ベルクソンやドゥルーズの生命の哲学を参照軸に、西田幾多郎の思想を読み解く試み。
西田の「純粋経験」はあくまで現在の経験だが、ベルクソンの「純粋持続」と同様、異質的な連続性である一連の流れをも意味している。したがって、純粋経験は潜在的な体系であり、みずからを無限に発展させてゆく動的な全体だと理解しな
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だが、著者はこうした説明には一つの困難がつきまとうことを指摘する。それは、ほんらい現実化されたものとしては描けないはずの「全体」を、「現在」というあり方を拡張することで、あたかも一つのものとして描けるように想定してしまっているという問題だ。
西田は、無限に発展してゆく「自覚」の働きや、関係性の階乗化である「一般者」の体系といったアイディアによって、「全体」を記述することが孕んでいる上のアポリアを回避しようとした。だが、「全体」の側から語る彼の立場は「発出論」に陥るという田辺元の批判によって、戦略のみなおしを迫られることになった。
著者は、田辺の批判を受けた後の西田の議論が、「絶対無」を現在の彼方に設定するのではなく、現在の内にそれを内から崩す否定的契機として介入してくるものとして描きなおすものだったと主張する。「永遠の今」における「死」の契機や、「個物」についての語り方の変更などが、そうした見方の論拠とされている。
ベルクソンの「現在」とその基盤となる「過去」に加えて、ドゥルーズは「蝶番のはずれた時間」という第三の時間を導入する。これは、現在の内に「亀裂」をもたらし、新たなものの生成を可能にする「未来」の時間だ。こうした時間論が、著者の西田解釈の下敷きになっている。
一つの観点からの西田解釈としてはおもしろい。