「シャーロック・ホームズの叡智」新潮文庫は、 訳者の延原謙氏が、勝手に命名したもので、大人の事情で各文庫版に載せ切れなかった短編作品をまとめて出版したものです。
≪技師の親指≫「シャーロック・ホームズの冒険」より
1889年の夏、ワトスンの結婚後まもなく、また開業することになった頃の話です。
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『私はベーカー街にホームズをおきざりにはしたが、それでもちょいちょい訪ねてはいったし、ときには彼を説きふせてその放縦癖(原文ではBohemian habits)を一時おさめ、私の家を訪ねてくるようにもしたのだった。』
放縦とは「何の規律もなく勝手にしたいことをすること」ですが、ホームズの身勝手さは、自分の健康を損ねたりすることもあるので、ワトスンとしては、離れて住んでいても心配の種だったのだと思います。
朝早く、患者でもある依頼人をホームズの所へ連れて行くと、ホームズは『例のもの静かな愛想のよさで私たちを迎え、ベーコンのうす切りと卵とを注文してくれ、いっしょに気持ちよく食事をとった。』のでした。
さらに、怪我をしている患者に対してソファーや枕や気付け薬や優しい言葉を用意して、話を聞こうとします。
そういうホームズの気遣いが、他の話や場面でのワトスンへの身勝手ぶりと対比していて面白いです。
もちろんワトスンをないがしろにしているわけではなく、自分の一部であるかのような扱いとでもいえるような「甘え」があるのだと思います。
ホームズは、人当たりをよくしたり、女性の心に入り込んだり、やろうと思えばいくらでも素晴らしい紳士にもなれるのに、事件解決のためなど目的がないと、好き勝手に振舞います。
尊大な態度、無礼な振る舞い、いきなりの行動、 解っていることを隠してもったいぶったり、果てにはチェスの駒のようにだまして利用することもあります。
「瀕死の探偵(シャーロック・ホームズ最後の挨拶)ひどいよホームズ! と、私は思わず怒ってしまいました。
最後のフォロー「僕が医者としての君の才能を、それほど見くびっているとでも思うのかい……」がなければワトスンもきっと怒っていただろう……と思うのですが、本文では、瀕死のホームズが心配で心配でたまらないという感が強く表れていました。
さすが、ワトスン、人がいいというか、ホームズに対してはなんでもありなのか。
ハドソンさんもホームズを「尊敬している」という記述が見受けられますが、どちらかというと、 『わがままな子どもを見守り、世話を焼く身内』のような感覚に思います。
ワトスンは、ホームズの態度にむっとしたり、口げんかをしたり、怒ったりすることも時にはありますが、結局のところ、事件の新事実なんかを提示されると
「それでどうなったんだい?」
などと、興味のほうが先に来て、ころっと機嫌がなおってしまうようです。
ワトスンが単純で浅はかというのではなく、ホームズに対する、保護者のような慈愛と、友としての親愛と、そしておさえきれない好奇心とが、彼を許す動機になっている……
などと、文字にあらわすと随分陳腐になってしまいますが、つまり、ワトスンはホームズが大好きなんですよ。
ホームズも、他の誰とも違う信頼をワトスンにおいています。
人前などでは「Doctor」などと型で呼ぶこともありますが、「my dear fellow(私の友達)」や「my dear Watson」と心を込めて呼ぶこともあります。
一緒に法を犯す危険をくぐって泥棒の真似をしたり、一緒に静かな夜を暖炉の前で過ごしたり、どんなことでも行動をともにしてくれる存在のありがたさよ。
「いつでも! どこへでも! 一緒にいくとも」
「それでこそわが友!」
その関係性が、ホームズにとってどれだけ貴重なものだったか、そしてその関係にどっぷり浸かっていたがために、許してくれるだろうという予測の元に、甘えとなって『ひどい態度』が出ていたのでしょうか。
「技師の親指」では、そんなに『ひどい事』はしてませんが、
態度にあまりに差があったので、思わず書いてしまいました。