トクヴィルは、米国が他国と一線を画して理想郷であるのは、小ささ(タウン)を維持しながら、同時に大きくも居られるという、連邦制という特異な制度に由来すると主張する。米国は実態としてのタウン、州を挟んで連邦政府として成立しているのが革命的なのである。
小さくありつつ、同時に大きくもある。これによってどのように互いのメリットを活かし、デメリットを補い合っているか。
小ささのメリットは先述の通りである。つまり、自由民主主義にとって小ささはこの上ない推進力になる。
では小さいことによるデメリットは何か。当然のことながら、戦争を含む大国との付き合い方は小国の憂慮すべき永遠のテーマである。
そしてこのデメリットは連邦制、すなわち大きさによって補うことができる。アメリカにおいては、軍事と外交を連邦政府に任せて、各タウンは運河や道路の整備、地域の問題を自ら解決することに集中することができるのである。大きさには、特有のメリットも存在する。人間は、多数が集まるとき、そこに単純な1+1ではない相乗効果を生み出すことがある。その結果として、大国には文化や技術が花開き、都市には独特のエネルギーが満ちている。
最後に、大きいことによるデメリット。これこそがドナルド・トランプ要する米国の現状を表す上で最もクリティカルな表現であろう。大国においていつも自由民主主義は手の届かない理想であり、彼らは容易に強大な専制に陥る。大国の住民には自治を行う実感が容易には感じられず、権利と義務の感覚が希薄になり、愛国心も芽生えない。また、多数が集まって生まれる巨大なエネルギーが、一度政治に向かうとき、その制御不能の全体意志があらぬ方向へ向かうこともある。
そして、言わずもがな、これらは小さいことによるメリットと合わせ鏡になっている。つまりは、地域共同体(タウン)の存在が、政治的情念が火の手のように国全域に広がることを防ぐのである。
トクヴィルはこれについて、小事(タウン)において自由を用いる術を学んだことのない群衆に、どうして大事における自由を支えることができるのだと述べている。
デュルケームも同じようなことを述べている。曰く、社会的基盤が氏族の結合から地域集団、そして固有の性格を残す同盟関係にある都市と拡大しながら、フランス革命を経た中央集権化と交通路の発達により、「国家」という最大の形を残して消え去ったことにより、国家はその能力に比して過大な機能を背負わされ、激しい努力を重ねながらも非難を浴び続けているのであると。
実態としてのタウン(地域共同体)が消え去った米国に残ったのはむき出しの連邦政府と巨大な軍事力だった。この軍事力とグローバル化は、「他の何人もアメリカ人を必要とせず、アメリカ人もまた何人をも必要としない」状況を解消し、過去80年、米国はまごう事なき世界の中心であり続けている。
更には、その有り余る力の他先は外部へと留まらない。現米国大統領トランプは、先の大統領選において以下のような事を述べている。
「より大きな問題は国内の人だと思う。米国には非常に悪い人間がいるし、病んだ人々もいる。急進左翼の異常者だ」
「必要なら州兵によって、あるいはもし本当に必要なら軍隊によって、ごく簡単に対処できると思う。彼らならそういった事態になるのを未然に防げる」
この発言からはや、1年3ヶ月が経過した現在、米国は外部にはベネズエラへ侵攻し、内部的には連邦政府率いるアメリカ合衆国移民・関税執行局(ICE)がリベラルで名高いミネアポリスに対して大規模な介入を行っている。ICEがミネアポリスで起こした複数のの市民の射殺事件は州政府と連邦政府の緊張をこれまでになく高めている。