しようとする。フーコーの<生権力>論の一つの核は、排除されたもののルサンチマンに支えられた転覆の思考が、実際には権力の補完物や相補物でしかありえないという、この時代の政治的主張の困難さをどこまでも問いつめていくことになる。p32

    正しい社会をつくるために、誰もが監視の一機構になり、誰もが権力の一翼を担い、誰もが誰かくぉ売り飛ばす。p106

    生命と衝動によって見いだされる性という領域こそが、権力の攻略点であり、倫理や政治の焦点になることを、フーコーは示している。0111

    「抵抗」とは「人間」によって行われるものではない。「人間」の視線に依拠した何かを述べたとしても、それは「人間」であることを支える<生権力>に絡めとられるだけである。そうではなく、われわれ自らが「人間」の「外」の「力」である可能性を秘めていることを、徹底的に見いださなければならない。端的に「人間」の「外」にあるものが「生命」である。それはわれわれにとって異様な面持ちにおいて現れるかもしれない。そこでは、物質としての生命そのものが、「人間」という枠組みの「外」で、多型的な可能性を生みだすのである。情報と生命のテクノロジーは、われわれにとって、こうした「生命」の力をとりだす契機でありうる。生権力的なものに「抵抗」することとは、こうした、「非=人間」としての自己を見いだすことにおいて、積極的に描かれるべきではないのか。p157

    「法」とは、通常では「適法」か「違法」かの判断を与えるものである。だがそれは、あくまでも「法」の「内部」における議論にすぎない。あるいは「法」が成立した「内部」で描かれる「主権」に通用する議論にすぎない。そうした事態が覆されるのは、「法」が想定しない「例外」や、「法」そのものの「外」についての判断を下さなければならないときである。「法」はつねに、そうした「法」の「外」に触れている(単純にいえば、「法」は革命によって組み替えられうる)。p184

    アガンベンは、「法」の「外部」を、たんなる「否定性」として放置するのではない。そこには生命という内実を見いだしながら、「法」を思考しなおそうとするのである。生とはまさに「例外状態」を引き起こすものである。「剥き出しの生」は「法」の「外部」でありながら、「法」に絶対的に現前してしまう。p189

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    2009年10月04日
  • ドゥルーズ入門

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    先端諸科学が描きだす、統一的でない諸学のメタ構造を考える。何かの経験や位相や時代に統合されえない、メタ的な場所を描きだす。これが、ドゥルーズやその世代の思想家に課されたテーマであったといえる。そのために、テクスト自身の、その読みの精度を高めていく。それはまさに、「超越論的経験論」を考えるという、そもそも異種結合のようなアイデアをもって繰り広げられるドゥルーズの記述の根本にあるものである。p43

    ベルクソンの読解においては、何がポイントであったのか。いうまでもなく、潜在的(ヴィルチュエル)なものが、「生命」という主題に深く結びつけられたことが捉えられるべきである。この二つのテーマを発展させることにおいて、ドゥルーズはまさにベルクソンの最良の後継者である。p44

    「可能と実在」の記述に見られるように、流れにおいて、何か新たなものが創造されることが問題なのである。たとえば新しい文学が生み出され、新たな潮流が形成されたとする。するとひとは、そうした新しいものは、過去に「可能性」に埋め込まれていたもので、そのひとつが実現されたのだと考えやすい。しかしそうした思考において、可能性とは、すでに実現したものを過去に投影することから成り立つものでしかない。ベルクソンはこれを、可能性にまつわる「回顧的」な錯覚と見なしている。つまり可能性とは、すでに過ぎてしまったことを後ろ向きに見直すことによって形成されるだけのものなのである。だがそれは、流れる時間を、流れた後で、空間化して捉えているにすぎない。p47

    生命であるものは、それがもつ潜在性によって、まさに未来に開かれている。それは本質的に開かれているのである。未決定性とは、決してネガティヴなことではない。そこでの未決定性は中途半端であることを意味しない。未決定性であることは、何か新しいものになりえ、そうした意味において、未来という時間を可能にする、そうしたポジティヴな存在であるということである。生命とは、そうした点において、潜在性の範型なのである。p54

    何を措いてもドゥルーズが自らの哲学の形成において、ベルクソンを乗り越える先に見いだすものは、ニーチェとスピノザなのである。ベルクソンの純粋記憶論の彼方にはニーチェの永劫回帰が置かれている。ベルクソン的な差異化−分化システムの根底には、ベルクソン的な差異の発想では視野に収められず、なおかつそれを「超越論的」に支えていくとされる位相である。こうした意味で、ニーチェとスピノザへの賞賛は、まさに手放しであり、いわばドゥルーズの思考が導かれていく再基底部を露呈されるものになっている。p56

    「内在」とは、逆説的であるのだが、一切の「超越」を除外した上で見いだされる「超越論的」な領野である。p58

    ドゥルーズがニーチェとスピノザから獲得したものは、ヒエラルキーのない、そしてそこで働く否定性の影もない、自己肯定的な空間の開示である。それは、頑迷に自己中心性を確保した上で、それを開き直って肯定するものではない。自己が自己であることそのものを、自己中心性なく肯定することである。p61

    自己は孤立した空間の内部に、自己だけが住まう領域として存在するのではない。だからそこでは、自己がありながら自己中心性がない。あるいは自己を何かの基準とともに、そこに到達しえないルサンチマンによって追求する必要がない。p62

    こうした自己肯定的な空間が「一義性」と名指されるものそのものである。「一義性」とは、後期のドゥルーズでは、「平滑空間」として、あるいは「リゾーム」として描かれるものであるのだが、それは『差異と反復』の概念装置において、何よりもヒエラルキーなき空間として押さえられている。一義性とは、階層性のない、バロック的多孔空間のことである。(中略) それはスピノザ的な意味での「内在」であり、徹底した「内在」への内属なのである。最も逆説的なことであるが、それこそが徹底した「外」を形成する。何の基準にも一致しないかぎりでの「外」に「内在」していること。p62

    このように見いだされた一義性や内在性の空間とは、それ自身何であるのか。それはまさに、「自然」という名で呼ばれているもおではないのか。自然であること、自然のなかに存在しつづけること、それが、超越的な一神教の発想を根底的に拒絶する、肯定的な思考の本性である。その点でスピノザが、無神論的な唯物論者といわれたこと、ニーチェの永劫回帰が一種の物理学的な思考と一致する相をもっていること、それは繋がりをもつだろう。唯物的で、物質的で、しかしそれ自身が時間的な開かれのなかでさまざまなものに変化する自然。こうした自然の肯定性をドゥルーズは世界への「信」と呼んでもいる。世界があることを信じること。それはヒエラルキー的に設定される超越を見いだすのではなく、内在的で唯物的なこの生を、そのままに受け入れることを意味している。p63


    ベルクソンにとって、現在とはそれ自身が流れの一断片にすぎないようないのだから、そうした流れそのものの方が「実在する」。そのような時間的な流れの過去になった部分には、ベルクソンにとって「記憶」という名が与えられている。記憶が流れの潜在性を形成し、その尖端が現在であるということになる。ここで「実在」に関する視覚の逆転が生じてしまうのである。ベルクソンにとっては、現在的なものが実在するというよりも、記憶こそが「潜在的」に実在する。そしてその帰結として記憶は、それが現在であって、ついでに記憶になるという二次的な仕方で形成されるのではなく、記憶そのものが、現在であることと同時に成立するのである。すべての記憶は現在と同時存在であり、なおかつ記憶の方が優先的に実在をなしている。p90

    「問いは、命令なのである。あるいはむしろ、問いは、その問いが生じてくる命令と、問題との関係を表現しているのである・・・・問題つまり理念は、問いとして提示される偶発事あるいは出来事としての命令から流出してくる」p105

    「パラドックスこそが哲学のパトスあるいは情念である」p113

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    2009年10月04日
  • ドゥルーズ 解けない問いを生きる

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    微妙な本。ドゥルーズのアウトラインというか、イメージとしてのドゥルーズを描くことだけを目指している本なので、カテゴリーとしては入門書なのだけれど、これ一冊では不十分。
    ただし、イメージだけを描こうとする試みは間違っていないし、副題の「解けない問いを生きる」というのもまさにドゥルーズ的で良いと思う。

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    2009年10月04日